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絵本と児童文学

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エンブレムの4案では

2016-04-08 20:54:22 | 生活・教育・文化・社会

 オリンピックのエンブレム最終案が4つ発表された。ぼくが選ぶとすれば、C案の「超える人」だ。エンブレムで大事なことは、何よりその催しなどの内容をイメージしやすいということだろう。
 4案とも日本文化の独自性をもとに国際的アピールできるものなのだろうが、オリンピックとしてイメージしやすいのはC案だろう。最も避けたほうがよいのはD案ではないか。
 C案はポップ調で絵に躍動感があり、色彩もよい。明快な絵なので多くの人がなぞって再現できるというのも付随的だが親しまれやすいものになる。

 そういえば頓挫したしたものと正反対の精神性に思える。頓挫したものは権威、威厳、巨大といった言葉が思い浮かぶような大げさなものだった。作者の精神性であるとともに選考にかかわった人たちの意向も働いたのだろう。作者のパクリが表面化したが、氏はその問題を最も排除しなければならないはずの大学の教員であることに驚いた。ぼくは頓挫して今度の案になってほっとしている。
 そういえばスタジアムも巨大建造物で現代的な権威主義を象徴するようなものとぼくは解釈したので、10億円を超える損失をしても取りやめてよかった。決定しているスタジアムには好感を持っている。

 ぼくの見立てでは、今回のエンブレムとスタジアムは親和性があるようだ。なんでも世界1だと大言壮語を言うようなものでなく、親しみやすいおしゃれなものに落ち着いてほっとしている。

 5年後のオリンピックは、ぼくには関係がないと思っているが、少しは関心が向きそうになってきた。

 *このコラムは11日に遅れてアップした。

春節と観光客

2016-02-09 14:55:49 | 生活・教育・文化・社会
 昨日から中国が春節なので、テレビではその報道が多い。中国国内では、長期休みによる帰省等による大移動、花火爆竹で祝うためにPM2.2の増加など。
 日本への大勢の観光客の訪日観光客の関心の変化や経済効果など。家電、薬品、化粧品などの大量購入する層だけでなく、地方も含めた日本文化体験を求める人が多くなっているとのこと。山や川の自然の中を歩き伝統的文化にも触れる、食事、温泉をたのしむ。今朝の報道では、美容、エステなど自国とは異なる日本のサービスを求める人が増えているということだ。

 入国条件の緩和と円安という今の条件が日本に来やすくしているので、それが変わらなければ観光客が維持され、増加するだろう。中国の中流層が外国の国と文化に関心を持つようになってきているのは、文化の多様さを理解することであり、それを通して隣国との良い関係を維持していくために、持続することが望ましい。
 台湾、韓国、シンガポール等の来日者も多いが、さらに日本との経済的結びつきが強いタイが増えるだろうし経済が良くなればベトナム、フィリピンからも多くなるだろう。
 観光客数を国際的にみればタイが1600万人でトップのフランスが8000万人なので、日本の1800万人は観光資源の開発によってはもっと多くなるだろう。中国人の爆買いは変化するだろうし、ぼくはスキーなどの冬季スポーツ、トレッキング、海岸リゾートなどの自然資源への関心が向く可能性がある。住居地域の近くに山があり、海岸が多い、四季の変化がある、といった自然条件を楽しむ人はリピーターになる可能性が高いのではないだろうか。そうなれば日本は2000万人以上の観光客になるのではないかと考えている。


マジすか「一億総活躍」って!

2015-10-16 11:25:05 | 生活・教育・文化・社会
 一億総活躍大臣の執務室である「一億総活躍推進室」の表示掲げ、本格的に始動することを、昨日報じている。アベ首相の腹心の一人である加藤氏を配して何をやろうとしているのだろう。そもそも内容があらかじめ明示されない大臣を作るって、どういうことよ。政権が再三使っていたキーワード「総合的」ということなのだろうか。加藤氏は拉致問題等兼務が多いし、アベ首相の考えを忖度してフリーハンドで仕事をすることなのかもしれない。
 ところで「一億総活躍」というのを聞いて、ぼくは冗談やふざけた感じがしたので、今流の「マジすか」という言葉を返してみた。
 戦前の戦時体制につきすすむとき、「一億○○」というスローガンを多く使い、国民の精神動員を進めた。そのことから連想されるのは「一億総動員」というと同じで意味のように感じるのだ。
 アベ首相のベースとなっている考えであり、自民党の憲法草案の思想でもある、国家主権がすでに進行している、と思うのは早計だろうか。内閣改造、TPP大筋合意など国会で明らかにすべき重要なことが多いのに、臨時国会を開こうとしないし、国民主権がすでに揺らいでいるのではないか。

