総合漢方にんぷ薬・総合漢方育児薬

~頭を使ってではなく、カラダ(感性)で子育てしてみませんか~

焦るバクバク

2024年02月23日 | エッセー
 私は、仕事の8割を保健師として生きてきたので、お役所の事務的なお仕事はストレスだ。経験値がなさ過ぎて、全体がわかってないから、柔軟な対応をすることが全くできない。この年になって、なぜだか、私にとっては難易度の高い事務系のお仕事を振られてきて、結構、しんどい。
 経験値を増やして、いろんなトラブルに対処する方法を体験しながら、全体像が見える景色にまで自分を持っていくことで、自信につながっていくのだとしみじみ思う。

 木を見て森を見ず。
という諺がある。
 私の今の心境はというと、
 いろんな木を見て、早く、森を見たい・・・か。


おまけに、ネットのせいで、今日、調査票が送られてきて、今日中に報告書を出せなんていう時代に突入して、パソコン操作も役所ではおそらくびりっケツな私にとっては、ストレスフル。
 脳トレさせてもらっているとい思えばいいか…と思いつつも、重荷だ。

 息子さんが市役所に入って、今まで、市役所の人って仕事をしない、のんびりしてそうで羨ましいって思っていたけれど、めちゃくちゃ大変なところなんだということがわかったという人がいた。

 そう、ネット時代になって、国からどんどん指令が来るようになって、大変なのだ。
 ネットのない時代は、何か新しい事業を国が補助金を出して始めようとすると、前の年の秋の初めの頃に、まず、国から県に文書が届き、それを県が市町村に届け、それに対して、市町村が2~3か月で検討し、その結果を文書で県に届け、それを県が国に・・・というような、実にのんびりした仕事をしていた。
 でも、今は、毎日、嵐だ。
 コロナになって、オンラインになったら、さらに嵐が吹き荒れる。

 国(官僚の方々)も大変そう。
 先日も、オンラインで国の会議の様子を全国に一斉に伝えるというものがあった。その会議の資料を会議の前までにあげるということで待機していたけれど、前日、来ない。当日の9時にも来ない。え、11時からの会議だよねって、心配になって、他の市町村の職員に電話で聞いたら、別の会議では、5分前にアップされたこともあった。その時は、資料を印刷しながら、会議を聞いたという話を聞いて、国の担当の人たちもギリギリでハードな仕事をされているのだろうなぁとびっくりした。
 ただし、官僚の方々は、東大出身の方がほとんど。つまり、頭の回転がめっちゃ速い。記憶力も凄い。昔、名古屋大学の法学部出身の方とお話したことがあった。その方との会話はおもしろいけれど、苦痛であった。回転が速すぎて、会話についていくのに必死で、会話を楽しむ余裕なんてなかった。おそらく、官僚の方々は、その人よりも、もっと、頭の回転が速く、記憶力に優れているはず。
 だから、末端の市町村職員には、しんどい。
 官僚の方々が、作成された文書を読み解くのにも、時間がかかる。難解な文章が多いので、声に出して読むこともある。下手をすると、上司に、言っている意味がよく解りませーんと助け船を求めることもある。

 その日の会議資料は、10時45分にアップされた。

 そんなこんなのスピードを要求されるこの時代、提出した資料の修正などのメールが県から来たりすると、バクバクと心臓が高鳴り始める。心臓の鼓動がドッキンドッキンとしてくる。そして、頭の回転が減速しだす。真っ白になりそう。だって、時間がないから。勝手に私の心は、焦りの気持ちモードになってしまうのだ。
 人は簡単に不安って言葉を使うけれど、もし、24時間ドッキンドッキン、バクバクしていたら、身が持たない。
 私も、心臓がバクバクし始めたら、脳が修正するためにクリアに働いてくいれるために、必然的に、深呼吸を繰り返していた。
 そして、自分に言い聞かせた。大丈夫。大丈夫。はい、深呼吸って。

