総合漢方にんぷ薬・総合漢方育児薬

~頭を使ってではなく、カラダ(感性)で子育てしてみませんか~

再犯 2 ほっとしたいよね。

2019年01月26日 | エッセー
 別のテレビで、少年院などを出て、身元引受人のいない子どもたちの身元引受人になって、一緒に暮らして世話をしながら、社会へ送り出すということをボランティアでしている40代の男性のお話があった。ある男性の再犯にうなだれていらっしゃる姿が印象的だった。
 その男性は、親戚の家という火宅で育ち、中一のとき人を刺して少年院へ。そして、彼に引き取られ、結局、抜け出して、また、人を刺してしまった。その時の彼の気持ち聞いたときに、あ~なんて苦しい人生なんだ・・・・といたたまれない気持ちになった。

 中1のとき、人を刺した瞬間、ほっとした。なんともいえない幸せな気持ちになった。
 あの幸せな気持ちへの恋焦がれるような気持ち、でも、それは絶対やってはいけないことという両価感情に引き裂かれる日々で、耐えられなくなり、後継人となってくれた恩人の家を出て刺した・・・・と。

 おそらく、生まれてから、ずっと、緊張を強いられる環境で育った彼は、安心してゆったりのんびりするという感覚を知らずに育ったのだろう。そして、中学校に入って、不安と緊張のくすぶりが限界に達して、誰かを刺してしまった。しかし、その瞬間、なぜだかほっとして、ものすごく快感が走ったそう。
 おそらく、刺した瞬間、12年分の緊張が一気に解けたという感覚を初体験してしまったのだと思う。
 人を刺すことで、初めて、一瞬だけれど、ほっとする。
 また、あのほっとするという幸せな気持ち・快感を体験したい。
 刺した日から、また、地獄が始まる。
 彼の12年間の緊張生活よりも、もっと過酷な1秒24時間、がまんという人生が始まってしまった。

 生い立ちが緊張空間であればあるほど、『ほっとする』ことの快感は、光輝く。
 だから、生い立ちが、自己主張をきちんと受け止めてもらえるというかいい意味でわがままが許される家庭環境だと、たいがい『ほっとしている』のだから、『ほっとする』って当たり前で、そこから先の好奇心や自分の人生について考えることができる。

 生い立ちが緊張空間で育った人と生い立ちが自己主張をきちんと受け止めてもらえて安心して過ごせた人との間のグラディエーションの中のどこかに、みな属する。

 もちろん、その子の持って生まれた特性というものもしっかりあって、育てにくい気質があると普通のお母さんでも叱ることが多くなる。すごく聞き分けのいい子だとあまり寛容でない性質のお母さん(例えば、部屋は散らかっていると許せないというような完璧主義的な気質をもったお母さんなど)でも怒らなくてすむ・・・など親子の取り合
わせでも緊張の質や時間は違ってくる。また、夫婦の姿によっても違ってくる。

 同じように育ったのに、犯罪者になる人とならない人がいる。
 きっと、それは、持って生まれた気質の違いよると思う。
 脳というか心の器が大きいか小さいか・・・。
 夫と長年暮らして、体験からそう思う。
 夫は、自称『器がおちょこくらいしかない人間』(笑)と自分のことをきちんと分析している。
 元々の目の前の興味を持ったことだけに心が奪われやすいという性質とそれゆえに怒られることも多いという叱られる量と不寛容な親による怒る熱量の三つがすべて重なってしまった結果が、キレキャラの夫を作り上げてしまった感がある。

 おそらく、世の中の、すぐ、怒る人やキレる人不機嫌になる人は、結果的に器の小さい人の可能性がある。頭はいいかもしれないけれど・・・。

 子育てで一番大事にしてほしいこと 
 それは、子どもにほっとする空間を保証すること。

 改めて、痛感!


 このテーマは深いんです。

 まずは、ママが、想像してみよう。
 この人のそばにいたら、なんだかほっとするよね。居心地いいよね。というような身近な人がいたら、よ~く観察してみよう。そして、真似してみよう。



育てにくいお子さんをもったママは、聞き分けのいいお子さんのママよりも、思い通りにかない分、腹が立つ機会が多くなる。でも、そこで、怒ってばっかりいたら、お子さんは、ただ怒られているという緊張のなかで日々生活してしまうことになる。そうすると、逆に、ほっとしたくて、もっと大変なことをしたがるかもしれない。無意識に。
 以前、テレビで自閉症のお子さんが、毎晩、夜中になると、海に連れて行けとせがんで、2時間くらい、ごつごつした岩場を手をつないで、をひたすら歩き続けるという生活に疲れ果ててしまっている母と子のドキュメンタリーをやっていた。え、毎晩?2時間も?想像を絶する生活に本当に驚いた。
 彼は、2時間、不安定な岩場を集中して歩き続けることで、一日の緊張を解きほぐしていたのだろうと今なら思える。自閉症のお子さんだって、多くのことを感じてる。でも、その感情をキャッチする力が弱いし、表現する力も弱い。だから、わけのわかんない感情を本人なりに編み出した方法で発散せざるを得なくなる。
 ただ、ただ、ほっとしたくて。

