別のテレビで、少年院などを出て、身元引受人のいない子どもたちの身元引受人になって、一緒に暮らして世話をしながら、社会へ送り出すということをボランティアでしている40代の男性のお話があった。ある男性の再犯にうなだれていらっしゃる姿が印象的だった。
その男性は、親戚の家という火宅で育ち、中一のとき人を刺して少年院へ。そして、彼に引き取られ、結局、抜け出して、また、人を刺してしまった。その時の彼の気持ち聞いたときに、あ~なんて苦しい人生なんだ・・・・といたたまれない気持ちになった。
中1のとき、人を刺した瞬間、ほっとした。なんともいえない幸せな気持ちになった。
あの幸せな気持ちへの恋焦がれるような気持ち、でも、それは絶対やってはいけないことという両価感情に引き裂かれる日々で、耐えられなくなり、後継人となってくれた恩人の家を出て刺した・・・・と。
おそらく、生まれてから、ずっと、緊張を強いられる環境で育った彼は、安心してゆったりのんびりするという感覚を知らずに育ったのだろう。そして、中学校に入って、不安と緊張のくすぶりが限界に達して、誰かを刺してしまった。しかし、その瞬間、なぜだかほっとして、ものすごく快感が走ったそう。
おそらく、刺した瞬間、12年分の緊張が一気に解けたという感覚を初体験してしまったのだと思う。
人を刺すことで、初めて、一瞬だけれど、ほっとする。
また、あのほっとするという幸せな気持ち・快感を体験したい。
刺した日から、また、地獄が始まる。
彼の12年間の緊張生活よりも、もっと過酷な1秒24時間、がまんという人生が始まってしまった。
生い立ちが緊張空間であればあるほど、『ほっとする』ことの快感は、光輝く。
だから、生い立ちが、自己主張をきちんと受け止めてもらえるというかいい意味でわがままが許される家庭環境だと、たいがい『ほっとしている』のだから、『ほっとする』って当たり前で、そこから先の好奇心や自分の人生について考えることができる。
生い立ちが緊張空間で育った人と生い立ちが自己主張をきちんと受け止めてもらえて安心して過ごせた人との間のグラディエーションの中のどこかに、みな属する。
もちろん、その子の持って生まれた特性というものもしっかりあって、育てにくい気質があると普通のお母さんでも叱ることが多くなる。すごく聞き分けのいい子だとあまり寛容でない性質のお母さん(例えば、部屋は散らかっていると許せないというような完璧主義的な気質をもったお母さんなど)でも怒らなくてすむ・・・など親子の取り合
わせでも緊張の質や時間は違ってくる。また、夫婦の姿によっても違ってくる。
同じように育ったのに、犯罪者になる人とならない人がいる。
きっと、それは、持って生まれた気質の違いよると思う。
脳というか心の器が大きいか小さいか・・・。
夫と長年暮らして、体験からそう思う。
夫は、自称『器がおちょこくらいしかない人間』(笑)と自分のことをきちんと分析している。
元々の目の前の興味を持ったことだけに心が奪われやすいという性質とそれゆえに怒られることも多いという叱られる量と不寛容な親による怒る熱量の三つがすべて重なってしまった結果が、キレキャラの夫を作り上げてしまった感がある。
おそらく、世の中の、すぐ、怒る人やキレる人不機嫌になる人は、結果的に器の小さい人の可能性がある。頭はいいかもしれないけれど・・・。
子育てで一番大事にしてほしいこと
それは、子どもにほっとする空間を保証すること。
改めて、痛感!