 川内原発2号機の運転が始まった。鹿児島県知事は「ここで事故が起きたら、日本の原発政策は終わりだ」といっていたが、福島原発の過酷事故はどうなのよ。
 川内原発の再稼動は「世界一厳しい規制基準で承認を得た」ということだ。「世界一厳しい」と冠すると安全と錯覚するが、規制委員会は安全を保証するものではない、としている。いったい「世界一厳しい」という言葉を冠するとは、なんなんだ。むしろ世界一原発立地が困難な国なんだとうことを表現している、と理解するのがよいのではないか。

 国立競技場の計画を白紙撤回すると発表したアベ首相は、「ゼロベースに戻すことを実現した」と発言していた。本来そのような事態になったことに対して、自らの責任があるはずなのに、「実現した」ということで何かを成し遂げたと、自らの権力行使を誇示したのだった。
 安全法制に対しても「平和」を冠した。軍事産業の海外移転輸出という武器輸出3原則からの大転換政策、海外で軍事展開すること軍事力強化を抑止力として「平和」を冠した。「積極的平和主義」も本来の難民の受け入れ等本来の意味ではなく、軍事行為拡大に使っている。

 「美しい国」で始まった第1次アベ政権だが、「新3本の矢」言葉は、政治概念とは異なる、カルト教団の言葉のようにぼくに感じて、「気持ち悪いよね」ということで取り込まれれず、距離を保ってみていかなくちゃ、というところだ。
 それにしても自己を美化して周囲からの賞賛で突き進む「最高責任者」の政治って、距離を置いて冷静に読み解かなければ酔わされてしまいそうだ。



国立競技場設計の白紙撤回

2015-07-23 14:22:23 | 生活・教育・文化・社会
 国立競技場設計が白紙撤回された。すでに60億円費やしているとのこと。
 「最高責任者」を頻繁に吹聴する人が「計画は変えられない」と言い切ったばかりなのに、不自然な展開だ。この「最高責任者」が何かと「指示」というのを繰り返すが、過去の内閣にはあまりなかったような印象を持っている。官邸主導を反映しているのだろうが、以前は各省庁と大臣の独自性がもっとあったように思うのだが。

 競技場建設は文科省の所管だが、その大臣が白紙撤回の責任を取るどころか今後も担っていく立場に落ち着いている。この大臣は都知事に500億の拠出を依頼した際、都知事に「予算の全貌を出してもらわなければ検討しようがない」といわれた。子どもの使いのような低レベルのやりとりに、ぼくは唖然としたのだった。
 今はもっぱら国立競技場の話題がメデイァをにぎわすようになった。安保法制より分かりやすいし。
 競技場のデザインが変更になるとのことは、ぼくはほっとしている。構想されたものは、安藤氏のある側面をデフォルメしたのではないかと解釈していた。あそこは神宮の森と連続した広くない空間なので、シンプルで抑制的なものがよい。例えばスカイツリーはしなやかで美しいデザインなので、ぼくの気に入っている。

 オリンピック誘致競争で高揚感だったのだろうな。スポーツ論、オリンピック論より経済効果の胸算用が吹聴されたっけ。
競技場変更の主要因は並外れた高額費用が主因だ。構想変更はしないとしたときに「国際公約だ」(森氏など)とか「国際協約」(設計契約破棄などに対して安藤氏)といった言葉で強弁した。「アンダーコントロールした」なんて、原発のことを知っている人ならすぐ分かるでたらめは、国際的信用にかかわるのに乗り切ったのだ。
 まあ、今回はかつてのメダリストなど競技者が批判的意見を言っていたことに、日本のスポーツが成熟しつつあることを感じた。そこにスポーツの祭典として準備が進むように、少しの希望を感じている。

