総合漢方にんぷ薬・総合漢方育児薬

~頭を使ってではなく、カラダ(感性)で子育てしてみませんか~

脱皮必要条件

2013年01月28日 | エッセー
 脱皮には、必要条件があると思う。

それは、

 葛藤。


 脱皮に必要な最低必要条件であり、最大必要条件とは、葛藤だと私は思う。

 葛藤のない脱皮は、ありえないかもしれない。

 だから、物わかりのとても話のわかる父親がいいのかどうかよくわからなくなることがある。
 そんなに、いい父親でなくても子は育つような気がするのだ。
 というか、物わかりのいい尊敬できる父親だと葛藤が生じにくいので、ひょっとして、ひょっとして男の子にとっては、長~い目で見たらわからない。
 葛藤のない思春期を通り過ぎた人は、いつかどこかで、やっぱり自分の中に潜む葛藤クンと出会う宿命にある。
 思春期に出逢うべき葛藤クンは思春期に出逢っていた方がいい。
 歳だけ喰っているのに、思春期に出逢うべき葛藤クンを据え置き状態にしていると、重症化して、乗り越えられなくなる可能性も出てくるからだ。

 ここ5~6年のママたちの子育て不安は並大抵ではない場合が多く、驚いている。
 私が、保健師になった頃のママたちって、こんなに子育てに悩んでいたのかなぁ?今のお母さんたちって、どうしてこんなに子育てに不安なのだろうか・・・・。
 でも、今、ピピーンと来た。
 彼女たちは、ひょっとして、もしかしたら、思春期に乗り越えるべき葛藤クンに、今、出逢っているのではないか・・・・・と。


 つづく

 葛藤クンは、どんな時に意識に浮上してくるのだろうか?

 思うに、大人になるって、理想の自分と現実の自分の落差を認識したとき、その落差にため息をつきながらも、『調度いい』を自然体で選べ、自分なりに折り合いをつけていける力を身に着けるってことじゃないだろうか。 
 それは、決して、理想をあきらめるわけではない。現実の自分を非難するわけでもない。だから、ため息はつくけれど、ま、いいか、今、自分ができることを精一杯やってみようと、今の自分を肯定し、今を精一杯生きることに意識を向け生きて行こうと思う。だから、苦しくはない。

 思春期って、自分は、自己主張の塊で、はたから見ると結構わがままなくせに、親や先生という大人に対しては、理想像とかけ離れていることが許せないっていう、発達段階だと思う。
 理想と現実の自分のギャップが、意識に浮上していないから、自分もいっぱしのつもりでいるのか。

 葛藤は、自分の思い通りにいかない現実に遭遇した時、理想の自分になれない自分を認められず、理想の自分になれない自分はダメな自分だと落ち込み、現実の自分と理想の自分に折り合いをつけられない時に生じるような気がする。

 したがって、小さい頃より、もともとの性格なのか家庭環境などによるものかはわからないけれど、いい子でいた子は、葛藤に慣れていない。だって、ぶつかっていないもの。葛藤を無意識の世界に封印して・・・・。
 葛藤は、石ころに躓い足り転んだりして痛い思いをしたときに、初めて認識されるもの。
 だから、小さい頃より、石ころを避けて、いい子にしてきた子は、葛藤にきちんと向き合っていないため、葛藤に慣れていない。
 小さな頃より、小さな葛藤クンにきちんと出逢って、傷が小さいうちに、現実の自分と調度いいの折り合いをつけていくことのできた人は、葛藤免疫を取得し、どんな困難がやってきてもどうにか前を向いて生きてゆけるような気がする。


 葛藤免疫の少ない、どちらかというといい子だった女性がママになり、夜泣きやだだこねなどで子どもがちっとも自分の思いどおりにならない、つまり、優等生な子どもでいてくれない現実に初めて遭遇すると、理想の優しい愛情豊かないい母親と現実のヒステリックでややもするとわが子に手をあげたくなる衝動にかられるおっそろしい現実の自分のギャップに超苦しむことになる。


 つづく

 おめでとう。
 人生初の葛藤クンと出逢えてよかったね。
 石ころに出逢わないとつまずかない。
 思いどおりにいかない子どもってやつは、石ころみたいなものなのだ。
 我が家の四男は、ごっつい岩。
 でも、よくよく考えると、このごっつい岩だと思っている四男自身は、実は、今、学校という富士山と葛藤しているのだと思う。
 私なんかより、はるかに大きな。
 ほんとうは、四男を応援しなくてはいけないのだけれど、子育てを延々20年も続けていると、いい加減、自分にご褒美の時間がないと息切れしちゃう。息切れ状態で、人を支援なんてできない。
 
 葛藤クンとの出合いは、出逢いであって出遭いではない。
 もちろん、出合っているときは、出遭いだと勘違いをしちゃうのが、人間ってやつだけど、自然治癒力に任せて嵐が過ぎるのをひたすら待てば、葛藤クンとの出合いは出逢いだったと気付く。