このテーマは深いんです。
まずは、ママが、想像してみよう。
この人のそばにいたら、なんだかほっとするよね。居心地いいよね。というような身近な人がいたら、よ~く観察してみよう。そして、真似してみよう。
育てにくいお子さんをもったママは、聞き分けのいいお子さんのママよりも、思い通りにかない分、腹が立つ機会が多くなる。でも、そこで、怒ってばっかりいたら、お子さんは、ただ怒られているという緊張のなかで日々生活してしまうことになる。そうすると、逆に、ほっとしたくて、もっと大変なことをしたがるかもしれない。無意識に。
以前、テレビで自閉症のお子さんが、毎晩、夜中になると、海に連れて行けとせがんで、2時間くらい、ごつごつした岩場を手をつないで、をひたすら歩き続けるという生活に疲れ果ててしまっている母と子のドキュメンタリーをやっていた。え、毎晩?2時間も?想像を絶する生活に本当に驚いた。
彼は、2時間、不安定な岩場を集中して歩き続けることで、一日の緊張を解きほぐしていたのだろうと今なら思える。自閉症のお子さんだって、多くのことを感じてる。でも、その感情をキャッチする力が弱いし、表現する力も弱い。だから、わけのわかんない感情を本人なりに編み出した方法で発散せざるを得なくなる。
ただ、ただ、ほっとしたくて。
共働きで、夕方から、子どもが寝付くまでの時間って嵐だ。
女性が働き続けてもなお、子どもがおうちでほっとする場所となるようママに心と体の余裕を持たせるような背策を国に求めるばかり。
ところで、相手が思い通りにならなくても気にならなくなる必殺技があります。
これは、わたしの勝手な憶測ですが、たぶん、子どもが3人以上になると自然とそうなってしまう。
おそらく多くのママたちは、一人目が生まれたら、その子のことばかりを考えてしまう。二人目も一人目と同じようにいい子育てをしたいと思いつつ、実際は、上の子が不憫で不憫で、心は上の子にありながら、下の子のお世話をせざるを得なくなる。そうすると、一日があっという間に終わって、私は今日、いったい何をしてたんだろうというジレンマに陥ってしまう。こんな状況で3人なんて考えられないと思っていたら、3人目ができちゃった。わ~、二人でこんなに大変なのに、3人なんて想像を絶すると産後の忙しさを想像しておののく。
ところが、どっこい。3人目を産んだら、世話は忙しいんだけれど、なんだか、育児が楽しくなってきた。
なぜ?
なぜ?
なぜ?
それは、あきらめたから。
ちゃんと育てないといけないという心の呪縛から、脱することができたから。
優先順位をつける力も自然と身についている。
おそらく、二人目までは、自分の描く子育て像をめざしてしまいがち。
しかし、3人以上になると、そうは言ってられなくなる。
見て見ぬ振りをしないと、生活が回っていかない。
この見て見ぬふりという力は、限界に達しないとなかなか身に着く世界ではない。
世の中では、このことを『寛容』という。
今の時代、結婚とか子どもを産むとかいうようなお話って難しくなってきた。
私の人生の終わりの姿は、何を言われても『大丈夫よ~。』と言えるような、あったかい座布団のようなおばあちゃん。
つまり、寛容の極みの姿。
昔、独身の頃、何をしても熱中できない自分に愛想がついて、何のために生きているのかという悩みのドツボにはまってしまったことがある。
今、ようやくその答えに辿り着いた。
寛容な人間になるために生きている・・・・・と。
道は険しい。
今なら言える。子育ては、自分の思い通りにならない子どもとのぶつかりげいこの日々のなかで、本当に心の底から、『あなたはあなたのままでいいのよ。』と思えるようになれる、優れた『寛容』ツールだと。
その男性は、親戚の家という火宅で育ち、中一のとき人を刺して少年院へ。そして、彼に引き取られ、結局、抜け出して、また、人を刺してしまった。その時の彼の気持ち聞いたときに、あ~なんて苦しい人生なんだ・・・・といたたまれない気持ちになった。
中1のとき、人を刺した瞬間、ほっとした。なんともいえない幸せな気持ちになった。
あの幸せな気持ちへの恋焦がれるような気持ち、でも、それは絶対やってはいけないことという両価感情に引き裂かれる日々で、耐えられなくなり、後継人となってくれた恩人の家を出て刺した・・・・と。
おそらく、生まれてから、ずっと、緊張を強いられる環境で育った彼は、安心してゆったりのんびりするという感覚を知らずに育ったのだろう。そして、中学校に入って、不安と緊張のくすぶりが限界に達して、誰かを刺してしまった。しかし、その瞬間、なぜだかほっとして、ものすごく快感が走ったそう。
おそらく、刺した瞬間、12年分の緊張が一気に解けたという感覚を初体験してしまったのだと思う。
人を刺すことで、初めて、一瞬だけれど、ほっとする。
また、あのほっとするという幸せな気持ち・快感を体験したい。
刺した日から、また、地獄が始まる。
彼の12年間の緊張生活よりも、もっと過酷な1秒24時間、がまんという人生が始まってしまった。
生い立ちが緊張空間であればあるほど、『ほっとする』ことの快感は、光輝く。
だから、生い立ちが、自己主張をきちんと受け止めてもらえるというかいい意味でわがままが許される家庭環境だと、たいがい『ほっとしている』のだから、『ほっとする』って当たり前で、そこから先の好奇心や自分の人生について考えることができる。
生い立ちが緊張空間で育った人と生い立ちが自己主張をきちんと受け止めてもらえて安心して過ごせた人との間のグラディエーションの中のどこかに、みな属する。
もちろん、その子の持って生まれた特性というものもしっかりあって、育てにくい気質があると普通のお母さんでも叱ることが多くなる。すごく聞き分けのいい子だとあまり寛容でない性質のお母さん(例えば、部屋は散らかっていると許せないというような完璧主義的な気質をもったお母さんなど)でも怒らなくてすむ・・・など親子の取り合
わせでも緊張の質や時間は違ってくる。また、夫婦の姿によっても違ってくる。
同じように育ったのに、犯罪者になる人とならない人がいる。
きっと、それは、持って生まれた気質の違いよると思う。
脳というか心の器が大きいか小さいか・・・。
夫と長年暮らして、体験からそう思う。
夫は、自称『器がおちょこくらいしかない人間』(笑)と自分のことをきちんと分析している。
元々の目の前の興味を持ったことだけに心が奪われやすいという性質とそれゆえに怒られることも多いという叱られる量と不寛容な親による怒る熱量の三つがすべて重なってしまった結果が、キレキャラの夫を作り上げてしまった感がある。
おそらく、世の中の、すぐ、怒る人やキレる人不機嫌になる人は、結果的に器の小さい人の可能性がある。頭はいいかもしれないけれど・・・。
子育てで一番大事にしてほしいこと
それは、子どもにほっとする空間を保証すること。
改めて、痛感!
