総合漢方にんぷ薬・総合漢方育児薬

~頭を使ってではなく、カラダ(感性)で子育てしてみませんか~

宇宙人にふさわしい人を育てる企画書

2018年12月29日 | エッセー
 お~~。
 なんと壮大なる企画。
 自分は宇宙人にふさわしい人間性を持っていないにも関わらず、こんなアンビリーバブルな企画を考えるなんて、我ながら、ぞっとする。

太陽系のほかの惑星に住む人間たちは、お互い協力しあっているという。土星が作った母船に金星人がパイロットとして乗船していたり、逆もまたあるという。地球の人間だけが、ねたみ、権力欲、所有欲などに人生を振り回されている幼い人間性なので、どうやら蚊帳の外らしい。ほかの惑星の人間たちは、地球の人間の心を進化させ、他者への奉仕に生きる喜びを感じ、お互いに支えあうという福祉の理想郷のような地球にどうにかなってほしと切望しているのだそう。
ただ、頻繁な核実験による放射能は大気圏を突き抜けて宇宙まで影響しそうな勢いであるため、事態は深刻であると。宇宙のために、地球の人間たちを滅ぼすことは発達した技術を持つ宇宙人たちにとって可能であるが、人間性の発達したほかの惑星の人間たちは、そんなことは絶対しないと。この本が書かれたのは、1954年の頃なので、ちょうど、核実験をバンバンやっていたころではないかと思う。この本では、いつか肌の黒い人たちが、立ち上がり、差別のない世界を目指さんとするときに、地球人の人間性が進化するだろうと書かれてある。
 今の各国の指導者たちの人間性はいかがだろうか。
 
 もう少ししたら、人間性豊かな指導者が現れるだろうか。

 オバマ大統領は、もしかしたら、変化の第一歩を築ける人であったのだろうか。
 個人的には、その人間性はわからない。でも、そのスピーチは素晴らしかった。

 差別する心。
妬む心。
 白黒つけて批判する心。
 
 
 『あなたはあなたのままでいいのよ。』 

 わが子を育てるときに、ただただ、ぶれないで、わが子が素直でいい子でない時にこそ、このメッセージに照らし合わせて、無条件の愛をどれだけ提供できるか・・・・と常に自分に問い続けていく。
 ただただ、そのことだけに心を定めて、子育ての悩みを話し合っていこうというような風潮が、世間に蔓延すれば、きっと、世界はがらりと変わっていくだろうなと思う。
 世間の目を意識しすぎて、あるいは、子どもをいい大学に行かせることが勝ち組みたいに感じてしまうこの世において、『あなたはあなたのままでいいのよ。』という子育て観をぶれずに持つことは、至難の業で。大体、自分自身が『あなたはあなたのままでいいのよ。』というようなまなざしで育てられていないから、見本もないし。

 でも、訓練されていない親も、もし、オンギャーと生まれてから、、乳幼児健診や保育園、小学校、中学校などの集いの場で、本音で語れるような雰囲気の中で、いろんな子供の問題行動と言われるような悩み(本当は問題行動なんかじゃちっともないんだけれど)を出し合って、その問題行動を起こしたときに、親が『あなたはあなたのままでいいのよ。』という視点で、見守る力をつけるためのお話合いができれば、学びが深まっていくんじゃないかなと思う。結果、相対的に、子どもたちの心の中に、妬む心や陰口悪口など批判する心やいじめる心は減っていくはず。
 まずは、いいお母さんになりたいという想い野ある人達から、輪になって・・・・。

 実は、おんぎゃーと生まれて、お腹が空いているわけでもないし、おむつも不快ではないのに、赤ちゃんが泣いたとき、あやすことが、『あなたはあなたのままでいいのよ。』という視点から言えば、すでに、否定されているんです。赤ちゃんは、『泣いたらダメ。』あるいは、『ママは泣く子はきらい。』と受け止めるんです。ただただ、泣いてすっきりしたいだけなのに。最初のうちは、あやされてもあやされても、泣いてすっきりしたいから、頑張ってぐずったり泣くんだけれど、
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聖夜と宇宙人

2018年12月24日 | エッセー
 明日は、クリスマスイブ。
 今年のクリスマスイブは、今までのお祭りクリスマスイブという感覚とは、180度変わって、心から、イエスへの感謝と畏敬の念をもって迎えられそうで、うれしい。
 私にとって、キリスト教はわからない世界なので、『いい子にしてたら、サンタさんが贈り物を届けてくれる。』というメッセージが、どうも、大人の都合のいいように仕立て上げられたイベントのようで、苦手だった。しかも、キリスト教徒でもないのに、便乗しちゃっているという敬虔な宗教心を汚しているようで気がとがめた。まぁ、そうはいいながらも、神様はそんなわけ隔てるようなことはされないだろうとは思いつつ。といいながらも、一応、子どもたちには、事前にばれないように、リサーチしていたけれど。一応ね。