 本来なら、思春期で出逢うべき葛藤に、大人になってから出逢うと、症状が重い。
 下手をすると、うつ状態になってしまう。

 前にも書いたけれど、ほんまでっかで「思春期になって、『くそばばぁ!』『うっぜ~。』『べつに…。』とわが子が言い出したら、子育ては大成功です。」とある方がおっしゃていた。たぶん、彼らが、『くそばばぁ!』という時、まさに、葛藤と出逢って、必死で免疫を作っている時なのだと思う。
 インフルエンザもひどいのにかかると、その後、10年くらいは、インフルエンザにかからない。かかっても非常に軽いってよく耳にする。はしかだと終生免疫って言われていた。
 思春期に、ひどい葛藤があると(荒れると)それを乗り越えた時は、終生葛藤免疫がつく。
 人生で起こるどんな災難も乗り越えられるようなたくましい葛藤免疫を獲得できるのではないかと思う。

 だからこそ、思春期の葛藤という流行病にかかったときの養生のコツを間違うと大変なことになる。はしかも養生のコツを知らないと命に直結する。はしかは、『風にあたるな!」つまり、はしかになったら、熱を下げない・冷やさないことが、こつのこつ。外に出て風に当たるとカラダが冷えて、ウイルスが勢力を増す。でも、一度はしかにかかると、はしかだけではなく、呼吸器そのものが強くなり、相対的に細菌やウイルスへの抵抗力もアップする。
 思春期の葛藤の養生のコツってなんだろう?
 よく言われるのは、家に子どもが不機嫌そうなオーラをビンビン出しながら、学校から帰宅して、「ただいま」も言わず自室に入ってふて寝して、なかなか部屋から出てこない時、ギャーギャーしつけ論で攻撃しないこと・・・だそう。
 つまり、そっとしておくこと。
 温かく見守ってあげること・・・・・・落ち着くまで。
 ほっとステーション・・・・・・的な家でさえあれば、あとは嵐が去るのを待てばいい。

 あとは、時間。

 子育てで発生した、いいママになりたい葛藤免疫の少ないママの悶々も、“時”が解決してくれるはず。
 時とは、自分の中にある自然治癒力のチカラを信じて待つということ。
 悶々鬱々というのは、葛藤免疫が作動し始めたという証拠なんだから。


 つづく
 
それにしても、免疫って大事だね。
 思春期に獲得すべき葛藤免疫を獲得できないで、思春期をやり過ごしても、結局、人生のどこかで出逢うべくして出会うもの。だとしたら、親は、子どもにとって、思春期の壁となって立ちはだかり、思春期に思春期らしい葛藤を味あわせてあげることも、大切な親の役目なのかもしれない。

 あんまり、物わかりのいい親も考えもの・・・・だね。
 だから、親ってそんなにりっぱでなくってもいいのかも。
 

 

 
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脱皮

2013年01月23日 | エッセー
 四男の脱皮は、意外にも早くやってきた。
 今、ほんとうに幸せ。
 だって、小学校に入学以来、マジ、マジ、大変だったもの。しんどかったわ~~~~~~~~~。

 つづく

男の子4人を、のびのび・とことんをモットーに育てた結果、見えてきたものがある。
 まだ、まだ、途中の段階なので、なんともいえないけれど、のびのび・とことんをモットーに男の子を育てることは、学校というルールに縛られざるを得ない環境で、おっそろしくテコズルってこと。おっそろしく手こずってすったもんだも大変だけれど、そのすったもんだの格闘技に真正面から立ち向かっていると、すったもんだの臨界期に達したら、どうにかこうにか学校になじんでいくとうこと。なじみはするが、先生から指示される宿題とかお勉強というやらせ的なものには興味を抱かず、友だちと楽しくやっていく感じですごしていくということ。そして、思春期の山を乗り越える高校2年の終りから高校3年生の初めの頃に、とことん体験が、遅咲きの花としていい感じで開くということ。
 マジ、遅咲きの花だ。
 でも、結構、素敵な花が開く。
 自分の将来がひしひしと感じられる頃になると、自分の人生を主体的に考えるようになる。そうすると、お勉強も主体的に意欲的に取り組み始める感じがする。
 もちろん、子どものもともとの能力の個人差はあるけれど、高3の初めの頃になる戸、その子なりに、主体性をもって生きるオーラが、プンプンしてくる。

 今、高3の次男は、小2の頃、悲惨だった。四男よりもはるかに、彼の将来を心配した。
 まともな仕事に着けるだろうか・・・。なんでもいい、ちゃんと仕事に着けますように・・と祈った。
 それが、今や・・・・・。



 つづく


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偽善愛情入門

2013年01月22日 | エッセー
 小池龍之介さんの本に、『偽善入門』という本がある。
 タイトルが気に入った。
 世の中には、偽善率100%の偽善者もいなければ、全く偽善の心がない者もいない。また、その人のその時その時の行動の偽善率も時と場合による。
 人は、偽善率のグラディエーションを意識的か無意識かはさておき使い分けて生きている。
 小池さんは、小学校の頃から、偽善という行為が大嫌いであったけれど、自分の中にも潜んでいる偽善な気持ちに気づいてから、ふとしたことで浮上してくる偽善というココロに向き合うようになられたようである。
 大切なのは、今、自分のやっている行為が、偽善なのかそうでないのかを常に意識しようということ。
もっと細かく言うと、今、自分のやっている行為が、偽にウエイトを置いた偽善なのか、善にウエイトを置いた偽善なのか。
 そのバロメーターが、そうせずにはいらせれない自分の押さえようもできない心がそこにあるのかどうか・・・・・。
 自分がそれをしないと辛くなるから、そうしてしまうのか否か・・・。

