私は、仕事の8割を保健師として生きてきたので、お役所の事務的なお仕事はストレスだ。経験値がなさ過ぎて、全体がわかってないから、柔軟な対応をすることが全くできない。この年になって、なぜだか、私にとっては難易度の高い事務系のお仕事を振られてきて、結構、しんどい。
経験値を増やして、いろんなトラブルに対処する方法を体験しながら、全体像が見える景色にまで自分を持っていくことで、自信につながっていくのだとしみじみ思う。
木を見て森を見ず。
という諺がある。
私の今の心境はというと、
いろんな木を見て、早く、森を見たい・・・か。
おまけに、ネットのせいで、今日、調査票が送られてきて、今日中に報告書を出せなんていう時代に突入して、パソコン操作も役所ではおそらくびりっケツな私にとっては、ストレスフル。
脳トレさせてもらっているとい思えばいいか…と思いつつも、重荷だ。
息子さんが市役所に入って、今まで、市役所の人って仕事をしない、のんびりしてそうで羨ましいって思っていたけれど、めちゃくちゃ大変なところなんだということがわかったという人がいた。
そう、ネット時代になって、国からどんどん指令が来るようになって、大変なのだ。
ネットのない時代は、何か新しい事業を国が補助金を出して始めようとすると、前の年の秋の初めの頃に、まず、国から県に文書が届き、それを県が市町村に届け、それに対して、市町村が2~3か月で検討し、その結果を文書で県に届け、それを県が国に・・・というような、実にのんびりした仕事をしていた。
でも、今は、毎日、嵐だ。
コロナになって、オンラインになったら、さらに嵐が吹き荒れる。
国(官僚の方々)も大変そう。
先日も、オンラインで国の会議の様子を全国に一斉に伝えるというものがあった。その会議の資料を会議の前までにあげるということで待機していたけれど、前日、来ない。当日の9時にも来ない。え、11時からの会議だよねって、心配になって、他の市町村の職員に電話で聞いたら、別の会議では、5分前にアップされたこともあった。その時は、資料を印刷しながら、会議を聞いたという話を聞いて、国の担当の人たちもギリギリでハードな仕事をされているのだろうなぁとびっくりした。
ただし、官僚の方々は、東大出身の方がほとんど。つまり、頭の回転がめっちゃ速い。記憶力も凄い。昔、名古屋大学の法学部出身の方とお話したことがあった。その方との会話はおもしろいけれど、苦痛であった。回転が速すぎて、会話についていくのに必死で、会話を楽しむ余裕なんてなかった。おそらく、官僚の方々は、その人よりも、もっと、頭の回転が速く、記憶力に優れているはず。
だから、末端の市町村職員には、しんどい。
官僚の方々が、作成された文書を読み解くのにも、時間がかかる。難解な文章が多いので、声に出して読むこともある。下手をすると、上司に、言っている意味がよく解りませーんと助け船を求めることもある。
その日の会議資料は、10時45分にアップされた。
そんなこんなのスピードを要求されるこの時代、提出した資料の修正などのメールが県から来たりすると、バクバクと心臓が高鳴り始める。心臓の鼓動がドッキンドッキンとしてくる。そして、頭の回転が減速しだす。真っ白になりそう。だって、時間がないから。勝手に私の心は、焦りの気持ちモードになってしまうのだ。
人は簡単に不安って言葉を使うけれど、もし、24時間ドッキンドッキン、バクバクしていたら、身が持たない。
私も、心臓がバクバクし始めたら、脳が修正するためにクリアに働いてくいれるために、必然的に、深呼吸を繰り返していた。
そして、自分に言い聞かせた。大丈夫。大丈夫。はい、深呼吸って。
なぜ、焦るか。
それは、残業したくないから。
正職員時代は、サービス残業をしまくっていた。残業したくないから、必死だったけど、それでも終わらなかったから、残業をしていた。
なので、焦るということはあまりなかった。
でも、今は、正職員ではない。お給料が安すぎる。だから、サービス残業なんてできうる限りしたくない。年だし。しんどいし。4時には帰りたい。
人は、タイムリミットがあると、焦るんだ。
人には、それぞれのタイムリミットがある。
私の場合は、自分の処理能力とタイムリミットの板挟みで焦って、心臓がドキンドキン、バックンバックンし始める。
人には、いろんなタイムリミットがある。
思春期にも、タイムリミットがある。
20代前半の頃までか。
それまでに、思春期の壁を乗り越えられるか乗り越えらえないか。
思春期になる前までは、白か黒ということを意識しないで、好きに生きている。しかし、思春期になると、白ばかりでない黒い自分がいるという意識が表面にあがってくる。葛藤が始まる。それを思春期の壁というのかもしれない。
