総合漢方にんぷ薬・総合漢方育児薬

~頭を使ってではなく、カラダ(感性)で子育てしてみませんか~

偽善を暴く小林賢太郎さんと一日一布施。

2021年07月25日 | エッセー
 太田光さんが、解任は仕方ない。でも、彼が、ホロコーストをネタに使ったその真意の釈明は、きちんと把握して世に説明してほしいというネット記事があった。
 佐々木氏解任から始まり、小林さんお前もかという残念さでスタートしたオリンピックで、ユダヤ人大虐殺を揶揄したという一行の記事だけで、勝手に小林賢太郎さんという会ったこともない人を佐々木氏と同じ匂いのするグループと判断し、残念な気持ちでいた。しかし、太田光さんの記事を読むと、どうも、単なる揶揄ではなかったよう。
 『できるかな』という子ども向け番組の偽善の善に対する悪の象徴として、ナチスドイツのユダヤ人大虐殺を述べたという。
 詳細はわからない。

 偽善か・・・。

 偽

 人の為と書いて、偽なのだそう。

 なるほど。

 ひろさちやさんの本にそう書いてあった。
 人の為にした施しは、人の為にしたように見えて、させていただいてありがとうございますの気持ちでいれば、自分の為になっている。
 布施の心を持っていると、人生がすごく明るくなる。
 そして、実は、布施こそ、一番の健康法。

 なるほど。

 私には、布施の心がなかったなぁ。
 だから、ストレスが私のがん家系という遺伝子のスイッチをオンにしてしまったのかも。
 自分ってなかなかの偽善者だと思っていたけれど、そこに、布施の心がなかったからか・・・。
 よし。決めた。

 一日一布施。

にチャレンジ!

 人の為に何かをするとき、『させていただいてありがとうございます。』と心の中で念じる癖を身につけるぞ!
 
 相変わらずな17歳四男とのバトル。
 もしかしたら、息子の為という偽善を彼はしっかり見抜いていて、老害とクソババァの悪態で私の偽善を暴いてくれているのかもしれない。小林賢太郎さんのように。
 そんな風に考えると、子育てって、お布施の宝庫だ。
 子どもの為にって思って子育てしていたつもりだった。思いどおりにならない子どもたち相手に、どうにかまっとうに自立の道を歩んでほしいと願って育ててきたつもりだった。でも、子どもの為にとは、人の為にと同じだとするならば、子どもの為にと思ってすることは、偽善ということになる。
 果たして、させていただいてありがとうございますというような布施の心で子育てしていただろうか。布施の心を持っていると、人生が明るくなるとするならば、そこに布施の心はなかったと言えるだろう。
 老害とかクソババァと彼が口にするとき、私は偽善者であることは間違いないと、今、気づいた。息子の為に風なんだけど、実は、自分がめんどくさかったり、深く考えたくなかったりしたときの私の口から出る偽りの言葉を、彼は、瞬時に見分ける能力にたけている。
 少なくとも、彼が、老害とかクソババァと言う時は、言ってくれてありがとうございます。とお布施の姿勢でいよう。そして、自分の中の似非優しさときちんと向き合おう。
  
  寝込みそう寸前のしんどい、おそらく漢方で言えば気虚な体で、残業と育児に追われ、ボランティアどころではなかった。それよりも何よりも昼寝の誘惑が勝っていた。時間がないなら寄付だ。給料の7%を寄付すると人生が変わると何かの本で読んで、気になっていたけれど、7%って高額だ。夫がうつっぽい時期は仕事もしなかったから、やりくりで精いっぱいでできなかった。
 鶏が先か、卵が先か。
 否、元気が先か、寄付が先か。
 おそらく、寄付優先で生きていれば、あるいは、ささやかでもボランティア精神で日常を彩っていたら、気虚な体質も改善していたかもしれない。
 来年の春、定年退職を迎える。でも、まだ、四男が17歳なので、65歳まで再任用させていただく予定。ただ、仕事の時間が、明確に9時4時となる。
 さぁ、させていただく人生のスタートラインだ。
 子育ても、心を改め、させていただくという気持ちで、四男と向き合おう。経済的なことを考えると、退職前に子育てを終了しておきたかったけれど、お布施の心で子育てできる機会を与えてくださったと神様に感謝しよう。
 おそらく、クソババァ・老害と言ってくるときは、助けてというお布施のサイン。
 
