人間は、体験するために生まれてきた・・・のだそう。
うれしいことも哀しいことも腹が立つこともルンルンすることも・・・・全部体験したくてこの世にやって来たそうな。
うれしい気持ちも哀しい気持ちも怒りの気持ちも楽しみワクワクする気持ちも・・・とことん味わいつくしたい・・・というのが、魂の言い分なのだそう。
哀しいことや腹が立つことなんて苦しいだけで味わいつくしたくもないけれど、十分に味わいつくすと光が見えてくるかもしれない・・・気がする。
何でも、体験してみないとわかんないよね。
小さい頃から、なんでもとことん体験させてもらえていると、『自分』の輪郭が明確になってくる。自信がついてくる。
とことんしている中で、こうすれば痛いとかこうすればうまくいくとかこうすれば気持ちいいとか・・・試行錯誤を楽しくやっていく力もついていくはず。
2~3ヶ月の赤ちゃんに手袋をさせているママの、その理由は、もし、目に指が入ったら心配だから。これを、本末転倒っていう。2~3回目に指を突っ込んで痛い思いをして初めて、目に指を突っ込まなくなるよう筋肉の動きがとれるようになる。つまり、器用になっていく。
6~7ヶ月の赤ちゃんには、やけどしない程度にアイロンを熱くして、触らせて、ちょこっとアッチッチ体験をすると用心深くなる。
前にも書いたけれど、おもちゃも取られてみないとその気持ちに気づけない。
取られて、取られたときの気持ちを十分堪能させてあげよう。そこからしか、取り返す勇気は溢れてこないのだから。
三男が2歳の頃、はさみに興味を持ち始めた。
よく、カーテンを切って困るという訴えもある。
まぁ、カーテンだと困るよね。
困るときは、正直に、「困るからやめてぇ~。」と叫ばなくっちゃ。
いくら、とことん体験と言っても、本当に困ることは、時と場合によるいうことも体験しなくちゃね
再生不可能なものは、困るよね。よほどお金持ちでないかぎり。
それと、命にかかわるような危険なことも困るよね。
我が家のルールはあった方がいい。
子どもにとって、無制限というのも困るのだ。
大まかなルールの中で、とことん体験できると、そこから、個性という輪郭が形成されていく。○○さんちの○○君という個性が・・・。個性は、おお~きな枠組みの中でとことん自由に泳がせてもらうことでできあがっていくもの。
ところで、はさみに興味を持ち始めた三男は、ざくりとあるものを切って、それがとっても面白くって、どんどんどんどんザクッザクッと切り始めた。
あるものとは、自分の髪の毛のこと。
何分、鏡を見てかっこよくなりたいというような気持ちは、まだ、芽生えていないし、手も不器用なので、同じところだけをザクザクきり刻んでしまって、円形脱毛症のようになってしまった。
それを見た義理の母が、「そんなことしたら、もう、いっしょに自転車になんか乗せてあげないからね。」と、本当は、母親である私に文句を言いたいところだが、それもできず、まだ、2歳の三男に怒っていた。隣に私もいたけれど、しれ~っとして、「あの、ざくっとした音がおもしろいんでしょうねぇ。あ~はっはっ!」と笑ってこたえた。
わたしには、証拠写真がある。
私の小さい頃の白黒写真。
これがあるかぎり、しつけは厳しくしないほうがいい、否、しなくても大丈夫なんじゃないかとしみじみ思うのだ。
その、証拠写真とは、
昔の家は、縁側があって、ず~っと障子が続いている感じ。私は2歳か3歳って頃だと思う。そのず~っと続いている障子のすべてが破れていて、私は、そこで背伸びしてブスッと指を突っ込んでいるという構図の写真の主人公だった。
画面いっぱいブスブスと破れた障子の真ん中で、私はとっても自慢げに背伸びして、ブスっと一刺し。
『ヨッ!日本一!!お見事!!!』とほめてあげたくなるくらいな映像だ。