 でも、今年は違う。

 図書館のおかげで、聖夜な気持ちでイブを迎えられそう。

 先週の日曜日に、いつものように、図書館へ行った。
 心関係の本の棚の一つ手前の棚をちらっと見た。そこは、科学とか物理関係の本のコーナー。いつもなら、素通りするのに、なぜか、立ち止まってしまった。そして、何気に見た『第2惑星からの地球訪問者』新アダムスキー全集    というタイトルが気になった。
 パラパラとめくると、目の前で写したと思われる円盤の写真や神々しい雰囲気漂う金星人のスケッチなどがリアルな感じで、私の心に迫ってきた。

 今まで、YFOとか否定はしないけれど、肯定もしない感じで生きてきた。こんな広い宇宙なんだもの。いるんじゃないかなぁ?・・・・・くらい。
 積極的に、調べようというほどの必要性がなく生きてきた。

 でも、この本を1冊読んで、ひょっとしたら、いや、きっといると思うようになり、ふと、空を見てしまった。

 新アダムスキー全集は全10巻。そのうちの4巻は地元の図書館にあるけれど、残りの6巻がない。県の図書館にあるといいな。今年の正月は、ワクワク。
 
 あれ?
 つい先日も、誰かとの会話で「ねぇ。ワクワクすることってある?私は、人生、ワクワクしたことって、片思いでその姿を一目でも見れた日のワクワク以降、あんまりない。どうしてかなぁ?ディズニーランドに行っても、心からはじけるってことはなかった。美味しい料理を食べに行くと言ってもねぇ。なんだか、また、行きたくなる、ワクワクというお店がなかなかない。それよりも、新緑燃える山川などの自然の中で飲む淹れたてのコーヒーの方が魅力的。」なんて会話をしたばかり。
 そんなワクワク不足の私が、今、アダムスキー全集を読みたくて、ワクワクしているかも。

 ジョージ・アダムスキーさんが、宇宙船に連れられて、もちろん、その内部の描写もびっくりだし、宇宙の仕組みの説明もびっくり。でも、一番の感動は、何もかもが神々しいということ。テレパシーで通じるので、邪な心を持とうにも持てない。つまり、金星人も土星人も火星人も人を貶めようとかいじわるするとか権力欲とか物欲がない。ただただ、他者への奉仕の喜びに包まれているような人達ばかりであるという。最近の地球のリーダーは、経済戦争の勝者にならんとやっきになっているトランプさんみたいな人が増えてきている。そして、核爆発が勃発したら地球は終わりだという危機感漂う世紀末のにおい。世界はどうなるのだろうと感じる日々に、一筋の希望を感じた。

 批判したいなら、まず、この本を読んでからしてほしい。
 地球の未来は、決して、暗くはないと感じさせる素敵な言葉が散りばめられたこの本は、私にとって、まるで宝石のよう。

アダムスキーさんが、最初に出会った宇宙人の描写
 相手の容姿の美しさは、私がこれまでに見た何者にもまさっていたし、その顔に浮かんだ愉快そうな表情は、私の個人的な自我に関するあらゆる考えを忘れさせてしまった。偉大な知恵と大いなる知恵を持つ人の面前にいて、私は幼児のように感じ、心中ではまったく謙虚になってしまった・・・・なぜなら、相手からは限りない謙虚さとともに無限の理解力と親切さのフィリングが放たれたからである。

 そして、聖夜について。

 地球人は、太陽系の惑星の中で、人間性が一番成長発達していないのだそう。
 というか、惑星の中で、どうしても他者への奉仕の喜びの中で人間性を成長発達せんとしないような人間が送り込まれたのが地球なのだそう。
 内心、げ、そうなの?私の祖先は、DNAとして、嫉妬、ねたみ、権力欲、物欲を持っているんだ。残念。

 嫉妬、ねたみ、権力欲、所有欲により戦争を繰り返し、ちっとも人間性が成長しない地球に救世主として送り込まれた勇敢なほかの惑星の人間の一人が、イエスだったと。

 え~~~~~~~~。そうだったの。

 これで、合点がいった。
 マリアは、どうして懐妊したのか。
 イエスはマリアと誰の子なのか。
 
 もう、そこで、信じられないから、キリスト教にそれ以上の関心を持てなかった。


 多くのパイロットや一部の政府の要人、そして、一部の一般人たちは、YFOの存在を知っているという。パイロットたちは、地球の上空をずっと飛んでいるのだから、円盤と遭遇する機会も一般人より多いに決まっている。
 ずっと、疑問に思っていたことがある。
 それは、アポロが月面着陸してからすでに、40年以上経っているのに、どうして、その後、月に行かないのだろう?という疑問。
 AIまで技術が進んでいるのに、おかしい。
 もしかしたら、あの月面着陸のときの映像以外に、衝撃的な遭遇をしていたのかもしれない。しかし、それは、あまりにも衝撃的過ぎて、地球を混乱させると判断し、ごく一部の人たちのトップシークレットとして、時がくるまで封印されているのかもしれない。
 この本には、そのことも書かれてあった。月にも人間が住んでいると。ほんの少しだけれど大気があって、人間の身体は順応性が長けており、肺はわずかな大気でも生きていけるようになれるのだそう。

 zozoタウンの前園さんやホリエモンさんは月に行きそうな感じだけれど、もう少ししたら、コペルニクスなみの衝撃的発言を前園さんから聞くことができるかもしれない。

 でも、どうなんだろう。

 嫉妬、ねたみ、所有欲や権力欲って、誰の心の中にも潜んでいる。
 見返りを求めす、困っている人のために奉仕し続けることができるような人って、ほんの一握りだと思う。
 宇宙にとって、荒くれものを送り込んだ先が地球なのだから。
 しかも、戦争は繰り返され、人間性は進化どころか後退しているかもしれない。