 夫婦共働きが当たり前の時代に突入した。
 イクメンパパを強要される時代になった。
 ちょっと待った~~。
 子育てとか家事とかへのスタンスが、男女平等という切り口かお布施という切り口か。
 子どもが熱が出た。『どっちが休む?私だって働いている。どうして、私だけが仕事を休まないといけないの?』
 ではなく、『やったー。お布施のチャンスだ。』
 という思考なら、どう?
 男女平等という発想ではなく、お布施という発想になると、いつも、私が仕事を休まないといけないではなく、たまには、夫にもお布施のチャンスを与えてあげよう・・・になる?ならない?

 そこに、お布施という発想があるかないかで、人生観は大きく変わりそう。

 私自身、内容的にはお布施ばっかりしてきたのに、そこにお布施という発想が全くなかったから、もったいないことをした。そう、させていただくという感覚がなかった。子どもが熱を出したら、どうしよう、仕事休めない、休んだら休んだ分をどこで処理する?という発想だった。
 仕事よりも、わが子優先の発想にならなかった。
 ごめんね。
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第2子・真中というだけで憎しみ

2021年07月24日 | エッセー
 女女女、女女男の場合の、真ん中の女の子。
 彼女らは、女子2番目真ん中特有のシンパシーを感じるらしい。
 姉妹仲良し・・・・でも。

 長女は、初めての子で手をかけられる。
 次女は、母親が次女の世話をしながらも、その視線の先に長女がいることをずっと観察して生きてきた。
 三女は、最後と思うと、愛おしいという親心で育つ。甘えんぼの許されるお得なポジションだが、次女は、その許される甘えもじっと観察して生きてきた。

 もちろん、みんながそうというわけではない。
 わけではないけれど、そうなったらいけないと意識しても、2番目の次男とか次女を産んでみると、そうなりやすいような気がする。事実、私もそうであった。

 だから、私は、子どもを産むなら4人と決めていた・・とは、叔母の発言。3人の真ん中はかわいそうと。4人だったら、2番目と3番目は真ん中となる。そうすると、私だけどうして?という思いを抱かせずにすむ。真ん中が二人だから。

 わかる。

 別に、怒られたりしなくても、真ん中というだけで、愛されていないんじゃないかとうようなうっすらとした哀しみを背負って生きている人がいると思う。
 そのうっすらとした哀しみとうシンパシーで、真ん中ネットワークが自然とできていくよう。特に、女子。

 もちろん、そうじゃない真ん中な人もいるでしょう。

 親が、どんな子も、あなたはあなたのままでいいというメッセージを心の底からの価値観としてもてるような人格者であれば。あるいは、上や下より、秀でた何かを持っているような真ん中な人であれば。

 だからと言っては何だが、私も、かなり意識して2番目の写真を撮るようにした。長男と同じ枚数をクリアせんと。母子手帳も、長男と同じくらいの字数で、彼の成長を彩った・・・つもり。
 男と女は違うかもしれないけれど、真ん中って、ほんと、やっぱり、視線の先に長男のいる育児になりがちだった。次男が生まれたら、長男が不憫という気持ちをなかなか払拭できず、ついつい視線の先に長男がいた。
 そう。今まで独占できた母を次男の誕生とともに独占させてあげられないという不憫。
 だから、次男におっぱいを飲ませていても、視線の先には長男がいた。
 そして、なぜだか、次男って、長男ほど手がかからない。長男の地獄の母乳奮闘体験も、次男のときは、すんなりたっぷり母乳が出るもんだから、なおのこと手がかからない。
 手がかからないことにかこつけて、次男と1対1のやり取り量は、長男の時と比べて激減した。
 おまけに、次男の重いことといったら・・・。6か月の頃、彼をおんぶすると頭痛がしてくるものだから、できるだけ、おんぶしないですむよう、抱っこしないですむようにしてしまった。
 こりゃ、やばいかなぁ?後でなにかつけがまわってこないかなぁ~とうっすらと愛情表現不足を危惧していたら、来ました来ました、1歳半で始まった駄々こねがすごかった。すごいし、長かった。小学校入学の頃まで続いた。

