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絵本と児童文学

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ノーベル賞受賞など

2016-10-04 11:57:09 | 生活・教育・文化・社会
■ノーベル賞受賞
 ノーベル賞の医学生理学賞を大隅氏が受賞しました。夕方から深夜そして今朝もテレビのインタビューへの対応で大変のようにお見受けしました。多くの人に喜びと誇らしい気持ちを与えてくれました。
 80年代頃から始めた基礎研究が評価されたとのことです。ノーベル賞は実用性に結び付かない段階の、その分野の基礎にある研究の礎になるものを讃えています。
 日本人は21世紀になって16年間で16人目とのことです。これまでの受賞者世代の多くが戦後の困難さを直接間接に受けた世代です。いわば清貧の暮らしのなかで未知なるものを探し出す、地味な研究に励んだ人たちです。

 大隅氏のインタビューの中でぼくが重要と思ったことは、「実用性を求めない」「誰もやらないことをやる」ということでした。基礎研究の世界は見えずに果てしないと思われることをコツコツやって姿を突き止める、発見するのです。今の社会一般で求められがちな競争環境で即時に結果を求められる価値観とはまるで違う世界です。
 ところで今後も大隅氏のような研究でノーベル賞を受賞する人が続くでしょうか。後10年~20年は可能かもしれませんが、その後は果たしてどうなのでしょう。
 
 大学の研究環境が厳しくなっています。90年代に大学の一般教育が必修でなくなりました。そんため研究者とくに教養といわれる学問分野の研究者が少なくなりました。研究者数を山に例えれば、裾野が小さくなったということです。
 それに国立大学が独立法人になり、財政等の自立性が求められ、研究者(大学教員)が少なくなりました。
 また、00年ぐらいから、文科省が独自な研究に対する助成金を出すようになりました。これは大学からの申請と文科省の審査というシステムで研究助成をするため、結果として研究が大学の自立性より時代の要請という誘導される側面がぬぐえません。
 最近問題になっている大学での防衛研究では、大学の研究が実利性が軍事に直結することになります。この予算は3000億円です。戦後タブーとしてきた「学問を軍事目的に使わない」ことを捨て去ることになるのです。背景としては大学への研究費はこの間1000億削減されことと無関係ではないでしょう。研究費不足を抱えている大学研究者にとって、目的はともかくとして研究を進めるための財政が必要という「背に腹はかえらられない」といった研究者もいることでしょう。

 首相がテレビ向けと思われる祝意の電話をしていました。NHKですべて放映する前提で読み上げていました。去年もそうだったな、と思い出したのでした。「世界一」と「最高責任者」が好きな首相にとって得意満面になるチャンスだったのでしょう。

■「とと姉ちゃん」
 ぼくは朝ドラはほとんど見ないのですが、今年はおおよそ見ました。『暮らしの手帖』は、戦後の近代化する日本の庶民の暮らしの質を変える本でした。小学生時代のぼくの記憶に鮮明ににありました。ただしわが家の暮らしは『暮らしの手帖』の知恵は直接は結び付きませんでした。しかし生活の慣習を手放し、質の転換をさせる勇気をもらったようでした。
 このドラマのテーマは、あらかじめわかっていたことですが、亡き父がわりに長女「家長」の立場を踏襲する生き方をするという家族主義でした。終盤になり姉妹2人が結婚し一緒に暮らす大家族になりました。
 時代としては、日本近代化の中で工業が主要産業となり、都市へ人口が集まりました。団地に住み、今日平均的家族像である核家族に進んでいったのでした。その庶民の暮らしの質をよくしようとする人たちに雑誌は受け入れられたのでした。その流れで、今日の一人家族が稀でないように変貌したのでした。
 ところがドラマでは血縁大家族で終わりました。
 毎回のドラマの終了タイトルに視聴者の家族写真を使っていたので家族の絆といったことがテーマなのは分かっていましたが、血縁多世帯の大家族を描きました。

 また家電の製品検査は消費者本位というコンセプトでしたが、商品を使う庶民の暮らしがなかったのが残念でした。そのため庶民の暮らしというよりは、その後の日本の技術力が高さを作り出したということと結び付けてみることになりました。
 ドラマの中に、現在日本の礼賛と家族主義の重視というようなメッセージがダブったのでした。政府が進めている3世帯世帯居住の家の新築への補助金、という庶民では現実的でない政策と関連させるのは考えすぎでしょうか。高齢者の社会的介護から家族介護重視に、といったことが連想されました。それは「憲法草案」の家族像でもあります。