 なぜ、焦るか。
 それは、残業したくないから。
 正職員時代は、サービス残業をしまくっていた。残業したくないから、必死だったけど、それでも終わらなかったから、残業をしていた。
 なので、焦るということはあまりなかった。
 でも、今は、正職員ではない。お給料が安すぎる。だから、サービス残業なんてできうる限りしたくない。年だし。しんどいし。4時には帰りたい。

 人は、タイムリミットがあると、焦るんだ。

 人には、それぞれのタイムリミットがある。
 私の場合は、自分の処理能力とタイムリミットの板挟みで焦って、心臓がドキンドキン、バックンバックンし始める。
 人には、いろんなタイムリミットがある。
 
 思春期にも、タイムリミットがある。

 20代前半の頃までか。
 それまでに、思春期の壁を乗り越えられるか乗り越えらえないか。
 思春期になる前までは、白か黒ということを意識しないで、好きに生きている。しかし、思春期になると、白ばかりでない黒い自分がいるという意識が表面にあがってくる。葛藤が始まる。それを思春期の壁というのかもしれない。
 思春期の壁をしっかり感じて、つまり、白も黒もある自分を目をそらさずに見つめて、白や黒、そして、グレーな自分だけれど、自分の器なりに白を目指して生きていくってことが人生かと悟って、生きていけたら、焦りの心から解放されると思う。
 でも、白か黒しかない、グレーな自分になれない、黒が許せない・・・と、本当の自分を素直に受け入れられないと、葛藤が続く。
 
 マズローは、『自己実現している人は、矛盾に耐えられる」という。

 黒もありだ、みな、結構、グレーで生きているんだなぁって、ストンと心に入ったら、思春期終了だ。
 でも、その矛盾に耐えられないと、白でありたいから、見せかけの白なのに、白を演じてしまって、疲れ果ててしまう。その結果、うつ状態になるかもしれない。
  
 反対に、黒なのに、自分を正当化する心の技術を習得してしまった人は、案外、黒を白と信じ込ませて、平気に生きていたりもする。

 思春期にきちんと思春期をする。
 つまり、自分の中に住まう白と黒を受け入れることが、とても重要なことなのかもしれない。
 親や大人の中に住まう黒によって、なんだか許せなくってむしゃくしゃして、親に反抗的になるという思春期DNAは、大切。
 きっと、自分の中に眠っていた黒が刺激されて、その黒をどう扱っていいかわからずにいるから、むしゃくしゃするのかもしれない。
 だから、反抗期がなかったという人って、どういう人なんだろうって思う。
 ていうか、私もなかった口だ。
 だから、今、私の人生は、最初の轍を踏まなかった付けが回ってきているように思う。
 反抗期がなかった付けは大きい。
 思春期に親の黒に気づけなかった。気づかなかった。
 まさか、親に黒が潜んでいないわけがない。
 なぜ、気づけなかったのだろう?

 おそらく、親が、白を演じ通したのだろう。意識的ではない・・・はず。

 木を見て森を見ず。
 子ども時代の視野は、木だ。
 大人にちゃんとなれた人の視野は、森。

 思春期は、世の中のいろんな人間たちとの人間関係というぶつかり稽古によって、世の中には、いろんな木があるんだなぁと体験を積み重ねていくという視野の変遷の時期。
 その木にいいも悪いもない。
 ただ、桜だけでなく、杉もヒノキもつつじもあるんだなぁ。とげとげの美しい薔薇の木もあれば、毒のあるとげをもった木もあるんだなぁ。
 
 自分が満開の桜だから、親も満開の桜かと思っていたら、葉桜一歩手前で、なんだかがっかりで、腹が立ってきた。

 思春期は、自分とは違ういろんな考えの人が、世の中にはいるという体験を積み重ねることで、森が見えてくるようになるのを、大人が見守る時期。

 でも、世の中、木大人もいっぱいいる。
 木を見て森が見えていないなぁとわかっている大人は素敵だ。
 でも、木しか観ていないのに、自分は森だととんだ勘違いをしている大人も多い。
 批判する人・正義を振りかざす人・悪口を言う人・思いどおりにならないことを受け入れられない人・・・。