 てな具合で、兄弟の2番目というポジションは、どうしても、母親とのやり取りの絶対量が少なくなりがちで、それは、しっかり、2番目の子ども心に差別として刻まれるようだ。

 我が家の場合、次男が6年という長期にわたり、強烈な駄々こね作戦で私を振り向かせようと努力してくれたおかげで(もちろん、彼は無意識にやっていたわけだけれど)、差別されたと感じて育っていないような気がする。本人に聞いてみないとわからないけれど・・・。
 こうなってくると、乳幼児時代、手のかかる子がいいんじゃないかとさえ思えてくる。手がかかる作戦を行使できる能力は、母親のそんなつもりじゃなかった兄弟差別の弊害を少なくしてくれる。

 次男の駄々こね作戦が功を法したのは、限界レベルに達した私の想いが届いたのかどうか、親業との出会いがあったからに尽きる。ヤバい、これ以上は私の器が対応しきれない。虐待レベルじゃんというような極限体験が、『どげんかせんといかん』アラートを発動させた。
 アラート発動は、新たな出逢いを導く。
 かくして、私は、『親業』というものに出逢った。
 『親業』のステップの一つに、『子どもの話を能動的に聞く』というステップがある。8回で4万円のコースが、ラッキーなことに隣町の教育委員会の半額助成の恩恵を隣町の住民の私も受けることができた。それでも、1回2,500円。安くはない。だから、宿題が出ると、元を取らなきゃと意識改革に気合が入った。
 なんでも、そうだ。
 問題が起こった時、問題が起こった時と同じ意識では、問題は解決しない。同じ延長線の意識や行動でも解決しない。正反対の意識や行動こそ、解決につながる。
 次男の駄々こねに対して、それまでは、最後まで怒らない。優しく対応することを意識してトライしていたけれど、優しく対応すればするほどエスカレートする次男の駄々こねに対して、堪忍袋の緒が切れて、そうなると、今度は私の怒りが収まらなくなってしまい、これでもかこれでもかというような怒り爆発体験に繋がった経緯がある。
 その延長線の先には、我慢しかないので、解決なんかしない。
 次男は、優しい対応なんか求めていない。
 もちろん、怒られることなんかもっと望んでいない。 
 では、何を望んでいたのか?

 『親業』の『能動的聞き方』の宿題のたった1回の挑戦で、次男の駄々こねは、あっけなく終了した。
 アンビリーバブルな貴重な体験だった。
 おそらく、私の器が一皮むけた瞬間だったと思う。
 人は、困っている時にやってみて思いのほか良い体験をすると、病みつきになる。
 次男への能動的聞き方のチャレンジは、私を病みつきにさせた。
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白ご飯しか食べてくれない赤ちゃんと何でも食べてくれる赤ちゃん。この差って何ですか? 

2021年07月22日 | エッセー
 離乳食から幼児期にかけての食べてくれない派の赤ちゃんをもつママの悩み。
 頑張って作ったのに、べ~~っと吐き出して食べてくれない『くれない病』。いつかは食べてくれるって~。ウンチさえ、上等であれば。
 と、白ご飯しか食べてくれない1歳児をもつママの電話相談中、私の口から、ぽろっと出てきた言葉に、我ながら、そうだよねと合点。

 白ご飯ママは、ご飯にちりめんじゃこやわかめふりかけを混ぜ込んで悪戦苦闘中。野菜も果物も食べない。ブロッコリーだけはどうにか食べてくれるって。保育園でも白ご飯オンリーっ子らしい。
 五穀米の提案をしてみた。
 そのママ、五穀米に飛びついてくださった。
 こういうお子さんは、栄養士泣かせで、なかなか、切れ味のいい回答を用意できない。まぁ、時期が来たら、いつの間にか食べれるようになりますから、肝っ玉母さんで行きましょうというような回答になってしまうのが常であった。
 そんなやりとりのなか、ふと、ウンチの話題に。ウンチは毎日1回は出ているそう。
 ウンチが出ていれば大丈夫。