 赤ちゃんが、泣いたりぐずったりしたときに、泣いてすっきりするって素敵なことだとわかっていても、抱っこして泣き止まそうとしてしまう時、それは、『偽善愛情』である。

 子どもを育てていると、世の中のルールに逆らえず、わが子に、「仕方がないのよ。この日本という社会で生きてゆくためには、学校というルールからはみ出さないように生きてゆくしかないのよ。」という時のわたしは、しっかり偽善愛情をわが子に注いでいる。


 つづく

 二イルの作ったサマーヒルのような自由な学校に入学させたい。日本にも奈良ともう1か所、サマーヒルをお手本とした私立の小中学校があるという。でも、そんなお金もないので、普通の公立小学校にわが子を通わせることに甘んじている。
 宿題も多いし、担任が、わが子に向かって「限界です。」と言うような学校に、わが子が『行きたくない。』というのに、私は、無理やりいかせようとしている。働いているからわが子を一人家にいさせるわけにいかないという理由もあるけれど、どんな学校であれ、『わが子が学校に行かなくなったらどうしよう。』という一抹の不安が、無理やりいかせてしまう一番の理由である。
 要は、マジ学校に行かなくなったら、社会から逸脱してしまうのではないかという大きな不安に打ち勝つほどの、もし、学校に行かなくても自立して生きていける力をつけさせてあげられるというほどの自信がないから、仕方なく学校へ行かせる工面をする。これも、しっかりちゃっかり偽善愛情だ。

 この1週間、部活の顧問の暴力により自殺した高校生の話題が尽きないけれど、あれは、偽にかなりウエイトの置かれた偽善愛情と言えるだろう。俗にいう愛のむち。
 愛のむちってありえない・・・と私は思う。
 前日、同僚が、わが子の部活の監督が、一度、保護者を集めて「愛のむちを実行してもよろしいでしょうか。」と聞かれたことがある。その時、他の保護者が誰も何も言わないので、「叩かないでほしい。愛のむちというものはないと思う。」と勇気を出して言ったら、しばらくわが子はメンバーとして使ってもらえなかったと言っていた。その時、驚いたのが、「わが子は叩いてもいい。」という保護者はいたものの、自分を応援してくれる保護者が誰もいなかったことだったという。
 選手としてわが子を起用してもらえるかもらえないか・・・・で沈黙を守るしかなかったのだろうか。

 こんな保護者は、偽善愛情でいえば、何%の偽と何%に善なのだろうか。つまり、偽:善=○:△?
 
 わが子が叩かれるのと、わが子が選手として起用されるののどちらを選ぶか?
 第3者から見れば、例え、選手に選ばれなくってもわが子を叩いてほしくないという方が、本物の愛情に近いと思う。
 でも、・・・・難しいねぇ。


 つづく

全国制覇を目指すようなスポーツの名門校の部活だと、親もわが子が勝つことを優先させてきた人生だと思うので、少々の愛のむちは致し方ないと思っているのではないだろうか。というか愛のむちの存在があるということを微塵も知らなかった・・というようなぶりっ子保護者はいないだろう。
 卒業生のなかにも、「先生が叩いてくれたおかげで勝つことができてよかった。先生のおかげです。先生が叩いてくれたおかげで、今の自分がある。」という人もいて、先生の評価もいろいろだった。
 世間ってこんなもんだ。
 
 世の中には、結構、このように〝叩いてくれたおかげ人間”もいる。
 何事も結果オーライか?
 結果が、成功したら、何をしてもいいというのだろうか?
 何が怖いかって、こんな人たちが戦争に行って、優位な立場にいるときにイケイケゴーゴーと野蛮なことをへっちゃらでやってしまいそうで、怖い。叩いてくれたおかげ人間は、優勢で多勢な状況で原子爆弾なみの凶器になる可能性を秘めていることが怖い。
 たぶん、子育てでも、子どもを叩いて思いどおりにする(=本人は、しつけのつもり)ような親になる確率が高いだろう。


 個人的には、『わたし、ダメ!』
 このような価値観を持った人が、どんなに素晴らしいことを言っても吐き気がする。

 たぶん、このような価値観の人は、自分の偽善愛情を客観的に見つめることが苦手だと思う。偽善とはちっとも思っていないだろうし・・・。だいたい、偽善とはちっとも思っていないから、立派な話ができるわけで。そんな人とは、お話がかみ合わなくて世間話しかできないだろうなぁ。

 今の平和な時代にこそ、叩いてくれたおかげ人間をいかに減らせるか・・・が、もしかしたら、とっても大切かも。
 『叩いてしまった。指導者として情けない。どうしたら、叩かなくても子どもたちに伝わるだろうか?』と苦悩する人こそ、〝人間”を生きるのだと思う。


 つづく

いいお母さんを目指しているママほど、子どもが1歳を過ぎて、いやだいやだとわがままではなく自己主張をし始める頃、(それは、自己確立という意味でとても大切な時期なのだけれど)、言うことを聞かなくって(つまり、自分の思いどおりにならなくて)つい叩いてしまうと「これって、ひょっとして虐待?』と自問自答し悩み、子どもの寝顔を見ながら涙する。