 NHKの「ライフヒストリー」という祖先をたどって登場者が満足させる番組があります。この番組を見て自分のルーツに関心を持っている人が多いのではないでしょうか。それじたい他愛のないことですが、広くは家族主義、さらに国家主義に包摂されていく人もいることでしょう。
 さらに単発ながら古館伊知郎司会の苗字についての番組がありました。バラエティー化したものですが、珍しさで大いに触発された人も多いのではないでしょうか。苗字は江戸時代はどうだったのか、明治期の戸籍法ができたとき役場に届けた際どうだったのか、といった歴史的視点がありませんでした。日本人にとって苗字の意味を考えるというよりは、これもルーツをたどることにつながりそうです。なお、この番組の内容にかんする本は、子ども向けも含めて数冊あります。

■大和魂
 相撲の秋場所の千秋楽の放送終了直前にNHKにチャンネルを移したら、豪栄道の優勝に対して舞〇海が、大関昇進の際の口上の「大和魂」を持ち出し、それでカド番からよみがえったというような話をしていました。たしかに豪栄道の昇進伝える協会の使者を迎えたときの口上は、「大和魂」でした。「大和魂」という言葉が相撲界にも普及しているのでしょうか。
 舞〇海は、日〇会議で挨拶したり講演もしているようです。日〇会議の広告塔としての威力は大きいでしょう。

 そういえばU23サッカー監督のコンセプトが「大和魂」で驚いていたのですが、普通に使うようになっているのか、と考えさせられました。「大和魂」は、今日では精神主義で計り知れない力を発揮できるという不合理な世界を連想させます。
 しかし「〇〇中魂」と学校全体のキーワードになっているとも聞きました。魂は身体から慣れた深い精神性のことを言うのでしょうが、魂で共同化するとはぼくには分かりにくいのですが、心の斉一性を求めているように解釈してみました。生徒たちの多様性とは対極にあるようです。中学生は幼さと大人と同時に持っている年齢で、最も多様性が表出する年代がそれを封じられているのではないか、と心配になります。

 戦時中は「大和魂」という言葉で戦意高揚と兵士を戦争に駆り立てたキーワードでした。戦闘場面では命をいとわず突撃するというのも、この言葉の世界だったのでしょう。ぼくは耳にするだけでも抵抗があります。
 また、ぼくには「大和魂」結び付くのは、日の丸君が代です。ぼくはどの段階の学校行事にも、日の丸、君が代と無縁でした。また40年ぐらい前に見たサッカーの国際試合では、君が代の際起立の呼びかけはありませんでした。そのためところどころに起立をする人がいる、という状況と記憶しています。
 99年に国旗国歌法公布されてから、学校行事に必ず取り入れて、教員の起立を実質義務化するように推移しました。法制化の論議の際、義務化するものではないということでした。
 リオオリンピックの壮行会で、森氏は選手に向かって君が代を歌わない選手にたいして歌うようにいさめました。元首相が出てしまったのでしょうが、そこまで言う立場にないはずです。しかも選手が斉唱するという状況でなかった、とのことでした。
 そういえばNHKのオリンピックハイライト放送では、アナウンサーが「国威発揚」といっていました。これにびっくりしたら、解説委員がオリンピックの4つのねらいを上げて、その最初に「国威発揚」といっていました。ぼくは到底使わない言葉がNHKから流れてくるのに、時勢は急いで動いているのだろうかと頭をかしげます。〇井会長の意向が現場まで浸透している証しなのかもしれません。

 中田英寿が「君が代は試合前には歌えるものではない」という趣旨の発言したのは、そんなに昔ではありません。

*このコラムは5日に加筆修正しました。
*大学の研究費の額については別々な報道をメモしてえた数字です。別な報道で異なる数字が上がっています。これは切り口によって全体の枠組みの設定の仕方によって変わるものです。論旨を読み取ってもらう参考してもらえればと思います。文科省に申請して承認を得る研究を「競争的資金」という概念という説明もありました。国立大学は研究費だけではなく運営費も減額されています。国立大学の授業料の高額化もあります。それに政府からは文系学部を縮小という発言もあります。教育予算の占める割合の少なさはOECDでも際立っています。日本はどこに向かっているのでしょうか。(9日追記) 


永六輔の話し言葉

2016-09-01 16:28:45 | 生活・教育・文化・社会
 台風10号の予報では、この地域では火曜日頃に通過の可能性ありということだった。進路が東の海上を通って岩手・大船渡を通過して北へいった。珍しい進路で岩手、北海道中部の川が氾濫し、家屋、農業、道路などのインフラ、そして人命をも奪った。日本列島は毎年のように水害による大災害にあっている。改めて災害が多いと感じ入り、減災への取り組みを強めなければならない。
 「ワールドニュースアジア」(BS14:00~)を見ているが、今はタイが広域に水害にあっている。今年の台風の初期の3号ぐらいまでは中国に上陸している。またこのニュースで印象に残っている災害は、フィリピンが台風が多くて被害が大きい、時には中国の水害は大規模なもの、他にベトナム、中国などの干ばつによる農業被害などが印象深い。