 まだまだ、未熟な人間性(宇宙人と接したアダムスキーさんいわく、地球人は宇宙人と比べると幼児であると・・)の地球人を月面着陸させてくれるかなぁ。阻止されちゃうかもしれないね。

 アダムスキーさんは、宇宙船に乗っている金星人、土星人、火星人一人ひとりのオーラが謙虚とやさしさに包まれており、さらに、宇宙の真理について説かれるマスターのオーラは、ただただ畏敬の念しか抱けないほどの神々しさで、うっとりとした幸せに包まれ、ずっと、ここにいたいと思わせるほどの『場』だったとおっしゃている。

 人間として尊敬できる人のそばにいられることほど、幸せなことはない。
 しかし、なかなかそんな人はこの世にいない。

 四男がよくつぶやく。
 この町のおじちゃんおばちゃんは、すぐ学校に通告する嫌な大人ばかり。尊敬できる人がいないよね、この町は・・と。
 『保護者の中には、クレーマーみたいな人がいるから、直接叱れなくなってしまったんだよ。」と、一応、言ったけど、確かに、見渡しても、あたたかいまなざしに包まれたような方に出会うことは、まず、ない。
 見本がない。
 1年前に、わが町に居酒屋を開店して、黒字だったのに店を閉じたという男性が、その閉じた理由を教えてくださって、愕然とした。
 カウンター越しに聞こえてくる、地元の女性たちの人の悪口が半端なく、聞いていられなくなったから・・・と。
 だめだこりゃ。
 宇宙人からみたら、まだまだ、全然、宇宙に行く資格がない。
 私だって、五十歩百歩。
 でも、せめて、人の悪口陰口だけは言わないようにしよう!と心に決めた。
 
 
 きっと、イエスキリストに出会った弟子たちは、イエスの神々しさにうっとりと魅了された幸せ者だったのだろう。

 私自身、日々の生活に追われ、縛られ、残念な人間だけれども、今晩は、クリスマスイブ。人生で初めて、イエスを心から祝福する日としたい。さぁ、今から、ツリーを飾って、ケーキのスポンジを焼こう。

 

 

 

 
 
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男の子。だからこそ、

2018年12月16日 | エッセー
 男の子だから、女の子だからと決めつけるのはよくないとは思う。
 でも、どう考えても、男の子の言語発散量と女の子の言語発散量はダンチだ。
 男の子は、言葉数が少ない。言葉は要件を伝えるために存在すると思えるほどだ。
 
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神の手 脳外科医が霧島神宮にやってきた。

2018年12月16日 | エッセー
最近、私は、私の個人的な体験の集約として体系化した仮説に、日々、やっぱりそうだよねぇ~とうなづく日々を過ごしている。
 先日、私の兄弟全員が結婚式をあげた歴史ある神宮に、弟の娘のお宮参りで訪れた時、神の手を持つといわれて世界的に有名な脳外科医、福島先生の講演会のポスターが貼ってあった。講演会の日が、たまたま私の誕生日だったので、これも何かご縁と感し、すぐに、申し込んだ。四男に、一流の人に触れてほしいという母心がそうさせたのもある。 そして、当日。先生は、午前中、近くの脳外科の病院で1例手術をされ、午後からも1例予定があり、実は、今、その方の手術も始まっているので、講演会が終了したら、その足でまた、手術をされるという。先生の集中力は半端ないとびっくりした。御年74歳。アンビリーバブルである。87歳まで手術をしたいとおっしゃっていた。
 そして、待ちに待ったお話しが始まった。
 そして、終わった。
 そして、わかった。
 先生は、発達障害ではないけれど、少し、そんな感じがあるのかもしれないと。始終、動いていらっしゃって、司会者が先生に席にお座りくださいとお願いしても、座らずに、ずっと動いていらっしゃった。お話の内容も、ご自分の功績の数々と、それに対して、国も国民栄誉賞を僕に・・・・というような。ただ、それが、全然、威張っているというような嫌な感じではなく、子どもが、お母さんに褒めてもらいたいような、そんなかわいい感じだった。お茶目な先生だった。凝り性という言葉がある。おそらく、先生は。頭もよく、脳外科の手術が先生にとって最高の凝るものであったのだろうと思う。発達障害の人の中には、特化した優れた才能を持っていらっしゃる方が多いという。福島先生にとって、脳外科の手術はそれだったのではないだろうか。じっと座っていることができない先生を見ていてそう思った。とにかく、ずっと、手術をしていても、すごく楽しいおもちゃみたいなものだろうから、飽きないしずっとやっていたい…みたいな世界。