 ところで気になっていることは、今日が「大暑」であり、オリンピックは20年の明日(24日)始まるのだ。日本のもっとも暑い暑中にだ。熱中症で競技者が倒れるのかな。それとも夜間に主としてやり、マラソンは早朝とかになるのかな。そのほうが欧米のテレビ中継に都合がよいということか。競技者がコンデションよい状態でプレーをするのがスポーツの祭典にふさわしいのだが。


男性の座りションが普及

2015-03-17 21:31:46 | 生活・教育・文化・社会
 今朝のテレビ(モーニングバード・テレ朝系)で洋式トイレの大と小共用のものに、男性の立ちション禁止の絵文字が普及しているということを扱っていた。この絵文字を表示するのは、例えばコンビニ、ガソリンスタンドといったところのトイレだろう。今後トイレを座りションが標準化するのだろうか。
 調査によると男性の55%が座って小を足し、45%が立って使用しているとのこと。座ってしている人の中で、21%が立って使用したい、座ったままでよい33%とのことだ。男性の座りションの普及に驚いた。思い出したのは、90年代にある町の保育行政の責任者(元小学校校長)が「男が座って小便をすることはもってのほかだ」と憂えていたことだ。

 座りションの普及は飛び散る汚れを食い止めることにある。じつはかつて和式で大小共用のものが普及していた。便器が一段高い構造だった。それが多かった時代にも飛び散っていたが、問題にならなかった。共用トイレはそういうものだと思って掃除をしていた。
 上記の調査ですわりションが多いのは、家庭でも普及しているからだ。家事が女性の仕事としている場合、汚れたトイレ掃除の負担はごめんだというが大きな要因になっている。子どもに座りションを指導するだろうから、大小共用トイレは座りションが標準化していくだろう。
 それに清潔や清掃意識の変化が大きいとぼくは見ている。例えばノロウイルスが話題になれば手洗い等の大事さが話題になる。固形石鹸の共同使用ができない人が多くなり、液体石鹸に限定している家庭があるという。

 かつてのトイレ空間は、ある程度汚れているものだ、ということがあった。ところが20年ぐらい前に学校の「荒れ」とトイレの荒れと連動することが多かった。その荒れを改善するために、トイレをきれいにリニュアールするのが進んだ。この10年ぐらい前からは、駅のトイレをはじめ公共トイレの清潔が維持されているようになったのは驚くぐらいである。またシャワートイレの普及、消臭剤の設置等で大便の姿や臭いも避ける人が多くなっている。
 この「清潔感覚」は、このところ建つ住宅の場合は、土がまったくないように地面をコンクリート等にしていることが多くなっている。そして植木鉢に植栽をしている。自然や人間のリアルな営みから遠ざかり、人工的なあたかもバーチャルな世界との境界の環境を作っているのではないか、とさえ思えるのだ。

 ところでぼくはどのように利用しているかというと、立ちションである。それが自分の身体利用に自然だし、残尿感が残らないためだ。
 朝大量の緑茶を飲むので、午後用を足すことが多い。自宅でも外出先でも、自分が用を足したあと飛び散った場合ふき取っておくようにしている。次に使う人のためにというか、共用なので自分の足跡を残さないという心理かもしれないと自己分析をしている。整形のリハビリで行くクリニックでは、自分が汚さない床もふき取る場合もある。もちろん飛び散らない工夫をすれば、それがわずかになる工夫もしている。

 トイレといえば、かつて和服が標準だった時の農漁村の女性が、野外でわずかに腰を曲げて立ったまま用を足していた光景を思い出す。明治30年代前生まれの女性が、50年代まで田舎では見られた光景である。環境とともに用の足し方も変わる。
 世界的な視野で見れば、日本のきれいなシャワートイレが普及しているのはめずらしい。インドでは20%がトイレのない住宅で、結婚する際トイレをつけてからということを政府が推奨している。国連では昨年「世界トイレの日」を採択し、その日を11月19日とした。なにしろ世界の30%(25億人)がトイレなしの生活ということだ。衛生普及と暮らしの近代化を啓蒙しなければなるまい。

 そのうち昔は男性は家庭でも立ちションをしていたんだよ、と懐かしむ時代が来るかもしれない。大小共用トイレは座りション小専用は立ちションと2重のスタイルになるのだろう。