 台風が通過して東北、北海道に被害をもたらした昨日は、この地は晴れて暑かった。早朝に庭で今シーズン初めての虫の声を聴いた。夜になるとずっとその虫が鳴き続けた。比較的長く響かせる音できれいだ。去年がほとんど聞かなかったので復活したようだ。というのは一昨年孫が飼っていたカナヘビを放したので虫が絶えてしまったと思っていた。今はカマキリもいるし、涼しくなって虫の鳴き声が楽しめるようになることを期待している。

 昨日は永六輔の「お別れの会」があったとのことだ。60年初めにNHKの「夢で逢いましょう」の制作にかかわったいたことは後年知ることになる。この番組はぼくの記憶では土曜日の22時15分からだった。当時はこの時間は深夜であり、家族はみんな寝ていたが、ぼくは楽しみにしてみていた。。
 「♪ゆめであいましょう ♪ゆめであいましょう・・・」という歌が始まると、中島某という女性が「こんばんは」といって顔を横に傾けていた。坂本九、田辺靖男などが歌ったがそれが永六輔、中村八大によるものだった。
 永六輔の歌詞は話し言葉でリアルな生活からの素材ばかりで、明るくて希望につながり励まされるものだった。高校生で合唱をやっていたぼっくにとって、この番組で紹介されてその後世間に広がった歌は、自分が抱え込めるものだった。

 永六輔は活動をラジオにシフトしてからはなじみがなくなった。ところが90年半ばに三重県の知人との話の時「永六輔を何とか講演に呼びたい」ということだった。それがTBSラジオ番組のリスナーとして親しんでいたということだった。それでぼくもそのラジオを聴き始めた。語り方、言葉、内容などとても良かったが、生活に合わずに長続きしなかった。
 病を抱えながら「永六輔の七転八倒」をやっていたのを知ってから、昨年から聞くように努めていた。

 『週刊金曜日』の「無名人録」は楽しみに読んでいた。平凡に日常を短い言葉で語るように綴ることに、はっとさせられたり、ユーモア、皮肉、やさしさなど、人間の様々な感情を昇華させてくれるようだった。文化勲章の受賞を辞退したことに象徴的なように、名誉や権威の遠いところに身を置きながら文化を通して多くの人の心に抱えられている。

 永六輔は市井の人であり続けてやさしさと希望を伝えてくれた。ぼくは彼の声と言葉が良いと思っている。話し言葉であること、言葉遣いが飾らない東京言葉であること、待遇表現や過剰な敬語ないのが何よりも心地よかった。
 話し言葉は和語が主であり、今漢語とカタカナ言葉が多くなっている。分野の違う詩では谷川俊太郎が、話し言葉、和語で平易な表現をしながら意味が深い。またメディア関係では前田武彦の語りもよかったし、さらに大橋巨泉、愛川欽也が思い浮かぶ。小説家だが井上ひさしもよかった。彼らは戦前の教育で形成されたものを自ら否定し、戦後の新しい価値観をつかみながら仕事を通して世間に発信し続けてリベラルな道をつけてくれた人たちだ。気が付いたらぼくは彼らの発信した文化の中にいたよことを改めて感じている。

 永六輔は新制中学に移行した世代だ。田舎では限られた人しか行けなかった中学(旧制)に誰もが行くようになったのだ。この世代の人たちには「戦争孤児」として苦難の生き方を強いられて人たちも少なくない。都市の人たちは疎開を体験している。戦争時代の体験を抱えて新しい時代へと生きてきた人が、また少なくなっていく。

*追記 10日
 永六輔は浅草出身で、大橋巨泉は両国ということだ。

オンリーワンが薄れていくのか

2016-08-25 15:11:58 | 生活・教育・文化・社会
 *オリンピックで、日本中が金メダル、NO.1を求めて高揚しているとき、SMAPの解散が報道された。SMAPについてよく知らないぼくですが「NO。1にならなくてもいい もともと特別なOnly One」というフレーズの歌だけを知っている。「世界に一つだけの花」という曲だ。この曲が歌われたのが02年かたという。ぼくはもっと前からと思っていたが、喜納昌吉「花-すべての人の心に花を-」の流れをくむメッセージを込めたものと考えていたからだ。この歌が80年にできて90年ごろから流行って、世界中でとくにアジアで歌われている。

 「花-すべての人の子ことに花を-」はぼくも親しんでいたし、CDでは「おおだか静流」のものを聞いていた。ぼくはこれらの歌とNHK手話ニュースの時間が始まったことと結びついている。「いつの日かいつの日か花を咲かそうよ」と口ずさみ、オンリーワンでいいんだ、人間の多様性を認める寛容な社会への期待を持たせてくれた。