私に欠落している世界が、この世界。

 昔、凝り性の人に憧れた。日が暮れたら夜だったというような、ご飯を食べるのも忘れるくらい没頭できる趣味などを持っている人に憧れた。
 何かに熱中できない体質の私は、何かに熱中する男性に惹かれるという体質でもあったように思う。自力で何かに熱中できない自分に虚無感すら覚え、結構しんどかった。何をやっても人生が虚しかった。だから、変わった人を好きになった。夫と結婚した理由もそうであった。その当時は、結婚して足して2で割ればいいと思って、結婚したけれど、生活という側面の強い結婚というスタイルを維持するには、超凝り性の夫は不適切であったなぁ~としみじみ思う。熱中する何かがあるって素敵だけれど、寝食を忘れるレベルになると、生活者として共にする伴侶としてはふさわしくなかったと大反省。

何かに熱中して、キラキラ目を輝かせているような男性を、少年の心を失っていない魅力的な男性と勘違いして、お互いに、人間として成長していきながら、この人の夢を叶えさせてあげたい・・・・・そう思って結婚するタイプの女性が結構いるんじゃないかなぁ。私もその一人だった。つまり、ダメンズなんだけど、本当は。
 アラフォーとかアラフィフで独身という女性の中には、プラス家庭も大切にしてくれるという条件が加わって、その二つの相容れにくい条件を満たす男性に巡り合えなくて、ハードルを下げることもできずにいるという女性も多いと思う。
 夫と結婚して28年、よ~~~~~~~~くわかった。凝り性度の強い男性ほど、人間的成長なんてあまり考えたことがないんじゃないかなぁというと。人間的成長って何?って聞かれると、これも人それぞれの見解があると思う。私にとっての人間的成長って、一つは、人に寛容になれる器をどれだけ大きくできるかってこと。人間関係という研石により、人それぞれこだわるところが違うし、自分と同じように行動しない人を見ても、自分は正しく相手が間違っているというような白黒をつけないようになり、自分も含めて、人間大同小異だねっていう心境になって、切れ味のいい包丁のように磨かれていくこと・・・みたいな。そして、もう一つは、自分のやっていることで人のためにもなれるような何かを楽しそうにやっている人になれること(ウインウインでハッピーな世界の住人でいること)。
 でも、夫は、そんなことちっとも考えていない。夫の辞書に、人間としての器を大きくしたいという言葉はないんじゃないかと思えてくる。日々、自分が楽しい気分でいられること(趣味などを極めること)が一番大事で、逆に、白黒で人を見る傾向があるので、『仕事は一生懸命やるべきだ』という価値観に反する人に対する怒りを溜めやすい。人間、大同小異なのに、自分のこだわりに関しては、受け流すことができない。なので、日々、怒りを溜めこんでいく。『仕事は一生懸命やるべきだ』という価値観は、一見、聞こえがいいけれど、家事育児などの生活を大切にする価値観と相反する。だから、家事育児を軽視するし、家事育児をすることがしんどい。
 『仕事は一生懸命やるべきだ』といういうような『〇〇すべき』とか『白黒つける』傾向のある人って、結構、周りにいる。そういう人ほど、自分のことは棚に上げて、怒りを八つ当たりして発散しているなって感じる。

 


 夫をミテイテ思う。
 心がジェットコースターのように大揺れする思春期の男の子から、全然、進歩していないなと。
 つまり、良くも悪くも思春期のまんま、おじさんになる。思春期って、荒れる。揺れる。自己主張の嵐かと思うと、優しい側面も見せてくれる。ふつう、それはプロセスで、思春期の壁を乗り越えて、みな、そこそこの大人になっていく。
 思春期を乗り越えるって何だろう?
 昔、子どもの心を尊重するということにおいて、計り知れないほどに心を砕いてくださる心理カウンセラーがいらした。その方が、心の病を抱える10代後半以降の人たちに対して、『思春期の壁を乗り越えていないから・・・・。カウンセラーって、この思春期の壁を乗り越えられるよう積極的傾聴により支援していくこと。心の病は思春期の壁を乗りきれていないことから生ずるのよ』のよみたいなことをよくおっしゃっていた。
 思春期の荒れは、たぶん、おそらく、オンギャーと産まれてからの、ばらばらだった今まで体験した時に生じる様々な感情が、ブレンドされる工程なんじゃないだろうか。プラスの感情もそうだけれど、どちらかというと封印してきたマイナスの感情も表出させ、喜怒哀楽すべての感情を総決算をする最初で最後のチャンス。本人さえも自覚していなかった無意識の世界に封印してきたモロモロのマイナスな感情。だから、揺れる。大揺れする。本人もわからないイライラした感情が爆発しやすくなる。だって、喜怒哀楽の感情をブレンドして、丁度いい感じに仕上げていく過程なんだから、余分な怒りなどのマイナスの感情は吐き出さないとバランスが取れない。
 でも、もし、この時期に怒りなどのマイナスな感情をうまく表出できなかった場合、オンギャーと産まれてから思春期までの怒りなどのマイナスな感情は、どうなるのだろう?どう影響するのだろう?
 うまくブレンドされなかった・・・・とは、つまり、思春期を乗り越えていないってことになる。
 料理でいえば、砂糖・塩・みりん・酒・しょうゆ・だしなどのバランスがいいと美味しいとなる。料理も味付けには個人差があるけれど、もし、塩を入れすぎた場合、しょっぱくなってしまう。すべてのバランスが悪いと、まずい・・・となる。思春期に喜怒哀楽をうまく調理できなかった人は、おそらく、一生、そのバランスの悪い心で生きていくしかないので、不快な感情がたえずつきまとい、その不快な感情を快感にする何かを自分なりに編み出して発散していくのかもしれない。一生。

