小学館ビル解体が話題になっている。解体するビルの壁に、漫画家が自分の作品のキャラクターをラフに描いたのをめぐってだ。連日大勢の人がその「落書き」を見に訪れているとのこと。
報道では「落書き」とされているが、ファンにとっては作品とは違った価値を見出しているのだろう。
67年新築とのことなので、当時は道路側の多くがガラスを使っている建物はめずらしかった。たしか出版物の展示スペースだったように記憶している。強化ガラスを壁材にする現代のような建築はなかった時代であった。
わたしにとってこの小学館ビルは思い出深いところである。68年から月1回2年間研究会で通ったが、あれから50年近くになるのだ。解体新築というのだから、歳月の流れを実感している。
幼稚園の担任として仕事を始めて2年目であり、数人で毎月このビルを会場に研究会をし、それを反映されながら分担執筆で保育専門雑誌『幼児と保育』に連載したのだった。
リーダーは今亡き近藤薫樹で、氏はまだ保育についての発言をしていなかった。その後保育研究者としてたくさんの著書を表したが、その準備時期だったといえよう。氏が考えるテーマを出して現場の保育者の発言に耳を傾け、丁寧に解きほぐすように話をするめ、楽しい研究会だった。
名の知れた人の執筆で紙面を作ることが主流であった時に、こういった記事作りは画期的な企画と紙面づくりではなかったのではないか。編集者の誠実さと新しい試みへの思いを感じたのだった。
小学館は、教員向けの教育技術、学年別の子ども向け雑誌、図鑑、事典、辞典や教養書などと思っていた。『幼児と保育』は会社としては主軸のはずだが、担当の編集者が「コミックの人が勢いある」といっていたのが、印象に残っている。わたしはコミックに興味がなかったので、当時はよくわからなかった。
当時は保育の専門雑誌が少なく『幼児と保育』は最大の発行部数だった。毎月2つのコラムをメンバーで交代執筆をするのだったが、他の人が遠慮をするので、わたしは毎月どちらかのコラムの2ページ分を書いたのだった。当時の『幼児と保育』は90%ぐらい文章の読物で、現在の保育雑誌のイラストと写真が主としたものではなかった。保育が一般化しつつある時代でもあったのだった。
小学館ビル解体がコミックフアンに注目されているなかで、わたしの保育者として歩き始めた当時を思い出す機会になった。若輩のわたしごときに保育について考えて書く機会を与えてくれた編集者と近藤薫樹への感謝の念をともなった人生の回想している。