『幸せになる勇気』の最後は、愛について書かれてあった。
自分との関係、職場など多数のグループでの関係、そして、最後はふたりという人間関係から何を見出すか。
結婚は、ゴールではなくスタートである。何をスタートさせるかというとふたりという人間関係で『尊敬』を実践するというスタート。ここで言う尊敬とは、憧れとかああなりたいというようなものではなく、相手という人間の興味を持っているものに関心をもとうとする共感というスタンス。できれば、相手が好きなものをいっしょに体験して、できればできれば、いっしょに喜ぶことができたらなおいい。
ヒトは、成長する中で、『わたし』という自分との関係、自分の喜びの体験の次のステップとして、仕事という多数の人間関係での尊敬を基盤とした人間関係を培い、そして、最後は、結婚してふたりという人間関係から、自己主張の『私』が消えて、『わたしたち』という感覚になっていけるよう知恵を絞って、関係性を成長させていく・・・・という。
だから、結婚はゴールではなく『わたしたち』という関係性を築いていかんと宣言するスタート地点なのだそう。よく、結婚して、1+1=2でなく、3とか4になれるようになりたいと言う。内心『私もそうなりたかったなぁ。でも、現実は、2どころか1じゃん。』と結婚の厳しさを身に染みて感じている残念な私がいる。『わたし』が『わたしたち』になるって、どういうこと?
アドラーは、『われわれは、ひとりで成し遂げる課題、あるいは、20人で成し遂げる仕事については、教育を受けている。しかし、ふたりで成し遂げる課題については教育を受けていない』というのだそう。
愛とは、『ふたりで成し遂げる課題』
ふたりで幸福たる生を成し遂げる
幸福とは、貢献感である。
貢献感の中に幸せを見出そう。
貢献感の中に喜びを見出そう。
愛とは、不可分なる『わたしたちの幸せ』を築き上げること。
『わたし』や『あなた』よりも上位のものとして『わたしたち』がいる。
なるほど。
しかし、夫とふたりで幸福(つまり、他者への貢献感の中に幸せや喜びを見出す)たる生を成し遂げるって、わかるようでわからない。そもそも、夫に対して、あきらめ観が漂っているのに、全然、自分と別物みたいな感覚がなきにしもあらずな現状なのに、『わたしたち』のような感覚になれるものなのだろうか?今さら・・・・。
知り合った頃は、自分と違ういろんなものを持っているというところに惹かれて、夫の話すことに共感したり、わかろうとしたり、否、わかりたいと、自然発生的な感情が、そうさせていた。でも、結婚して子どもが生まれ、『生活』が中心になってくると、魅力だった『自分と違う』が『生活』を全然支えてくれないので、心が離れていった。確かに、知り合った頃は、『わたしたち』だったのに。
知り合った頃の、『わたしたち』の感覚をず~っと持ち続けている夫婦ってどれくらいいるのだろう?
結婚して、『わたし』だった人生の主語が、『わたしたち』に変われた夫婦・・・か・・・。羨ましい。
なぜ、『わたしたち』という感覚が、幸福につながるのか?
それは、『わたし』という感覚がなくなり、共同体感覚に一歩近づくからだそう。夫婦で『わたしたち』という他者貢献の感覚を手にする幸せを手に入れた人たちに、初めて、人類みな兄弟みたいな共同体感覚を身に着けることができるという。
トホホ・・・・・。
この世に生まれて成長するってプロセスは、まず、十分甘えてわがまま言えて・・という子ども時代を存分に過ごして『わたし』を確立し、その『わたし』ともう一つの『わたし』が結婚して、『わたし』という自我が消えて『わたしたち』という他者貢献により、共同体感覚を身に着けて、そして、最後に地域とか地球とかの共同体感覚へと導かれていく・・・・のだそう。
小さい頃、十分甘えられてわがままが言えなかったよい子は、『わたし』という土台がないので『わたしたち』まで行き着かないかも・・・。
私も夫も、どうだろう?小さい頃・・・。自己主張をちゃんとさせてもらえていたかな?
ほんとうにしてほしいことをしてもらえていたかな?
自分のほんとうの気持ちをのびのびと表現できていたかな?
