佐藤優さんとは、昔、鈴木宗男国会議員の秘書官?で、収賄事件か何かの罪に問われ、官僚を辞めた方である。
その方の記事が、朝日新聞に掲載されていた。
友人について
凄い方だったので、すごい方との交友関係もすごかったそう。300人くらいの凄い方との親交があったと。
しかし、あの事件の後、ほとんどの友人だと信じていた人が去った。その時、僕の元から去っていかなかった友人は、たった3人だったと。
あと1年で、私も退職という年齢になった。
そして、ふと思う。
私は、職場に気心知れて何でも話せる友人は一人もいないなぁ~と。
公務員として、全うせんとしている人たちに、私自身がシンパシーを感じにくいかなぁ。面と向かって、私に、公務員を辞めた方がいいんじゃない?って言われたこともある。
私が、直面してきた様々な問題に共感してもらえ、一緒に前を向いて行こうよって励まし合えるような出会いがなかったかなぁ。ほんとうは、みんなそれぞれいろんな悩みを抱えていると思うけれど、私と同じような悩みを抱えて、共感しあえるような人との出会いが、職場にはなかった。
35年もいて、一人もいないなんて、寂しい。
別に、職場なんだから・・・と自分に言い聞かせても、隙間風がスーッと吹く。
一つには、私が、子育てでずっと忙しかったからという言い訳もないではない。だって、43歳で四男を産んで、30年子育てに従事していることになるから、介護が始まるまでの自分の時間を持つことができなかったもの。今や、認知症レースの走者である母と姑と四男との関わりにアフターファイブを費やす日々。
学生時代からの友を大事にしよう。
そして、四男のおかげで出逢えた菜花聡先生の教え子たちである心の友のメンバーを大切にしよう。
そしてそして、数少ない滅多に会えないママ友を大事にしたい。
それにしても、佐藤優さんのような凄い人が、最後はたった3人だったという言葉が胸に響く。
おそらく、嵌められた罪だったと思う。しかし、佐藤はやっていないと信じてくれた友人が3人だったということだ。
私が、やってもいないのに誰かが私がやったと嵌めた時、私はやっていない。そんな人じゃないと信じてくれる人こそ、友人なのだと思う。
人のうわさ話を信じない。
自分の目で確かめられることだけを信じる。
当事者しか真実はわからない。
という基本スタンスで物事を観れる人って、案外、少ない。
うわさ話が好きな人、人の悪口や陰口を言ってしまう人、人を批判する人(正義を翳して、誰かを相手を糾弾する人)、苛める人などなどは、おそらく、自分の目で確かめるまで信用しないという感覚がきっとないんじゃないだろうか。
おそらく、人のうわさ話が好きな人って、本当は不幸なのではないかと思う。幸せな人は、自分を大切にすることに時間を使うから、人のうわさ話に時間を割く暇がない。人のうわさ話に花を咲かせる人たちは、人のうわさ話で憂さを晴らすことが優先順位で高いか低いか・・・。
最近、ふと思う。
不幸な人って、不幸な出来事がいっぱいある人ではなく、自分だけがこんなに不幸なんだと思い込んでしまう傾向のある人なのではないかと。
愛咲くらも、結構、めいっぱい、不幸の嵐の中を生きてきたと思う。『くそ、不幸でこの人生終わらせるわけにはいかない。ぜっていシアワセになる。』と自分に言い聞かせて、遥かなる灯台の灯を目指して生きてきた。
この『自分が一番不幸』という思考で、物事を観ている人たちは、例え、当事者が目の前にいて真実を語っても、頭にその通りの言葉が入っていかないような気がする。共感ができにくいんじゃないかと想像する。だって、自分が一番不幸だから。自分より不幸な人が目の前にいても、自分が一番不幸だと思い込んでいるのだから、目の前の不幸な人の辛い気持ちにも共感できずに、歪んで捉えてしまうと思う。『へ、何言ってるの?私の方がもっと不幸なんだから。』という気持ちが根底にあると、共感ができない。普通は、同じような境遇の人とは分かり合えるという点で、共感しやすいはずなのに・・・。そして、『あ~、わたしだけが大変なんじゃないんだ。みんな大変なんだ。』とい気づいた瞬間、心のもやもやがスッキリして、生きる勇気が湧いてくるってもんだ。
意地でも、自分が一番不幸だと思う思考回路が身に着いた人なのだろう。
自分が一番不幸だと思い込むことのメリットって何だろう?
小さい頃から、そう思い込むことで自分を救う何かがあったから、そういう思考になったはず。思考の生活習慣病だ。
おそらく、不幸な出来事があった時に、かまってもらえた?振り向いてもらえた?その時に、快感ホルモンがドバっと放出されたのかもしれない。
病みつきになった?