 オンギャーと産まれてから思春期までに子供が表出せんとする怒りの感情を抑えてはならない。

 あたたかいまなざしで見守ってあげることが一番。そして、可能なら、そこに、「〇〇ちゃんは、〇〇されて腹が立ったねぇ。」などと親や先生などが、そのつらい気持ちをきちんと言語化してあげることを意識した子育てをすると、思春期の感情の大揺れがさざ波程度ですむかもしれない。

 でもね。どうだろう。結構、みんな、子どもの怒りの感情を抑え込んでいるよ。
 赤ちゃんが泣いたりぐずったりするのも、怒りの感情からだって知っていた?
 
 実に多くのママたちが、赤ちゃんが泣いたりぐずったりしたら、抱っこする。横抱きにしたら、そねったり、ギャン泣きするので、縦抱きしてあやす。

 この、良かれと思ってする行為が、どれだけ、赤ちゃんの怒りを封印しようとする行為か・・・・を知らない。教えてもらっていない。
 産科のスタッフも、泣いら抱っこしてねと助言する。専門家の助言だもの、ママは信じる。

 ばあばも、かわいそうと抱っこする。
 たとえ、ばあばが、『赤ちゃんが泣くのは仕事だから、大丈夫よ。泣かせときなさい。』と言っても、専門家の言葉を信じてしまう。
 実のばあばがそうなのだから、姑なんて、何も言えない。
  


 赤ちゃんの心はどうなってる?

 ただ泣いてすっきりしたかっただけなのに、泣かせてもらえなかったという体験が怒りになる。

 この怒りの感情は、思春期まで封印される。

 そして、思春期に爆発する。矛先は、親。

 それはとてもいいことです。

 人生で最後のチャンスです。

 ここで、もし、親に矛先を向けて爆発できなかったら・・・・。

 キレキャラが定着します。

 ちょっとしたことで、すぐ怒って、キレます。
 一生・・・。
 
 そう。一生、キレ爆弾を背負って生きていきます。

 もしくは、自分を痛めつけます。 


 
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夫婦する・・・とは。

2018年12月16日 | エッセー
 ある人が、「コミュニケーションにより分かり合えているといえる夫婦は日本にはいない・・・・」と断言された。
 思わず、「え、一組もいないんですか?」と二度聞き直した。

 まぁ、一組もいないということはないかも・・・・。でも、その傾向はあるかな。

 その方曰く、ほとんどの家庭の夫は、耐えている。奥さんが強い。自分が我慢しさえすれば、家庭はうまくいくと考えている・・・らしい。
 女性は、気持ちを聞いてほしい。
 一方、男性は、相談されたら、問題解決のためのアドバイスを考える生き物。なので、気持ちを聞くだけでいいという感覚があまりないという。

 気持ちを聞いてほしいだけの女性と相談されたら問題解決というスタンスで身構える男性が結婚するというボタンのすれ違いをどこで、気づいて、いつかけなおせるか・・が、きっと、夫婦となった課題かもしれない。
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ギャン泣き大歓迎!

2018年12月16日 | エッセー
 今朝の朝日新聞の一面と30面に、赤ちゃんに泣かれて限界なママたちが、夜な夜な心の拠り所にしているアプリの紹介があった。
 新聞の一面に掲載されるって、ただ事ではない。
 それくらい困っているママが日本に存在するってことになる。

 おっぱいでもない。
 おむつも濡れていない。

 それでも泣くのは、ギャン泣きしてすっきりしたいから。

 ただ、それだけ。


 だから、ママがそばにいるという環境で、安心して、目と目がうっとりと合うまで、思いっきりギャン泣きさせてあげればいいだけ・・・の話。
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眠れない夜からの贈り物