永六輔は健在なのだ

2015-02-03 18:38:32 | 生活・教育・文化・社会
 永(82歳)さんは、パーキンソンとの闘病生活をおり、長年『週刊金曜日』に「無名人録」を連載していたが去年やめた。記事は見開きに、会話するような平易な言葉で日常や世の動きを10字か20字ぐらいで気づかせてくれるもの。通り過ぎるあるいは捨て去られそうな物を活写する、やさしく鋭いまなざしだった。ぼくはこの連載を楽しみにしていたので残念と思ったし、病気の進行具合との関係が気になっていた。
 ところが今日の「徹子の部屋」に出演した。永さんを師匠と仰ぐピーコと一緒だったが、しっかりしゃべっていた。ほっとするとともに拍手をし、ぼくはことのほかしっかり見て耳を傾け、記憶にとどめた。
 長年続けているTBSラジオの「土曜ワイド」も担当をしている。うかつにもそのチェックを怠っていた。永さんこそ活躍を続けて欲しい人なのだ。

 ところで「徹子の部屋」は40年目であり、永さんは39回目の出演とのこと。この両人はぼくが高校時代にはメディアで活躍していた。永さんは放送作家であり、作詞も多かった。黒柳(80歳)さんは土曜日の深夜(22時台だが、当時は深夜といっていた)の「夢であいましょう」(61年~66年)という上品な音楽バラエティーに出演していた。
 当時は作家が台本を書いたものをライブで放送していた。録画技術はあっただろうが、高額な費用なので使わなかった。その作家が永さんであり、ともに20代だった。テレビの草分け時代の人たちの才能はすごかったし、この世代の人は少数になってきた。

 この世代の人で放送、作家、演劇関係者を思い出すままに上げてみる。愛川欣也(81歳)は映画監督、舞台演出テレビ司会で活躍している。野坂昭如(84歳)は長年闘病生活ながら作家活動している。『週刊金曜日』1月16日号から「俺の舟歌」の連載を始めた。矢崎泰久企画・構成の見開きのページにである。
 さらに昨年11月に死去した高倉健は83歳、菅原文太は81歳だった。残念ながら両氏の映画はほとんど見たことがなかった。菅原文太は50代ぐらいから私学の理事として経営にかかわり、その後環境や政治の発言をし、思うところのメッセージを残した。
 この世代の人たちは、メディアを通してぼくは親しんでいた。兵士として戦地には行っていないが、「皇国民」としての教育を受けて戦争体験をしている最後の世代なのだ。81歳の人たちが旧制中学最後であり、義務教育になった新制中学初年度である。
 環境にもよるが、疎開体験、勤労動員(学徒動員ともいう)体験、空襲体験、戦争孤児、引き揚げ体験など戦争に翻ろうされ、そして戦後の貧困時代を生きてきて、若くして今日の社会・文化の礎になった人たちである。

 ところで『朝日新聞夕刊』に「人生の贈りもの」というインタビューの連載記事があるが、2日から「なかにし礼」が始まった。現在76歳であり、満州で生まれ小1で引き揚げという戦争体験をしている。
 氏はその体験がベースにあり、現在の政権の首相を憂えている。ぼくより5歳上だが、おそらく戦争とからめて語れる最後の世代である。9回の連載だが当分夕刊の配達を心待ちにしている。

ノーベル賞受賞者のそれぞれ

2014-12-23 18:27:52 | 生活・教育・文化・社会
 この地域の22日の冬至の日照は日の出が6時47分、日の入りが16時32分とのことだった。危険回避のため夜間に車の運転をしないようにしているので、この時期の午後の車利用が夕方にさしかからぬよう時間には敏感になっている。
 冬至が過ぎると晴れた早朝の朝日が、日ごとに輝かしくなる。そして正月に向けて大きくなっていき、元旦の日の出は特別に勢いを感じるのだ。