 実は、木なのに森だと勘違いしている親に育てられた子どもは、反抗期によって、親を木から森に導いてくれる。
 反抗期は、子どもが森を見れるようになるための踏み絵だけれど、実は、親にとっても、より高いところから森が見えるようになる素敵な踏み絵だのだと思う。
 木から森が見えるようになる時って、不安だらけ。
 木だけ見れた子ども時代は、そこであそんでいればよかったから、木のまわりが安心できる空間だったら、それで十分だった。でも、思春期になって、森を見たいというDNAの発動によって、森の中をさまようようになってしまったら、道に迷ってしまって、行くことも帰ることもできなくなって、不安で不安でたまらなくなった。森で道に迷ったらアウトだ。せめて、方位磁石があれば、安心。思春期の方位磁石が、オロオロしない毅然とした親の存在かもしれない。
 とにかく、思春期は森が見えない焦りから、バクバクの時代なのだと思う。それで、親に、うざい。べつに・・・。クソババァ。

 木なのに森だと勘している親がお手本だと、子どもは木にしか囲まれていないから、全体が見れなくて。森の中で道に迷い続ける思春期に、ただただ、焦って、バクバクし続ける。
 しんどい。
 だから、夜眠れなくなって、夜徘徊する。夜遊びをせざるを得ない。それを、非行という。あるいは、夜、眠れなくなって、昼夜逆転して学校にいけなくなる。それを不登校という。外に出せない子は、親に八つ当たりする。それを家庭内暴力という。
 たぶん、元々生まれ持った性質というのもあると思う。森が見えにくい遺伝子というような・・・。
 親が、どれだけ森が見えるようになれるかな?
 


 森が見えるような大人になりたいなぁという気持で子育てをしている親は、もっと小さい木である子どものそんな揺れ動く子ども気持ちを察して、見守る力がある。
 ともに、森をみれるようになりたいという寄り添う謙虚な気持ちで子育ては自分育てと呪文を唱えながら。
 
 
 

 
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憧れの副反応

2024年02月18日 | エッセー
 津留晃一さんの本に

 これまで、人の役に立つような立派な人間になりたいと、多くの理想を掲げて行動してきましたが、
 
 人は、『理想』を心に抱いたその瞬間から、実は、『何とかしなければならない人』になっていく。

 人は、どんな時に理想を思い描くかと言えば、今が理想的ではないと感じているとき。

 あなたの無意識下に秘められた『今』を否定する気持ちが『このままではいけない』という困った現実を呼び寄せてきます。


 あ~~~。
 これって、まさに私のことだ。

 このままではいけないという困った現実が、これでもかこれでもかってどんどん降って来たよ。特に、この30年。
 直近の困った現実って、かなり深刻な状況だった。

 で、引き寄せたのは、私の理想とか憧れとか詰まった『なりたい貯金通帳』。私の『なりたい貯金』は、おそらく、小3くらいから入金しているので、かなり貯まってしまっているに違いない。
 
 なりたいという気持を抱いた瞬間、今の自分を否定する・・・・なんて、考えたこともなかった。
 オーマイガット!!!

 気持のキャッチボールのない親という殺風景な景色の家庭で、私は、アンシリーズや若草物語など、素敵な女性が登場する本を好んで読んだ。
 そして、素敵な女性の具体的な見本が身近にないから、抽象的にしかその素敵をイメージすることができなくて、とにかく優しい女性(多分、何があってもニコニコしている・・・的な)になりたいという憧れだけで、高校を卒業する頃まで、生きていた。
 親が、一度でも激しい夫婦喧嘩をしてくれれば、目が覚めて、もう少し、今の自分の気持ちに気づくことができ、憧れと現実の狭間で葛藤して、ちゃんと思春期を乗り越えられたかもしれない。
 
