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絵本と児童文学

絵本と児童文学、子ども、保育、サッカーなどの情報を発信する

ガソリン価格の高騰

2013-08-22 17:36:20 | 当世世間事情
 わたしが利用しているガソリンスタンドは、現在1㍑158円。価格の全国平均は、160円とのことだ。
 ガスリンの価格の推移をみると、今が最高値である。参考までに昨年から主な月の値段は、
 12年1月-139円 12年6月-129円 
 13年1月-143円 13年7月-156円 13年8月-158円

 サンマの大型漁船が出港したということが伝えられているが、燃料高騰で採算が気になる。政府が補助金を出すという情報もないようだ。

小学館ビルの思い出

2013-08-18 17:20:22 | 当世世間事情
 小学館ビル解体が話題になっている。解体するビルの壁に、漫画家が自分の作品のキャラクターをラフに描いたのをめぐってだ。連日大勢の人がその「落書き」を見に訪れているとのこと。
 報道では「落書き」とされているが、ファンにとっては作品とは違った価値を見出しているのだろう。
 67年新築とのことなので、当時は道路側の多くがガラスを使っている建物はめずらしかった。たしか出版物の展示スペースだったように記憶している。強化ガラスを壁材にする現代のような建築はなかった時代であった。
 わたしにとってこの小学館ビルは思い出深いところである。68年から月1回2年間研究会で通ったが、あれから50年近くになるのだ。解体新築というのだから、歳月の流れを実感している。
 幼稚園の担任として仕事を始めて2年目であり、数人で毎月このビルを会場に研究会をし、それを反映されながら分担執筆で保育専門雑誌『幼児と保育』に連載したのだった。
 リーダーは今亡き近藤薫樹で、氏はまだ保育についての発言をしていなかった。その後保育研究者としてたくさんの著書を表したが、その準備時期だったといえよう。氏が考えるテーマを出して現場の保育者の発言に耳を傾け、丁寧に解きほぐすように話をするめ、楽しい研究会だった。
 名の知れた人の執筆で紙面を作ることが主流であった時に、こういった記事作りは画期的な企画と紙面づくりではなかったのではないか。編集者の誠実さと新しい試みへの思いを感じたのだった。
 小学館は、教員向けの教育技術、学年別の子ども向け雑誌、図鑑、事典、辞典や教養書などと思っていた。『幼児と保育』は会社としては主軸のはずだが、担当の編集者が「コミックの人が勢いある」といっていたのが、印象に残っている。わたしはコミックに興味がなかったので、当時はよくわからなかった。
 当時は保育の専門雑誌が少なく『幼児と保育』は最大の発行部数だった。毎月2つのコラムをメンバーで交代執筆をするのだったが、他の人が遠慮をするので、わたしは毎月どちらかのコラムの2ページ分を書いたのだった。当時の『幼児と保育』は90%ぐらい文章の読物で、現在の保育雑誌のイラストと写真が主としたものではなかった。保育が一般化しつつある時代でもあったのだった。
 小学館ビル解体がコミックフアンに注目されているなかで、わたしの保育者として歩き始めた当時を思い出す機会になった。若輩のわたしごときに保育について考えて書く機会を与えてくれた編集者と近藤薫樹への感謝の念をともなった人生の回想している。

AKB48

2013-08-10 16:00:08 | 当世世間事情
 7日(水)は立秋だが、例年通り暑い。日差しが暑いのに15時30分頃から秋葉原駅電気街口の広場にいた。待ち合わせの時間の17時までの時間つぶしに、街と人を観察することにした。
 タクシーはどんな人が利用するのだろう。外国人観光客が行き交う。欧米系、中国系、香港、それにヒスパニックの一団が集まり日本人のリードのもとにどこかへ移動した。