 共働きで、夕方から、子どもが寝付くまでの時間って嵐だ。
 女性が働き続けてもなお、子どもがおうちでほっとする場所となるようママに心と体の余裕を持たせるような背策を国に求めるばかり。
 

 ところで、相手が思い通りにならなくても気にならなくなる必殺技があります。
 これは、わたしの勝手な憶測ですが、たぶん、子どもが3人以上になると自然とそうなってしまう。
 おそらく多くのママたちは、一人目が生まれたら、その子のことばかりを考えてしまう。二人目も一人目と同じようにいい子育てをしたいと思いつつ、実際は、上の子が不憫で不憫で、心は上の子にありながら、下の子のお世話をせざるを得なくなる。そうすると、一日があっという間に終わって、私は今日、いったい何をしてたんだろうというジレンマに陥ってしまう。こんな状況で3人なんて考えられないと思っていたら、3人目ができちゃった。わ~、二人でこんなに大変なのに、3人なんて想像を絶すると産後の忙しさを想像しておののく。
 ところが、どっこい。3人目を産んだら、世話は忙しいんだけれど、なんだか、育児が楽しくなってきた。

 なぜ?
 なぜ?
 なぜ?

 それは、あきらめたから。
 ちゃんと育てないといけないという心の呪縛から、脱することができたから。
 優先順位をつける力も自然と身についている。
 おそらく、二人目までは、自分の描く子育て像をめざしてしまいがち。
 しかし、3人以上になると、そうは言ってられなくなる。
 見て見ぬ振りをしないと、生活が回っていかない。

 この見て見ぬふりという力は、限界に達しないとなかなか身に着く世界ではない。
 
 世の中では、このことを『寛容』という。


 今の時代、結婚とか子どもを産むとかいうようなお話って難しくなってきた。

 私の人生の終わりの姿は、何を言われても『大丈夫よ~。』と言えるような、あったかい座布団のようなおばあちゃん。

 つまり、寛容の極みの姿。


 昔、独身の頃、何をしても熱中できない自分に愛想がついて、何のために生きているのかという悩みのドツボにはまってしまったことがある。
 今、ようやくその答えに辿り着いた。

 寛容な人間になるために生きている・・・・・と。

 道は険しい。

 今なら言える。子育ては、自分の思い通りにならない子どもとのぶつかりげいこの日々のなかで、本当に心の底から、『あなたはあなたのままでいいのよ。』と思えるようになれる、優れた『寛容』ツールだと。


 

 


 

 
 
 
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再犯してしまうという哀しみ 1

2019年01月20日 | エッセー
 去年の暮れに、30代半ばの、元女子マラソン選手が、たった300円ちょっとの品物を万引きして捕まったという事件があった。
 マラソン選手時代摂食障害など心理的に心が不安定な時期のあった方で、万引きするようになったと。2年前に一度捕まり、再犯であったとも。
 そして、衝撃だったのが、2年前に一度捕まってから、毎日毎日、万引きしたい衝動にかられ、その衝動を抑えることがものすごいストレスで、捕まりたくて万引きをあえてしてしまったとおっしゃっていた。
 人間の哀しみを感じずにはいられなかった。
 2年間も、毎日毎日、こらえて生きるなんて地獄だ。欲しくて万引きするのとはわけが違う。いけないことと知りつつ、心をコントロールできない・・・というか、ゆったりとした気分でのんびり過ごすという時間を物理的には持てても心理的には持てない人生なんて・・。万引きをした一瞬の快感が、きっと、私だったら、100万円の宝くじに当たったくらいの快感なのかなぁ?マラソンってランナーズハイを感じるって言われている。ましてや、この方は、栄光も手にしたことがおありな方だ。そのハイな高揚感を一度体験すると、もともと摂食障害などという依存症を持っている場合、別な何かハイになるものがないと生きていきにくいのかなぁ?
 依存症って、本当にしんどいと思う。
 衝動を抑えるって本当にしんどい。
 常に、気持ちを抑えるなんて。
 万引きよりも快感を感じられる何かに出会ってほしい。
 何だろう?
 万引きって、スリルある。その一瞬、胸はドキドキ、バクバク。生きてるってめっちゃ感じるのかも。
 リストカットをする人も、血が流れる瞬間、生きているという実感が感じられると言う。
 ということは、そうしていない時、生きていない感じ、自分のことなのに他人事のように感じてしまうような感覚で暮らしているってことなのかなぁ?
 生い立ちの中で、自分らしくあることを否定されたというようなきっかけがあり、いい意味でのわがままを表現しないで、誰かの都合のいいように演じて(もちろん、本人は演じているつもりはないだろうけれど)生きることを続けていくと、だんだん、自分なのに自分でないような感覚に陥っていくかもしれない。そんな時、リストカットをして流れる血を見て、自分を取り戻すような。
本当の自分がよくわからなくなって、わけのわからない憂さに覆い包まれてどうにかなりそうな気持ちから一時的であるにせよ救ってくれるツールとして、依存症になるようなアルコールとか覚せい剤とかが存在するんだろうと思う。
 例えば、川で溺れかけたときの浮き輪のような。
 憂さの世界とは、溺れかけそうな世界なんだと想像する。