 これでいいのだ。それでいいのだ。・・・・・・・きっと。

 自問自答して、なりたい自分という理想と現実の自分のギャップに気づき、折り合いをつけて調度いいをみつけていくしか道はない。

 子育てで悩んでいる人の多くは、理想の持論を持論と勘違いしてしまって、理想の持論どおり(思いどおり)にならない現実に悶々とする。

 育児書などに書かれているとおりに行くわけなんかないのに、マニュアル人間は理想の持論に振り回されて苦しくなる。なんせ、相手は、ものではなくヒトだもの。マニュアル通りに行くわけがない。

 でもね。人は、当事者になって初めてその気持ちを理解する生き物。
 「これって、虐待?」とショックを受けて、初めて、自分の心の奥に潜む牙の存在に気付くのだ。
 
 ひょとして虐待?とショックを受けた人は、きっと、その後も叩かない子育てを追及していくと思う。そりゃ、どんなやんちゃな子でも叩かないで穏やかに子育てできるような人でいられたら、最高だけれど、まぁ、99.9%叩きたくなる衝動を抑えるのに必死になるだろう。


 つづく

最初から、叩きたい気持ちになんかちっともならない心穏やかなママがいたら、それは、もう、あの世の人か仏様だよ。
 今まで、人を叩きたい気持ちになったことなんて一度もなかった心穏やかな人も、子どもが1歳半になる頃に、人生のターニングポイントを迎える。『わたしって、人を叩きたくなる衝動がきちんとあるんだ。』という事実に唖然とする。
 大事なのは、それからだ。
 ショックを受けて、でも、叩いたら、人間おしまいだ。どうしたら、叩かないで、子どもときちんとお話合いによりわかってもらえるか、もしくは、子どもの気持ちを理解できるかについて、試行錯誤しながら、心穏やかになる道を模索していく・・・。
 子育ってって、入る気なんかなかったのに、いつのまにか仏門に入っているって知っていた?

 それが、子育てってやつ。
 
 小池龍之介氏は、こうも書いてらした。
 例えば、社訓として、人に喜ばれるための仕事をしよう・・・というような会社がある。ほんとうは、会社の利益のためなのに、お客様のためなんていう会社は、偽善会社だ。でも、最初から、儲けることが一番で、利益が第一・・・という社訓の会社だと、社員の心は本当に疲弊してくる。例え、嘘でもいいので、理念として、人のために・・というものがあると、それが、例え、偽善で始まったとしても、それなりに人のためになる仕事をしていくものだ。
 だから、たとえ、偽善であっても、建前であっても、きれいごとはそれなりに意味がある・・・と。
 
 きれいごとでも、続けていけば、偽善の偽の比重が大きかったものが、善に比重が傾いていく。

 子育てでも、まず、『叩かない!』と決めることが大切である。
 叩かないと決めても、抑えきれない衝動に駆られるとき、自分の内なる心の中に、子どもの対する愛情なんてすっ飛んで、怒涛のように吹き荒れるわが心の嵐にため息をつく。
 ここからが、勝負だ。
 いいお母さんと吹き荒れる怒りの嵐に翻弄される現実のわ・た・し・・・。
 かろうじて、叩かなかった。でも、こんな心底優しくない私ってダメなお母さん。
 これじゃぁ、偽善かあさんになっちまう。

 ここからが、正念場だ。

 でも、しつけをちゃんとしなくちゃ、この子のためにならないから、やっぱり、叩くしかない。
 私は、しつけをきちんとしたい。だから、言っても聞かなければ叩くしかない。
 子どものために、叩くのは仕方ない。

 このような思考回路に入ってしまったら、偽善愛情路線で育児をしていく。

 つづく

 しつけ・・・は、ややもすると、偽善愛情の偽に重きを置いた愛情に傾きやすいので要注意だ。

 『のびのびと育てる』と『しつける』・・・は、相反する場合も多く、多くのママたちが、1歳半を過ぎるころから悩み始めるテーマだ。一体どこまでが『のびのび育てる』でどこからが『しつける』なのかその境界線がわからず悩む。わがままとしつけの境界線がわからず戸惑う。

 ほんとうは怒りたくないけれど、世間の皆さんの手前叱る場合も多々ある。『この母さんは、ちゃんとしつけもできないのかしら・・・。」と思われるのがいやだから。 そんな時は、めっちゃ、偽善愛情。


 つづく

愛情ってなんだろう。
 のびのび育てたいけれど、自分が苦しくなって、偽善愛情で子どもと接していても、それはおかしいんではないか…てなことになる。
 自分も幸せ、子どもも幸せになれる道を模索するのが子育てか。

 鏡の前で、きりりと化粧をして、ニコッと笑い、胸を張って、玄関を出た瞬間から、女優になれる。
 女優になった時点で、職場に入ると、わが子と同じようなわがままな人がいても、わが子と同じように、虐待?というような行動には、まず、出ない。女優もどき気分が、功を方して冷静でいられる。

 偽善の偽にウエイトを置いていられる・・・・それが、仕事の時間。
 でも、育児の時間になると、わが子とは、善なる自分でいたい。
 わが子と偽善な関係なんて哀しい。
 でも、自分の気持ちをほっておくと、とんでもないことになる。苦しい。子育てすると、寛容になれないちっぽけな器の自分をまざまざと見せつけてくれる。途方に暮れる。

 脱皮するときは、きついのだ。
 脱皮するためには、まず、わが子を叩かないと決めることからスタートする。
 脱皮するためには、わが子に『ダメ!』と言わないと決心することからスタートする。
 脱皮するためには、『早く!早く』と言わないと誓うことから始まる。