 今年のノーベル賞受賞者は同じ研究分野3人だった。テレビのインタビューで3人同時に放送されるので、それぞれの個性を感じた。
 赤崎氏は、これまでの受賞者のように砂塵にまぎれないアカデミズムの世界で基礎研究一筋の学者の風格があると言う印象。受賞会見では勤務先の○城大学が記憶に残るようになっていた。帰国の空港での会見も大学のパネルを用意する念の入れようだった。
 天野氏は受賞決定の記者会見はフランス滞在の時だったので、たんたんとしかもくつろいだようなヨーロッパ風のしぐさだった。教養のある普通の人といった感じで好感を持った。
 日本に帰ってからはしぐさががらりと日本風になった。頭を前後に動かしからだもそれにともなって動く。日本はあいさつがおじぎなのでこのようなしぐさになりやすい。それは謙虚さと周りへの気遣いが必要な日本式なのだ。研究テーマへの専心とコミュニケーションの自然さを感じた。
 授賞式でのストックホルムでの夫婦や家族連れでは、家族のそれぞれを認めてかつ調和的関係を保つ家族関係が随所に感じることができた。
 中村氏は受賞の知らせは生活の拠点であり勤務大学のあるカリフォルニアでのインタビューだった。編集されていたのだろうが、研究がノーベル賞受賞につながったことを問われて「怒りですよ」と言う言葉だった。
 そして授賞式前に感想を聞かれたら「早く終わって普段の生活に戻りたい」と応じた。さらにメダルを手にしての感想を聞かれたら「ただの金属ですよ」といった。
 氏は研究者に少数だがありがちな人柄と言う印象を持った。今何が必要かというより自分の思いを披瀝する人なのだ。秀でた研究者なので個性豊かであるが、日本社会の市井の人でははじき出されるぐらい問題視されるかもしれない。研究をしていた会社と特許をめぐって争い解決したが、今回氏が求めた和解は今後も難しいだろうな。
 中村氏と同じように企業人の受賞者田中耕一氏(○津製作所)は、一介の技術者にすぎないことを強調した記憶が残っている。その後も勤務の会社で研究を続けている。日本流の礼節を心得ている人なのだ、と。今回インタビューを受け、自分の研究が社会貢献のため成果を出そうとしているようだった。

 ノーベル賞は、学問研究の最高の栄誉であるだろうが、多くの人は受賞を讃えることを世界中が報道していると思っているようだ。
 しかし受賞者がこれまでいない国はほとんど報道しないのではないか。また逆に多くの受賞者を出している国は、日本ほどメディアが一斉に時間と紙面を割いていないのではないか。日本の報道が過剰と言うわけではなく、受賞者個人の賞賛でありナショナリズムと結び付けすぎないほうが、学問研究のあり方としてはよいのではないだろうか。

電話で詐欺

2014-11-28 11:39:55 | 生活・教育・文化・社会
 「オレオレ詐欺」「振り込め詐欺」といわれているものが、被害額が今年すでに400億円に達しているとのこと。連年右肩上がりに増えて、昨年は年間450億だった。今のペースだと、今年はまた上回ると予想される。1日平均1億4千万以上なので驚くばかりだ。
 年々増加しているのを抑えようと、警視庁がこの詐欺を「母さん助けて詐欺」と命名したのが、この言葉でひとくくりにできないためか普及していない。
 次々に新手を考えて被害が拡大しているので、その悪知恵には感心するばかりだ。公的機関を名乗り還付金がある、くじの当たり番号を知らせる、といったことなど、時世をつかんで次々と考え出す。
 振り込ませない対策に乗り出したら、現金を手渡しするようにすることが一般化している。中には新幹線で東京まで金を運ばせるなど、詐欺対象の地域を広めている。

 詐欺犯罪組織は、旧ヤミキン業者あるいは反社会的組織ともいわれているが、「受け子」を逮捕しても組織解明に至らないぐらい「危機管理」がしっかりしているのには驚く。
 対抗して警察や金融機関も必死だが成果はわずかで、残念ながらまだ悪知恵のほうが優勢だ。
 NHKの18:05からの「首都圏ネット」では、毎日「わたしはだまされない」というコーナーを設けて犯罪の手口の紹介をしながら注意を呼びかけている。女性のアナウンサーが真剣に呼びかけるので、ぼくはその力の入った語りに感心しているのだが・・・。

 ところでぼくは息子がカネのことで電話をしてくることはないだろうと、他人事のように思っている。しかし元来脇の甘い性格と自認しているが、電話での詐欺にはあわないと確信している。
 昔からぼくにも「先物取引」や「投資のためワンルームマンションを」といった勧誘電話はよくあった。その都度答えを探すのが大変なので、どのようなことにも対応できる返事を使っている。
 それは「電話ではお金の話はしないことにしています」と反応するのだ。するとさらに食い下がられる場合もあるが「すみません。電話ではお金の話はしませんので悪しからず」と丁寧に言って電話を切る。この返事では、相手は取り付く島がないのである。
 このような体験から、名称を「電話で詐欺」といったらどうかと思っている。息子と親という関係を指すのでなく、カネの振込みや取りに来るあるいは持って行くなど渡す手段でもない、電話ではカネにかかわる話をしないようにすると詐欺やセールスもかかわりがなくなるのではないだろうか。


鼻濁音が衰退するのか?

