ひょっとして、この世に生を受けた意味の究極は、怒らない人間になってあの世に旅立つことなのかもしれない。
と、アルボムッレ・スナマサーラさんの『怒らないこと』を読んで、ちょっぴり悟った。
他者という存在とどう生きるか?
いたら心を悩ませるけれど、だからといって一人で生きていくことなんてできやしないのが人間。その他者との関わりに翻弄されて喜んだり、傷ついたり、憎んだり、嫉妬したり、優しくしたり・・・。
スナマサーラさんは、この悩ましい他者という存在の視点を、コペルニクスの天動説がごとく、がらりと変えてくれた。
それまでは、太陽が地球の周りを回っていると信じられていた。しかし、コペルニクスは、天動説ではなく、地球が回っているという地動説を説いて罰せられた。
私という人間の心なるものは、他者の言動やオーラ次第でいかようにも料理されてしまう。こんな悪魔のような言葉を発するなんてかわいそうな人だわと頭では思っても、心はしっかり傷ついてしまう。
しかし、スナマサーラさんは、こうおっしゃる。
『みんなわがままなはずなのに、いろいろと私に協力してくれるものだな~。』
感謝とは、『そうか。みんなエゴイストなんだ。』と正しく知れば、『それでもやってくれるのはありがたい。』と自然と思えてくるときの気持ちなのだそう。
してくれて当然だと思っていると、してくれないと怒りが湧いてくる。
でも、みな自己中なんだから、してくれなくて当然だと思っているならば、たまにしてくれたら、ありがたいって思えるだろう。
他人をあてにしないという生き方上手。悪くないかも。
他人をあてにしないとは、つまり、依存しないってことだ。
『自分がしたいからする。ただ、それだけ。だから、周りがしてくれなくてもど~ってことない。最初から、期待していないんだから。』という意識で、日々の生活にチャレンジしてみる。それを毎日、365日続けていけば、少しずつ、人をあてにしなくなる境地に近づいて行けるような気がする。あてにしたけれど、そうしてくれんくて傷つき、モヤモヤした気持ちを抱えて生きて行ってしまう。このモヤモヤ、怒りの親戚らしいから、不幸の種になりかねない。やばいやばい。
そう考えると、『察する』とか『空気を読む 』ってどうよって感じになる。いえいえ、その人が、好きで察したり、空気を読んだりするのは全然OKだし、ウエリカム。でも、空気を読むのが苦手な人に、空気を読めと押し付けたり、非難するのはお門違いかもしれないと思えてきた。KYという揶揄こそ、自我の病。
ひょっとして、ひょっとして、空気を読めない人や察することができない人って、この世の救世主になるかもしれないって思えたり。というか、空気を読めなくても察せられなくても平気な人は、形だけなのに、察することを、あるいは、空気を読むことをよしとするような批判する人たちの同調圧力にも屈しないありがたい存在なのだ。きっと・・・。
私も、しっかり、自我の病にかかっている。
あの人、気がきかないよねぇっていう言葉を発したことがある。
ヤバイ。
気が付いた私がやればいいだけだし、気が付いてもやりたくなかったらやらなければいいだけの話じゃん。何事もワタシ次第。
この世が、心の底から察することが幸せな人と、察することができなくても全然平気な人だけなら、おそらく、争いは減っていくと思う。逆に、この世から、察する力はあるけれど、ほんとうはしたくないのに、周りの目を気にしてやってしまう人たちのモヤモヤこそ、争いの火種になるような気がする。
実は、夫婦の『家事育児問題』とか『協力じゃないでしょ、あなたの子でもあるでしょ問題』にも、この自我の病が大きく関与してるんじゃないかと思えてきた。