 と、ママに安心エールを送りながら、ふと、パプアニューギニアのウンチ研究結果が頭をよぎった。タロイモしか食べないパプアニューギニアの人達のウンチには、なぜか、窒素がふんだんに含まれている。窒素って、たんぱく質を食べた人のウンチに含まれる物質であるが、炭水化物しか食べないパプアニューギニアの人たちのウンチから日本人のウンチより遥かい多い窒素が含まれていて、な~~~ぜ?となった研究がある。
 研究結果から、パプアニューギニアのタロイモしか食べない人たちの腸内細菌の中に、炭水化物を餌にしてたんぱく質を作って、体内に還元するという優れ腸内細菌が存在することがわかった。
 大事なのは、何を食べるかではなく、何を出すか。
 腸内細菌が喜ぶものを食べる に意識革命することが、食べてくれない病のママの不安をかなり軽減でき、肝っ玉母さんへの道を支援できるのではないかと気づいた。
 で、とっさに浮かんだ腸内細菌を増やすための戦略。
 ヤクルトはいいんだけど、甘い。甘いのはいくら体に良くても血糖値をあげたりむし歯になりやすかったりという欠点がある。ヨーグルトでいいやつが最近いろいろある。でも、もちろん、少し甘いし、コストがあがる。
 食物繊維系がいい。オリゴ糖をどう使う?玉ねぎは食べてくれないし。
 なんでもそうだけど、毎日継続していつまでも・・・という持続可能なものが最後は勝つ。てっとり早い物は継続が難しい。
 先ほどの、五穀米にママが飛びついたのは、持続可能性の高さにある。
 そして、五穀米の次に浮かんだのが、ごぼう茶だった。水分補給として、水溶性食物繊維豊富なごぼう茶をこの白ご飯しか食べてくれない1歳児、飲んでくれるのではないか。水溶性食物繊維も腸内細菌は大好物。
 快便でさえあれば、食べてくれない病のからママの心が解放されるでしょう。
 ところで、何でもよく食べてくれる赤ちゃんと食べてくれないシリーズな赤ちゃん、この差って何ですか?

 個人的に、もって生まれた消化器系の内臓の個性だと思っている。
 生まれたての赤ちゃんの内臓は、全然未熟。成人に向かって成長していく。肝臓が一人前になるのは15歳って言われている。15歳までに、その持って生まれた内臓を成熟させていく。

 元々、強靭な胃腸、肝臓、腎臓の持ち主である赤ちゃんのママは、ご先祖様に感謝しよう。

 先日の育児教室で、二人目の3か月児とやってきたママが、『3歳の上の子は、私がカレーを食べたら、母乳を飲んでくれなかった。カレーだけでなく、いろいろ制約があった。母乳は結構出ているけど、ごくごく飲んでくれなくて乳腺炎一歩手前状態だった。離乳食も作りたてでないと食べてくれなかった。でも、この子は、私が何を食べても、母乳をごくごく飲んでくれるから助かる。』と。

 上の子の味覚が鋭いのか。はたまた、下の子の味覚が鈍感なのか。

 それにしても、作り立ての離乳食しか食べてくれないってすごい。初耳だった。

 感慨にふけっている、その時、ふと思った。

 下の子は、消化器系の内臓が丈夫なのだ。そして、上の子は、病気ではないけれど、そんなに消化器系の内臓が丈夫に生れていない。なので、味覚を敏感にさせて、たくさん食べすぎないように、そして、解毒が大変な脂や砂糖系の含有量の高い母乳を拒絶し、鮮度の高い離乳食しか受け付けなかった。

 その子の消化器系の内臓の個性が、何をどれくらい食べるかを決定する。

 という仮説。
 
 最初からミルクの子もいる。時々、母乳だけだったけれど、ばあばに預けるために、ミルクの練習をしょうとしたら、哺乳瓶を受け付けてくれなくて困った。ミルクをお湯のみで飲ませようとしてみたけれど、それも嫌がった。