この証拠写真があるかぎり、我が家の障子が破れようが、ふすまを破ろうが、怒れない。
それでも、頑張って、家を建てて5年くらいは、大晦日に障子の張替えをやったけれど、張り替えても張り替えても穴ぼこぼこになるのであきらめた。今は、カーテンでがまんしている。
ふすまもしかり。
ふすまの場合は、幾重にもなっているので、最初は、ビリビリが面白くってはがしていたけれど、少し大きくなると、父親に怒られて言い返せなくて腹が立つとビリビリ、ビリビリとやっていた。どの子も・・・・・。
あの証拠写真があるかぎり、私は怒れない。
し、
不安にもならない。
つまり、ここでちゃんと叱らないと将来とんでもない子になるんじゃないかという不安は、全く 『ない』。
しつけなきゃという呪縛は、このまま黙って見ていたらまともな大人に育たないんじゃないかという不安に起因している場合が多いと思う。
大丈夫。大丈夫。
今の私は、その正反対のために去年大病を患ったのだから。
50歳を迎えて、私の人生の終盤の課題は、『わがままに生きる』・・・だ。
それにしても、あんなに伸び伸びと育ったはずなのに、どうして、言いたいことが言えないような人間になってしまったんだろう。
つづく
しつけは、そう厳しくなかった。けれど、母親の何かに洗脳されたのだと思う。
まぁ、しつけも洗脳の一環ではあるとは思うけど・・・・。
だって、インドに行けば、手づかみで食べるのが当たり前だし、結構、床に皿を並べて食べている。日本だと、『犬じゃないんだから』と怒られる。
お国が違えば、正しいことも間違いとなるのだから、人と違っていても『別に・・・どうでもいいんじゃない?』とこだわらなくなるんじゃないかなぁ。そういう意味で、国際交流っていいよね。
ただ、日本人らしさってあってもいいと思う。
着物を着て、犬みたいに食べるより、しんなりおしとやかに食した方が、やっぱり美しいと感じて、気分よくなる。
らしさの強要はいけないと思うけれど、らしさの姿が美しいと人に幸せを与えるものなので、らしさも好き。国際化の中で、外国の人が日本に求めるのは、日本人らしさ。らしさに正しいも間違いもないけれど、らしさという異文化は国際人として求められている。
○○さんちの○○ちゃんという『らしさ』が、日本人らしさの基盤になる。
その○○さんちの○○ちゃんは、どうやってらしくなっていくと自然かなぁ~。
私は、まず、ママが、きちんとしつけなきゃと頭で考えて叱るのではなく、ママがされて困るときに、『困る~。』と叫ぶことのくり返しでらしくなって行くのではないかなぁと思う。
「あなたが、こんなに散らかすとママは疲れがどっと出てイライラして困る~~~~~~。」などと困ることを訴え続けていると、『あ~は~、ママは、私が○○するときついのね。いやなのね。」とわかるようになる。別に、非難されているわけではないので心が傷つくこともない。あんまり疲れてどうにかなりそうなときは、叫べばいい。叫んでいると、なんだかスッキリしてくるから不思議不思議。「ママは~」とママを主語にしているかぎり、子どもの心を傷つけないのだ。だから、安心して叫べる。ギャーギャー言える。そして、ギャーギャー叫んでいるうちに、なんだか自分のことが好きになってくるから一石二鳥だ。
子どもって存在はありがたいよ。
職場では、とても言えないセリフや醜態を全部さらけ出しても、子どもは受け入れてくれるもの。
「ママは、あなたが○○するとうれしい~。」「腹が立つ~。」「哀しい~。」「幸せ~。」そして、「困る~。」「助かる~。」などなど、語ったり叫んだり飛んだり跳ねたりしていると、「子どもは、あ~は~、ママは僕が○○すると困るんだ。」「うれしいんだ。」などをカラダに刻み込んでいく。パパもおんなじだ。「パパは、○○すると困る~。」「うれしい~。」「腹が立つ~。」と気持ちを表現していると、あ~は~、パパは僕が○○すると困るんだ。ママの困るとは、また、ちがうんだなぁ。ってうすうす感じて育つ。