 単純に、溺れかけている時に、溺れ死なないために必要なものは、浮き輪である。これは間違いない。
 2度と溺れないためには、選択肢は二つしかない。
 一つは、一生、浮き輪を離さないで生きる。
 そして、もう一つは、多少の荒波でも溺れないくらいのプロレベルの水泳上手をめざす。

 つまり、一生、アルコールや覚せい剤やギャンブルの生活を送る。
 もしくは、人がこの世に生まれた意味を洞察し自分のありのままの姿を直視するという苦しみを乗り越え、おそらく、誰かの喜びのために奉仕することに喜びを感じるレベルまで、自分自身を高めていくという道を選ぶか・・・。

 いやはや、後者は、難度が高すぎる。

 でも、おそらく、溺れないためには、この二つの選択肢しかないのではなかろうか。

 世の中には、『ありがとう』って言われるとうれしくって・・・と人のために一生懸命な方がいらっしゃる。

 私自身も、そうありたい。
 でも、日々、生活に忙しくって、たまに、思い出したかのようにちょこっとするレベルで、相当、人間性は低いかな。
 


 
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いじわるな人の友達観がわからない

2019年01月06日 | エッセー
 不思議だなぁと最近、思うことがある。

 それは、いじめる人同士が、どうして仲いいのか。
 私は、いじめる人や、イソップ物語のこうもりみたいに、その人のいないところで悪口陰口を言う人などが、仲良くなるということが想像つかない。一方が誰かをいじめているということを認識しているにもかかわらず、アフターファイブでもお付き合いしちゃえるということが本当にわからない。
 せめて、アフターファイブは、意地悪でない人と付き合いたい。
 自分の心の中にも、いやらしい心が住み着いているのは、十分すぎるほどわかっている。それでも、それを口に出さないという覚悟でもって、どうにかこうにか美しいものに向かって生きていかんとしている。人のうわさ話や悪口が蜜の味だということもわからないではない。でも、言ってしまって、後味が悪いこともわかっている。いじめられてきついとき、たまに、話を聞いてもらいたくて愚痴ることがある。聞いてもらえて共感してもらえたら、すっきりするけれど、少し、心が汚染されたような気持ちになる。

 この人はいじめる人だと認識しながら、どうして、そんな信用のおけない人とアフターファイブも付き合えるのかなぁ~。人をいじめるような人とどうして一緒にいたいのかなぁ~。私は、この人と一緒にいると、心が休まるなぁとか心豊かになるなぁというような人といたいから、想像がつかない。



 私を見ると、条件反射でいじめたくなるんだろうなと思しき人が二人、この世にいる。二人は仲よさげに見える。
 一人は、正論という名の武器を巧みに使い、攻撃をしかけてくる。しかも、これでもか、これでもかとすごい剣幕になる。いつ治まるのだろうかと懸念するくらい。当人に言うだけでは気持ちが治まらない時は、誰か彼かに、きっと、私のことを非難しているんだろうな~と言うようなオーラを出しながら、なんかしゃべっている。聞えよがし・・・というのであろうか。結構、尾を引いている感がある。
 仕事のことで、彼女の持論と違うことを私が口にしたとたん、彼女の中のいじめ心の導火線に火が付くよう。
 いじめる人は、無意識に心の奥深いところに存在するいじめ心に点火する回路が出来上がっているんだろうなぁと彼女を見ていて思う。
 大声で、正論を私にぶつけて、私の考えがおかしいということを周りにもピーアールする。

