総合漢方にんぷ薬・総合漢方育児薬

~頭を使ってではなく、カラダ(感性)で子育てしてみませんか~

ママのせい?妖怪のせい?自分のせい。

2015年01月29日 | エッセー
 10歳の四男に成長の兆しが・・・・・。
 まぁ、ほんとうに大変な子だったんですよ。
 気に入らないことがあると、すべて、私のせいにしてくるので、もう、腹が立って腹が立って。体力も気力もないのに、声張り上げて倒れこむ・・・みたいな日々だった。私が反論すると、減らず口をたたいてきて、本当に本当に彼と向き合うのに疲れ果てた日々。とにかく、素直に謝らない。(ま、よ~く考えたら、私も責められたら素直に謝るかって言ったら、そうでもないかなぁ。)
 そんな四男が、ここ最近、何かあると、妖怪のせいにし始めたのだ。
 私のせいではなく、妖怪のせいかな?ってトーンも低くなった。
 私のせいにしているときは、ギャーギャーすごかったのに、妖怪のせいって言い始めてから、ユーモアのセンスが出てきたようで、ちょっと楽しそう。自分を客観的に見れるようになったのだと思う。
 妖怪ウォッチって、ほんと、妖怪のせいって連発していて、何かあれば、すべて妖怪のせいにしてしまうところが気になっていたけれど、子どもたちも、きっと、どこかで、それは妖怪のせいじゃないとわかっているはず。それでも、声に出して、妖怪のせいって言語化することで、あ、違うな?お母さんのせいでもないな、やっぱ、自分かな?って客観的に思えてくるようだ。
 よかった、減らず口をたたく四男に辟易していたところだったので、思わぬ便乗効果でラッキーでした。

実は、お母さんのせいにできる子どもは、結構シアワセなんじゃないかと思ったりする。思春期の入口くらいの年齢までは・・・・。10歳くらいまで、お母さんのせいにしちゃえる子どもは、罪悪感みたいな感覚がそんなにないんじゃないかなぁ?
 罪悪感なんてない方がましだ。もちろん、いじめっ子みたいに、いじめることが快感に感じるようになってしまってはいけないけれど、おうちという安全基地の中で、小さい頃、めいっぱいママのせいって言えた子は、少なくとも、自分のせいと思う癖をつけた子どもより生きることが楽ちんだと思う。何を言ってもママは私を見捨てないという確信があるから、ギャーギャーとママのせいというわがままを連発しちゃえる。でも、もし、僕がこんなことを言ったら、ママから見捨てられるかもしれないという不安がちょっとでもあれば、なんでもかんでもママのせいなんて言えない。
 自分のせいでママが哀しんででしまうという感覚を人生の原点で心に刻んでしまった子どもは、ママが哀しそうだと=自分のせいという罪悪感を育ててしまいやすいんじゃないかなぁ。だから、そんなとってもつらい罪悪感を感じたくないから、いい子になってママを喜ばせる道を選んでしまいやすい?
 
 なんでもかんでも、すぐ、お母さんのせいとギャーギャー口答えする四男に苦労したけれど、今、思えば、少なくとも、彼の心には罪悪感の芽は育っていないということだろうから、これでよかったのかもしれない。
 『罪悪感は、畑の作物を枯らす農薬のようなものである。』
 そんな言葉に出逢ったことがある。
 人の生き生きとした心を枯らしてしまうくらい威力のある感情ということだろうか。

 四男もわかっていたのだ。全てがお母さんのせいではないってうすうす。
 自分の意見を通したいのに、わがままだと言って通してもらえない時、おかあさんのせいで思いどおりにさせてもらえない悔しさや腹ただしさを全部お母さんのせいって言葉で片づけて、自分の気持ちの帳尻を合わせてきた。
 子どもの時間と現実の時間のギャップからくる不満をすべてママのせいにすることで、どうにか自分らしく生きてきたけれど、10歳くらいになると脳も成長してしっくりいくようになるのかなぁ。