おばあちゃんもおんなじだ。「おばあちゃんは、あなたが○○すると困る~。」
おじいちゃんもしかり。
いろんな人の困るやううれしいや腹が立つや哀しいを聞き続けて、9年目にしてやっとピピピと脳の中の回路が一瞬でつながって、TPOという感覚が花開く。
9歳まで、待とう。
マジ、九つまで待とう。
それまでは、いろんな人の困るやうれしいや哀しいや腹が立つを知って、もちろん、自分もあっちぶつかりこっちぶつかりしながら、自分のうれしいや困るや腹が立つや哀しいを体験しつくして、迷惑をかけないというTPOと上手に甘えられる(困ったときは助けてもらうチカラ)が、自然と身についていく。
9歳まで・・・。
いろんな人の、困るを聞いていくうちに、自然としつけられていく。そして、○○さんちの○○ちゃんという個性ができあがっていくとともに、らしさが形作られていく。
ところで、1回、困ると叫んだから、すぐ、困ることを止めてくれるなんてことは、ない。
だって、自己主張したくってうずうずしているんだもの。
だけど、思いっきり自己主張できたら、時には、困るって言っていたっけ?と思い出し、困ることを止めてくれたり、お片づけをすんなりしてくれることもある。
どっちにしても、幼い子どもの記憶が持続するのは、4歳過ぎてからと言われているので、4歳くらいまでは、『あんなに言ったのに・・』とか『あの時、約束したのに・・』と憤るだけ損だ。エネルギーの無駄遣いかも。
まぁ、9歳(ツのつく時期)までは、ときどき気分でしてくれてラッキーくらいな構えでいるのが、子育てでイライラしないコツといえよう。
つぎは、『けじめ・毅然としたママ』 です。
うれしいことも哀しいことも腹が立つこともルンルンすることも・・・・全部体験したくてこの世にやって来たそうな。
うれしい気持ちも哀しい気持ちも怒りの気持ちも楽しみワクワクする気持ちも・・・とことん味わいつくしたい・・・というのが、魂の言い分なのだそう。
哀しいことや腹が立つことなんて苦しいだけで味わいつくしたくもないけれど、十分に味わいつくすと光が見えてくるかもしれない・・・気がする。
何でも、体験してみないとわかんないよね。
小さい頃から、なんでもとことん体験させてもらえていると、『自分』の輪郭が明確になってくる。自信がついてくる。
とことんしている中で、こうすれば痛いとかこうすればうまくいくとかこうすれば気持ちいいとか・・・試行錯誤を楽しくやっていく力もついていくはず。
2~3ヶ月の赤ちゃんに手袋をさせているママの、その理由は、もし、目に指が入ったら心配だから。これを、本末転倒っていう。2~3回目に指を突っ込んで痛い思いをして初めて、目に指を突っ込まなくなるよう筋肉の動きがとれるようになる。つまり、器用になっていく。
6~7ヶ月の赤ちゃんには、やけどしない程度にアイロンを熱くして、触らせて、ちょこっとアッチッチ体験をすると用心深くなる。
前にも書いたけれど、おもちゃも取られてみないとその気持ちに気づけない。
取られて、取られたときの気持ちを十分堪能させてあげよう。そこからしか、取り返す勇気は溢れてこないのだから。
三男が2歳の頃、はさみに興味を持ち始めた。
よく、カーテンを切って困るという訴えもある。
まぁ、カーテンだと困るよね。
困るときは、正直に、「困るからやめてぇ~。」と叫ばなくっちゃ。
いくら、とことん体験と言っても、本当に困ることは、時と場合によるいうことも体験しなくちゃね
再生不可能なものは、困るよね。よほどお金持ちでないかぎり。
