脱皮には、必要条件があると思う。
それは、
葛藤。
脱皮に必要な最低必要条件であり、最大必要条件とは、葛藤だと私は思う。
葛藤のない脱皮は、ありえないかもしれない。
だから、物わかりのとても話のわかる父親がいいのかどうかよくわからなくなることがある。
そんなに、いい父親でなくても子は育つような気がするのだ。
というか、物わかりのいい尊敬できる父親だと葛藤が生じにくいので、ひょっとして、ひょっとして男の子にとっては、長~い目で見たらわからない。
葛藤のない思春期を通り過ぎた人は、いつかどこかで、やっぱり自分の中に潜む葛藤クンと出会う宿命にある。
思春期に出逢うべき葛藤クンは思春期に出逢っていた方がいい。
歳だけ喰っているのに、思春期に出逢うべき葛藤クンを据え置き状態にしていると、重症化して、乗り越えられなくなる可能性も出てくるからだ。
ここ5~6年のママたちの子育て不安は並大抵ではない場合が多く、驚いている。
私が、保健師になった頃のママたちって、こんなに子育てに悩んでいたのかなぁ?今のお母さんたちって、どうしてこんなに子育てに不安なのだろうか・・・・。
でも、今、ピピーンと来た。
彼女たちは、ひょっとして、もしかしたら、思春期に乗り越えるべき葛藤クンに、今、出逢っているのではないか・・・・・と。
つづく
葛藤クンは、どんな時に意識に浮上してくるのだろうか?
思うに、大人になるって、理想の自分と現実の自分の落差を認識したとき、その落差にため息をつきながらも、『調度いい』を自然体で選べ、自分なりに折り合いをつけていける力を身に着けるってことじゃないだろうか。
それは、決して、理想をあきらめるわけではない。現実の自分を非難するわけでもない。だから、ため息はつくけれど、ま、いいか、今、自分ができることを精一杯やってみようと、今の自分を肯定し、今を精一杯生きることに意識を向け生きて行こうと思う。だから、苦しくはない。
思春期って、自分は、自己主張の塊で、はたから見ると結構わがままなくせに、親や先生という大人に対しては、理想像とかけ離れていることが許せないっていう、発達段階だと思う。
理想と現実の自分のギャップが、意識に浮上していないから、自分もいっぱしのつもりでいるのか。
葛藤は、自分の思い通りにいかない現実に遭遇した時、理想の自分になれない自分を認められず、理想の自分になれない自分はダメな自分だと落ち込み、現実の自分と理想の自分に折り合いをつけられない時に生じるような気がする。
したがって、小さい頃より、もともとの性格なのか家庭環境などによるものかはわからないけれど、いい子でいた子は、葛藤に慣れていない。だって、ぶつかっていないもの。葛藤を無意識の世界に封印して・・・・。
葛藤は、石ころに躓い足り転んだりして痛い思いをしたときに、初めて認識されるもの。
だから、小さい頃より、石ころを避けて、いい子にしてきた子は、葛藤にきちんと向き合っていないため、葛藤に慣れていない。
小さな頃より、小さな葛藤クンにきちんと出逢って、傷が小さいうちに、現実の自分と調度いいの折り合いをつけていくことのできた人は、葛藤免疫を取得し、どんな困難がやってきてもどうにか前を向いて生きてゆけるような気がする。
葛藤免疫の少ない、どちらかというといい子だった女性がママになり、夜泣きやだだこねなどで子どもがちっとも自分の思いどおりにならない、つまり、優等生な子どもでいてくれない現実に初めて遭遇すると、理想の優しい愛情豊かないい母親と現実のヒステリックでややもするとわが子に手をあげたくなる衝動にかられるおっそろしい現実の自分のギャップに超苦しむことになる。
つづく
おめでとう。
人生初の葛藤クンと出逢えてよかったね。
石ころに出逢わないとつまずかない。
思いどおりにいかない子どもってやつは、石ころみたいなものなのだ。
我が家の四男は、ごっつい岩。
でも、よくよく考えると、このごっつい岩だと思っている四男自身は、実は、今、学校という富士山と葛藤しているのだと思う。
私なんかより、はるかに大きな。
ほんとうは、四男を応援しなくてはいけないのだけれど、子育てを延々20年も続けていると、いい加減、自分にご褒美の時間がないと息切れしちゃう。息切れ状態で、人を支援なんてできない。
葛藤クンとの出合いは、出逢いであって出遭いではない。
もちろん、出合っているときは、出遭いだと勘違いをしちゃうのが、人間ってやつだけど、自然治癒力に任せて嵐が過ぎるのをひたすら待てば、葛藤クンとの出合いは出逢いだったと気付く。
本来なら、思春期で出逢うべき葛藤に、大人になってから出逢うと、症状が重い。
下手をすると、うつ状態になってしまう。
前にも書いたけれど、ほんまでっかで「思春期になって、『くそばばぁ!』『うっぜ~。』『べつに…。』とわが子が言い出したら、子育ては大成功です。」とある方がおっしゃていた。たぶん、彼らが、『くそばばぁ!』という時、まさに、葛藤と出逢って、必死で免疫を作っている時なのだと思う。
インフルエンザもひどいのにかかると、その後、10年くらいは、インフルエンザにかからない。かかっても非常に軽いってよく耳にする。はしかだと終生免疫って言われていた。
思春期に、ひどい葛藤があると(荒れると)それを乗り越えた時は、終生葛藤免疫がつく。
人生で起こるどんな災難も乗り越えられるようなたくましい葛藤免疫を獲得できるのではないかと思う。
だからこそ、思春期の葛藤という流行病にかかったときの養生のコツを間違うと大変なことになる。はしかも養生のコツを知らないと命に直結する。はしかは、『風にあたるな!」つまり、はしかになったら、熱を下げない・冷やさないことが、こつのこつ。外に出て風に当たるとカラダが冷えて、ウイルスが勢力を増す。でも、一度はしかにかかると、はしかだけではなく、呼吸器そのものが強くなり、相対的に細菌やウイルスへの抵抗力もアップする。
思春期の葛藤の養生のコツってなんだろう?