 これが、オンギャーと生まれてからのママとのやりとりの中で、いい子じゃないとママは認めてくれないと心に刻んでしまった子どもは、現実世界と折り合いをつけるためにママのせいという特殊装置を駆使してどうにかこうにか10歳という節目を迎えるに至る。
 ほんとうは、ごくごく小さいうちから、ていねいに対等なコミュニケーションによる妥協案というか、親も子も勝つわけでも負けるわけでもないような話し合いがなされるような人権が尊重されるような家庭で育てられたら、ママのせいという特殊装置すら必要でない。でも、そんな親ってめったにいない。
 私も、仕事と家事と育児の両立人生だったので、朝、「保育園に行きたくない。」って言われても、仕事に遅刻するわけにもいかないので、話し合い何てする余裕もなく、強引に保育園に連れて行くなんてこともよくあった。人権尊重なんてどこにもなかった。
 そんなこんなのまぜこぜの不満を全てママのせいにすることで発散していたのだと思う。

 昔の人は、ツのつく頃(九つ)までは、赤ちゃん(甘えたい気持ちやわがまま)と大人を行ったり来たりするものだ。だから、10歳までは小さな大人にしないようにしましょう・・・て言っていたという。
 小さな大人にさせてしまうと、大きくなって子どもになっちゃうんだそう。
 つまり、甘えたい気持ちやわがままを受け入れてもらえず、見た目上いい子にしていた子どもは、多くくなってから、その甘えたい気持ちやわがままが溢れてきて、子どもから大人になれない。

 なんでもかんでもママのせいにできる子は、シアワセだ。

 もちろん、ママも理不尽なママのせい攻撃に怯む必要なんてない。闘えばいい。お互いにギャーギャー言えればいい。筋は通さないとね。そうこうしているうちに、10歳がやってくる。そしたら、妖怪のせいになって、やっぱり、僕が悪かったかな?になって、大人の階段を上り始めるわが子の成長に胸がきゅんとなる日が来る。

 なんでもかんでもママのせいにできるためには、『ママは僕が何を言ってもどんなへんなことをしても見捨てない。』という確信があってこそ。それがない子は、なんでもかんでもママのせいにできない。
 オンギャーと生まれてからの日々のやり取りの積み重ねの中で形成されていく。ローマは一日にして成らず。なんでもかんでもママのせいも一日にして成らず。

 そして、実はその最初の一歩は、赤ちゃんが泣いたりぐずったりして泣き止まないとき、ママが『ママはあなたがどんなあなたでも見捨てない』というメッセージをきちんと伝えられるかどうか・・・。

 そして、1歳半の頃のイヤダクンの時代に、イヤだという自己主張を温かく受け入れてもらえたか…おもちゃを散らかしても、一緒に楽しく遊び感覚でお片付けしてもらえたか・・・。静かな大人の生活を邪魔されても受け入れてもらえたか・・・。お兄ちゃんなんだから・・・・お姉ちゃんなんだから・・・男なんだから・・・・何て脅迫されて、甘えたい気持ちを我慢させられなかったか・・・・。

 何を言っても、どんなことをしても、ママは見捨てない。

 そんな安心感を持って生きていける四男はシアワセ者だと思う。
 長男は、四男と正反対だった。
 手のかからないいい子だった。くそばばぁなんて言葉を言われたこともなければ、お母さんのせいなんて言われたことも一度もなかったなぁ。減らず口なんてどこにもなかった。お勉強も全く手がかからなかったし・・・。
 でも、不登校気味になったり、自律神経失調症になったり、うつっぽくなったりと、その分、自分を傷つけて苦しんでいた。

 ママのせい、妖怪のせい、自分のせいという階段をのぼっていくってことがが自然な成長のかも。

 最初が、自分のせいから始まると、大人になって、ママのせい、誰かのせい、政治のせい・・・なんていうカッコ悪い大人になりかねない。

 ちいさな子どもが自分のせいにしてしまうって、『人に迷惑をかけるような人間にだけはならないで。』という親からのメッセージの影響が大きいんじゃないかなぁって思う。
 『困ったときは助け合う、人と人が触れ合える街づくり』なんていうキャッチフレーズをよくみかける。これって、人に迷惑をかけない生き方と相反する。