それと、命にかかわるような危険なことも困るよね。
我が家のルールはあった方がいい。
子どもにとって、無制限というのも困るのだ。
大まかなルールの中で、とことん体験できると、そこから、個性という輪郭が形成されていく。○○さんちの○○君という個性が・・・。個性は、おお~きな枠組みの中でとことん自由に泳がせてもらうことでできあがっていくもの。
ところで、はさみに興味を持ち始めた三男は、ざくりとあるものを切って、それがとっても面白くって、どんどんどんどんザクッザクッと切り始めた。
あるものとは、自分の髪の毛のこと。
何分、鏡を見てかっこよくなりたいというような気持ちは、まだ、芽生えていないし、手も不器用なので、同じところだけをザクザクきり刻んでしまって、円形脱毛症のようになってしまった。
それを見た義理の母が、「そんなことしたら、もう、いっしょに自転車になんか乗せてあげないからね。」と、本当は、母親である私に文句を言いたいところだが、それもできず、まだ、2歳の三男に怒っていた。隣に私もいたけれど、しれ~っとして、「あの、ざくっとした音がおもしろいんでしょうねぇ。あ~はっはっ!」と笑ってこたえた。
わたしには、証拠写真がある。
私の小さい頃の白黒写真。
これがあるかぎり、しつけは厳しくしないほうがいい、否、しなくても大丈夫なんじゃないかとしみじみ思うのだ。
その、証拠写真とは、
昔の家は、縁側があって、ず~っと障子が続いている感じ。私は2歳か3歳って頃だと思う。そのず~っと続いている障子のすべてが破れていて、私は、そこで背伸びしてブスッと指を突っ込んでいるという構図の写真の主人公だった。
画面いっぱいブスブスと破れた障子の真ん中で、私はとっても自慢げに背伸びして、ブスっと一刺し。
『ヨッ!日本一!!お見事!!!』とほめてあげたくなるくらいな映像だ。
この証拠写真があるかぎり、我が家の障子が破れようが、ふすまを破ろうが、怒れない。
それでも、頑張って、家を建てて5年くらいは、大晦日に障子の張替えをやったけれど、張り替えても張り替えても穴ぼこぼこになるのであきらめた。今は、カーテンでがまんしている。
ふすまもしかり。
ふすまの場合は、幾重にもなっているので、最初は、ビリビリが面白くってはがしていたけれど、少し大きくなると、父親に怒られて言い返せなくて腹が立つとビリビリ、ビリビリとやっていた。どの子も・・・・・。
あの証拠写真があるかぎり、私は怒れない。
し、
不安にもならない。
つまり、ここでちゃんと叱らないと将来とんでもない子になるんじゃないかという不安は、全く 『ない』。
しつけなきゃという呪縛は、このまま黙って見ていたらまともな大人に育たないんじゃないかという不安に起因している場合が多いと思う。
大丈夫。大丈夫。
今の私は、その正反対のために去年大病を患ったのだから。
50歳を迎えて、私の人生の終盤の課題は、『わがままに生きる』・・・だ。
それにしても、あんなに伸び伸びと育ったはずなのに、どうして、言いたいことが言えないような人間になってしまったんだろう。
つづく
しつけは、そう厳しくなかった。けれど、母親の何かに洗脳されたのだと思う。
まぁ、しつけも洗脳の一環ではあるとは思うけど・・・・。
だって、インドに行けば、手づかみで食べるのが当たり前だし、結構、床に皿を並べて食べている。日本だと、『犬じゃないんだから』と怒られる。
お国が違えば、正しいことも間違いとなるのだから、人と違っていても『別に・・・どうでもいいんじゃない?』とこだわらなくなるんじゃないかなぁ。そういう意味で、国際交流っていいよね。
ただ、日本人らしさってあってもいいと思う。
着物を着て、犬みたいに食べるより、しんなりおしとやかに食した方が、やっぱり美しいと感じて、気分よくなる。