このテーマは深いんです。
まずは、ママが、想像してみよう。
この人のそばにいたら、なんだかほっとするよね。居心地いいよね。というような身近な人がいたら、よ~く観察してみよう。そして、真似してみよう。
育てにくいお子さんをもったママは、聞き分けのいいお子さんのママよりも、思い通りにかない分、腹が立つ機会が多くなる。でも、そこで、怒ってばっかりいたら、お子さんは、ただ怒られているという緊張のなかで日々生活してしまうことになる。そうすると、逆に、ほっとしたくて、もっと大変なことをしたがるかもしれない。無意識に。
以前、テレビで自閉症のお子さんが、毎晩、夜中になると、海に連れて行けとせがんで、2時間くらい、ごつごつした岩場を手をつないで、をひたすら歩き続けるという生活に疲れ果ててしまっている母と子のドキュメンタリーをやっていた。え、毎晩?2時間も?想像を絶する生活に本当に驚いた。
彼は、2時間、不安定な岩場を集中して歩き続けることで、一日の緊張を解きほぐしていたのだろうと今なら思える。自閉症のお子さんだって、多くのことを感じてる。でも、その感情をキャッチする力が弱いし、表現する力も弱い。だから、わけのわかんない感情を本人なりに編み出した方法で発散せざるを得なくなる。
ただ、ただ、ほっとしたくて。
共働きで、夕方から、子どもが寝付くまでの時間って嵐だ。
女性が働き続けてもなお、子どもがおうちでほっとする場所となるようママに心と体の余裕を持たせるような背策を国に求めるばかり。
ところで、相手が思い通りにならなくても気にならなくなる必殺技があります。
これは、わたしの勝手な憶測ですが、たぶん、子どもが3人以上になると自然とそうなってしまう。
おそらく多くのママたちは、一人目が生まれたら、その子のことばかりを考えてしまう。二人目も一人目と同じようにいい子育てをしたいと思いつつ、実際は、上の子が不憫で不憫で、心は上の子にありながら、下の子のお世話をせざるを得なくなる。そうすると、一日があっという間に終わって、私は今日、いったい何をしてたんだろうというジレンマに陥ってしまう。こんな状況で3人なんて考えられないと思っていたら、3人目ができちゃった。わ~、二人でこんなに大変なのに、3人なんて想像を絶すると産後の忙しさを想像しておののく。
ところが、どっこい。3人目を産んだら、世話は忙しいんだけれど、なんだか、育児が楽しくなってきた。
なぜ?
なぜ?
なぜ?
それは、あきらめたから。
ちゃんと育てないといけないという心の呪縛から、脱することができたから。
優先順位をつける力も自然と身についている。
おそらく、二人目までは、自分の描く子育て像をめざしてしまいがち。
しかし、3人以上になると、そうは言ってられなくなる。
見て見ぬ振りをしないと、生活が回っていかない。
この見て見ぬふりという力は、限界に達しないとなかなか身に着く世界ではない。
世の中では、このことを『寛容』という。
今の時代、結婚とか子どもを産むとかいうようなお話って難しくなってきた。
私の人生の終わりの姿は、何を言われても『大丈夫よ~。』と言えるような、あったかい座布団のようなおばあちゃん。
つまり、寛容の極みの姿。
昔、独身の頃、何をしても熱中できない自分に愛想がついて、何のために生きているのかという悩みのドツボにはまってしまったことがある。
今、ようやくその答えに辿り着いた。
寛容な人間になるために生きている・・・・・と。
道は険しい。
今なら言える。子育ては、自分の思い通りにならない子どもとのぶつかりげいこの日々のなかで、本当に心の底から、『あなたはあなたのままでいいのよ。』と思えるようになれる、優れた『寛容』ツールだと。