 『人に迷惑をかけるような人間にはなるな!』という言葉をこの世から抹殺したい。
 人に迷惑をかけるなってことを言わないってことは、人に迷惑をかけていいっていいうことと同じではない。
 この世を生きていくうえで、人に迷惑をかけないということが、常に優先順位の第1位になることを幼い子どもたちに洗脳してはいけないかなぁって思うだけ。
 子どもは、親に認めてほしい、親に振り返ってほしいから、親が望むような人に迷惑をかけないことをめざしてしまう。そうすると、もっと、騒ぎかたっかり、やりたいことがあったり、わがまま言ったりしたいのに我慢する。たまに、羽目を外してわがまま言ったら、ママが悲しそうな顔をした。すると、ママがつらいのは僕がわがまま言ったせい。僕のせい。僕はいけない子だと罪悪感をもつ。

 自分の心を覗いてみても、ドロドロだ。
 人と比べて自分が劣っているなと思うと妬みみたいなものがニョキニョキ顔を出したり、記憶力も悪いので、うっかり忘れでへましたり、パソコンのソフトの操作を1回では覚えられないので何度も何度も若い子に尋ねざるを得ない残念さの中で生きている自分に情けなくなったり、胃を切って貧血がひどくて人の半分しかヘモグロビンがないので体力・持久力もないから、羽目を外す自信がない。外食したくても、ちょっと多めに食べたり、油系が多いとすぐお腹がキューッと差し込む痛さに見舞われてトイレのそばでないと心が落ち着かない。

 そんなこんなのネガティブな要素満載生活で人に迷惑かけっぱなし感が強い私だけれど、よく、ニコニコ生きてるよねって言う感じでタフに生きている。

 私をタフにしてくれているのは、そんな私でも、悩みや心の葛藤を相談してくれる人のために、ささやかでも光を照らしてあげれているかな?て思える瞬間という体験があるからだと思う。

 人を支えてあげれたという感覚ほど、じ~~~~んと私にしみ込んで生きる力になるものはないような気がする。人に光を照らした分、自分にも光が照らされる・・・というような醍醐味というか・・・・・。

 先日、同僚の小2のお子さんが、初めて『ママのせい』にしたという話を聞いた。ほっとした。よ~~~やったっとその娘さんを誉めて抱きしめてあげたい心境になった。
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0.8×2cmのハム

2015年01月19日 | エッセー
 質問。
 なんの大きさでしょう?

 実はこれ、東国原元宮崎県知事のポテトサラダのハムの大きさです。
 ギョギョギョー。
 驚きました。開いた口がふさがりませんでした。

 三度目の結婚相手の方は、甲斐甲斐しく彼を立てていました。
 もう、まるで、江戸時代の武士に嫁いだ女性のように尽くしていらっしゃって、あと何年もつかなぁ~って思っちゃいました。
 三度目のお嫁さんは宮崎市に住んでいて、彼は月の半分を東京で、そして、残りの半分を宮崎で過ごす生活スタイルなのだそう。で、その理由が、宮崎市から車で1時間余りの彼の実家の年老いた両親の介護をする人が、彼女しかいないから・・・・。ク~~~~~~~~~。新婚さんだよ。新婚で、まだ、子育てもしていないうちから介護なんてぞっとするよ。また、ここでも、彼女、甲斐甲斐しい嫁なんざんす。足湯をしてマッサージしてあげたり、料理もバランスを考えて何種類も作ったり・・・。御茶の水を卒業して、レースクイーンなんかもしたという経歴の才色兼備な女性なのに、なぜか、介護ヘルパーの資格ももっているという。東国原さんのどこがよかったの?という質問に、「なんでも知っているんです。」わかるなぁ~。
 そして、極めつけが、0.8×2cmのハム。
 というか、彼が宮崎に帰ってくる日は、彼好みの和服を着なくてはいけないそうで、もう、それだけでも、無理。そして、きっかり、午後8時に夕食を出さないといけない。テーブルにきちんと新聞紙を敷いて、その隣に、きちんと揃えてリモコンを置く。ごはんは、炊飯器ではなく、お釜で炊く。
 で、ポテトサラダを一口食べて、「これ、いつものじゃがいもじゃないね。味が違う。」って。
 で、彼女いわく「お店に言ったら、メークインが売ってなくって、男爵で作りました。」
 ちょっと、不機嫌なヒガシ・・・という構図。