2018年12月16日 | エッセー
 生まれ変わったら、今度は、いつでもどこでも眠れるヒトになりたい。
 いつでもどこでも眠れないし、寝付けない私は、時々アルコールの力を借りて寝ている。夜中に目が覚めて寝付けない日もある。爆睡へのあこがれは人一倍だ。
爆睡できる人って、日中のパフォーマンス度が高い。気合でどうにかだるさを乗り切っている私とはダンチだ。
 ただ、寝付けない私にとって、布団に入って本を読むひと時が、家事育児と仕事の両立で必死だったときの、唯一の至福の時間で、本はかなり読んだ感がある。今も。
 焼酎をちびちび飲みながら、ややほろ酔い気分で、文字を追いながら眠りにつくことって、意外と幸せだった。
 眠れないおかげで、いろんな本に出会うことができた。
 図書館は本当にありがたい。長男が3歳の時に、図書館ができたので、図書館には感謝しかない。特に、新刊紹介のコーナーは、いろんなジャンルの本が並べてあって、普段は読まないジャンルの本も手が出てしまう。そのおかげで、知らない世界が拡がった感がある。文章が難い本は、借りても数ページしか進まないので、そのまま読まずに返却することもある。ただ、20年以上そんな読書生活をしていると、世の中の光と影、裏と表、人間の儚さと人間の希望、そして、自分の小さな家庭の中で起こる様々な人間関係から生ずる問題や課題や哀しみなどが私の脳内でブレンドされて、何のために生きるのかという人生の問いという苦痛からいくばくか脱出できたかなぁと思う。
 ただ、世の中の影や裏を知れば知るほど、現実の自分は、快楽におぼれてはいないけれど、だからと言って何をするわけでもなく、日々の生活に追われているなぁと、その中途半端な自分に少々不満が湧きつつもある。ブレンドされてはいるけれど、美味しいコーヒーにはなれてない。ただのごちゃ混ぜ状態。
 ここ3~4日寝つきが悪いので、図書館の新刊コーナーにあった『告白~あるPKO隊員の死・23年目の真実』という本を借りてきていたので読み始めた。
 ここにも、衝撃が。
 そう。いろんなジャンルの本を読み漁ることの効用は、地球上で起こってきた富と権力のうごめきの中で、右向け右になりやすい大衆が右を向いてしまう、そんな時に現れる高潔な心の持ち主の光にどうにか支えられて、まだ、地球という舟はギリギリ難破しないで持ちこたえているということが、見えてくるということだろうか。
 カンボジアというと、1990年代、日本がバブルでうきうきしている頃、ポルポト政権により、知識階級の大虐殺があったということを『ハンバーガーヒル』という映画で知り、平均年齢が20歳と聞いて、高齢化社会で少子化人口減の日本と全く違うということに驚いた。また、長男と三男をカンボジアの子どもたちに直接文房具を届けるという半分助成してもらえる市の事業(直接渡さないと途中でカンボジアの文部省の役人や学校の先生にくすね取られてしまうため)に送り出して聞いた後日談。とにかく料理がまずい国、子どもたちの目がキラキラしている、物売り少年たちの執拗なほどの買ってコールなどの印象くらいしか知らなかった。
 ポルポト以前の情勢など知る由もない。
 ベトナム戦争から続く、小国の内戦を大国の目論見で操作して、かえって、内戦が混線化して取集がつかなくなるというなれの果ての姿は、どこも無残である。パリ和平協定が結ばれて、クリアな総選挙によるカンボジアの復興を目指し、UNTAC代表が日本人の明石氏ということもあり、日本は世界の常識に恥じないようPKOとして自衛隊を派遣した。併せて、日本全国から招集された警察官75人もカンボジアの警察官の育成や指導をする文民警察案として派遣された。自衛隊の派遣が憲法に反するとして物議をかもし、自衛隊だけが注目を浴びており、だからこそ、自衛隊員への安全確保には国も力を注いでいたが、警察官の安全確保についてはほとんど論議されないでの赴任だった。結果、自衛隊の派遣先はポルポト派の影響力の少ないわりと安全な町であったが、警察官は、全国ちりちりバラバラに派遣され、タイ国境周辺のポルポト派がゲリラ戦を繰り返していた地域に派遣された警察官たちもいた。和平協定は絵に描いた餅に近く、プルポト派が総選挙を阻まんとテロを繰り返していたのが実情で、つまり、カンボジアは再び、戦地化していた。
 つまり、文民警察官として現地の警察機能の健全化を目的に赴任したはずが、まともな武器も持たず、戦争に巻き込まれていったという。そして、悲劇が起こった。

 おかしな話だなぁといつも思う。
 内戦に武器を売って儲かる先進国が、その内戦をやめさせるために、軍隊や警察官を派遣して死傷者が出る。武器を売って、セレブな生活をしているのはごくわずかな人たちだと思う。生活のために仕方ないといって武器を作る人もいる。
 白も黒もない。
 世界も日本も私も・・・。
 みんな、白と黒を行ったり来たりして、グレー。