子育てで用心しなくてはならないことがある。
乳児期から幼児期にかけて兄弟を育てる時の注意点。
どの子も、ママの椅子取りゲームにおいてはライバルだ。24時間待ったなしの非常に過酷なレースを無意識の世界では闘っている。オンギャーと産まれた時から、ママしか観ていない。ママを振り向かせるためだったら、何だってする。
ママの気を引くためなら何だってする。
それが、いけないことであっても・・・・だ。
今まで、いつもお兄ちゃんにばかり、ママの心の目が向いていたのに、ある時、めっちゃ騒いだら、ママがめっちゃ怒った。=振り返ってくれた。
という体験をした。
その時から、騒ぐ子になる。
だって、騒ぐとママが怒ってくれる(振り向いてかまってくれる)。
ママというだけで、その子にとっては、ママに見捨てられたら生きていけないということそのものこそが人質なのだ。虐待されている子ほど、ママにしがみつくと言われている。だって、24時間、いつママに見捨てられるやもしれないという不安と背中合わせに生きているから。ママから離れない。
幼児期までは、ママは、マイナスなことやネガティブなことで振り向いてはいけない。怒ってはいけない。気にしたらいけない。
よほど危険でないかぎり、必死でがまんして、しれーっとしとくに限る。その代わり、プラスなことの時に、うれしい~っと抱きしめる。
しかし、ここで、あまり、褒めすぎてもいけない。淡白に褒める。
でないと、褒めてもらうために無理してしまう子になってしまうから。ママに褒めてもらうために、ママを喜ばすために、したくもないことをする子になってしまうから。
したくもないことをしているという自覚なしに。
この時点で、この子は、自分らしく生きる道を封印する。そして、認知が歪む人の基礎工事ができてしまう。だって、自分の本心を捻じ曲げなきゃ、したくもないことをしたいことにするという180度ひっくり返すような至難の業なんてできないから。
いい子と呼ばれる子どもたち
褒めすぎは、条件付きの愛。
わかるよね。こっちの思い通りにしたくて(いい子で手のかからない子にしたくて)やや誇張して褒めるっていう感じ。人を操作せんとしている感じ。世間では、『おだてる』という。
頭を経由して褒めてはいけない。何度も言うけれど、子育ては、なるべく、頭を経由しない方がいい。
なので、指しゃぶりとか爪かみとかめっちゃ気になるけれど、ママは振り向かない。しれっとして、それよりも、寝る前に、目と目を絡めて大好き光線を大量に浴びせちゃおう。
児は、ママを振り向かせるためだったら、何だってする。
マイナスなことで病みつきにさせない。
不幸な体験が、ママを振り向かせる(かまってもらえる)というシアワセな体験となる不幸。
兄弟仲が悪いというとき、それは、ママの無意識の注目に偏りがあったせいかもしれない。
日頃、ママの注目が他の兄弟にあると薄々感じていて、世話はしてもらうという意味では、かまってはもらっているけれど、心の視線的にはかまってもらえていないと無意識で感じていた子どもが、騒ぐとママの注目を浴びる体験に味を占めて、それ以降、きかん子になっていく。きかないから、怒られてばかりになり、勉強とかに気持ちが行かず・・・。
結局、自分の人生を台無しにしてしまう。
兄弟を育てるって、至難の業だと痛感する。
改めて、四人の男の子を育てたけれど、今、これを書いていて、3男の姿が思い浮かんだ。
ところで、どう考えても、日本に生まれたということだけで、幸せだと思う。
香港に生まれた人達は、言論の自由のない、情報操作の激しい中国に生まれた人たちよりも不幸に思う。だって、言論の自由を保障されて育った人たちが、突然、その自由を奪われ、もしかしたら、一生、かごの中の鳥になるかもしれないとしたら、人生、ケセラセラだ。もちろん、今の日本だって、言論の不自由はある。あるにはあるけれど、『武漢日記』の内容レベルで国が介入してくる中国という国は、言論の自由の欠片もない。中国政府(武漢市行政)は、初期のコロナ感染症患者発症時、ほんとうはヒトヒト感染はあったのに『ヒトヒト感染はない』と中国だけでなく、世界に発信し、しかも、最初に、ヒトヒト感染の可能性を発信した医師を拘束した。武漢日記の著者、方方さんは、その時の隠蔽により初動が遅れたことで、何万人もの武漢市民が命を奪われたことについて当局に対して、謝罪とそれなりの責任を取ってほしいと訴えていた。方方さんの友人である多くの医師たちも『ヒトヒト感染はない』という当局の発表を信じて、防護服もつけずに、マスクもつけずに、押し寄せてくる患者たちの対応に追われ、コロナに感染し、死んでいった。方方さんにしてみれば、無念の一言に尽きるだろう。
こんな風に言ったら香港の若者に対して申し訳ないと思う。
ただ、いろんな不幸が降ってくるたびに、そんな香港の若者たちの苦悩に比べれば、私のこの不幸な出来事は、私の対処の仕方でどうにかなるのだから、嘆く資格もない・・・と思いとどまり、自分は不幸だと思い込む罠にはまらずに済んだ。
私が一番不幸だと思い込んだいる人には、この香港の若者たちの姿がどう映っているのだろう。
きっと、やっぱり、自分の方が不幸なんだろうなぁ。
人のうわさ話や悪口が好きな人たちは、本人は気づいていないけれど、人を貶めて、憂さ晴らしをしているという点できっと、シアワセではないんじゃないかな?