 小3くらいから、ずっと、なりたい自分で、日々、『今』を否定して生きてきたのだから、そりゃ、空虚になるはずだ。

 ずっと『今』を生きていれば、つまり、『今』したいことをしていれば、『今』言いたいことを言えていれば、いつも、心は満たされて、おそらく、幸せって感覚をわざわざ幸せだなぁって意識することもなく、充実した人生を送れただろう。私はというと、遅まきながら、20代後半に思春期ってやつがやっと到来して、何をやっても満たされない自分、虚しい自分に出逢って、空虚で胸が張り裂けそう的な症状に見舞われてしんどかった。

 あの時は、『今」を生きてこなかった人生の付けだなんて、思いもしなかった。憧れの副反応だったなんて・・・。

 
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気持ちのひねくれ率に理想NG

2024年02月17日 | エッセー
 『なりたい自分』というワードは、啓発本などでよく聞く。
 理想、あるいは目的に向かって努力するっていう考え方は、この世で最も認知されている考え方だと思って生きてきた。
 ところが、どっこい、そうじゃなかった。というか、逆に、諸悪の根源かもしれないということを最近、知ってしまった。
 ガッビーン!!!
 元々の気質(自分の気持ちを感じ取って表現することが苦手)と育ち(親が気持ちのキャッチボールするのが苦手)により、気持ちのひねくれ率が高くなって年齢だけは大人になってしまった人が、理想や目的に向かってしまうと、どんどん気持ちがひねくれていってしまう可能性が高くなるかもしれない。
 本当の自分と理想の自分とのギャップが、つまり、無意識と意識の世界のギャップが肥大化して、耐えられなくなって、心のバランスが崩れてしまう。
 もしかしたら、うつ病になってしまう人って、心のひねくれ率が限界に達して、自分でもどうしてよいかわからなくなって、心も体も身動きができなくなってしまった人なのかもしれない。
 成長の過程で、学校に上がると、いじめという洗礼が待っている。
 いじめを受けても、それを親に言えない子もいる。
 親が先生などに相談してバレて『密告したな。』と脅されるのではないかという恐怖から言えない子と、自分の気持ちを言語化できないから言えない子と。そもそも、親が夫婦で日頃から気持ちのキャッチボールをしていれば、苛める子に向かっていく力(エネルギーと表現力)があるから、いじめがエスカレートすることはないのかもしれない。
 なんて、偉そうなことは何も言えない。
 私自身が、気持ちを言語化する遺伝子がなく、気持ちをキャッチボールするような夫婦という親に育てられていないし、その結果、私と夫が、気持ちのキャッチボールのできる親でなかったから・・・。トホホ・・・。

 今、めっちゃ、わかった。
 私は、ずっと、憧れだけで生きてきてしまったと・・・。
 つまり、理想人間の極みだった。マジ、トホホ・・・だ。
 






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気持ちのひねくれ率、あなたは何%?

2024年02月11日 | エッセー
 最近、やっと、やっと、少しずつ、生きる意味って言うやつが見えてきたような気がする。
 なんだかんだ言って、心とココロが触れ合うという練習帳、それが、人生・・・かもしれない。
 『私は、今、こんな気持ちなの。』
 『そう。あなたは、今、こんな気持ちなのね。私は、こんな気持ちよ。』
 『あ、そう。あなたは、こんな気持ちなのね。』
 みたいに、気持ちのキャッチボールを、し続けてこそ、心とココロは触れ合える。
 せっかく触れ合っていたのに、途中で
 『こんな風にした方がいいんじゃない?』
 なんて、よかれと思って、バットを持ってカッキーン!!!ってホームランなんか打ってしまったら、アウトだ。