 ぼくはこれらの思想と「ゆとり教育」は同じ流れとみている。時代はもっとさかのぼり、78年発行の城山三郎著『素直な戦士たち』がそのような提起をしていた。早教育と受験教育批判をテーマにした思想が通底していると思い、時代が転換するのではないかとの期待も持たせた。『素直な戦士たち』は、地方新聞に連載を始めてたら反響がすごかったとのことだった。発行の翌年の79年にはNHKで4回のドラマ放映されている。
 ついでですが、ぼくの若いときこの本をめぐって著者と婦人雑誌で対談して記事になった。氏はふらっと部屋へあらわれ気さくな語りながら言葉が少なかった。小柄ながら強靭で圧倒される人という印象を持った。
 氏は経済小説で高名であり、財界事情に精通していた。あえて教育をテーマにして書いたのは、日本経済が国際化していくとき、チームワークで几帳面に仕事をするだけではだめで、個性と創造性が必要だ、と力説していた。ぼくは「ゆとり教育」に転換したときに、城山三郎を思い出したものだった。知識の量を中心にした反復ではなく自律的で独創的な学びをと。

 時は移り「ゆとり教育」が悪のようになっていることと、「オンリーワン」を発信したグループの解散を結び付けてるのは無理と知りながら、結び付いてしまうのだ。ちなみにオリンピックで活躍した選手は「ゆとり世代なのだ。

 *むのたけじ氏が亡くなった。秋田のおおきくない市での『たいまつ』発行の孤高ジャーナリストである。まとまった話はラジオで何回か話を聞いて地方なまりで高らかに訴える語りに、背筋を伸ばされる思いだった。百歳を超えてからはテレビのインタビュー、NHKの「ETV特集」で高らかに話す姿を見たのだった。
 20代の時『詞集 たいまつ』の3集までを読んだ。短い文章が独立しているので、読むというより向かい合って沈黙し考えをめぐらす、静かに自分向きあう本だった。また、戦後が小さくなっていくのか。
 

不可解な速報テロップ

2016-08-16 18:05:26 | 生活・教育・文化・社会
 昨日の朝のNHKは、オリンピックの卓球女子団体の準決勝を放送していました。その際画面上部に速報のテロップで報じた内容が「4月~6月までのGDPの伸び率+0.01」でした。大方の人は意味不明でしょうが、数字に+がついていたからよいことという印象を持った人が多かったのではないでしょうか。内容が解説を加えないと理解ができないことです。しかも朝の時間帯に速報扱いにすべき緊急性のあるとも思えません。

 ぼくの理解では地震等の災害、災害時の広域の避難勧告・指示、交通等大きな事故と運行状況等です。今はオリンピックのメダル獲得は速報扱いにしています。速報で扱う内容はしかるべき基準があるしょうし、その判断は責任ある立場にある人によるでしょう。この時のテロップ内容は、朝の時間帯に速報でテロップを流す理由が理解できません。

 ぼくの推測では、政府のおこなっている経済政策が浮揚している実感がない状況に「道半ば」と言い続けているので、エンジンをふかしてそれらしく見えることを広報したのではないか、ということです。なにしろ瞬間視聴率は相当高い時間帯だったはずです。見ている人の気持ちが高揚しているときに流すテロップは、インプットされるものです。かねがね「みなさまのNHK」から「政府広報放送」になっているとみているが、ここまでやるようになったかと驚いたのでした。

 ちなみにこの速報テロップの内容は、テレビ報道ニュースではその他の簡単な扱いであり、新聞では経済面での解説付きで扱っています。「消費低迷、景気足踏み」という見出しです。いつまでも道半ばで足踏みなのです。

知事選が終わって

2016-08-01 19:19:34 | 生活・教育・文化・社会
 都知事選が終わった。結果は先んじて政党と無関係に立候補した人が圧勝した。結果を見れば「東京って巨大な選挙民が不思議な投票行動をとるところ」という感想だ。短期間に巨大な世論が動く。かねてから東京都はそうだが、SNS時代になってそれが顕著になっているようだ。

 当選した人は、前知事の問題になった1月間から周到な準備をしてきたのだろう。公約で初期に言ったのは、減災のために無電柱化だった。これは送電事業をしている東電なのだが、大きく構えたものだ、と思った。都がやるとしたら都の年間予算ぐらいの莫大な財源と10年経ても終わらないだろう事業だ。90年代に経済の研究者から、国の公共事業として実施構想があると聞いたことがある。
 それにしても選挙戦略、戦術は、カラー作戦等短期間動員する術を備えたものだった。遊説先選びとそこでの行動等よく考えられたた印象が残った。これは本人のパフォーマンス力だけではなく、選挙の専門コンサルタント等によるものだろう。