 先日も、生後3か月のママが、母乳だけでは体重の増えが少し芳しくないので、お医者さんにミルクを足すようにと言われたけれど、ミルクを拒絶されて困っているという。
 生後3か月、まだまだ、母乳分泌量を増やすことは可能。ママが母乳ケアを受けて、母乳で頑張るしかない。ってことで、三日後、助産師が、授乳前後の体重測定と母乳ケアを実施し、結構、母乳は分泌されており、体重も順調に増えており、安心して帰られた。

 生後6か月なら、離乳食で調整できるけれど、生後3か月でミルクを拒絶されたら、母乳不足感ママは不安になる。

 大人になって、食用旺盛な人をみると羨ましい。
 おそらく、食用旺盛な人って、元気だ。
 消化器系の内臓が丈夫でないと、食べられない。
 逆に、私のように、消化器系の内臓が貧弱だと、食べれない。食べたいけれど、ある一定量を超えるとお箸が進まなくなる。そして、元気ではない。

 いいんです。
 持って生まれた個性なんです。

 小さい頃、小食だったり、偏食な子どもは、それでいいんです。
 きっと、内臓が、その子なりに丈夫になってきたら、それなりに食べるようになる。無理やり食べさせてはいけない。内臓に負担になる。まだ、成長途中の内臓に負担をかけたら、大人になる頃に、病の領域に入ってしまうかもしれない。

 ただし、快便だけはめざそう。

 いい腸内細菌は、消化器系の内臓の強力な助っ人だから。
 いい腸内細菌は、大腸で、野菜を栽培し、お肉の元を育て、魚を釣ってくれる。

 いい腸内細菌の力を激減させる三大悪が、脂と砂糖と冷たい物。
 小食っ子や偏食っ子は、ちゃんとわけがあって、今、食べない。消化器系の内臓を守るために、食べないよう、カラダが味覚に磨きをかけて、カレー味の母乳を飲まないとか作り立ての離乳食しか食べない、白ご飯しか食べないという防衛手段に出たまでだ。

 自然の摂理。

 昨日のオリンピック開催式でも、多様性って言葉が出てきた。
 あなたはあなたのままでいいのよ。
 それが、多様性。
 多様性を認めるという理想郷を自然体で当たり前のように享受できる次世代を育てるために、まずは、ママが『育児で困った』を『あなたはあなたのままでいいのよ』という視点で一つ一つ丁寧にフィルターをかけてみるという挑戦をし続けるとその先に本物の多様性が見えてきそう。

 わたしなんて、口だけ人間で、中身が全然。
 
 多様性は、一日にして成らず。
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コロナワクチンというお題

2021年07月17日 | エッセー
 元々、ワクチンに入っているさまざまな添加物を口からではなく(肝臓で解毒するという工程を通過せず)いきなり血流に乗っかって、脳関門を通過する可能性への危惧により、ほんとうに命に直結する疾患のみ接種する派であった。
 普段、元気な人は、体調を整えるというような意識って、そうないと思う。アンテナも張らない。というか、張る必要性がない。元気なんだから。困っていないから。
 しかし、私は、元気な人の人生とはチガウ残念なカラダと共にほぼ半世紀を生きてきた。40年以上、どうしたら、元気の気をゲットできるか、ずっと、意識しながら生きてきた。ほんとうにしんどかったんだもの。
 ずっと、不調で、年に数回、みなぎる元気にお目に掛かれるかどうかの人生であった。おそらく、15歳の時の豆炭による低温やけどの治療に、強い抗生剤を4か月も飲み続けた結果、肝臓腎臓がかなり侵襲されたことが、体調不良のターニングポイントだと思う。それに追い打ちをかけて、受験勉強にまつわるストレスと不眠により自律神経失調ぎみなカラダと化し、元気渇望人間となってしまった。