 16時ぐらいになったら男性が集まりだした。おとなしめの人たちだが何か目当てがあるようだ。10分になったら係りの人が来て横5人ずつ並ぶよううながした。その数200人を優に超えた。何か説明してみんなの手のひらに赤インクで番号を書いた。20代から40代と思われる男性たちだが、何かの問いかけに手を上げて反応したし、学校文化の秩序を持っている人たちだ。
 わたしの好奇心が止まらなくなり、例によってインタビューをした。その際、親切に応じてくれそうな1人でいる人を選ぶのだが、詳しく答えてくれた。その人は30代後半と見たが。
 毎日17時から1時間AKB48のライブがあり、それを見るために1枚2000円の切符を定員40人分のものを手に入れようとしているとのことだ。そうか、秋葉原こそAKB48の本拠地なんだな。
 わたしが人数の多さに驚いていたら「今日は少ないほうだ。多い時はこの2倍以上になる」とのこと。その人は何回も来ているが、2回しか見ていないという。
 抽選は箱から番号を取り出して発表すると該当者が並ぶ。抽選が終わったら、外れた人は静かに退散した。地味な感じの男性ばかりであり、静かに秩序だっておこなわれることに考えさせられた。このような男性たちによって支持されていることをどのように考えればよいのだろう。

 ところでわたしはAKB48をテレビでも見ていなく、まったく知らない。主として新聞で「じゃんけん大会」「総選挙」「卒業」といったことを知っているぐらい。それに握手会に参加したいためにCDを余分に購入するといった、情報の断片があるだけだ。秋元という人が胡散臭い商売をしているのではないか、おっとっとそれは「偏見」で、すぐれたプロジューサーによって一世を風靡しているのだ。
 それに「コスプレ」などといったことが国際的な影響力を持ち、「かわいい文化」がひろがっていることと連動もしているのだろうか。ところで「ロリコン」という見方をする人もいるとのことだが、わたしのように知らないだけでなく理解しようともしない者に語る資格はないと思っている。しかしそういったエンターテーメントの社会現象が何を意味しているか、世の中を知る糸口になるかもしれないと、関心はある。
 めったに行くことがない秋葉原で、人々を観察しながら現代日本の現象の断面を見た。見た気になるのは、早計だろうが。

ご飯が食べたい、はいいね

2013-03-21 18:05:11 | 当世世間事情
 フィギァスケートの浅田真央が、「日本に帰ったら何したい」という質問に、
「ご飯が食べたい。自宅で卵かけご飯を作りたい」
と答えたという。(朝日新聞3月20日)
 シーズン中海外遠征が多かっただけに、終了間際になってのくつろぎ求める気持ちが理解できるコメントだった。たしかに熱いご飯に新鮮な卵はおいしいだろう。食は好みの味わいだけでなく、精神的に「われに返る」という作用もするのではないか。浅田が和食を求めたのに好感を持った。
 ところでロンドンオリンピックの際に「日本に帰ったら何したい」という問に、女子の柔道とサッカーなどの選手が「焼肉を食べたい」と答えたのを、テレビで4人ほど放送されたのを見た。わたしは焼肉がもっとも渇望する食であることに驚くとともに、時代認識の一つとして記憶にとどめた。

 わたしの場合、今のように焼肉が普及していない30代に、たくさん食べたのだった。その後肉を食べ続けたら生活習慣病(当時成人病)になる可能性が高くなると思ってやめたのだった。
 一般的には肉を食べることが生活習慣病の遠因になる、あいは栄養的に肉がよくないということはないぐらいの知識はあった。わたしの健康と病気予防のためである。
 その後20年以上肉を食べずに魚中心にした。わたしの場合、からだが変わったという実感があり、よかった。数年前からは、焼肉とはいかないがラーメンの肉ぐらいは食べるようにしている。この頃は、いつかは牛丼を食べてみたいと思うようになっている。


