今年の3月から患っている股関節痛、少し、明るい兆しが見えてきた。
な、なんと、7か月ぶりに階段を駆け上がれたのだ。
快挙だ。
それまでは、手すりとお友達だった。少し圧がかかると、股関節にピッと痛みが走るので、圧がかからないよう手すりを利用するしかなかった。残念なカラダだと嘆いていた。
ところが、突然、駆け上がれた。もう、うれしいったらありゃしない。
吉村じい先生のところになかなか行けないので、自分流で股関節の痛いスポットを指で押して探して、そこに、千年灸を毎日していたところ、ここ10日間くらいで薄皮をはぐようによくなっていくという実感があった。
お灸のつぼとかよくわからない。でも、たぶん、整形外科的な症状の場合は、痛いところにお灸をすえればいいんじゃないかな?って素人的に判断している。だって、指で押して痛いところに、お灸をすると、先生が指示してくださった他のツボにお灸をするのと全然手ごたえが違うもの。
キタ。来た。来たーーーー。って感じ。おまけに痛気持ちいい。
千年灸も悪いところほど、痛気持ちいい。ツボにはまったーーーーーって感じで、その感触が治っていく予感を感じさせる。
で、今日、やっと、お灸の先生、吉村じぃ先生のところに行ってきた。約2時間の道のりなので、一日仕事だ。
先生のお年は、88歳。土日は基本的にお休みなんだけど、平日がお仕事という人のために診てくださる。ありがたや~。でも、先客がいっぱいだ。結局、先生は、土日もお休みもない。88歳で毎日お仕事。
みんな、心からの感謝の言葉を残して帰られる。
感謝されることほど、人に生きる力を与えるものはない…少なくとも私にとっては・・・。
私にも、数少ないけれど、感謝された体験がある。
否、感謝された体験じゃないのかも。
私の生きるエネルギーの泉になっているのは、多動とかしゃべらないとか目が合わないとか落着きがないとか奇声を発するとか・・・・そんな子どもの発達に悩んでいる母と子と接して、子どもに代わって子どものそのしゃべらないなどの表現の根っこの気持ちをお母さんに代弁しようと試みて、母親が多少なりとも気づき、子どもときちんと向き合おうとし始めたら、子どもの発達が驚くほど変化していったという体験。
母と子の橋渡しができたという数少ない体験が、胸をじ~~~~~~~んとさせてくれる。数少ないけれど、そのじ~~んという気持ちが、半永久的に私の生きる意欲の泉として存在して、めげそうな私を慰めてくれる。
もしかしたら、ひょっとして、あの子たちは私の橋渡しに感謝してくれているんじゃないだろうか・・という勝手な妄想かもしれないけれど・・・。
わが子たちも、将来、そんな感謝されるような仕事に就いてほしいと願う。
夫は、先日、突き指をして非常に痛がっている。仕事にも影響する。
それで、本人が行けないので、吉村おじいちゃん先生に、突き指のお灸は可能かと聞いてみた。
そしたら、ツボを3か所教えてくださった。
さっそく、夜、夫の指にチャレンジ!
そしたら、なんと、あっという間に、曲がらなかった指が曲がった。すごい。
そのツボとは、指の関節の節の端っこ2か所と生命線あたりで、そこに、もぐさを置いて、それぞれ5回お灸をすえる。
指は、神経が多いので、シビアに痛そうだった。でも、効果てき面。
ふと、お医者さんって、この吉村おじいちゃん先生ほど、患者さんから感謝シャワーをアビテイルノダロウカ?・・と。
腕の立つ外科医に手術してもらったりして、手術大成功!とか小児科で子どもの命が助かった・・とか救急車で運ばれて・・・というような場面では、感謝されると思う。
でも、どうだろう。内科に通って高血圧の薬をもらって・・というような診療の場合。救ってもらったというような密度の濃いココロからの感謝という気持ちを浴びる機会って、お医者さんはそうないかもしれない。
膝が痛いとか腰が痛いというような商用で、整形外科を受診して、電気治療と膝へのステロイド注射と痛み止めの湿布をもらって帰って、それが、1年も2年も続いているような患者さんって、お医者さんに感謝しているのだろうか?なんとなく、そこに感謝や敬意という空気が感じられない。信頼関係もありそうでなさそうで・・・。
お医者さんは、患者さんを軽く見ていそうだし、患者さんもお医者さんを軽く見ていそう。
もう、私なんか、吉村おじいちゃん先生のことをふと思い出すたびに、感謝の気持ちが溢れ出てくるし、100歳まで長生きしてくださいと心から念じるもん。
内科のお医者さんもお金持ちという点で幸せかもしれないけれど、そこに治すという到達点のない診療の永遠が存在するとするなら、そんなに幸せではないかもしれない。だって、感謝光線を浴びれないんだもん。
人間って、誰かに心から感謝された体験があれば、それを糧にして生きていける・・・ような気がする。
子どものお手伝いというものも、きっと、そのためにあるのかもしれない。
それをしてくれるととてもありがたい・・・と思えるようなお手伝いをしてもらおう。だって、それをしてくれたら、きっと、心から感謝されているという気持ちが子どもに伝わるはずだから。
お灸の本を図書館から借りてきた。
最近、千年灸にはまっている。
いろいろ実験。