らしさの強要はいけないと思うけれど、らしさの姿が美しいと人に幸せを与えるものなので、らしさも好き。国際化の中で、外国の人が日本に求めるのは、日本人らしさ。らしさに正しいも間違いもないけれど、らしさという異文化は国際人として求められている。
○○さんちの○○ちゃんという『らしさ』が、日本人らしさの基盤になる。
その○○さんちの○○ちゃんは、どうやってらしくなっていくと自然かなぁ~。
私は、まず、ママが、きちんとしつけなきゃと頭で考えて叱るのではなく、ママがされて困るときに、『困る~。』と叫ぶことのくり返しでらしくなって行くのではないかなぁと思う。
「あなたが、こんなに散らかすとママは疲れがどっと出てイライラして困る~~~~~~。」などと困ることを訴え続けていると、『あ~は~、ママは、私が○○するときついのね。いやなのね。」とわかるようになる。別に、非難されているわけではないので心が傷つくこともない。あんまり疲れてどうにかなりそうなときは、叫べばいい。叫んでいると、なんだかスッキリしてくるから不思議不思議。「ママは~」とママを主語にしているかぎり、子どもの心を傷つけないのだ。だから、安心して叫べる。ギャーギャー言える。そして、ギャーギャー叫んでいるうちに、なんだか自分のことが好きになってくるから一石二鳥だ。
子どもって存在はありがたいよ。
職場では、とても言えないセリフや醜態を全部さらけ出しても、子どもは受け入れてくれるもの。
「ママは、あなたが○○するとうれしい~。」「腹が立つ~。」「哀しい~。」「幸せ~。」そして、「困る~。」「助かる~。」などなど、語ったり叫んだり飛んだり跳ねたりしていると、「子どもは、あ~は~、ママは僕が○○すると困るんだ。」「うれしいんだ。」などをカラダに刻み込んでいく。パパもおんなじだ。「パパは、○○すると困る~。」「うれしい~。」「腹が立つ~。」と気持ちを表現していると、あ~は~、パパは僕が○○すると困るんだ。ママの困るとは、また、ちがうんだなぁ。ってうすうす感じて育つ。
おばあちゃんもおんなじだ。「おばあちゃんは、あなたが○○すると困る~。」
おじいちゃんもしかり。
いろんな人の困るやううれしいや腹が立つや哀しいを聞き続けて、9年目にしてやっとピピピと脳の中の回路が一瞬でつながって、TPOという感覚が花開く。
9歳まで、待とう。
マジ、九つまで待とう。
それまでは、いろんな人の困るやうれしいや哀しいや腹が立つを知って、もちろん、自分もあっちぶつかりこっちぶつかりしながら、自分のうれしいや困るや腹が立つや哀しいを体験しつくして、迷惑をかけないというTPOと上手に甘えられる(困ったときは助けてもらうチカラ)が、自然と身についていく。
9歳まで・・・。
いろんな人の、困るを聞いていくうちに、自然としつけられていく。そして、○○さんちの○○ちゃんという個性ができあがっていくとともに、らしさが形作られていく。
ところで、1回、困ると叫んだから、すぐ、困ることを止めてくれるなんてことは、ない。
だって、自己主張したくってうずうずしているんだもの。
だけど、思いっきり自己主張できたら、時には、困るって言っていたっけ?と思い出し、困ることを止めてくれたり、お片づけをすんなりしてくれることもある。
どっちにしても、幼い子どもの記憶が持続するのは、4歳過ぎてからと言われているので、4歳くらいまでは、『あんなに言ったのに・・』とか『あの時、約束したのに・・』と憤るだけ損だ。エネルギーの無駄遣いかも。
まぁ、9歳(ツのつく時期)までは、ときどき気分でしてくれてラッキーくらいな構えでいるのが、子育てでイライラしないコツといえよう。
つぎは、『けじめ・毅然としたママ』 です。