超高齢化の進行

2012-11-12 20:50:13 | 当世世間事情
 超高齢化社会が進行しているのを、暮らしの中で実感している。週1,2回電車を利用しているが、高齢で歩行困難を解消するため杖を突いて歩いている人はめずらしくない。10年前だったら席を譲られる立場と思われるが、電車利用慣れしているようなので、そんな気配は感じさせない。
 昼のクラッシックのコンサートに行くと、いわゆる高齢者に該当すると思われる人は大方のところは90%を超えているようだ。また声楽の発表会を聞きに行くと、出演者の多くは60代であり、70代あるいは80歳過ぎている人がステージでアリアを歌うのを見かける。
 また有料老人ホームの建設が増え、その情報も多い。刑務所が高齢者が増えているという報道を見かける。
 さらに「エンディングノート」として、人生の締めくくりのために身辺を整理してそれを書き記す人が増えているという。ノートはいくつかの様式のものが出版されて、需要が多いという。メディアでは、終活という言葉で最期のおくり方である葬儀、墓などの埋葬に関する報道も多い。

 高齢者を数字で確かめてみることにする。
65歳以上が3074万人で全人口の24.1%
100歳以上の人口51376人
高齢者に多い認知症は300万人を超える

 わたしも高齢者であるため、周りの者からエンディングノートの記述を勧められているが、目下はためらっている。加齢とともに暮らし方の転換が必要だと実感する日々だが、さりとてたくさん出版されている高齢者向けの「生き方論」の本を手にする気にはならない。諸能力の喪失感にどう向き合うかではないだろうか、と考えて暮らしの工夫をしている。
 何歳になっても明日も来年も未知の世界なのだ。未知に対しては手探りにならざるを得ないが、好奇心を持続でき病気でなければ、という思いでいる。

ネーミング

2012-07-08 06:12:01 | 当世世間事情
 深夜長距離バスの事故のバス会社の社名である「陸援隊」を耳にしたとき、すぐに社名に怪しさを感じた。坂本竜馬の「海援隊」からヒントを得て「海」を「陸」に変えたと思ったからだ。実態はともかくとして、事業をやるときの心意気をある物語に託し、その世界を描くと勇気がわいてくると言うもの。かりに誇大表現であっても世間に通りをよくする側面があるだろう。
 これと似たことでは「AIJ投資顧問」という社名である。「投資顧問」とは金融に素人で不確定で心配な要素を持った年金基金の運用をとりあえず相談してみようと思わせる、あるいは暗示にかかりやすいネーミングであり、その辺のことを考えているのではないか。
 そういえば不動産投資、先物取引等の電話でのセールスの会社はほとんどがアルファベット2~3字のものである。その点「AIJ投資顧問」はよく出来すぎている社名なので、わたしだったら名前で疑うかもしれない。

 言葉には意味があるし、名前や地名にもある種のイメージが付き物だ。
 20年も昔のことだろうか「あくま」という名前を申請したら受理されないケースがあった。そのときわたしはそのような名前をつける親に危うさを感じたが、風の便りにはやはり家族が維持できなく、解散したと聞いている。家族については生き方なので個人の自由だが。

 ところで当世流行の「○○維新の会」は、物事をリセットあるいは更地からつくる意気込みを込めた名前と理解する。それをさらにすすめて「船中八策」としたのは、物語の世界と現実と行ったり来たりできるネーミングとしてよく考えられている。
 古いものに新しさと野心を感じさせるので、混沌としている社会にあってとびつきやすい。物語性を感じるネーミングなので、実態がはっきりするまでは高揚するし、かりに衰退しても浮世のこととしてすんでいけるだろう。

 その昔、選挙がしがらみで投票する状況が多いことから「公明選挙」という選挙標語が選挙のたびに用いられていた。それが政党名になったので標語は使われなくなって、政党名だけ今日健在である。
 公明とは公正で私意のないことなので、当時政党名にはしにくい普遍的で世間を鳥瞰したような名前、と感心したものだった。政党としてはめずらしく一枚岩であり、数が重要な政界にあって少数ながら力を発揮している。「名は体を表す」ということわざがあるがこのケースはどうか。
 ネーミングを推測によって何かを読み解こうとするのも、時には面白い。