  つづく

変わるチャンスを神様から与えられている・・・それが、ママの特権なのだ。
よかったね。
 24時間営業の育児をしなくてすむイクメンしないパパには、そんなチャンスがない。
 主に、男の脱皮は思春期の1回だけ。
 でも、女は、人生でもう1回脱皮するチャンスを与えられている。
 最近は、パパが優しくなって、思春期に脱皮するチャンスを逃している男の子も増えているかも。
 パパが優しく家庭的な家の子どもは、結構、学業もいい感じがする。
 でも、脱皮という体験がない・・というのもどうなんだろう。

 つづく

いずれにしても、脱皮には、もがき苦しむ・・みたいな感覚を伴うことは、間違いなさそうだ。
 思春期の葛藤もそうだ。
 思春期に、思春期の葛藤と悪戦苦闘して抜け出せた人は、ちゃんと脱皮できているから、大人の心で生きてゆける。でも、感じるべき葛藤を感じるべき時に感じないで素通りしてしまうと、葛藤の壁は相変わらず立ちはだかっていて、葛藤の据え置き状態で、その葛藤を通り抜けないと大人になれない。無意識に見て見ぬふりをしているだけなのでだんだん苦しくなる。思春期の葛藤を放置していると、大変なことになる。調度、子どもの頃に風疹にかかるのはなんてことないけれど、大人になってかかると死ぬほど苦しい思いをするのと同じように・・・・はしかだともっとひどい。
 思春期の葛藤は、子どものはしかみたいなもの。
 大人になってからの葛藤は、大人のはしかみたいなもの。

 
 女性は、出産・育児により、二度脱皮するチャンスを与えられている。
 葛藤とは、自分の理想と現実のギャップの中でもがき苦しむことではないだろうか。
 思春期の葛藤は、理想の大人像と現実の父親という大人像のギャップにもがき苦しむ。実際の自分は、わがまま坊やなんだけど。
 でも、大事だよね。理想の大人を思い描くチカラがあるということは。
 理想の大人像を描けない人は、葛藤なんて生じないんだから。
 まず、理想。
 もし、父親が幸か不幸か、理想の父親像に近いと、ギャップが少ない分、葛藤も少ない。
 必然的に、もがき苦しむというチャンスを逃す。

 人生、わかんないよね。何がよくって、何が悪いか。

 子育ても、超育てにくい子ほど、理想の子育てと現実のギャーギャー子育てのギャップに悩み苦しむのだけれど、私は、脱皮して綺麗な蝶になる・・と思えれば、少し心が楽ちんになるんじゃないかな。
 苦悶しているママは、きっと、『叩かない。』『ダメと言わない。』『早く早くとせかさない。』という理想を描ける人なんだと思う。それって、すてきなこと。いいじゃん。苦悶。

 最悪は、最高の前触れ・・・・だと思う。

 今、苦悶しているママ、あともう一息だよ。

 実は、私も、子育ての葛藤トンネル第2弾を抜け出せずに、マジ、苦しかった。この2年。
 でも、でも、でも・・・・・・・。
 昨日、つまり、平成25年1月21日の夜、四男が、脱皮してくれたおかげで、抜け出せました。


 
 


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人生がきつかったら・・・・

2013年01月12日 | エッセー
 『人生がきつかったら、
  あなたに何か欠けているものがあります。』

 だって。

 ちょっと前まで、それは、夫が、まだ活火山であった頃、火山がしょっちゅう噴火して、その火の粉が飛んできて気の休まる暇もなく、人生きつかった。避難生活、思いおこせば長かったなぁ~。

 もし、その時、私に欠けているものがあったとすれば、それは、『いやだ』と委縮せず、堂々と言い返すチカラだったと思う。

 実際、今は、平気で『そんなのイヤだ。』と言える。
 そうすると、うそのように、夫は、休火山となった。(完ぺきではないけれど・・・)

 
 今、人生がきついのは、夫が、労働に対してネパール人のような価値観になっているということ。


 つづく

 知人に、ネパール人を夫に持つ人がいる。
 先日、その夫の家族が日本に初来日したそう。3か月くらいいたという。
 夫の家族とは、夫の両親と兄ということで、さっそく湧いてきた疑問を彼女に聞いてみた。
 「お兄さんは、仕事よく2か月も休めたね。」・・と。
 そしたら、彼女、笑いながら、「ネパールって国は、働いているような働いていないような・・・それでもなんとかなるようなそんな国で、夫の兄も働いているような、2か月休んでも全然大丈夫な感じ・・・それが、ネパール人の仕事に対する価値観なの。」と答えてくれた。
 あ、はーーーー。なるほど。そういうことか。

 私も、むか~~~~~~し、インドに行ったことがあるけれど、何が起ころうと『ノー、プロブレム!』だらけで、もう、怒る気にもならなかったもの。そして、まぁ、男が仕事をしないことしないこと。
 ニューデリーからピンクシティに向かうバスの中から見える風景で最初に驚いたのが、道路わきの木陰に足をブランブランさせて涼んでいる働き盛りであろうと推測される男・男・男たちの群れだった。
 暑すぎて働く環境ではないとは思う。でも、これでは、インドは発展しないだろうとマジ思った。
 『ノー、プロブレム!』は結構気に入ったけれど、う~~~~~~ん、いろんなものが故障しても『ノー、プロブレム!』だらけだったら、げんなりするだろうな。何も解決しないっていうのも、きつい。
 何も解決しようとしない価値観の中で生きていくのも厳しい。
 けれど、もし、夫の過去生が、ひょっとして、もしかして、ネパール人だったりインド人だったとしたら・・・と想像すると今の日本の価値観で生きるのもさぞ、つらいだろうなぁ・・・・。