 つまり、私は、これ以上、元気を私から奪わないでというスタンスで生きており、世の中のカラダが元気になる情報をキャッチし、選択する力が、幸か不幸かずば抜けている。

 もう、これ以上、私から元気を奪わないで・・・。

 という視点で、コロナワクチンをついつい観察してしまう。そういう視点でいると、そういう情報が私の目に飛び込んでくるという不思議なシステムが宇宙にはありそうだ。

 そして、飛び込んできた。
 近藤誠先生のコロナワクチンに関する本の新聞広告が・・・。

 ネットを見ていると、近藤先生以外にも、警告する人たちが少数ではあるけれど存在することがわかった。

 何が正しくて、何が間違っているかは、わからない。

 元々、ワクチンに入っているてんこ盛りな添加物の脳関門通過への懸念から、命に関わるものを選択していた私。
 でも、どうやら、遺伝子ワクチンは、そんな懸念をはるかに上回る懸念を抱かせるワクチンの可能性がありそうに見えてきた。
 普通、抗原抗体反応が起こるとき、RNAメッセンジャー遺伝子が関与するけれど、その関与時間は一瞬なのだそう。抗体ができたらすぐ消える。しかし、ワクチンによる抗原抗体反応を起こした場合は、まだ、敵がいない状態で抗体を作っておくというシステムなので、瞬時に消えないということが問題らしい。3か月くらいは、抗体を作り続けるらしい。
 そうすると、どうなるか。

 普通は、本物のウイルスが細胞レベルまで到達した時にのみ、抗原抗体反応が起きて敵をやっつけるのに、RNA遺伝子ワクチンの場合、3か月くらい、細胞で抗体が作り続けられることになる。
 問題は、敵がいないのに、ずっと、敵をやっつける役目の抗体が、自分の体内で敵を探してウロウロしていて、うずうずしているってこと。
 アレルギーも元々抗原抗体反応しやすい体質の人が、敵がいないので、自分のカラダに入ってきたダニとか卵とか本来なら敵とみなさないはずのたんぱく質を敵と誤認してしまい、抗原抗体反応を起こしてしまうという病気である。
 抗体が自分の体まで攻撃するくらい過剰に出てしまったら・・・。

 抗体は、必要な時に必要な量を出せてこそなんぼ。

 おそらく、敵もいないのに、てもちぶたさなワクチン接種によりできた抗体という軍隊は、ミャンマーのような司令塔を持ってしまうと自国民を簡単に殺してしまうがごとく、自分のカラダを攻撃してしまう。
 それを、自己免疫疾患という。
 難病。
 難病とは、治療法のない(対処療法しかない)治らない病気のことをいい、その多くが、自己免疫疾患である。
 リウマチ・筋萎縮性側索硬化症・多発性硬化症・ベーチェット病・パーキンソン病・・・などなど。日本では100種類以上の病気が難病指定されている。

 自衛隊かミャンマーの軍隊か。

 自分の打ったRNA遺伝子ワクチンが、自衛隊となるか、ミャンマーの軍隊のようになるか。
 
 わからない。

 というか、そもそも論。

 抗原抗体反応(軍隊)で敵をやっつけるのは、ほんとうに、最後の最後の手段なのだそう。
 まずは、カラダ全体を覆っている表皮部隊に所属する
 
 
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あなたは、何色レンジャー?

2021年07月03日 | エッセー
 しばらく、認知症になった母の一人暮らしをバックアップするために妹が帰ってきてくれている。子育てもすんだし、パートの仕事も辞めたので。
 その妹と母の関係は烈火のごとく・・・。
 ずっと、一緒にいたら参ってしまう。支援者の休息も必須だ。
 なので、週一晩は、私が看るようにしている。諸事情により、それ以上は難しいので。
 母は、まるで飛行機雲のように今しがたのことを瞬時に忘れていくから、思いどおりにちっとも行かないことに一日中イライラしてキレている妹の姿を見るのも切なくなってしまう。どちらかというと、こうあるべきだという思考の持ち主である妹にとっては、記憶プッツンのせいで、ちっともあるべき姿にならない、否、なれない母の行動、言動のそのすべてがいちいち気に障るらしい。わかっちゃいるけれど・・・・。
 母も一人じゃ何もできないのに、妹に出ていけ~~~と負けていない。
 この妹をバックアップしてくれているのが、母より3歳年下の妹である叔母だ。妹を助けてくれるのは、ありがたいけれど、一つだけ、人間としてしちゃいけないことをされて、母の怒りの火に油を注ぐような結末の繰り返しになっていて、最悪な状況に陥っている。