階段に波型の手すりバー

2012-06-01 14:15:21 | 当世世間事情
 ほとんどの階段に手すりが付帯されるようになっているが、3月下旬めずらしいものを見た。京王線調布駅の駅舎から屋外に出る階段の手すりは、段差と並行した高さのもの。そのため手すりの外観は波型バーである。

 一般的に手すりは、階段の斜度と並行したバーを設置している。これは階段の昇降の際、歩行者がバーを握ることによって歩行補助をする機能となる。軽度の補助を必要な場合は、昇降とも触って添える程度でよい。
 ところが歩行に腕の支えが必要なる場合は、登る時はバーを引っ張る形になる。降りの場合そうとうな握力で、下に加わる体重を力で握って前のめりにならないようにしなければならない。
 それに対して波型のバーの場合は、階段に並行なので上る場合バーを握ってそれを上から下へ力を加えて1段ずつ上る。降りる場合は1段下のバーを握りそれを支えにしてから足を下ろす動作になる。
 バーの利用なしでは階段を使えないような人のためには、波型デザインのバーが機能に優れている。握ったバーに力を加えることによって、機能のたりない方の足を補助することになる。とくに降りる場合は、安定した歩行が可能となる。

 階段利用は一般的に上るほう大変と思われがちである。力を必要とするからであり、駅等のエスカレーターが上り中心に設置されているのもそのためだろう。
 ところが幼児期までや高齢者は、降りるほうが難しいの。体の重さが前方へかかるため、重心を後方へ移動するようにして姿勢を保たなければならないからである。
 階段を踏み外しによる転倒事故が家庭でもあるのは、これらの理由からである。なお、竹馬を乗れるようになることは、前に体重をかけながらそれを後ろに起こす動作で前進するので、階段を下りる動作と同じ原理なのである。


高齢者と自動ドア

2012-05-14 11:34:22 | 当世世間事情
■市の広報紙と防災放送
 わたしの住んでいる市は、首都圏で人口は大都市だが、いまどきどうしてと思われることがある。
 市の広報は、今はやめたが数年前まで、1面に生まれてまもなくの赤ちゃんの写真が載っていた。村落共同体文化の名残かなと違和感を持っていた。
 今はその欄に、時々市が表彰するあるいは団体等と協定を結んだ際の当事者と市長の写真が載る。しかもその写真は、ニュースのあまりない町村の広報にありがちな授与写真ではなく、当事者と立った写真である。市長の長身が際立つのだが、自分の背丈に確信があり、それを誇示しているように読み取れる。これも底流は村落共同体文化と変わっていないのかもしれない。

 防災放送は12時と17時にチャイムを鳴らすのと、時折所在不明になった高齢者の捜索協力のお知らせがある。
 その放送内容の呼びかけは、例えば「昨夜の○時ごろから○○歳の男性の行方が分からなくなっております。・・・・」
 所在が明らかになった際は「○○は無事保護されました。ご協力ありがとうございました」となる。認知症等で「徘徊」を想像させる案件であるが、高齢者に対して「無事保護」と言う表現は気になる。高齢者は無能で保護の必要な人というメッセージを刷り込むことになるのではないか。小学生が意外と耳を傾けて聴いているのを知るにつけ、ある種の高齢者観を教えていることになりはしないだろうか。「自宅に戻りました」という、事実だけの内容でよいのではないかと思うのだ。

