所属する与党の方針の採決に不同意で離党する、政党という組織では当然彼らを除籍にする。その行動のリーダー小沢は、というより親分と言ったほうがふさわしい。その小沢グループは自らを本家民主党であるという。その証であろうか民主党が政権交代した際のキャッチコピー「国民の生活が第一」を離党に際して持っていってしまった。のれんわけではない、目玉商品をそっくり持ち逃げしたようなものだ。
このキャッチコピー作成に小沢が深くかかわった、あるいはその意味するものを堅持したいというだろう。しかしこれは公党のキャッチコピーであり、小沢のものではないはずだ。それを持って袂を分かつということは、公党という組織の上に自分をおくという、党の私物化であり傲慢の何者でもない。それを正義かのように思い込んでいるとことに、日本社会のモラルハザードの一端を永田町に見る思いだ。
小沢は今のところ「消費増税反対」「脱原発」を掲げている。長年そのような政策を掲げてきている社民党、共産党は、どんな思いだろう。今のところあたかもリベラル勢力かのように動いている小沢に、にわかにそんなことを言われたくないと思いではないだろうか。
小沢は93年に自民党を離党してから、20年間で新党を作っては壊して、今度は4度目である。その意味するところは、なんなのだろう。「永田町の歩き方」を熟知している小沢は、権力を握りそれを私的所有にすることだったのではないか。
政権をとった時の選挙は、幹事長の立場から候補者選びと党の選挙資金配分をし、当選した議員を自分の影響下に置いた。政権をとったときは、陳情を幹事長室に集中させた。
「国民の生活が第一」というのは、国民を向いているかのように装いながら選挙のための方便ではないか。国民のためというたびに、誰に向かっていっているのか、国民を愚弄しているのではないかとも聞えてくるのだ。
政治家としての小沢の足跡は、権力闘争と選挙と数的優位を作るためにどの党ともでも連携するということだ。オリーブの党のようにというのは、「小沢党」には言われたくないものだ。
なお、わたしは現政権の3党合意で進めている政策に賛成というわけではない。ねじれ国会運営の困難は、与党の暴走を抑制するというより、法案が通らないあるいは野党の政策を取り入れ骨抜きになるという、国会の渋滞情況を作っている
6年間国民の審判を仰がない政治家である参議院によって、法案が決まるという国会の制度の問題が何とかならないものか。
1昨年9月のねじれ国会以来、口を開けば「解散総選挙」という政局を持ち出す自公にも、震災と原発という国家として重大事にどう立ち向かうのかを伝えて欲しいものだ。
このキャッチコピー作成に小沢が深くかかわった、あるいはその意味するものを堅持したいというだろう。しかしこれは公党のキャッチコピーであり、小沢のものではないはずだ。それを持って袂を分かつということは、公党という組織の上に自分をおくという、党の私物化であり傲慢の何者でもない。それを正義かのように思い込んでいるとことに、日本社会のモラルハザードの一端を永田町に見る思いだ。
小沢は今のところ「消費増税反対」「脱原発」を掲げている。長年そのような政策を掲げてきている社民党、共産党は、どんな思いだろう。今のところあたかもリベラル勢力かのように動いている小沢に、にわかにそんなことを言われたくないと思いではないだろうか。
小沢は93年に自民党を離党してから、20年間で新党を作っては壊して、今度は4度目である。その意味するところは、なんなのだろう。「永田町の歩き方」を熟知している小沢は、権力を握りそれを私的所有にすることだったのではないか。
政権をとった時の選挙は、幹事長の立場から候補者選びと党の選挙資金配分をし、当選した議員を自分の影響下に置いた。政権をとったときは、陳情を幹事長室に集中させた。
「国民の生活が第一」というのは、国民を向いているかのように装いながら選挙のための方便ではないか。国民のためというたびに、誰に向かっていっているのか、国民を愚弄しているのではないかとも聞えてくるのだ。
政治家としての小沢の足跡は、権力闘争と選挙と数的優位を作るためにどの党ともでも連携するということだ。オリーブの党のようにというのは、「小沢党」には言われたくないものだ。
なお、わたしは現政権の3党合意で進めている政策に賛成というわけではない。ねじれ国会運営の困難は、与党の暴走を抑制するというより、法案が通らないあるいは野党の政策を取り入れ骨抜きになるという、国会の渋滞情況を作っている
6年間国民の審判を仰がない政治家である参議院によって、法案が決まるという国会の制度の問題が何とかならないものか。
1昨年9月のねじれ国会以来、口を開けば「解散総選挙」という政局を持ち出す自公にも、震災と原発という国家として重大事にどう立ち向かうのかを伝えて欲しいものだ。