 テレビで編集された演説等を見る範囲での感想は、当選した人が政治家としての言葉の力は群を抜いていた。対抗するキーワードを使って自分を打ち出す等のレトリックは、いくつかの政党を経て政治の世界で鍛え抜かれたものなのだろう。
 与党候補の政策は各論が多くて良いのだが、伝え方が演説というより解説風で、話しながら自分で整理はつけているようで、人に届きにくい感じだった。
 野党候補は、準備不足を最後まで克服できず、新聞のタイトルのようなフレーズが耳に残った。俯瞰的とも言えないわけではないが、それは仲間内の見方であり、投票に結び付くほど甘くはないだろう。独りよがりさが印象に残った。

 終わってみれば、野党が中心政党が内部抗争が吹き出そうだ。都連会長が選挙終了すぐのインタビューで内部抗争の発言をしていた。最も報道されやすい時に公人がメディア対策としても言ってはいけないこと。都知事選で野党共闘が崩壊する可能性があるのではないか。連合が自主投票したことが象徴的だった。東京都では、労働運動、教員組合等政党ごと独自な組織を持って活動しているので、共闘の難しさはわかっていることだ。

 さて、与党は推薦候補の落選でも困らない。新知事はまだ政党人であり、除名等の処分はするはずがない。むしろ都連の問題が露呈されたので、党本部あるいは官邸が東京都にも影響力を増す可能性が出てきたのではないかと、ぼくは見ている。

 それにしても雑誌最大発行部数(41万部、1月以降は50万ともいわれている)の『文春』が21日発行で野党候補、28日発行で与党候補の都連のネガティブ特集をした。そして特集されなかった当選者が漁夫の利を得た。あるいはこの雑誌自体が世間動向を読んでいるということだろうか。
 この週刊誌は、教養や正義ではなく鬱屈した気持ちに触れて売り上げが伸びればよいようだ。ぼくは毎週木曜日の新聞広告をじっくり見て世間のある側面の動きを観察するようにしているのだが。

ますぞえ氏はセコイのか? 

2016-05-31 20:01:17 | 生活・教育・文化・社会
 ますぞえ氏の政治資金・公金使途の公私混同ぶりに、世間はあきれ返っている。その実態が明らかになってひと月近くなるが、3回の定例記者会見を何とかやり過ごした。
 明日から都議会なので、そこでの野党の追及にわずかな期待をするのだが、与党が静観する方針とのことなので、都民の民意は通じない。数こそすべてとなってしまっては、民主主義の形骸化であり、憂うべき政治状況である。

 ところでますぞえ問題は、贅を極めた海外出張から始まって、大方の人が家族旅行としか思えないものを会議もしたから政治活動であるといい、趣味等に公的資金使用している実態など次々上がる。それをセコイとメディアや識者がいい、共通認識のキーワードになった。あきれたるような実態をまじめに向かう気にもなれず、鼻で笑うような気持なのだろう。
 ところでますぞえ氏の問題をセコイという言葉で認識してよいのか。セコイとは広辞苑によると「けち臭い」「みみっちい」ということだ。セコイ行為をするにはそれなりに繊細さをともなった性格が必要ではないだろうか。
 ますぞえ氏にはおよそのような側面はない。この際このような通俗的言葉で事態を認識するのであれば「ねこばば」がふさわしい。「悪行を隠して知らんぷりする」ことを言うのだ。猫好きに「猫に失礼だ」と言われそうだが。庶民の暮らしでは横領といってもよいだろう。

 ますぞえ氏のこれまでの経歴からすると、自分の欲望と野望を軸に万能感で生きてきているではないか。普通の人とは違い、異なることを「鳥瞰的にとらえて」ことごとく実践をして生きてきている。同じことを10年と続けなくとも知事の座を仕留めて、権力を意のままに使っていることはセコイ人にはできない。一見セコそうな行為だが、それをさせる性格は全く違う大胆不敵さである。
 常に巨大な自己を押し出してきたのだったのではないか。誠実に研究している国際政治の研究者がほとんどだろうに、ますぞえ氏は違う。学者ますぞえを知りたいところだが、政治家として大ぶろしきを広げてその場限りのウソを言っている。
 ますぞえ氏は手に入れた知事を、これまでの氏の行動様式とは違い、このぐらいのスキャンダルで簡単に手放さないだろう。知事は氏の欲望と万能感を満足させるものだ。かつての国際政治学者は、地球規模で飛んでいて羽を休めないだろう。

 日本って、こんな人がトップリーダーを維持できる時代になってしまっているのかな。庶民は、拾った財布を届けるぐらいモラルは壊れていないのにな。都議与党にも良識持った人いるだろうに、その政党は「この道しかない」と突き進んでいるし・・・。議会に自浄能力がないと、都民は黙っていないだろうに。