■高齢者と自動ドア
 わたしは今、脊柱の神経が圧迫されて腰と足の激痛の10日間あまりから、少し穏やかになってきている。以前の頚椎(けいつい)狭さくとは違う整形にリハビリで通院中である。
 あるときで入り口のドアのそばに座った時である。70代後半と思われる女性は、タッチしてドアを開けて入って、閉めようと思って振り返りながらまたタッチをしてもドアが動かないのに困惑していた。何回かやっていたのでわたしは「閉めるのは自動なので、手をふれなくていいんですよ」と言葉かけをしたのだった。この人は開けたら閉めるという動作が体に宿っている人なのだな、と想像してみた。寒冷地出身の人かな、とも。
 また別な人は外側のドアをタッチで入ったが、もう一つの中側のドアの前で膝を曲げてドアのそばの床に自分の体重で力を入れて開ける試みをしていた。内側からでもタッチして開けるのを手伝おうと思ったら、続いて来た人がタッチして開いたら入った。そういえば自動ドアの出始めの頃、センサーでなく重さを感知して開閉をしていたのを思い出した。その人はそれが体に染み付いているのだな、と想像した。
 こうした高齢者の姿は、やがて自分のイメージかなと思ったものだった。

多様な泣き方があるはずだが

2012-05-08 15:05:15 | 当世世間事情
 昨日のテレビ朝日系「モーニングバード」で、ストレス解消法をやっていた。そのひとつに、週末にでも映画などを見て心ゆくまでに泣くといいという。それを「大号泣」と言うタイトルにしていた。言葉は時代によって変化するし、ある言葉でも状況によって使われ方が違うものだ。
 小学生が終業式の日に、次年度クラス変えのため担任と別れる際、「先生が号泣したら、みんなも号泣だったよ」と言っていた。まさかクラス中が大声を上げて泣いたわけではないだろうに、もしかしたら泣くということを号泣という言い方になっているのかな、またクラスの多くが涙ぐんだことを強調して伝えたかったのか、と推察した。

 テレビでは、3人の女性が映画を涙流しながら見入っていた。しかし号泣と言う「大声で泣く」という本来の意味とは違う泣き方である。テレビタイトルは号泣に「大」がついていたが、それはかの国の「将軍様」が死去したとき広場に集まって大勢が一斉に泣く様ぴったりである。
 テレビの女性たちの泣き方は、深く感じて流す涙の「感涙」が状況を言い当てている言葉である。「大号泣」は状況を表すのにふさわしくない言葉なのに、視聴者にその「効用」を強調したいために、センセーショナルな表現をしたのだろう。
 そのことが状態と異なる表現になってしまっているし、適切でないがゆえに言葉が貧困になり、さらに人間の感情の機微に疎くなりはしないか。
 担任の先生が子どもたちとの別れに泣くのは、子どもへの思い入れの強さを感じる。その泣きも感涙ではないか。しかし感涙とは話し言葉ではあまり使われないので感極まって泣いた、となるだろう。

 ところで泣き方を改めて整理してみると、このところ泣く行為を強調せんがために泣くと同義語ぐらいに使われている「号泣」がある。大声を上げて泣くことだから、なりふり構わず悲しみや悔しさや屈辱感と言った感情を表出する言葉であろう。
 つぎに「むせび泣き」という言葉がある。これも泣く感情を強く表現するのだが、声を詰まらせてしゃくりあげるように激しく泣くことをいう。
 「めそめそ泣く」という言い方もある。声を立てずに泣く、あるいはことごとく泣き悲しむさまである。

 また泣く様は、様々な感情を表すがゆえに日本語に多い擬態語でも表現される。
「ワァーンワァーン」は、子どもが感情の爆発の泣く表現だ。大人で言えば激しい泣き方なので、号泣かな。話し言葉ではおお泣きだろうか。
 「シクシク」は、下を向きこらえながら泣くイメージだが、子どもで場合は一通り泣いて終了することの泣き方のようだ。大人はむせび泣くが該当しそうだ。
 「ウルウル」という言い方もあるが、思いを込めているので感涙をさすのだろう。
 「メソメソ」とも言うが、これは子どもが気持ちが弱ってなすすべがなく助けを求めて泣いている様をイメージするのだ。