昨日も、『やば、のどが少し痛い。もしかして、かぜ?』とイヤな予感がしたので、さっそく、お灸の本の風邪の引き始めのツボを探した。首をうつむくようにしたとき、一番出っパているところと合こくという親指と人差し指の付け根能登ことに千年灸を置いてやってみた。
そのせいかどうかわからないけれど、翌朝、悪化していなかった。
夫の足の裏の魚の目にも挑戦中。こっちは、もぐさで・・・・。肥厚しているので痛くないみたい。
ふと。
こんなお医者さんもいた。
小児科医だ。
彼は、現場で麻しんで命を落とす乳児もとの出会いがあった。
何とかして救いたかった・・・もし、この子がの予防接種を受けていたら…という無念さが消えなかった。その救いたいという思いが麻しんの予防接種推進を積極的に支援する活動の原動力となった。ただ、麻しんは副作用も強いので乳児には接種できないのだけれど・・・・・。そして、亡くなるのは、まだ、免疫力の弱い乳児なので複雑・・・。そして、予防接種のない時代は、母親もはしかにかかっているので抗体の威力が、予防接種を受けて得た抗体力よりはるかに勝っているため、赤ちゃんにその強い抗体がプレゼントされ、1歳半くらいまではしかにかからなかった・・・という矛盾。
目の前の命を救いたい・・・という誠実なお医者さんの存在により、麻しんの予防接種をみんなが受けるようになり、みんなが受けるようになった結果、本来なら罹らないはずの乳児が麻しんにかかるようになり、命を落とすという矛盾。
みな、目の前の命を救いたい・・・ただ、それだけ。
これでいいのだ~。これでいいのだ~。ボンボンバカボンバカボンボン・・。
アフリカやカンボジアなどに行って、教育も受けれず悲惨な状況にある子どもたちと出逢ってしまって、救いたいという心に目覚める人も多い。
感謝されたいからするのではないけれど、感謝されることで、実は、自分も救われる。
なんか、人間ってそう。
そうやって、温かいものに出逢って・・・・。
救う・・には、救われる存在が必須だ。
平和な日本・・でも、救われない人はいっぱいいる。でも、なぜか、アフリカやカンボジアの子どもたち。あまりにも悲惨すぎて、普段は何も感じていない人の心の琴線に触れてしまうからかもしれない。
なんだか、あったかいもの・・・が、生きるためには必要なんだろうなぁ。
な、なんと、7か月ぶりに階段を駆け上がれたのだ。
快挙だ。
それまでは、手すりとお友達だった。少し圧がかかると、股関節にピッと痛みが走るので、圧がかからないよう手すりを利用するしかなかった。残念なカラダだと嘆いていた。
ところが、突然、駆け上がれた。もう、うれしいったらありゃしない。
吉村じい先生のところになかなか行けないので、自分流で股関節の痛いスポットを指で押して探して、そこに、千年灸を毎日していたところ、ここ10日間くらいで薄皮をはぐようによくなっていくという実感があった。
お灸のつぼとかよくわからない。でも、たぶん、整形外科的な症状の場合は、痛いところにお灸をすえればいいんじゃないかな?って素人的に判断している。だって、指で押して痛いところに、お灸をすると、先生が指示してくださった他のツボにお灸をするのと全然手ごたえが違うもの。
キタ。来た。来たーーーー。って感じ。おまけに痛気持ちいい。
千年灸も悪いところほど、痛気持ちいい。ツボにはまったーーーーーって感じで、その感触が治っていく予感を感じさせる。
で、今日、やっと、お灸の先生、吉村じぃ先生のところに行ってきた。約2時間の道のりなので、一日仕事だ。
先生のお年は、88歳。土日は基本的にお休みなんだけど、平日がお仕事という人のために診てくださる。ありがたや~。でも、先客がいっぱいだ。結局、先生は、土日もお休みもない。88歳で毎日お仕事。
みんな、心からの感謝の言葉を残して帰られる。
感謝されることほど、人に生きる力を与えるものはない…少なくとも私にとっては・・・。
私にも、数少ないけれど、感謝された体験がある。
否、感謝された体験じゃないのかも。
私の生きるエネルギーの泉になっているのは、多動とかしゃべらないとか目が合わないとか落着きがないとか奇声を発するとか・・・・そんな子どもの発達に悩んでいる母と子と接して、子どもに代わって子どものそのしゃべらないなどの表現の根っこの気持ちをお母さんに代弁しようと試みて、母親が多少なりとも気づき、子どもときちんと向き合おうとし始めたら、子どもの発達が驚くほど変化していったという体験。
母と子の橋渡しができたという数少ない体験が、胸をじ~~~~~~~んとさせてくれる。数少ないけれど、そのじ~~んという気持ちが、半永久的に私の生きる意欲の泉として存在して、めげそうな私を慰めてくれる。
もしかしたら、ひょっとして、あの子たちは私の橋渡しに感謝してくれているんじゃないだろうか・・という勝手な妄想かもしれないけれど・・・。
わが子たちも、将来、そんな感謝されるような仕事に就いてほしいと願う。
夫は、先日、突き指をして非常に痛がっている。仕事にも影響する。
それで、本人が行けないので、吉村おじいちゃん先生に、突き指のお灸は可能かと聞いてみた。
そしたら、ツボを3か所教えてくださった。
さっそく、夜、夫の指にチャレンジ!