 ただ、戦地は、人を白か黒にさせるリトマス試験紙かもしれない。

 日本の文民警察官は、戦地で美しかった。
 文民警察官の隊長を務めた山崎隊長の『75人全員生きて帰る』と誓った決意が、高田さんの死により、23年経った今もなお無念として、山崎隊長やほかの隊員たちの心から取り除くことなんてできず、毎年、遠路にもかかわらず、お墓参りをされているとのこと。自分さえよければ・・・という世界と正反対にあった文民警察官の結果戦地でのPKO活動の生きざまに触れ、人の心の美しさに心洗われるという贈り物をこの本からいただいた。著者の文章力のせいなのかなぁ。
 
 
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この世は八つ当たり

2018年12月02日 | エッセー
先日、14歳の息子が名言を吐いた。

 『この世の、マイナス的なことって、八つ当たりによって生じているよね。』
 
 そうかもしれない。
 いじめ。
 これは、もう、家で小さい頃から、親に反発できなくて、なおかつ、そんなつれない気持ちを汲んでもらえず、怒りとして無意識の世界に封印していたけれど、一度、自分より弱い者を懲らしめると快感が走る体験をしてしまっちゃって、病みつきになってしまった結果がいじめだと、私は思う。覚せい剤並みの快感かもしれないから、やめられるわけがないと思う。つまり、八つ当たり。
 学校の先生が、生徒を管理しすぎることもそうだ。ひょっとしたら、生徒が非行に走らないように管理することは当然と思っている先生は、実は八つ当たりの可能性がある。ヨウギ検査を当たり前のようにやっちゃえるというだけで、おそらく、すでに八つ当たりの要素がある。少々、爪が伸びていようが、ティッシュを忘れていようが、髪の毛が耳にかかっていようが、スルーできる先生は、生活に関心のない先生か、八つ当たり精神が宿っていないいい先生なんじゃないかなぁ。
 耳にちょっとでも髪がかかっているだけで注意されるなんて、ばかばかしくて情けなくなる。本気で注意する先生は、もはや、多感な思春期の生徒たちにとって、リスペクトの対象ではなくなる。ただの、八つ当たりおじさんに成り下がる。
 注意することが快感になるなんて、不思議だけれど、世の中には、注意することに何の疑問も抱かない人たちって結構いる。

 中学校のヨウギ検査そのものが、すでに、先生が上で生徒が下という関係性の中で発生している。逆バージョン、つまり、生徒が先生を評価する先生検査みたいなものがあれば、いい悪いは別としてフェアだけれど、ヨウギ検査をきちんとすることに何の疑問も抱かない神経こそがすでにパワハラなんじゃないかと思う。
 そうそう。パワハラって、つまり、八つ当たり。

最近、パワハラがクローズアップされている。
 私自身、40代になって人生初のいじめを体験した。だいぶ下火になってはきたけれど、今も継続中だ。この15年余り、ずっと、彼女のいじわる心を私という存在がなぜか刺激しちゃうのだろうと思っていたけれど、よくよく考えたら、八つ当たりもいいとこで、パワハラだ。

 今朝の新聞にも、パワハラにならないように、例えば、荒げた声で部下を叱ってはいけない・・・などと書かれていた。
 形から入ることも必要だと思う。ただ、声を荒げて叱る人は、根底に八つ当たりをして、自分のストレスを発散したいという欲求を持っている人だと思うので(もちろん、本人は気づいていない)、ただ、パワハラに認定されたくないがために我慢しても、本質は変わらない。その欲求不満は溜まっていくだけだと思う。
 声を荒げて叱るという行為は、オンギャーと生まれた時から蓄積された本人も気づかない欲求不満を、自分は正しい・相手が間違っていると感知した瞬間に、勝手にスイッチが入って、声を荒げて叱るという生活習慣病みたいなものだと思う。

 では、なぜ、習慣化するのだろう。

 習慣化するというのは、それをやると気持ちよかったという体験があったからだ。きっと。

 今、私はスロージョギングが習慣化されている。週2回30分のときは、習慣化されなかった。毎回、走り始めは特に足が重く、かなりのスローペースでどうにか走り遂げていたという感じだった。しかし、今年の正月に壁に『週3回以上スロージョギングをする』というポスターを貼って、週3回走り始めたら、なんだか、足が軽い。なおかつ、走った後のそう快感がたまらなくなった。10月になって、初っ端から、足が軽くて、最後まで気持ちよく走れるようになった。そうなると、雨で走れない日が残念な気持ちになって、いつの間にか週5回は走るようになった。帰りが遅くても、チャチャっと、夕食を作って、7時過ぎから走り始めることもしばしば。今までは、仕事で帰りが遅いから時間がないことをできない理由にしていたのに、気持ちがよくなると、できちゃうんだということを知った。