 傾聴って、意外と難しい。
 否、とんでもなく難しい。
 すぐに助言したくなる。
 助言=否定なのだ。
 気持のキャッチボールをしているときは。

 そういう私も、つい最近まで、人生は降ってくる災難という問題を解決する練習帳だって思っていた輩だ。骨の髄の髄まで、問題解決したくなる人間だった。問題が発生したら、せっせと情報収集をして、その中で最も相応しい解決方法を実践することで生き抜いてきたという自負があった。
 そのせいで、どうやら、助言したくなる人間になってしまったようだ。
 助言したくなる人って、実は、自分の気持ちがよくわからない人なのかもしれない。
 私の持って生まれた性質と生い立ちにより、気持ちが空洞化して育ってしまったように思う。今から思えば、気持ちのキャッチボールなんてどこにもないような殺風景な両親に育てられた。表立って波風は立たないから不安に怯えるような家庭ではなかった。でも、誰もココロのキャッチボールをしてくれなかった。というか、気持ちのキャッチボールのお手本もなかった。母が隠れ頑固人間だったようで、父は私が物心つく頃には、母との話し合いをするということを諦めていたと思う。だから、言い合いにすらならなかった。上手に気持ちのキャッチボールのできる夫婦なんてそういない。爆弾が飛び交う夫婦もあれば、弾丸が飛び交う夫婦もある。我が家は、母が弾丸で父は弾丸には勝てないと諦めて包丁を隠し持っていたのかもしれない。
 まだ、弾丸が飛び交う夫婦の方がましかもしれない。相手を責める言葉であったとしても、気持ちが乗っかているから。でも、面前DVは、暴力よりも前頭前野へのダメージが大きいといわれているから、やっぱり、ダメなのかな。
そうだから、自分の気持ちを把握できないまま大人になってしまった。
 心とココロが触れ合うという至福の貯金通帳が0円のまま、大人になってしまった。
 つまり、要約すると、心が空洞化したまま大人になってしまったのが、私。
 おそらく、それが空虚の原因。
 何をしても満たされない。つまらない。
 大人になるまで、『自分の気持ち』というこの世で一番大切なものを、明確化できないまま生きてきた。『自分の気持ち』をちゃんと育てることが、大人のスタートラインに立つってことなのに。それには、まず、親が自分の気持ちを言えないと始まらないし、親が子どもの気持ちを明確に言語化してくれないと始まらない。
 
 
 今なら、言える。
 親が、瞬間瞬間に感じる自分の気持ちをちゃんと言語化できて初めて、子育てのスタートラインに立てるって。
 世の中に、いろんな子育て本がある。
 でも、こんな時どうする?というハウツー本か子どもの心を育てる本が主流。
 問題解決人間の私はご多聞に漏れず、そういう系の子育て本もかなり読破してきたけれど、孫のいるこの年になって、やっと、やっと、気づいた。
 親になる必要絶対条件。
 

 安心してほっとするおうちで気持ちのキャッチボールができるような親の元で育った人は、最高に幸せ者だ。
 自分の気持ちをおろそかにしてきたつけが今来ていると思う。

 
 
 心とココロが触れ合うためには、まず、自分の気持ちってやつを正確にキャッチできないと始まらない。
 これが、曲者だ。
 案外、仮面を被った気持ちを気持ちって勘違いしている人も多いんじゃないだろうか。
 
 だって、赤ちゃん時代にすでに、泣いたりぐずったらあやされているのだから。
 素直に泣けなくなっているのだから。
 あ~、ママは泣くのが嫌いなんだ。僕は泣いてスッキリしたいだけなのに、ママが嫌なら仕方ない。苦渋の決断だ。大好きなママのために、泣いてスッキリしたい気持ちを封印して生きて行こう。

 だだこねしてすっきりしたいだけなのに、スマホの動画で誤魔化される。仕方ない。ママが駄々こねを嫌いなら、大好きなママのために駄々こねしたい気持ちを封印して生きて行こう。

 封印してしまった無意識のココロは消えてはいない。
 消えてはいないから、表面化された気持ちは、素直な本当の気持ちが屈折され、変形された気持ちとして、意識化されるんじゃないだろうか。気持ちがひねくれている。親の気に入るいい子になろうとすればするほど、ひねくれ率も上がりそう。