 つづく

 できるもんなら、世界中の国を旅したい。
 そしたら、日本人(私)の価値観なんて崩れ去り、いちいち他人の価値観にイラッときたり、自分の価値観ワールドに相手の価値観を引きづり込もうとしたり(つまり、自分の思いどおりにしようとしたり)せず、相手は相手のままでいさせてあげられるようになれるかもしれない。
 実は、実は、それこそが、『愛する』ということなんじゃないかと密かに思っている。

 だから、私に言わせれば、そう簡単に『愛してる』なんて口に出せないはず・・・なんだけど、世の中の恋人たちって、ほんとうに簡単に『愛してる』って口にする。

 
 つづく

子どもが自分の思いどおりにならないでイーーーーーーーーーーーーーっと来る時、『あなたに欠けているものがあります。』

 思いどおりにならない、つまり、泣き止んでくれない・ぐずりやだだこねをやめてくれない・聞き分けがない・超ゆっくりご飯を食べる・遊びに熱中してしてほしいことをしてくれない・静かにしてくれない・・・・などなど、子どもは、これでもかこれでもかと自分の思いどおりになんかいてくれない。そんな時、疲れ果てて『人生きついな』ってうつになりそうなくらいの気持ちになっっているとしたら、『自分に何が欠けているのだろう?』って問うてみましょう・・・・ってこと。
 実は、多くのママたちは、子育ての中で、否が応でも、わが子を『あなたのままでいさせてあげる。』という愛を学ぶ踏み絵を、神様から与えられているのかもしれない。

 つづく


もちろん、野放図では困るので、『これは困る、やめてくれ!』という大きな枠の中で、『あなたのままでいさせてあげる。』っていう、『よい加減』の世界が必要だけれど・・・。
 だから、あなたのままでいさせてあげるという力をつけさせていただくために子育てさせていただいている・・・・・そんな気持ちで子育てに向き合うと、ほんの少し、楽になるんじゃないだろうか。
 人間は、安きに流れやすく、ほっておくと、全てを自分の思いどおりにしたい生き物だと思う。だって、楽したいもん。
 子育ては、それと真逆な道を選択するってこと。
 だから、苦しい。
 特に一人目の子育ては・・・。
 二人育て、三人育てるころになって、多くのママたちははたと気づく。
 相手を自分の思いどおりにしようって思う私がバカだった。体験から、あきらめの境地に達する。せいも根も尽き果ててあきらめる。でも、わが子だもの、見捨てない・・・そんな境地になってこそ、なんぼ。
 
 先日も、一人目を産んで、思いどりにいかない育児にうつになって、虐待スレスレの心理状態に陥っていたママ(一人目はどうにか心理カウンセラーの協力も得ながら育てていたママ)が、3人目を産んで3か月たった頃、また、大きな心の落ち込みの波が押し寄せてきて・・・・



 つづく

 かなりやばい心理状態に陥っていらした。
 3人目なのに、昼間、ずっと抱っこしているという。
 それでは、ストレスも溜まる。
 ふつう、3人目ともなると手抜きも上手になる。
 少々、泣いたりぐずったりしても、平気になる。泣かせっぱなしで、家事なんてやってしまうもの。

 でも、このママは、ずっと抱っこしているという。3人目なので、3時になるとお兄ちゃんお姉ちゃんの幼稚園のお迎えがある。そして、夕方は、3人の世話と夕食を作ったりと忙しくなる。なのに、3人目がぐずったら抱っこの癖がついているので、おんぶで家事育児をこなすことになる。
 これでは、へとへとだ。

 つづく

自分の時間、自分だけのための時間、自分にご褒美の時間のない人生なんて、自分の人生じゃない。
 
 自分の人生に自分がいなくなると、人はつらくなる。
 虚無感にないなまされる。

 それが続くと、憂鬱になる、うつになる。

 このママが、どうしようもない落ち込みの悪循環に入ってしまったのは、自分がない虚無感だけでなく、3番目にかまってばかりいられないのに、現実は、3番目にてこずって、結果、上二人とじっくり向き合って遊んであげれないという、つまり、理想のいいママになれないというジレンマが重なったせい。
 うつ病になりやすい人って、完璧主義でグレーの世界観で生きてゆけない人が多いという。白か黒か。
 理想は理想。でも、今の私の能力、あるいは、今の環境では、これが精一杯かな。しょうがないもんね。でも、しかたない。ま、いいか。ベストではなくベターで生きるしかないもんね。
 そんな、ある種あきらめの中の美学で生きることは、生き上手であると思う。
 自分の置かれた環境で〝調度いい”を生きる力も大切な生きる力だ。

 だけど、完璧主義な人は、できるできないにこだわってしまう。自分の能力や自分の置かれた環境をつい忘れてしまって、調度いいを見つけられない。無理するから、時間が長引いていくと、心がどうしようもなく疲れ果ててエネルギーが枯渇して虚無感にないなまれ這い上がれなくなる。