 私は、個人的体験から『イヤなことは個人でイヤだ言おう。いいことは、みんなですごいねって言おう。』という生き方をしたいと思っている。
 イヤなことは、当事者同士、1対1で言ってほしい。一人なら対決できるけれど、二人になると、エネルギーが直ぐ枯渇してしまう。1対1でマイナスなことを伝える人は、まっとうな人だし、まっとうな解決方法を望んでいる人だと思う。そこに、その人本人も気づかないベールに包まれた自分の心の闇というものが便乗しない。
 でも、二人がかりでマイナスなことを言ってくる人たちは、一人で言う人と人種がチガウ。全然違う。180度チガウ。自分でも気づかない心の闇を便乗して、正義の名のもとに発散したがっている人たちだ。
 
 妹が、母が精神科Drの前で凄かったとラインしてきた。その後に、一緒に母の精神科受診について来てくれた叔母も泣いたと・・・。
 どうして、叔母が泣いたのかと電話したら、Drの診察時に、母の醜態を母のいる前でDrに包み隠さず話す妹に母が激怒して『今すぐ、帰れ。私の家から出ていけ。』などと喚き散らして、凄いことになったと。そして、診察後に、叔母が『妹も頑張って面倒見てくれているんだから、出て行けなんて言わないで・・・。』と宥めてたところ、また、母が激怒したため、泣いてしまったのだと。
 母は、瞬間瞬間で生きている。
 その瞬間、ほんの少しでも、人権を尊重されていないような空気を察知したら、激怒する。
  認知症って、自分の感情コントロール不全症でもある。だから、上から目線ビームををキャッチしたら、瞬時にムカッと来て、怒りの導火線に0.001秒くらいのスピードで引火し、爆発する。
 仕方ない。
 つまり、今の母は、上から目線リトマス試験紙のようなものなのだ。

 困っていると訴えてくる人にする助言は、助言として成立する。
 しかし、困っている、どうしたらいい?って聞かれてもいないのに、勝手に(つまり、よかれと思って)助言するのは、助言とは言わない。余計なお世話という。
 叔母は、母に対して、認知症だから、上から目線意識で助言していたのだと思う。

 その精神科のDrは、信じられないくらい優しい。
 そんな優しいお医者さんに、母の面前で、妹は、母の認知症が故に出てしまう恥ずかしい行動を洗いざらい伝えた。
 誰だって、烈火のごとく怒ると思う。
 大恥をかかされたって。
 先生も先生だ。母を別室に連れて行ってから、家での母の様子を聞いてほしかった。
 そこに、追い打ちをかけて、叔母が妹を擁護を始めてしまったから、母が、怒り狂うのも当然だと思う。

 叔母の母を取りなす妹を擁護する言葉は、母にしてみれば、人権侵害の援護射撃だ。

 擁護=援護射撃

 仲裁に入るとき、誰かを守る言葉は、イコール誰かと対峙している誰かの援護射撃になる。
 
 えせ仲裁人にならないように、気を付けようと心に刻んだ。
 えせ仲裁人になりたがる人って、実は、本人も気がついていないいじめ心が潜んだいる可能性があると思う。

 しゃべりながら忘れていく母に対して、叔母はどれだけ残酷なことをしているのか気づかない。
 叔母は、母の認知症が進み始めたころ、昔、母の言葉にどれだけ傷ついたかという話を何度か私にしたことがある。人は、無意識に、何か正しい(と思われる)切符を手にすると無意識だけど、上手にいじめたくなるのかもしれない。妹を援護しているという正しい切符を手にした叔母の変わりようを見て、そう思う。