そしたら、なんと、あっという間に、曲がらなかった指が曲がった。すごい。
そのツボとは、指の関節の節の端っこ2か所と生命線あたりで、そこに、もぐさを置いて、それぞれ5回お灸をすえる。
指は、神経が多いので、シビアに痛そうだった。でも、効果てき面。
ふと、お医者さんって、この吉村おじいちゃん先生ほど、患者さんから感謝シャワーをアビテイルノダロウカ?・・と。
腕の立つ外科医に手術してもらったりして、手術大成功!とか小児科で子どもの命が助かった・・とか救急車で運ばれて・・・というような場面では、感謝されると思う。
でも、どうだろう。内科に通って高血圧の薬をもらって・・というような診療の場合。救ってもらったというような密度の濃いココロからの感謝という気持ちを浴びる機会って、お医者さんはそうないかもしれない。
膝が痛いとか腰が痛いというような商用で、整形外科を受診して、電気治療と膝へのステロイド注射と痛み止めの湿布をもらって帰って、それが、1年も2年も続いているような患者さんって、お医者さんに感謝しているのだろうか?なんとなく、そこに感謝や敬意という空気が感じられない。信頼関係もありそうでなさそうで・・・。
お医者さんは、患者さんを軽く見ていそうだし、患者さんもお医者さんを軽く見ていそう。
もう、私なんか、吉村おじいちゃん先生のことをふと思い出すたびに、感謝の気持ちが溢れ出てくるし、100歳まで長生きしてくださいと心から念じるもん。
内科のお医者さんもお金持ちという点で幸せかもしれないけれど、そこに治すという到達点のない診療の永遠が存在するとするなら、そんなに幸せではないかもしれない。だって、感謝光線を浴びれないんだもん。
人間って、誰かに心から感謝された体験があれば、それを糧にして生きていける・・・ような気がする。
子どものお手伝いというものも、きっと、そのためにあるのかもしれない。
それをしてくれるととてもありがたい・・・と思えるようなお手伝いをしてもらおう。だって、それをしてくれたら、きっと、心から感謝されているという気持ちが子どもに伝わるはずだから。
お灸の本を図書館から借りてきた。
最近、千年灸にはまっている。
いろいろ実験。
昨日も、『やば、のどが少し痛い。もしかして、かぜ?』とイヤな予感がしたので、さっそく、お灸の本の風邪の引き始めのツボを探した。首をうつむくようにしたとき、一番出っパているところと合こくという親指と人差し指の付け根能登ことに千年灸を置いてやってみた。
そのせいかどうかわからないけれど、翌朝、悪化していなかった。
夫の足の裏の魚の目にも挑戦中。こっちは、もぐさで・・・・。肥厚しているので痛くないみたい。
ふと。
こんなお医者さんもいた。
小児科医だ。
彼は、現場で麻しんで命を落とす乳児もとの出会いがあった。
何とかして救いたかった・・・もし、この子がの予防接種を受けていたら…という無念さが消えなかった。その救いたいという思いが麻しんの予防接種推進を積極的に支援する活動の原動力となった。ただ、麻しんは副作用も強いので乳児には接種できないのだけれど・・・・・。そして、亡くなるのは、まだ、免疫力の弱い乳児なので複雑・・・。そして、予防接種のない時代は、母親もはしかにかかっているので抗体の威力が、予防接種を受けて得た抗体力よりはるかに勝っているため、赤ちゃんにその強い抗体がプレゼントされ、1歳半くらいまではしかにかからなかった・・・という矛盾。
目の前の命を救いたい・・・という誠実なお医者さんの存在により、麻しんの予防接種をみんなが受けるようになり、みんなが受けるようになった結果、本来なら罹らないはずの乳児が麻しんにかかるようになり、命を落とすという矛盾。
みな、目の前の命を救いたい・・・ただ、それだけ。
これでいいのだ~。これでいいのだ~。ボンボンバカボンバカボンボン・・。
アフリカやカンボジアなどに行って、教育も受けれず悲惨な状況にある子どもたちと出逢ってしまって、救いたいという心に目覚める人も多い。
感謝されたいからするのではないけれど、感謝されることで、実は、自分も救われる。
なんか、人間ってそう。
そうやって、温かいものに出逢って・・・・。
救う・・には、救われる存在が必須だ。
平和な日本・・でも、救われない人はいっぱいいる。でも、なぜか、アフリカやカンボジアの子どもたち。あまりにも悲惨すぎて、普段は何も感じていない人の心の琴線に触れてしまうからかもしれない。
なんだか、あったかいもの・・・が、生きるためには必要なんだろうなぁ。