 私は、こんな頑張り屋さんのママに、こう声をかけた。
 一週間後に、心配で電話をかけたら、びっくり・・・・・・・・。
 私の、ある一言で、彼女は、びっくりするほど元気な張りのある声になっていた。


 つづく

その一言とは・・・・・・
 『生後3か月を過ぎる頃から、赤ちゃんにとって大切なのは、ママの日課に自分を合わせていき、生活リズムをつけ体内時計を作っていくこと。そうすることで自律神経が安定していくので、赤ちゃんが泣いたらすぐ抱っこするのではなく、赤ちゃんが泣いてもおっぱいをやってそう時間が立っていないのに、うんちもしないのに泣いた場合は、「聞こえてるよ~。でも、今、ママは、お茶碗を洗っているからもう少し待っていてねぇ~。」と時々、声かけだけはして、ママがそばにいるという安心感だけは与えながらもママはママのお仕事をしっかりこなすことが大事。』

 生後3か月を過ぎたら、そろそろ、ママは、ママのお仕事(家事)を元通りにしっかりこなすことが、赤ちゃんの心の成長にも欠かせない。

 朝、起きて、夫のお弁当を作って、朝ごはんを作って、後片付けをして、お洗濯をして、お掃除をして、買い物に行って・・・・・・そんな日課をきちんとこなしながら、その合間に、赤ちゃんと遊ぶ。お仕事をやっているときに泣いてもわめいても、全然平気って感じで、「聞こえてるよ~。待っててね。お洗濯物を干したら、お散歩に行こうねぇ。」などと声かけだけは怠らない。そして、終わったら、「待てってくれてありがとう。お散歩行こうか。」とできれば、ベビーカーではなく、前抱っこで鼻歌交じりに、目と目をうっとりからませながら、ラブラブデートとしけこむ・・・みたいな、メリハリのある赤ちゃんとの生活を送ることで、赤ちゃんの情緒は、待てば必ず幸せがやってくるというルンルン、ワクワクな気持ちが発達する。
 泣き止まないわが子が恨めしくなりながらも、どうすることもできず、超イライラ気分で、でも、泣いたとき抱っこしないママは愛情不足だから悪い母親と世間は言うので、いい母親でありたい優等生ママは、腱鞘炎やうつ病になるほど事態は深刻なのに、赤ちゃんを抱き続けてしまう。


 つづく

『待てば必ず幸せがやってくる』という日々の体験の蓄積効果と『泣いたらすぐ抱っこ』の偽善愛情、あなたなら、どっちをとる?

 待てば必ず幸せがやってくるを知ったカラダは、がまん=しあわせというココロを育む。
 そうすると、がまんすること(自分をコントロールすること)がちっともきつくない、むしろ、湧き上がる喜びに満ちたカラダになる。



 そんなことを、お話した。

 なんだ。そうか。そうだよね。泣いたら抱っこしてあげないといけないママだと思い込んでいたけれど、それは、偽善愛情なんだ。
 なんだ。メリハリラブラブさえあれば、家事をしてて途中で泣いてもちゃんちゃら平気!

 なんだ。なんだ。

 ふっ切れた。

 
 『人生きつかったら、あなたに欠けているものがあります。』
 このママに欠けていたものは、それが、偽善愛情なのか本物の愛情なのかよくわからなかったということ。


 終わり

 
 
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請求書的祈りと領収書的祈り

2013年01月03日 | エッセー
 初詣に行かれましたか?

 あなたの願いがかなえられるものであれば、特別に祈らずともかなえられるであろう。かなえられぬものであれば、仏の力をもってしてもどうすることもできぬ。その上、生きとし生けるすべの平等であれと願う心に反してそなたの願いばかりを祈るのは、えこひいきである。そんな依怙贔屓の人間の願いを、まさか仏は神はきいてくれるはずがない。

 仏は、全ての人をわが子のように思っているから、そなたの願いがかなえてもらえないのは、なにか訳があるにちがいない。たとえば、幼児が毒と知らないで食べたがっているのを親が奪い取り、それを恨んで泣くようなものだ。そのときは、不満に思っても最終的にはよくなる措置である。

 「わたしは、これでいいのだ。」と大肯定して、仏に感謝する生き方・・・・それが、領収書的祈りなのだそう。

 自分の“いま”を大肯定する。

 天才!バカボンは、知っていたのだろうか。
 『これでいいのだ~。これでいいのだ~。ボンボンバカボンバカボンボン・・・・。』って歌があった。
 赤塚不二夫さんは、何もかもお見通しだったのかもしれないね。

 ひろさちやさんは、『わかった  わかった   すっかりわかった  ほとけさま  ありがとう』と唱えようと言っている。

 今、幸せな人は、素直にうなづけると思うけれど、今、嵐の渦中にいる人は、なかなか『こでれでいいのだ。ほとけさま、ありがとう。』なんて言葉は、スーッと出てこないと思う。

 ただ、少なくとも初詣で、手を合わせるときは、『ありがとうございました。』と感謝の念を送りましょう・・・ということらしい。

 わたしは、今日、とってもいい天気だったので、お昼に初ウオーキングをしちゃった。その時に、ただただ、『ありがとうございました。』を念じ続けてみました。
 まだまだ、心にひっかかるものがしっかりあるけれど、幼児が毒と知らないで食べたがっているのを、仏様が奪い取っているのだと意識的に心に刻んで、日々、刻んで刻んで刻んで刻みこんでいくことを今年の抱負にいたします。