2014-09-26 15:15:38 | 生活・教育・文化・社会
■アナウンサーは鼻濁音指導を受けていないのか
 テレビのアナウンサーの鼻濁音が微妙な人がいるのが気になっている。NHKのアナも、とくに女性が多いようだ。発音のトレーニングで指導をしないのだろうか。鼻濁音がなくなったら、少ない日本語の音がさらに五音減ることになる。なにより柔らかい日本語の音が崩れてしまうのは重大事だ。

 ちなみに世界に5000語(消滅している言語が続いているので実際はもっと少ない)ぐらいあるといわれている言語の、ほとんどが500ぐらいの音に対して、日本語は100余りしかない。音が極端に少ないため、同音異語が多いのである。
 「はし」という音の言葉が「橋」「箸」「端」「梯」といったようにいくつもの言葉がある。同じ音の言葉を、話し言葉では文意で区別し、書き言葉では漢字で区別して理解している。同音異語が「だじゃれ」「なぞかけ問答」など様々な言葉あそびを生んでいる。

■鼻濁音とは
 ところで鼻濁音とは、「がぎぐげご」が言葉の語頭以外で使われる、鼻に抜ける柔らかい音にすることだ。それが日本語の法則なので、鼻濁音消えていくことは、時代によって言葉が作られたり使かわれなくなったりするのとは違う、日本語の根幹揺るがす重大事なのだ。
 ついでに「お」と「を」は厳密には音が違う。「を」は「うお」という発音である。これを区別して使う人はほとんどいなくなっている。
 昔は「ゐ」と「い」、「え」と「ゑ」の発音も違っていたとのことだ。歴史的な言葉あるいは方言に使われる、日本語の音が少なくなっている。
 一方に外国語の音が増えている。例えば「ばびべぼ」「ヴァヴィヴェヴォ」という表記が認められるようになったのは、そんなに昔ではない。スマートフォンの「フォン」という音は新しいし、「ホン」と発音しても誤りではない。外国語の音と表記の問題は、別な枠組みで考えなければならない問題である。

鼻濁音に具体的に触れてみよう。

   語頭の言葉      鼻濁音例      鼻濁音の地名
が がけ がん      かがみ すがた   ながの しが かがわ おおがき
ぎ ぎんざ ぎんみ    くぎ かぎ     とちぎ あまぎ
ぐ ぐんま ぐあい    くぐる かぐら   かわぐち
げ げんき げき     くらげ かげ    じょうもうこうげん
ご ごりら ごらく    りんご あご    かごしま えちご ひょうご なごや

 鼻濁音例の言葉は、鼻濁音の音を使わないあるいは使えない人が増えているのである。地名の鼻濁音は、ほとんどの人が鼻濁音を使っている。とくに地名の地元の人が鼻濁音を使っていない人はいないのではないだろうか。テレビの気象情報で、「かごしま」の「ご」を鼻濁音でない発音の人がたまにいる。
 言葉の語頭以外の鼻濁音の他に気になるのは、助詞の「が」の音である。助詞の「が」を鼻濁音でない人の言葉は、ぼくには汚い日本語として聞えてくる。しかも言葉がよどんで「わたしが・・・」と止まって「が」鼻濁音でない場合は不快になるぐらいである。

■鼻濁音の復活のヒント
 クラッシックの歌や合唱では、指導者が鼻濁音をしっかり発音できるように求める。ポピュラーの歌では無頓着の場合が多い。
 例えば「翼をください」の「・・ねがいごとが・・つばさがほしい」といったくだりの「が」が鼻濁音でなく歌っている人が多いのは悲しいぐらいになる。
 こういうぼくは、鼻濁音が完璧と自認していたが、歌のレッスンで鼻濁音にするよう修正を求められることがある。そんな時は鼻濁音の「がぎぐげご」を強すぎずに鼻に抜けるように出すと修正できる。