 人は、よかれと思って、仲裁に入る。

 もし、どちらか一方の意見に同調している場合は、仲裁に入るべからず。

 と、今、思った。

 仲裁どころか、反対側の人間にしてみれば、援護射撃にしか感じられず、ますます、頑なになってしまいそう。

 戦いは、1対1で。
 いいことは、みんなで。

 たったこれだけのことが、意外と難しい。
 
 ふと、〇〇レンジャーが思い浮かんだ。

 今も、〇〇レンジャーなる番組は放送されているのだろうか。
 今の今まで、赤レンジャーだけでは、敵を倒せないから、イエローやらブルーレンジャーと力を合わせて、敵をやっつけるということに何の違和感も持っていなかった。でも、もしかしたら、正義の名のもとに誰かを集団でいじめるのはOKという許可を無意識のうちに子どもたちの心に刷り込んでしまったかもしれない。親からの理不尽な八つ当たりのターゲットにされた子供たちにとっては、親に言い返せない怒りを誰かに八つ当たりしたくなるのは、自然。でも、餌食となってしまった人は、たまったもんじゃない。
 
 八つ当たりの連鎖。



 戦いは、1対1がかっこいい。
 1対多は、ダサい。卑怯だ。

 たったこれだけのメッセージが子どもたちの心に刻まれたら、世の中、かなり風通しがよくなるような気がする。

 ただ、組合は必要だ。
 権力を持つ者の不当な扱いに対しては、権力を持たざる弱き者は人数で勝負するしかないから。
 香港は、それでも、権力に負けてしまった。

 人それぞれ、その人を信じれるか、信じれないかを判断する基準があると思う。 
 私は、私にとってイヤなことを一人でこそっと非難めいた匂いのない雰囲気で言ってくれる人が、信じられる。
 褒めるときは、みんなの前で褒めてくれる人はなお信じられる。
 逆に、みんなの前で、私にとってイヤなことを言う人は信じない。
 ましてや、追いガツオのように、二人がかりで言ってくる二人目はもっと信じられない。
 二人目の追いガツオタイプは、自分の中にくすぶっている、あるいは封印している怒りを意識してか無意識なのか、誰かをかばうという正義の名のもとに堂々と八つ当たりしているだけの可能性大だと思う。
 いじめって、1対1のときは、まだ、シンプル。
 でも、追いガツオ君の登場で、複雑化していく。
 追いガツオ君が、二人3人と増えていくにつれ、それぞれの八つ当たり心が複雑に絡まっていって、いじめに発展していくのかもしれない。
 
 正義の名のもとに、いじめを正当化して、罪悪感なしに気持ちよくなれたら、こんないいことはない。世の中、追いガツオ君だらけだもん。いじめは、きっとなくならない。

私も肝に銘じた。
 基本、当事者のことは当事者に任せよう。
 仲裁って、こわい。

 親は、兄弟げんかの制裁をしてはいけない。
 ましてや、現場にいなかったとしたら、なおさらだ。
 
 以前、子どもの心理カウンセラーが、こうっしゃっていた。
 こどものけんか(おもちゃの取り合いなど)の場面では、負けた方の子に、おもちゃを取られてくやしいねぇ。

 それだけでいい・・・と。

 気持ちを汲んでもらえただけでいい。
 気持ちを汲んでもらえた分だけ、立ち向かっていくエネルギーを充電すると。

 けんかの仲裁は、しないでいい。
 しない方がいい。

 それにしても、夜中の雷の連打はすごかった。
 1時間以上、夜空が明るかった。
 時々、雷が鳴るのではない。時々、暗闇になるって感じで、世紀末を想像してしまった。

 地球が怒っている・・・。

 こんなことは初めて。

 雷が鳴るときは、めっちゃ雨が激しく降る。
 なので、朝6時過ぎまで、ずっと、バケツをひっくり返したような激しい雨が、休みなく降り続いた。普通は、激しい雨にも休息ってやつがある。それがないから恐怖だ。
 午前9時。
 いつものふつうの雨に戻った。
 おそらく、川が溢れることはないと思う。
 でも、上流なので、土砂災害がかなり心配。
 元々、雨の量の多い地域で、雨に強い土地ではあったけれど、さすがに、尋常じゃない雨量にこの土地が持ちこたえられるだろうかと心配。
 
 それにしても、あの連発雷。ありえない。
 未来はどうなる。

 異常気象はどこまで続くのだろう。

 
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