 東日本大震災以降、泣くという行為が増えている。わたしは対人関係、とくに公式の場で泣く感情の表現はしないが、映画等では感涙に浸る性格である。現在は東日本大震災関連のドキュメンタリーだけでなくニュースでも、涙の反応をする。これは生涯続くと思っている。
 大人の涙、泣くことは、とくに男性は恥じ入ることとしてきた伝統文化があるが、それが崩壊していくことはいいことだ。泣くことが男女平等になったことは、おそらく生活と生活感情の男女の区別がなくなり、あるいは平等がじわりと進行していることの反映かもしれない。

*号泣、感涙等の意味は『広辞苑』(岩波書店)を参考にした。

たばこは700円でも、まだ安い

2011-09-06 16:57:25 | 当世世間事情
 小宮山厚労大臣の「たばこ税を値上げして700円ぐらいにしたらどうか」という発言が物議をかもしている。「値上げしても税収は変わらないと思う」とも言っている。
 せっかく厚労大臣として健康増進政策の抱負を言ったのに、言い方がまずくてテレビにたたかれている。
 本当は、高齢化をむかえている現代、健康な社会をめざすために禁煙をさらに進めたい、と言ってほしかった。小宮山大臣は、そう言いたかったはずだ。厚労省の「健康21」で禁煙が掲げられているし、「厚生白書」に謳われている。
 それを値上げは税金付加するので、正直にたばこ税の増税と言った。そのため、税金なら厚労省の管轄でないだろう、となってしまった。
 テレビでは早速、内閣の未熟さ、喫煙者に高すぎると困る、と言わせている。テレビメディアは困ったものだ。

 朝日新聞報道によると、イギリスの権威ある医学誌に「日本の長寿は続かないかもしれない」という論文が掲載された。その理由は、喫煙率が依然として高い、自殺者が多い、そして震災による死亡などを挙げている、という。

 喫煙者が、健康に対するリスクを抱えるとの認識が広く行きわたって久しい。喫煙は個人の嗜好としてとらえるだけでなく、先進国では国家的に喫煙者を減らす政策が採られている。
 政策の象徴的なこととして価格の値上をして、消費を抑制することある。フランス、イギリス、ドイツ、アメリカ、カナダなどは、700円では安いほうで、1000円を超えている国もある。
 日本は100円値上げしたが、消費の抑制につながる値段でない。消費が減ると税収が減るという懸念を持つからである。それに喫煙者にも配慮をしているのである。

 たばこの消費抑制の方策として、これまでの日本政府の取り組みは、たばこの広告の自主規制をへて廃止にした。時折分煙マナー広告を見ることがある。
 分煙の推進として、大方の公共空間では喫煙所を設けるようになった。職場で家庭でもそれが浸透してきている。神奈川県の場合は、飲食店等も条例で分煙が義務化されている。
 たばこを購入は、自販機では大人が専用カードでする(タスポ)のと、対面販売を増やそうとしている。これは小学生高学年ぐらいからの喫煙が見られるようになったことへの、対応でもある。
 さらに禁煙を、医療行為として健康保険対象としている。
高価格にするという、たばこ消費抑制の切り札に、まだ手がつけられていないのである。

 わたしが90年代半ばにカナダへ行ったときは、公共空間は喫煙する場所がないのが基本であった。価格は700円であり、政府の政策として禁煙にシフトしていた。フランスも同じ政策を採っていた。アメリカも禁煙に舵を取り、喫煙者は公的要職につけない、といわれるほど人物評価にかかわると伝えられていた。
 そのころ日本では、たばこの広告が深夜の時間帯に限定するようになり、価格は200円あまりだった。アメリカの喫煙が進んだため、たばこ消費を日本に求めてアメリカのメーカーが進出した。
 途上国では喫煙と健康リスクの啓蒙は行き渡っていないので、収入が許す人は吸う。新興国のたばこ消費が伸びている。日本のたばこがアジアで吸われている。中国のたばこ価格の平均は200円とのことである。
 喫煙者の劇的減少で健康と医療費負担を少なくするために、高価格という切り札を考える時が来ているのではないか。野田首相と藤村官房長官が喫煙者だそうだが、これを機会に禁煙の率先垂範をするということだ。