メディアの自己検閲 自由度ランキング72位

2016-04-22 21:12:31 | 生活・教育・文化・社会
 政府の圧力が自己検閲を生む

 「表現の自由」に関する国連の報告者であるケイ氏が、政府の招きで11日から訪日し、調査を終えて19日に記者会見をした。調査は政府職員、国会議員、報道関係者、NGO関係者らの聞き取りをした。
 報告内容のポイントは、
 *特定秘密法や中立性、公平性を求める政府の圧力がメディアの自己検閲を生み出していると分析。
 *ジャーナリストの多くが、匿名を条件に面節に応じた。
 *放送法4条の政治的公平性などを廃止し、政府はメディアから手を引くべきだ。
 *電波停止に言及した高市氏が、国会期間中と理由で面接に応じなかった。
 *原発、災害対応、安全保障などの政府情報が規制されている可能性があり、内部告発者の保護体制が弱   い。
 *ヘイトスピーチ対策は悪用の恐れある。人種差別禁止法をつくるべき。
 *慰安婦問題など歴史問題は、政府が介入すると国民の知る権利を脅かす。
といったことだ。
 なお、ケイ氏はカリフォルニア大教授で国際人権法などが専門。14年から国連の人権理事会から特別報告者に任命された。今回の報告書は17年に人権理事会に提出する予定。(朝日新聞4月21日から要約)
 
 メディアの自己検閲という表現は、日本的には自己規制あるいは忖度するという表現だ。権力の意向いわゆる空気を読み自らそれになびいて報道することだ。番組再編を契機に4月からの著名なニュースキャスターが降板したことは、メディアの自己規制の具体的事例ではなかろうか。表向きはそのような理由ではないが。


 表現の自由72位 政府も追認?

 国際NGO「国境なき記者団」(本部はパリ)が16年の「報道の自由度ランキング」を発表した。日本は対象180カ国・地域のうち前年より11位下がって72位だった。10年に11位だったが、14年59位、15位61位と順位を下げている。
 5段階評価にすれば「よい状況」「どちらかといえば良い」「問題がある」「とても深刻」ということで、日本は「問題がある」という位置である。

□上位5位のランキング
1位 フィンランド  2位 オランダ  3位 ノルウェー  4位 デンマーク  5位 ニュージーランド
□G8のランキング
16位 ドイツ  18位 カナダ  38位 英国  41位 米国  45位 フランス  72位 日本  77位 イタリア  148位 ロシア
□ワーストランキング
176位 中国  177位 シリア  178位 トルクメニスタン  179位 北朝鮮  180位 エリトリア

 日本は報道の自由度ラキングが72位であることに対する政府の見解を、官房長官は記者会見で
 *表現、報道、編集、そうした自由は極めて確保されている。
 *放送法で編集の自由が保たれている。憲法においても表現の自由が保障されている。
 *放送法で編集の自由が保たれている。憲法においても表現の自由が保障されている。
 *特定秘密保護法が施行されて1年以上たつが報道が委縮するような実態は全く生じていない。政府として は、引き続きこの法律の適正運用を果たしていきたい。
と主張をした。
 国境なき記者団は、特定秘密法の施行で多くのメディアが自主規制し独立性を欠いていると指摘している。とりわけアベ首相に対して自主規制が働いているとの見解を示している。(4月22日の朝日新聞から要約)

 政府見解が、憲法や放送法を引き合いに出して表現、報道、編集の自由が保障されているとしている。確かに憲法は保証しているが、安保法制のように憲法学者の違憲見解が圧倒的に多いのに強行した。戦後立憲主義に沿ってあった国がその危機にあるではないか。
 憲法によって保障されながらも憲法を無視する政府が、実態との乖離を憲法によって証明するのは理解に苦しむところだ。これは表現の自由度の深刻な低下を自ら証明しているようなものだ。
 事例としては、NHK会長が政府見解に沿って報道すると発言し、首相が番組に出演中街頭インタビューが政府見解に反対意見が多いのを偏っているといい、政権与党が番組を特定して呼び出す、総務大臣が「電波停止」の見解を言っている。こういった状況は、もはや表現の自由の深刻な事態である。


不思議なパーティー

2016-04-16 16:43:57 | 生活・教育・文化・社会
 おとたけ氏の、プライバシーと家庭問題であるスキャンダルに関心があるわけではない。あの本が出て20年をへて、大掛かりな誕生パーティーを開くほど著名人になったことを感慨深く思う。今回明らかになったスキャンダルの騒がれ方が著名人の証なのだろう。
 ところで大規模な誕生パーティーで祝うのは、世に知らしめる必要のある次のステージを視野にした企画なのか。スキャンダルが静まらないのに中止にしないのは、不思議なことだ。
 パーティーを謝罪の性格だったと報じている。パートナーも参加しているからそう見えるのだろうか。誰に対して何を謝罪したのだろう。
 氏が現職の都の教育委員や教員ではないので、公的な立場にない。ぼくからすれば、今回はスキャンダル披露宴のように思える。世間はプライバシーや家庭問題とみるのではなく、誕生パーティーをやるぐらい氏に対しての信頼が大きいようだ。