赤ちゃんは、超自己中心の世界の住人で、全ての人間は、過剰なまでの自己中心性から出発する。そうでなくては生きていけないから。しかしながら、いつまでも世界の中心に君臨することはできない。
自立とは、『自己中心からの脱却』なのです。
でも、子ども時代をよい子で生きざるをえなかった人は、自己中心を選ぶ大人になってしまいやすい。
自分の弱さや不幸・傷・不遇なる環境、そして、トラウマを『武器』として、他者をコントロールしようと目論みます。心配させ、言動を束縛し、支配しようとします。
いるよね~。
こんな人。
自分との関係、職場など多数のグループでの関係、そして、最後はふたりという人間関係から何を見出すか。
結婚は、ゴールではなくスタートである。何をスタートさせるかというとふたりという人間関係で『尊敬』を実践するというスタート。ここで言う尊敬とは、憧れとかああなりたいというようなものではなく、相手という人間の興味を持っているものに関心をもとうとする共感というスタンス。できれば、相手が好きなものをいっしょに体験して、できればできれば、いっしょに喜ぶことができたらなおいい。
ヒトは、成長する中で、『わたし』という自分との関係、自分の喜びの体験の次のステップとして、仕事という多数の人間関係での尊敬を基盤とした人間関係を培い、そして、最後は、結婚してふたりという人間関係から、自己主張の『私』が消えて、『わたしたち』という感覚になっていけるよう知恵を絞って、関係性を成長させていく・・・・という。
だから、結婚はゴールではなく『わたしたち』という関係性を築いていかんと宣言するスタート地点なのだそう。よく、結婚して、1+1=2でなく、3とか4になれるようになりたいと言う。内心『私もそうなりたかったなぁ。でも、現実は、2どころか1じゃん。』と結婚の厳しさを身に染みて感じている残念な私がいる。『わたし』が『わたしたち』になるって、どういうこと?
アドラーは、『われわれは、ひとりで成し遂げる課題、あるいは、20人で成し遂げる仕事については、教育を受けている。しかし、ふたりで成し遂げる課題については教育を受けていない』というのだそう。
愛とは、『ふたりで成し遂げる課題』
ふたりで幸福たる生を成し遂げる
幸福とは、貢献感である。
貢献感の中に幸せを見出そう。
貢献感の中に喜びを見出そう。
愛とは、不可分なる『わたしたちの幸せ』を築き上げること。
『わたし』や『あなた』よりも上位のものとして『わたしたち』がいる。
なるほど。
しかし、夫とふたりで幸福(つまり、他者への貢献感の中に幸せや喜びを見出す)たる生を成し遂げるって、わかるようでわからない。そもそも、夫に対して、あきらめ観が漂っているのに、全然、自分と別物みたいな感覚がなきにしもあらずな現状なのに、『わたしたち』のような感覚になれるものなのだろうか?今さら・・・・。
知り合った頃は、自分と違ういろんなものを持っているというところに惹かれて、夫の話すことに共感したり、わかろうとしたり、否、わかりたいと、自然発生的な感情が、そうさせていた。でも、結婚して子どもが生まれ、『生活』が中心になってくると、魅力だった『自分と違う』が『生活』を全然支えてくれないので、心が離れていった。確かに、知り合った頃は、『わたしたち』だったのに。
知り合った頃の、『わたしたち』の感覚をず~っと持ち続けている夫婦ってどれくらいいるのだろう?
結婚して、『わたし』だった人生の主語が、『わたしたち』に変われた夫婦・・・か・・・。羨ましい。
なぜ、『わたしたち』という感覚が、幸福につながるのか?
それは、『わたし』という感覚がなくなり、共同体感覚に一歩近づくからだそう。夫婦で『わたしたち』という他者貢献の感覚を手にする幸せを手に入れた人たちに、初めて、人類みな兄弟みたいな共同体感覚を身に着けることができるという。
トホホ・・・・・。
この世に生まれて成長するってプロセスは、まず、十分甘えてわがまま言えて・・という子ども時代を存分に過ごして『わたし』を確立し、その『わたし』ともう一つの『わたし』が結婚して、『わたし』という自我が消えて『わたしたち』という他者貢献により、共同体感覚を身に着けて、そして、最後に地域とか地球とかの共同体感覚へと導かれていく・・・・のだそう。
小さい頃、十分甘えられてわがままが言えなかったよい子は、『わたし』という土台がないので『わたしたち』まで行き着かないかも・・・。
私も夫も、どうだろう?小さい頃・・・。自己主張をちゃんとさせてもらえていたかな?
ほんとうにしてほしいことをしてもらえていたかな?
自分のほんとうの気持ちをのびのびと表現できていたかな?
赤ちゃんは、超自己中心の世界の住人で、全ての人間は、過剰なまでの自己中心性から出発する。そうでなくては生きていけないから。しかしながら、いつまでも世界の中心に君臨することはできない。
自立とは、『自己中心からの脱却』なのです。
でも、子ども時代をよい子で生きざるをえなかった人は、自己中心を選ぶ大人になってしまいやすい。
自分の弱さや不幸・傷・不遇なる環境、そして、トラウマを『武器』として、他者をコントロールしようと目論みます。心配させ、言動を束縛し、支配しようとします。
いるよね~。
こんな人。