 でも、時々、無意識の世界に封印した気持ちが疼いて、表面化することもある。カラダに表面化されることも多い。個人的には、50歳くらいまでの病気の8割はココロの疼きの表面化ではないかとしみじみ思う今日この頃。

 ネットで漢方関係を検索していると、肝臓に溜まった気(イライラなど)の巡りをよくする働きの漢方薬が結構あるなって思う。
 肝臓に溜まった気(マイナスエネルギー)が、その人の臓器の中で生まれ持って、異常ではないけれど弱い臓器に表出して、症状となるような気がする。
 昔から、かん虫夜泣きに困ったな~って『樋屋奇応丸』のコマーシャルがあったけど、やっぱり、肝の気の巡りをよくするという効能に書いてある。最近は、多動児にも効果があると言われている。

 まずは、肝の気を発散させて、素直な気持ちが表に出て来るよう待っていると、カラダも整ってくるのかもしれない。

 

 


 



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野良猫飼えるかな?

2024年02月10日 | エッセー
 去年の5月から、それは始まった。
 9か月かかった。
 一体何に9か月かかったかというと、近づくと『シャーッ!』と威嚇してきて、なでなでしようとすると左手で払いのけようとして、爪を立ててくる野良猫ちゃんが、左手で払いのけようとしなくなった期間。
 1か月くらい前から、爪は立てて来なくなった。でも、威嚇と左手で払いのけようとしていて。
 だから、オスなのかメスなのかもわからないし、もちろん、避妊の手術のために捕まえて、動物病院に連れていくこともできなかった。
 以前、相当怖い思いをしたのだろう。
 この猫ちゃんを飼える日は、もう少しかなと思えるようになった。
 でも、仮に、家で飼うことができるようになったとしても、果たして、ずっと家の中だけで飼えるかどうか。
 今は、ほぼ、毎朝、毎夕、お腹空いたよって感じで、ほぼ定刻に我が家にやってくる。でも、市販のえさより、残飯の方がはるかに好みらしい。残飯を庭に持っていくと、なんだかうれしそうだ。
 最近、毎朝、毎夕やってこなくなったのは、春のせい?いろんな虫や小動物たちも動き始めて、餌に困らなくなったのかな?
 以前飼っていた猫が突然姿を消してショックだったところに、やって来たこの猫ちゃんが、瓜二つなのだ。
 毛がふさふさして、太っちょで、何かの血統書猫とトラ猫の子どものようで。
 せっかく家で飼えるようになったとしても、避妊の手術のために、無理やりというアクションをしたら、恐怖を感じて、また、威嚇と爪たてが始まるのではないかと危惧している。
 
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多様性幼稚園時代

2024年02月03日 | エッセー
 おそらく、人類は、今、過渡期にいる。
 
 何の過渡期か。
 
 それは、多様性の過渡期。

 全然、多様性人間じゃないから、言葉だけでも多様性って言おう・・・みたいな空気が、今という時代だと思う。
 
 多様性というと、男性女性とう性の話にいきがちだけど、自分以外の人を、『ありのまま』にいさせてあげられる人間力がどれだけあるかに尽きるのではないかと思う。
 『ありのまま』でいることを当たり前のように認められて育った人は、幸せだ。
 おうちが安心できる居心地のいい場所で、
 夜泣きしても、ぐずっても、だだをこねても、イヤイヤ言っても、怒っても、泣いても、笑っても、兄弟が生まれて拗ねても、宿題を忘れても、お勉強が苦手でも、兄弟げんかしても、学校に行きたくないって言っても、壁に穴を開けても、クソババァって言っても・・・命に関わるような危険なこと以外は、そのままでいさせてもらえた時に、初めて、多様性が染みついた素敵な人間になれるような気がする。

 『不適切にもほどがある』というドラマは、昭和と令和を行ったり来たりするドラマだ。昭和の暴力教師が横行する世界と令和の〇〇ハラに苦悩する先輩上司のコントラストが実に痛快で面白い。