よく言われるのは、家に子どもが不機嫌そうなオーラをビンビン出しながら、学校から帰宅して、「ただいま」も言わず自室に入ってふて寝して、なかなか部屋から出てこない時、ギャーギャーしつけ論で攻撃しないこと・・・だそう。
つまり、そっとしておくこと。
温かく見守ってあげること・・・・・・落ち着くまで。
ほっとステーション・・・・・・的な家でさえあれば、あとは嵐が去るのを待てばいい。
あとは、時間。
子育てで発生した、いいママになりたい葛藤免疫の少ないママの悶々も、“時”が解決してくれるはず。
時とは、自分の中にある自然治癒力のチカラを信じて待つということ。
悶々鬱々というのは、葛藤免疫が作動し始めたという証拠なんだから。
つづく
それにしても、免疫って大事だね。
思春期に獲得すべき葛藤免疫を獲得できないで、思春期をやり過ごしても、結局、人生のどこかで出逢うべくして出会うもの。だとしたら、親は、子どもにとって、思春期の壁となって立ちはだかり、思春期に思春期らしい葛藤を味あわせてあげることも、大切な親の役目なのかもしれない。
あんまり、物わかりのいい親も考えもの・・・・だね。
だから、親ってそんなにりっぱでなくってもいいのかも。
それは、
葛藤。
脱皮に必要な最低必要条件であり、最大必要条件とは、葛藤だと私は思う。
葛藤のない脱皮は、ありえないかもしれない。
だから、物わかりのとても話のわかる父親がいいのかどうかよくわからなくなることがある。
そんなに、いい父親でなくても子は育つような気がするのだ。
というか、物わかりのいい尊敬できる父親だと葛藤が生じにくいので、ひょっとして、ひょっとして男の子にとっては、長~い目で見たらわからない。
葛藤のない思春期を通り過ぎた人は、いつかどこかで、やっぱり自分の中に潜む葛藤クンと出会う宿命にある。
思春期に出逢うべき葛藤クンは思春期に出逢っていた方がいい。
歳だけ喰っているのに、思春期に出逢うべき葛藤クンを据え置き状態にしていると、重症化して、乗り越えられなくなる可能性も出てくるからだ。
ここ5~6年のママたちの子育て不安は並大抵ではない場合が多く、驚いている。
私が、保健師になった頃のママたちって、こんなに子育てに悩んでいたのかなぁ?今のお母さんたちって、どうしてこんなに子育てに不安なのだろうか・・・・。
でも、今、ピピーンと来た。
彼女たちは、ひょっとして、もしかしたら、思春期に乗り越えるべき葛藤クンに、今、出逢っているのではないか・・・・・と。
つづく
葛藤クンは、どんな時に意識に浮上してくるのだろうか?