 その体験が気持ちいいから習慣化される。

 パワハラもいじめも八つ当たりも、やったあとに気持ちいいという感覚が発生する。だから、やめられない。いじめはいけないこと。いじめられる人の気持ちを察しましょうなんて言っても、たぶん、それだけでやめることは難しいと思う。パワハラは、そのことで左遷されたりされるとなると、我慢できちゃうかもしれないけれど。
 気持ちいいことが、自分の心と体を大切にするものであれば、それは、とても喜ばしいことだけれど、自分の心も体も蝕んでいくようなものだと大変だ。おそらく、アルコール依存症やギャンブル依存症やちかんや食べ過ぎ、摂食障害などは後者だ。その一瞬は気持ちいいけれど、本当の気持ちいい発電機ではなく、イライラする気持ちを晴らすことによる気持ちいいなので、いいエネルギーを自家発電することができない。私にとって、スロージョギングは、エネルギーの自家発電でもあるような気がしてきている。辛い時ほど走ると、心の元気が回復に向かう気がする。
 

 おそらく、自分が正しく相手が間違っているという物の見方をしてしまう人は、自分の全部が正しく、相手の人間性までも否定しやすい傾向があるような気がする。自分も間違いもする人間だし、長所も短所もある人間のはずなのに、自分のことは棚に上げて、相手のちょっとしたミスも見逃さず、批判する。不思議でならない。この、自分のことは棚に上げられる能力は、どのように培われてきたのだろう。
だいたい、声を荒げて叱ること自体が欠点なのに、それにすら気づけない。
 事の始まりは、おそらく、親に従順でないと安全な居場所がなかった幼少時代に遡ると思う。
 親にいい意味でわがままが言えないと、その不満を何かに八つ当たりしたくなる。
 幼い頃、その不満をきちんと言語化して消化してくれるような存在に出会えた人はラッキーだ。
 でも、多くの子どもたちは、大人が生活しやすいような静かな環境を破壊しないように、しつけと称して怒られる。その時の理不尽な気持ちが八つ当たりの原動力となる。おそらく。
 我が家も次男が5歳のころ、3歳の三男をやたら攻撃することがあって、三男がかわいそうだった。よ~く観察していたら、どうやら、長男が父親に理不尽に怒られて、その腹いせに次男をやっつけて、次男がその腹いせに三男を叩くという構図が見えてきたので、次男が三男をやっつけた後に、たまたまそこに次男がいたので『あのね。お兄ちゃんはお父さんに怒られてやり返したいけれど、怖くてやり返せないので、自分より弱いあなたをやっつけてすっきりしたくなるの。で、あなたもお兄ちゃんにやり返せないから自分より弱い弟をいじめたくなるの。そういう時は、お母さんに向かってきてもいいから。』と言ったら、後日、それはそれは、私のお腹に向かってキックしてくることくること。
 やっぱりね。
 兄弟げんかって、大方、親から理不尽な怒られ方をして不満が爆発する八つ当たり喧嘩だって、その時思った。
 思いっきり兄弟げんかさせてもらえた子どもはラッキーだ。
 こんな時、悔しい気持ちを言語化するどころか、「喧嘩はいけません。仲良くしましょう。」なんて喧嘩すらさせてもらえないと、八つ当たりの矛先は、弱くて言い返せないお友達に向かうような気がする。そこで、家での憂さを晴らす。
 
 いじめはここからきっと始まる。
 パワハラもここからきっと始まる。

 憂さを晴らして気分よく家に帰るためには、知恵が必要だ。憂さを晴らしても先生に見つかって叱られたら元の木阿弥だから。
 自分のことは棚に上げて、ターゲットを非難してすっきりするという思考回路は、きっと、このあたりで形成されていくのではないだろうか。
 
 先日のの報道特集で、少年院を出て、だれも身元引受人のいない少年たちの保護士になり、一緒に暮らしているという47歳の男性の話があった。






 白黒思考という言葉がある。
 物事を、白か黒でしか判断できない思考に陥りやすいタイプの人のことをさす。
 世の中、大方グレイ。人間いいところもあれば、欠点もあるもんだ。だから、受け流そう。
 それが、どうしてもわからない。
 おそらく、自分は正しく、相手は間違っているときっぱりと感じて、注意できて、注意した後にすっきりしちゃうので、そこは死守したいのかも。

 こういう白黒思考タイプの人は、ルールに反する人や世間の常識の枠からはみ出るような人をみると許せないので、勝手に負のエネルギーを自家発電しちゃって、カッカカッカと腹が立つ。
 そう。許せなくて、腹が立つのだ。

 考えてみれば、幼い頃、あえて白黒つけて、自分に罪悪感を抱かないようにしていじめてることで、家での憂さを晴らしていたのに、白黒思考が習慣化されて、なんでも白黒つけたがる心の癖ができてしまったがゆえに、許せないことが多くなって、逆に不満がどんどん溜まっていくという悪循環に陥っていく。
 勝手に腹が立ってしまうのだから、その怒りはどんどん蓄積されて、むずむずとしていて、それは、もしかしたら、イライラという感情になっているかもしれない。イライラという感情は一触即発で噴火したがっている。その一触即発のスイッチをオンにしちゃうのが、パワハラやいじめのターゲットになってしまうタイプの人の言動。

 噴火したがっているときは、自分から点火しに行く場合もある。
 私の体験で、
 


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