 もう一人は、何かイライラすることがあると、不機嫌になる。ほかの人にも不機嫌だけれど、私に対しては、日頃より、目の上のたん瘤のごとく目障りのようで、こと強い。

 イライラしやすい人なんだろうか。

 私は、このイライラという感覚を体験することが人よりも、どうも、少ないような気がする。
 自分の前の車が法定速度より遅く走っているときくらいかなぁ、イライラという感覚が表出するのは。
 
 イライラしやすい人や急に不機嫌になる人は、おそらく、わけのわかんない心のモヤモヤが根雪のようにくすぶり続けていている人なんじゃないだろうか。幼い頃、まだ、言葉にできない頃に言えなかった『イヤだ』の気持ちの塊。
 ふつう、今、起こっている事象そのものだけで、一日中、イライラが尾を引くということはないんじゃないかなぁと思う。
 
 たぶん、私は、幼い頃、そんなにくすぶる必要のない恵まれた環境にあったのかもしれない。ただし、再生のチャンスの思春期に、すぐシュンとなって暗くなる母親により、『くそばばぁ・別に・・・うざい』という怒の3点セットが言えなくなって、喜怒哀楽の怒の感情が未分化のまま大人になってしまったけれど。そう。思春期の『くそばばぁ・別に・・・うざい』という怒の3点セットは、怒の感情を分化させ、発達させ、喜怒哀楽の感情のバランス感覚を豊かにさせる素敵なツール。
 ごく幼い頃、自分が生き残るために、親にとっていい子(つまり、都合のいい子)を選択した人は、抑えた怒りの感情を背負って、その上に日常の感情をその背負って生きていく。おそらく、抑えた怒の感情がイライラの正体なのではないだろうか。
 一方、私のように、思春期に反抗できなかった人も、怒りの感情を上手に分化できなくて、未分化のまま、嫌なことをきちんと『イヤだ』というに当たり前のことに勇気のいる人生を背負って生きていく。
 イライラタイプの人は、溜まったイライラを発散したくてうずうずしている時は、自分から、点火スイッチを押しに行く。そのためには、なんでもいい、大義名分が必要だ。調度いいターゲットのちょっとした言動や振る舞いを非難する口実として、点火のきっかけをねらっているんじゃないかと思う。無意識に。

 きっと、くすぶっていた怒りの感情を発散した瞬間の快感ってたまらないんだと思う。
 病みつきになっているんじゃないだろうか。
 病みつき・・・・か。
 いじめとか批判で発散する人って、ひょっとして、ギャンブル依存症・アルコール依存症・覚せい剤・摂食障害・盗撮・万引きなどの依存症と同じように、その快感に病みつきになってしまっている人かもしれない。
 だとすると、いじめて発散する人は、そうそう変われない。パワハラとかも、きっとそう。
 アルコール依存症の人が断酒を続けるって至難の業だもの。毎日、毎日、ビールを飲みたいという衝動が起こる。けれど、それを、毎日毎日、抑えて、今日飲まないと選択している人生だという。飲むも地獄、飲まないも地獄なのだと聞かされて、生きることのしんどさを痛感した。だいたい、多くのアルコール依存症の人は、自分はアルコール依存症ではないと否認する。脳の回路がどうなっているのか。でも、否認しないと、毎日、浴びるほど飲めない。人には良心というものがあるから。否認しないと罪悪感にさいなまされて苦しい。
 もしかしたら、いじめる人も、自分はいじめてなんかいない。この人が、気が利かないから・・などと本気で思っているんじゃないだろうか。否認という点では、依存症を克服しようなんてちっとも思っていない人達と同じような脳の回路を形成しているのかもしれない。

 しかも、アルコール依存症の人よりも、質が悪い気がする。
 アルコール依存症の人は、周りの人も依存症というレッテルを貼ることが容易であるが、今のことろ、いじめとかパワハラなどは、依存症という診断名は医学的につかないから。アルコールとか覚せい剤とかギャンブルは、溺れるまで行ってしまうので、身内を不幸にしてしまうけれど、いじめる人って、溺れるレベルまでにはならない。どうして、溺れないのかなぁ。いじめやパワハラが溺れるところまで行ってしまうと虐待ととなるのだろうか。
 
 ながながと書いてしまった。
 でも、結局のところ、わからない。
 大人になって、お互い、誰かをいじめている人だとわかっていながら、アフターファイブでも仲良くできちゃえるという、その不思議。

 八つ当たりして快感を感じる回路を形成してしまった人は、セットで、否認という脳の回路も形成していて、自分の心を客観的にみる力が無意識に操作されて、好意を持っている友人が誰かをいじめている姿をみても、認めないよう鈍麻してしまって、良心が雲で覆われて、ありのままの自分が見えなくなってしまっているのだろうか。

 


 
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