思うに、大人になるって、理想の自分と現実の自分の落差を認識したとき、その落差にため息をつきながらも、『調度いい』を自然体で選べ、自分なりに折り合いをつけていける力を身に着けるってことじゃないだろうか。
それは、決して、理想をあきらめるわけではない。現実の自分を非難するわけでもない。だから、ため息はつくけれど、ま、いいか、今、自分ができることを精一杯やってみようと、今の自分を肯定し、今を精一杯生きることに意識を向け生きて行こうと思う。だから、苦しくはない。
思春期って、自分は、自己主張の塊で、はたから見ると結構わがままなくせに、親や先生という大人に対しては、理想像とかけ離れていることが許せないっていう、発達段階だと思う。
理想と現実の自分のギャップが、意識に浮上していないから、自分もいっぱしのつもりでいるのか。
葛藤は、自分の思い通りにいかない現実に遭遇した時、理想の自分になれない自分を認められず、理想の自分になれない自分はダメな自分だと落ち込み、現実の自分と理想の自分に折り合いをつけられない時に生じるような気がする。
したがって、小さい頃より、もともとの性格なのか家庭環境などによるものかはわからないけれど、いい子でいた子は、葛藤に慣れていない。だって、ぶつかっていないもの。葛藤を無意識の世界に封印して・・・・。
葛藤は、石ころに躓い足り転んだりして痛い思いをしたときに、初めて認識されるもの。
だから、小さい頃より、石ころを避けて、いい子にしてきた子は、葛藤にきちんと向き合っていないため、葛藤に慣れていない。
小さな頃より、小さな葛藤クンにきちんと出逢って、傷が小さいうちに、現実の自分と調度いいの折り合いをつけていくことのできた人は、葛藤免疫を取得し、どんな困難がやってきてもどうにか前を向いて生きてゆけるような気がする。
葛藤免疫の少ない、どちらかというといい子だった女性がママになり、夜泣きやだだこねなどで子どもがちっとも自分の思いどおりにならない、つまり、優等生な子どもでいてくれない現実に初めて遭遇すると、理想の優しい愛情豊かないい母親と現実のヒステリックでややもするとわが子に手をあげたくなる衝動にかられるおっそろしい現実の自分のギャップに超苦しむことになる。
つづく
おめでとう。
人生初の葛藤クンと出逢えてよかったね。
石ころに出逢わないとつまずかない。
思いどおりにいかない子どもってやつは、石ころみたいなものなのだ。
我が家の四男は、ごっつい岩。
でも、よくよく考えると、このごっつい岩だと思っている四男自身は、実は、今、学校という富士山と葛藤しているのだと思う。
私なんかより、はるかに大きな。
ほんとうは、四男を応援しなくてはいけないのだけれど、子育てを延々20年も続けていると、いい加減、自分にご褒美の時間がないと息切れしちゃう。息切れ状態で、人を支援なんてできない。
葛藤クンとの出合いは、出逢いであって出遭いではない。
もちろん、出合っているときは、出遭いだと勘違いをしちゃうのが、人間ってやつだけど、自然治癒力に任せて嵐が過ぎるのをひたすら待てば、葛藤クンとの出合いは出逢いだったと気付く。
本来なら、思春期で出逢うべき葛藤に、大人になってから出逢うと、症状が重い。
下手をすると、うつ状態になってしまう。
前にも書いたけれど、ほんまでっかで「思春期になって、『くそばばぁ!』『うっぜ~。』『べつに…。』とわが子が言い出したら、子育ては大成功です。」とある方がおっしゃていた。たぶん、彼らが、『くそばばぁ!』という時、まさに、葛藤と出逢って、必死で免疫を作っている時なのだと思う。
インフルエンザもひどいのにかかると、その後、10年くらいは、インフルエンザにかからない。かかっても非常に軽いってよく耳にする。はしかだと終生免疫って言われていた。
思春期に、ひどい葛藤があると(荒れると)それを乗り越えた時は、終生葛藤免疫がつく。
人生で起こるどんな災難も乗り越えられるようなたくましい葛藤免疫を獲得できるのではないかと思う。
だからこそ、思春期の葛藤という流行病にかかったときの養生のコツを間違うと大変なことになる。はしかも養生のコツを知らないと命に直結する。はしかは、『風にあたるな!」つまり、はしかになったら、熱を下げない・冷やさないことが、こつのこつ。外に出て風に当たるとカラダが冷えて、ウイルスが勢力を増す。でも、一度はしかにかかると、はしかだけではなく、呼吸器そのものが強くなり、相対的に細菌やウイルスへの抵抗力もアップする。
思春期の葛藤の養生のコツってなんだろう?
よく言われるのは、家に子どもが不機嫌そうなオーラをビンビン出しながら、学校から帰宅して、「ただいま」も言わず自室に入ってふて寝して、なかなか部屋から出てこない時、ギャーギャーしつけ論で攻撃しないこと・・・だそう。
つまり、そっとしておくこと。
温かく見守ってあげること・・・・・・落ち着くまで。
ほっとステーション・・・・・・的な家でさえあれば、あとは嵐が去るのを待てばいい。
あとは、時間。
子育てで発生した、いいママになりたい葛藤免疫の少ないママの悶々も、“時”が解決してくれるはず。
時とは、自分の中にある自然治癒力のチカラを信じて待つということ。
悶々鬱々というのは、葛藤免疫が作動し始めたという証拠なんだから。
つづく
それにしても、免疫って大事だね。
思春期に獲得すべき葛藤免疫を獲得できないで、思春期をやり過ごしても、結局、人生のどこかで出逢うべくして出会うもの。だとしたら、親は、子どもにとって、思春期の壁となって立ちはだかり、思春期に思春期らしい葛藤を味あわせてあげることも、大切な親の役目なのかもしれない。
あんまり、物わかりのいい親も考えもの・・・・だね。
だから、親ってそんなにりっぱでなくってもいいのかも。