 令和の何でもハラをみていると、その中途半端な多様性の描写が、まさに過渡期だなって思えて、感慨深い。
 今、やっと、多様性幼稚園時代に突入したって感じ。

 さかのぼれば、あやすハラか。

 赤ちゃんは、ただ、ママの気配を感じられる空間で安心して、すっきり泣きたいだけなのに、泣き止まそうと、泣いちゃダメよとあやされる。

 夜泣きが続いて、夜も抱っこして寝るという時、昼間もぐずるので、ずっと抱っこしたまま日が暮れるという時、ママにしてみれば、赤ちゃんから夜泣きハラスメントを受けているような錯覚を感じてしまいそうになるかもしれない。それでも、誰も、夜泣きハラスメントって訴えない。不思議だ。
 母は凄いのだ。
 世の中の母は、ほんとうに凄いのだ。
 終わりの見えないつわりを乗り越え、陣痛という痛みも乗り越え、夜泣きという睡眠不足の日々も乗り越え、一日中、抱っこという拘束の試練すら乗り越え、イヤイヤ期の子どもを怒らずに見守り続け・・・。

 誰も、こどもハラスメントなんて思わない。
 むしろ、だだこねで全然言うことを聞いてくれない2歳児のわが子に堪忍袋の緒が切れてしまって、怒ってしまったら最後、なんだか今までの溜っていた育児ストレスが噴火しちゃって、止まらなくなって・・・これでもかこれでもかって八つ当たり的に怒りを爆発させてしまって・・・・。
 夜、可愛い寝顔のわが子に向かって、ごめんねって涙する。

 いいお母さんになろうって張り切っていたのに、全然な自分に自信をなくす。
 
 赤ちゃんにしてみれば、ただでさえ、しゃべれない、寝たきりのように思うようにカラダが動かないから、行きたいところに行けないという状態だから、ものすごくストレスフル。
 おまけに頼みの綱のママが、何も言わず突然姿を消すという心臓バクバク事件の連続で、不安ホルモンのタンクが溢れそう。
 それを、ママの気配を感じながら、怖かったよ~~ってオンオン泣いてスッキリしたいだけなのに、ただそれだけなのに、泣かせることが不憫で泣き声に耐えられないママは、あやして泣きやまそうとする。
 タンクに溢れそうだった不安ホルモンはどうなる?

 圧縮されて固形燃料になって、無意識の世界に封印される。
 でも、ことあるごとに、封印が解かれそうになる。
 イヤイヤ期やだだこねは、その封印を解くチャンスだ。

 好奇心からなのに、ダメって怒られて、ムカッと来て、圧縮タンクに火がつく。
 導火線に火がついて、圧縮された固形燃料に引火したら、さぁ、終わりのないだだこねが始まる。
 いいんだよ。
 思う存分だだこねをさせてあげよう。圧縮された不安ホルモンの固形燃料が燃え尽きるまで。
 あやすという行為は、同情かもしれない。
 スッキリ満足するまで泣かせてあげる(見守る)という行為は、愛情である。

 赤ちゃんにしてみれば、あやされるのは、ハラスメント・・・かもしれない。泣いてすっきりしたいというありのままを否定されるわけだから。
 一方、ママは、夜泣きされても赤ちゃんからハラスメントを受けているなんて微塵も思わない。
 これって、凄いこと。
 最初から、泣いていいのよってギャン泣きを温かく見守れるママなんて、そういない。
 
 子育ては、ママとこどもの双方のハラスメントギャップを埋めるための、最高の修行の場かもしれない。

 『不適切にもほどがある』に描かれる何でも〇〇ハラと訴えてくるZ世代に
〇〇ハラ・ハラされてストレスたまりまくっている上司や先輩たちを見ていて、過渡期だなって感じる。
 双方のハラスメントギャップをどう埋めていくかという素敵なお題をいただいたなって思う。
 結婚や子育てにタイパがないということで、結婚を選択しない人がいてもいい。なんせ、多様性の時代なので。
 
 ただ、思う。
 ママをやってみるのは悪くない。

 

 
 
 

 

 


 

 
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