思春期の壁をしっかり感じて、つまり、白も黒もある自分を目をそらさずに見つめて、白や黒、そして、グレーな自分だけれど、自分の器なりに白を目指して生きていくってことが人生かと悟って、生きていけたら、焦りの心から解放されると思う。
でも、白か黒しかない、グレーな自分になれない、黒が許せない・・・と、本当の自分を素直に受け入れられないと、葛藤が続く。
マズローは、『自己実現している人は、矛盾に耐えられる」という。
黒もありだ、みな、結構、グレーで生きているんだなぁって、ストンと心に入ったら、思春期終了だ。
でも、その矛盾に耐えられないと、白でありたいから、見せかけの白なのに、白を演じてしまって、疲れ果ててしまう。その結果、うつ状態になるかもしれない。
反対に、黒なのに、自分を正当化する心の技術を習得してしまった人は、案外、黒を白と信じ込ませて、平気に生きていたりもする。
思春期にきちんと思春期をする。
つまり、自分の中に住まう白と黒を受け入れることが、とても重要なことなのかもしれない。
親や大人の中に住まう黒によって、なんだか許せなくってむしゃくしゃして、親に反抗的になるという思春期DNAは、大切。
きっと、自分の中に眠っていた黒が刺激されて、その黒をどう扱っていいかわからずにいるから、むしゃくしゃするのかもしれない。
だから、反抗期がなかったという人って、どういう人なんだろうって思う。
ていうか、私もなかった口だ。
だから、今、私の人生は、最初の轍を踏まなかった付けが回ってきているように思う。
反抗期がなかった付けは大きい。
思春期に親の黒に気づけなかった。気づかなかった。
まさか、親に黒が潜んでいないわけがない。
なぜ、気づけなかったのだろう?
おそらく、親が、白を演じ通したのだろう。意識的ではない・・・はず。
木を見て森を見ず。
子ども時代の視野は、木だ。
大人にちゃんとなれた人の視野は、森。
思春期は、世の中のいろんな人間たちとの人間関係というぶつかり稽古によって、世の中には、いろんな木があるんだなぁと体験を積み重ねていくという視野の変遷の時期。
その木にいいも悪いもない。
ただ、桜だけでなく、杉もヒノキもつつじもあるんだなぁ。とげとげの美しい薔薇の木もあれば、毒のあるとげをもった木もあるんだなぁ。
自分が満開の桜だから、親も満開の桜かと思っていたら、葉桜一歩手前で、なんだかがっかりで、腹が立ってきた。
思春期は、自分とは違ういろんな考えの人が、世の中にはいるという体験を積み重ねることで、森が見えてくるようになるのを、大人が見守る時期。
でも、世の中、木大人もいっぱいいる。
木を見て森が見えていないなぁとわかっている大人は素敵だ。
でも、木しか観ていないのに、自分は森だととんだ勘違いをしている大人も多い。
批判する人・正義を振りかざす人・悪口を言う人・思いどおりにならないことを受け入れられない人・・・。
実は、木なのに森だと勘違いしている親に育てられた子どもは、反抗期によって、親を木から森に導いてくれる。
反抗期は、子どもが森を見れるようになるための踏み絵だけれど、実は、親にとっても、より高いところから森が見えるようになる素敵な踏み絵だのだと思う。
木から森が見えるようになる時って、不安だらけ。
木だけ見れた子ども時代は、そこであそんでいればよかったから、木のまわりが安心できる空間だったら、それで十分だった。でも、思春期になって、森を見たいというDNAの発動によって、森の中をさまようようになってしまったら、道に迷ってしまって、行くことも帰ることもできなくなって、不安で不安でたまらなくなった。森で道に迷ったらアウトだ。せめて、方位磁石があれば、安心。思春期の方位磁石が、オロオロしない毅然とした親の存在かもしれない。
とにかく、思春期は森が見えない焦りから、バクバクの時代なのだと思う。それで、親に、うざい。べつに・・・。クソババァ。
木なのに森だと勘している親がお手本だと、子どもは木にしか囲まれていないから、全体が見れなくて。森の中で道に迷い続ける思春期に、ただただ、焦って、バクバクし続ける。
しんどい。
だから、夜眠れなくなって、夜徘徊する。夜遊びをせざるを得ない。それを、非行という。あるいは、夜、眠れなくなって、昼夜逆転して学校にいけなくなる。それを不登校という。外に出せない子は、親に八つ当たりする。それを家庭内暴力という。
たぶん、元々生まれ持った性質というのもあると思う。森が見えにくい遺伝子というような・・・。
親が、どれだけ森が見えるようになれるかな?
森が見えるような大人になりたいなぁという気持で子育てをしている親は、もっと小さい木である子どものそんな揺れ動く子ども気持ちを察して、見守る力がある。
ともに、森をみれるようになりたいという寄り添う謙虚な気持ちで子育ては自分育てと呪文を唱えながら。