 大学生に日本語の音のことの説明をして各自ためしてもらったら、鼻濁音ができない人が多数だった。「合唱の時よく注意をされたが、何のことかわからなかった」という反応もあった。「別にどっちだっていいではないか」という反応が多かったので、鼻濁音が消えてしまうのではないかと危機感を持ったものだった。
 孫が小学4,5年生の時いくつかの言葉の鼻濁音の発音を確かめたら、できなかった。できないというより、区別があるということが知らなかった。そこで説明して発音させてみたら、すぐ理解できた。小学生ぐらいまでに鼻濁音の発音をできるようにすると自然に身につくのではないか、というのが実感である。

 ■日本語の音は
 由紀さおりの歌がアメリカで注目されたときがあるが、関心が高まった要素のひとつに日本語の音の美しさがあるといわれた。
 ドイツ語、フランス語、イタリア語、韓国語(朝鮮語)それぞれの言葉の音を皆さんどう感じるだろうか。
 ぼくにはイタリア語、ベトナム語などの音が親しみやすい。ベトナムの寺院で僧侶の読経を聞いていると、ベトナム語の抑揚がともなっているので、まるで音楽を聞くように心地よく思うのである。逆に余り親しみをもてない音の言葉もある。
 言葉はそれぞれの民族の基本的文化なので、それぞれかけがえのないものであり優劣をうけるようは発想はあってはならないことはいうまでもない。それぞれの言葉のの音の特徴を相対化してみるのもよいのではないだろうか、ということである。

 日本語の根幹にかかわる鼻濁音を衰退させてはならない。せめて言葉の伝達者でもあるアナウンサーの皆さん、鼻濁音の発音をできるように、お願いしたい。それにとくに保育士、小学校教員に注意を喚起をしたい思いである。


原子力明るい未来のエネルギー、は今

2014-09-12 19:01:12 | 生活・教育・文化・社会
 原発と原発事故への関心を持ち続けている。ぼくが福島原発で気になっていることがある。 ちょっと変わっていると言われそうだが、原発の所在地である双葉町商店街アーチの「原子力明るい未来のエネルギー」という小学生が作った標語(スローガン)のこと。作った人は大人になっているだろうし、事故後その人はどんな思いだろうということだ。
 今、そのなぞが解けてほっとしている。ぼくの悶々としたものを氷解させてくれるルポライター鎌田慧のレポートを読んだのだ。

 標語の作者大沼勇治さんは現在38歳で、昨年11月から古河市(茨城県)の新居に住み、太陽光発電のちいさな電力会社をつくっている。現在は自宅の1カ所だが、今年中に茨城県の石岡市と常陸太田市、栃木県のさくら市と那須烏山市の5ヵ所になるという。なんとまあタフネスなのだ。

 標語を作ったのは6年生の26年前。学校で、原子力という語を入れたものを3本つくるという課題を課せられた。大沼さんの標語は優秀賞で、それより上位の最優秀賞が2本ある。

 原子力郷土の発展豊かな未来
 原子力夢と希望のまちづくり

優秀賞の大沼さん以外のもう2本は。
 原子力豊かな社会とまちづくり
 原子力正しい理解で豊かなくらし

 大沼さんの自宅は、双葉町で福島第1から4キロの「帰還困難区域」で、現在は無人の町である。避難生活は、会津若松市、愛知県安城市とした。その間2児をもうけた。
 その大沼さんが防護服を着て月1回の一時帰宅するとき、パフェーマンスをしている。国策に従わざるを得なかった自分を再生させる行為なのだろう。標語一部に文字を掲げて、事故後の、今の標語を掲げている。

 原子力「破滅」未来のエネルギー
 原子力「制御できない」エネルギー
 原子力「暗い」未来のエネルギー
 「再生可能」明るい未来のエネルギー

 さらに、

 脱原発明るい未来のエネルギー
 核廃絶明るい未来のエネルギー
と続く。

■この文章は、『週間金曜日』9月12日号(株式会社金曜日発行)の鎌田慧の「福島・双葉町 原発推進標語をつくった少年の26年」を読んで書いたものです。
 基本的概念や語彙は鎌田氏の文章を使用しましたが、内容が標語のことに限定し、表現は独自にするよう努めました。鎌田氏の原文は4ページにおよび内容豊かなものです。このレポートにめぐりあえて紹介の機会を得たことに、感謝申し上げます。