 氏の本が多くの人の関心を呼んだので、普通には手にできないぐらいの収入を得ただろうし、その後メディア等での注目度も高かった。
 ところで世界をも震撼させた事件を起こしたカルトのトップは、視力障碍者だった。彼を信奉したことの条件にそのことが無関係ではないのではないか。聴力を失ったのに音楽を紡ぎだすという超能力者と美化されたら虚像だった人もいた。
 これらの事例と氏と同一視してはならないことは言うまでもないが、障碍者が異能として美化するところが通底していないだろうかと、ふと頭をよぎるのだ。

 ぼくはかつて障碍教育に関心があり実践も担ったことがある。あるいは様々な障碍害青年ともかかわってきた。ある事例では生活だけでなくしゃべられなく書けない全介護の必要な青年とも1年かかわった。彼の介護は数人の同年代の女性だったが、様々なエピソードを聞いた。彼は文字盤を指指して話し、常に介護者が必要だった。時には1時間余りの自宅へ電車で一人帰宅することがある。そのとき周りに介護を求めるときは車いすから物を落として呼びかけのサインにしているとのことだった。また、全盲で中学校の教員をしている人ともかかわった。昔のようにすべて点字でなくパソコンでかなりの知的生産が可能なのだ。彼らは謙虚であり物事に真摯に励んでいた。
 一方には、難聴で話せないわけではないのに話さないで、ぼくに手話を覚えるよう求めた青年もいた。ノートテイクのボランティアと同行させていたが、必要と思われる状況でも常に利用していたわけではなかった。ぼくは彼のスタイルに合わせてかかわったが、手話を覚えるのは簡単ではないのではたせなかった。このようなタイプの障碍者は、特別な事例でなくいるのでぼくは戸惑う。

 おとたけ氏のスキャンダルについて、親しい関係にあるホリエモンが「氏は一般的なそれとは違う」という発言をしていた。肢体不自由なので相互の関係性と行為のことだは確かにそうだ。パートナーが謝罪したことも奇異だったが、そこには介護問題が内在していることを暗示していた。
 氏は生活行為の全介護が必要だ。公的仕事の際は介護者付きだろうが、私的な生活の介護は介護保険に基づく公的介護が必要だ。介護保険に基づく介護はおおよそ家庭での生活でのことだ。それを氏は利用しているのだろうか。パートナーが担っていた可能性があるようだが、それはむりであり、私的に解消しないで公的制度を利用すべきではないか。
 公的介護を利用したとしても、家庭生活でのパートナー負担は想像に難くない。彼は行動範囲を広く活動しているようだが、場合によっては私的に介護者を依頼しなければならないだろう。

 おとたけ氏スキャンダル問題から、障碍者の評価と社会的承認についてと公的介護と家庭生活や仕事・社会活動について考えてみた。

*このコラムは、14日に書いたのが未完のため遅れてアップした。

水不足のコンクラーン

2016-04-14 19:14:36 | 生活・教育・文化・社会
 タイの新年の行事であるコンクラーン(水かけ祭り)は、今年13日と14日とのこと。これはラオス、ミャンマーとともに上座部仏教に基づく新年である。
ベトナム(テト)と中国(春節)は日本の旧正月と同じ2月上中旬である。ついでにイスラム教国では3月21日が新年だった。
ところでコンクラーンは例年4日間のところ2日間とした。短縮したのは、水不足だからとのこと。
 水不足はタイ全域にわたり、農業に深刻な影響をもたらしている。水かけ祭りといっても様々な水鉄砲がでまわり、中には大掛かりなそれもある。節水を呼びかかけているのがじれったいところだろうか。
 1昨年ラオスのビエンチャンで水かけ祭りを経験したが、映像で見るタイやミヤンマーに比べ、おとなしいものだった。同行した友人はミヤンマーで経験していたので、着替えを持参し水かけの輪に入って活動した。ぼくはかけられないように歩いたので、手で水をすくってかけられた程度だった。ぼくはすぐそういう輪に入れない性格なのだ。水をかけるのは、仏像に水をかけるのと同じで、敬意をはらうあるいは願い事をするためらしい。
 大掛かりな行事であるとともに国内の移動だけでなく、外国の観光客が大勢訪れる。タイの放送によると、外国の観光客を迎え入れるとともに、休みを利用して海外にも出かける人が増えているとのこと。行き先はブルネイ、シンガポールとともに日本も上がっていた。タイの中層以上の人が海外へ出かけるようになったということだ。