憂さ晴らしは、自分も他人も傷つけないようなものをチョイスできるにこしたことはない。
見渡すと、多い。
人の陰口を含んだ会話を共有するという仲良しな人たち。
きっと、そんな人たちも、物事を見るときに少しバイアスがかかっているような気がする。
もちろん、私だって、きっと、しっかりバイアスがかかっているはず。グレイな心で生きてきたと自負している。うん?自負とは言わないか・・(笑)。
しっかり、ちゃっかり、損得勘定しちゃうし、条件付き行動だらけ・・・。ただ、そんな自分がイヤでイヤで、もがいてきた。
あ、そうか。私は、そんなもがいている人と友だちになりたいんだ。
今、気づいた。
もがいている人を探しているんだ。
もがいている人と共感して、勇気をもらいたいんだ。
自分は一番不幸だと思い込んでいる人たちは、もがいていない。
人のうわさ話陰口が好きな人は、もがいていない。
もがいていない人は、おそらく、相手を歪んで見る傾向があるかもしれない。
もがくって、しんどいもん。自分のダークな心を直視しちゃうからこそ、もがくんだから。
世の中、ごくごく幼い頃、ママ争奪戦で、自分の本心を無意識の世界に封印して、物事を捻じ曲げて認知する道を選んだ人たちだらけだ。きっと・・・。
ほぼ、100%そうかもしれない。
だって、躾という言葉が幅を利かしているもん。幼児期のしつけなんて,子どもの芽をつぶす兵器みたいなものなのに。
何度も言う。乳幼児期の子どもは、ママに見捨てられたら生きていけないので、24時間ママしか観ていない。なので、ママの後ろ姿さえ、まぁまぁ、まっとうなら、思春期を乗り越えた時には、ママレベルのTPOはしっかり受け継がれる。ママが、見本。
そんなこんなで、佐藤優さんから離れていった293人の友人たちは、おそらく、もしかしたら、乳幼児期に自分らしさを封印した人、もしくは、封印した心が疼くことなく、あるいは、疼いたとき、憂さ晴らしで生きている認知に歪みのある人たちだったのかもしれない・・・。
それくらい、自分を直視することって心が引き裂かれるほどの苦しさを伴う。だって、今までの自分をほぼ全否定するってことだから。
昔、子どもの心理カウンセラーのS先生が、『夜泣きする赤ちゃんは、ただただストレスを発散したいだけなので、ママは、泣いていいよ、泣いてスッキリしようね。と応援しながら、まあるく抱っこして、おんおんと泣かしてあげましょうね。と助言しても、ママが苦しくなってどうしても抱っこできないママがいます。そういうママは、幼い頃、親に泣いたらダメというメッセージをもらっていて、泣くこと(=自分らしくあること)を封印して生きてきた人。だから、泣いていいよという言葉は、封印した古傷が疼いてしまって、苦しくなって、抱っこできないんです。』とおっしゃった。
それくらい、乳幼児期って重要。
ふと、みんな、乳児園に出す時代になったことが、少し、ひっかかった。24時間ママ争奪戦とは違う世界で乳幼児期を過ごす人口が増加しつつある。
乳児期は、だいたい一人の保育士が3人を受け持つという。保育士争奪戦で生き抜く知恵に磨きをかける子どもたちが増えていくのだろうか。だとしたら、乳児園の保育士さんたちよ。どうかどうか、マイナス的なことにかまわないでいてください。褒めすぎないでいてください。
ところで、産後うつとかになってしまった人を救う一つの手段として、7人くらいのグループでのピアカウンセリングがある。