 つづく

それにしても、毒とは知らないで仏様が奪い取った歳月が20年続いています。
 長いなぁ~。
 いったい、いつになったら、何が毒で、何が幸せなのかがわかるのでしょう???何か訳があるのでしょうが、どんな訳があるのでしょう。

 ひろさちやさんは、病気になったら、早く治そうとか考えず、病気のままで人として全力で生きる。癌になったらなったままで、人として誠実に生きる。病気を受け入れ、病気のまま日々をあなたらしく生きる。病気が治ってから、自分らしく生きるのではなく・・・・・・。災難から、少しでも早く抜け出そうとあがくのではなく、災難をうけいれたままで、自分の〝今”を生きることをすすめていらっしゃる。
 私は、今まで、問題に出会うと何とか解決する方法を探し出し、問題の渦中にいるという不安から脱しようともがいてきた人生だったような気がする。安心という居場所にいないと自分らしくいられなかった。不安からの脱出を常に図っていた。
 不安の中にいても、『これでいいのだ。』と思えるには、やっぱり、神様仏様のなさるがままに・・・というような仏様を信じる心がないとなかなか難しい。


 つづく

 少しずつ、『これでいいのだ。』という感覚が、カラダにフィットしてきているように感じる。
 今日は、以前、コマーシャルでチラッと見て、『きれいだな。行ってみたいな。』と心によぎったイルミネーションを観に行ってきました。 家に帰ってきたのは、10時前。
 今年は、ぱっと閃いた自分の直感になるべく従ってみようと決心した。
 そして、このイルミネーションが記念すべき直感行動の第1回。
 いつもなら、ちょっと遠いので、行きたいなと思っても、帰りも遅くなるし、明日から仕事だし、大学受験生の次男のお弁当も作ンなきゃいけないから、やめとこう・・・・という風にあきらめていた私だ。体力がないので、やりたいなって思っても夜遅くまで遠出して遊ぶなんてことは今までは敬遠していた。特に、手術をしてからは、なおさら。
 でも、やってみた。
 まぁ、イルミネーションはそれなりの感動であったという感じで、ちょこっと残念感が残ったけれ、なぜだか、帰宅後、思いのほか元気な私がいて、我ながらびっくりしている。
 したいと思うことをする・・・・という当たり前のことを、今まで、体力的にも経済的にも夫に遠慮的にも押さえていた部分が多かった。かえって、それが、ストレスになり疲れやすいカラダになっていたのかもしれないなぁって、今になって初めてわかった気がした。
 胃を切って、『わがままになる』って決心したけれど、まだまだだった。

 自分の体力に自信がないので、つい保守的になって、やりたいことをがまんしてきたけれど、やってみてから考えてもいいのかも・・・・。

 つづく
 

 
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般若心経のキーワードはなんと『奴隷であるな!』

2013年01月01日 | エッセー
 児童書『聖者物語』に気をよくして、今度は、ひろさちやさんの『こだわりを捨てる』という般若心経の入門書を読んでみた。
 一言でいえば、般若心経は、欲望の奴隷になるな!世間の奴隷になるな!自由人であれ!と説いているのだそう。
 般若心経だけでなく、仏教の教えは、世間の物差しを捨てることを目指しているのだそう。
 知らなかった。

 人生50年生きてきて、キリスト教を知らないことはまぁいいとして、仏教のこともほとんど何も知らないということは、情けない。子を産み育てる資格もない。
 よくも、まぁ、どうにか育ってくれていると宇宙に感謝せねば。

 昨夜、高3の次男に「災難がこれでもかこれでもかと降ってくると、災難に慣れてきて、さぁ、どこからでもかかって来いって心境になる。去年、がんになったときは、もう、これ以上の災難を神様はお与えにならないだろうと思ったけれど、とんだ間違いだった。この1年、もっと悲惨だよね。こうなると、少々の災難は災難なんてちっとも思わない。心も動揺しない。最近は、さぁ、どうやって、災難を美味しく料理しようかという気になってきている。」なんてことを、わっはっはと笑いながら話した。
 ついでに、「あんたたちも、こんな家に暮らす羽目になっちゃって、災難だったけど、社会に出たら、少々の災難は災難なんて思わなくて済むんじゃないかな?」と希望的発言をしたら、
 次男が、名言をつぶやいた。

 「災難に対する免疫ができたよね。」


 ほっ!

 よかった。彼の口から、『災難の免疫』という言葉が自然と出てきたのだもの。
彼は、生きてゆける!!
 子育てという私の任務は完了した。次男においては・・。

 それにしても、人生、なんにしても、タフに生きていくには、免疫が必要だ。
 そして、この免疫、あるいは抵抗力をつけるには、ちょっと負担になるような外敵が必須なのである。
 温室では、免疫はつかない。
 家庭は、温室がいいのだろうか。


 つづく

 明日は、お正月。
 初詣の計画を立てている方へ、一言。
 ひろさちやさんの般若心経の本によると、仏教のキーワードは、『奴隷であるな!』ともう一つあるのだそう。
 明日、お参りする人のために、今年最後は、この言葉で終わります。

 神様や仏様に祈るときは、『請求書的祈りではなく、領収書的祈りを!」ということだそうです。あしからず。
 その理由は、元旦に!


 つづく
 
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