 ところで水不足といえば、インドが広範囲にわたる干ばつに見舞われ経済的ダメージが大きいと、シンガポールのテレビが報じていた。
 またベトナムのテレビVTVによると、中部から南の広範囲にわたって水不足に見舞われているとのこと。輸出品でもある中部高原のコショウ、コーヒーは打撃を受けているようだ。また南部の広範囲にわたるメコンデルタ地域は、水不足と海水の高まりが重なって塩害に脅かされている。マングローブが枯れて生態系に影響が出ている。また、塩分を含んだ水での米作が可能な品種づくりにも取り組んでいるとのことだ。

 今度は バドミントン選手が違法賭博

2016-04-13 12:00:11 | 生活・教育・文化・社会
 バドミントンの国際大会出場している2選手の違法賭博が明らかになった。これについてぼくが耳にした範囲のラジオのトークやニュースバラエティー番組は、おおらかな反応だった。
 裁定者ではないので断罪するのは行き過ぎだが、なぜそのようなことが行われているのか、開帳しているのがほぼ反社会的団体とかかわっており、その資金源であることの深刻さといった認識ぐらいあっては良いのではないかと思ったのだ。「暴排条例」以降は資金源を断つために勇気を持って行動している店主などもいるのだ。
 
 ところで日本では賭博は許されていない。競艇、競輪、競馬(挽曳も含む)のギャンブルは公営でおこなわれ、行政の財源である。宝くじも。totoは選手育成という目的で作ったが使途を拡大し種類も増えている。ビジネスとして行われているパチンコも実質的にこれらとかわらないのが実態だ。いずれも射幸心をあおられるので、依存性がある。カネが必要となり仕事の不正という犯罪、あるいは多額の借金を抱えて家庭の崩壊等人生の岐路に立つ場合も少なくない。
 政治家ではカジノ(公認のビジネスとしての賭博場)を産業化しようと議員連盟をつくっている。それの誘致を名乗り出ている地域もある。日本では上のような射幸心を伴うものが多いので、さらにカジノとは想像するだけで大変な社会になると懸念する。カジノは富裕層対象となり外国からの観光客の利用を見込むということだが、その棲み分けはは簡単にいかないだろう。

さて、2人の記者会見での26歳は、21歳をかばって「処分は受けるが21歳は自分のせいなので寛大に」といった趣旨の自己犠牲的な言い回したが、事の重大さについて認識が足りないように思える。21歳は海外試合を経験している選手には思えないぐらい幼さだった。「まだ大人でなく将来ある選手だから」とスポーツ界の意見番と思われている人がいっていた。こういったとらえ方は、国際的に活躍するアスリートには許されないことだ。
 ぼくの感想は、21歳は欲望と自己顕示の肥大化の過程にあり、選手として再生はコーチ等によるよほどの市民的教養としての生活の在り方等の指導なしでは困難にみえた。
 協会の処分の発言では、21歳についてはリオで成績上位を狙えるのを逃すという未練を引きずっているように思える。さらに東京五輪へ期待するようなことが言外に含んでいるようにも取れた。スポーツでは五年後のことは全く分からないものだ。

 アスリートは競技成績だけでなく市民的教養と衆目にさらされる存在としての行動の仕方を持たなければならない。今回はNTTの職員でありバドミントン部全員が違法賭博をしていたということだ。ぼくは廃部かなと思っていたら、半年対外試合しないということだ。選手としてトレーニングは続けることになるだろう。26歳を解雇にしたが、会社の部としての選手の市民教養教育等の責任は大きいのではないか。
 それにバドミントン協会の選手育成と教育に過失があったことを認め、プログラムを公表して教育する必要がるだろう。

*このコラムは11日に書いたが未完のままでアップが遅れた。このところは未完のまま日の目を見ないコラムがほとんどである。

*新聞を整理していたら、3月23日にNTT東日本が21歳が跳び上がってスマッシュする瞬間の写真を使って全面広告を出していた。「夢は、つながる。」「翔べ、桃田賢斗!」というキャッチコピーだ。夢は幻となり、彼の欲望も遮断されたぞ。
*東京新聞17日の「週刊誌を読む」(執筆は月間『創』編集長・篠田博之)というコラムによると、「桃田選手側も恐喝の可能性を考えて関係者に相談し、結果的に謝罪会見を開くなったのだろう」とある。恐喝する側は暴力団関係者だろうということだ。違法賭博を公表したのは闇社会との関係を断ち切るための防衛でもあったということだ。だとすると処分が甘いし、NTTが活動停止でよいのだろうか。(18日追記)