 そして、そして、「ハムは、0.8×2cmだよね?」という極めつけのセリフ。

 この映像を見ていた日本中の女性を敵に回した瞬間、それが、0.8×2cmのハムだった。

 そして、きっと、みんな、あとどれくらいもつかなぁ?と思ったに違いない・・・とこの奥さんの行く末を案じたのではないかと思った。

 亭主関白もいいところ。
 申し訳ないけれど、こんな方に政治は任せられないと思った。
 対等な人間関係を築けない人に、弱い立場の人への心のこもった政治的支援ができるであろうか?
 いくら、弁達者に政治を語っても、行きつくところは安倍さんと同じ路線の臭いがした。

 それにしても、0.8×2cmのハムって、ポテトサラダをぐっと引き立ててくれるほどおいしくさせてくれる大きさなんだろうか?興味をそそる。今日の夕ご飯、ポテトサラダをメークインで作ろうと思っていたので、作ってみようっと。

 
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ちゃんとフェチ

2015年01月17日 | エッセー
 坂上忍さんが、ほんまでっかで「僕は、ちゃんとフェチ。」と自分の性格を表現していた。
 お~~~~、なんと完璧主義な方のことを的確に表現した言葉だろうと感激した。


 時間に遅れないようにする、台本はきちんと覚える、あいさつはきちんとするなどなど、僕はちゃんとしないといやなんだ。人に迷惑をかけるってことがいやだから。だから、なんでもチャントスルことにこだわるんだ。リモコンもちゃんと置くし、犬を何匹も飼っているけれど、ちゃんと散歩させたり、ちゃんと犬が喜ぶようにしてあげないと嫌なんだ。

 全て、ちゃんとすることが好き。

 ポロッと、人に迷惑をかけないように・・・・・と言っていた。多分、ちゃんとしないと人に迷惑をかける、あるいは、人に迷惑をかけないようにちゃんとしなさい・・・というようなメッセージを小さい頃、刷り込まれた人なんだろうなぁって思った。

 ちゃんとフェチは、坂上忍さんのリアルありのままではないと思う。たぶん・・・。
 ちゃんとすると快感ホルモンが分泌されるようになってしまった。坂上忍さんは、ちゃんとするというこだわりがリアルありのままな自分だと思っていると思う。でも、それは、きっとキガルありのままじゃないかなぁ。
 だって、もし、リアルありのままな自分でいられる人だったら、他人のリアルありのまま(それがちゃんとしてないくっても)許せるはずだもの。許せるというか、気にしないというか、責めないというか。
 彼は、許せなそう。
 それによって快感ホルモンが出る・・・・・麻薬的なホルモンが出るんだと思う。その物質が『また、あの快感を味わいたい』というように仕向けて行き癖になっていく。坂上忍さんは、ちゃんとするとそういう物質が出るから、ちゃんとする。
 ちゃんとしない人がちゃんとするのは、すごいこと。でも、ちゃんとすると快感ホルモンんが分泌される人がちゃんとするのは、そうすごいことではないのかもしれない。ギャンブルをやっていい気分になる人と同じかも。
 摂食障害の人は、体重計命って感じで、痩せていくたびに快感ホルモンが出るみたいで、エスカレートしていくらしい。小さい頃、親に認めてほしくて、いい子になったり、いい成績をとることを目標にして、それが達成できると快感ホルモンが出ていた子どもは、目標を達成すると快感ホルモンが分泌される癖を身に着けてしまった人で、摂食障害になる人はそんな達成感フェチの人が多いよう。
 達成感っていうと、プラスのイメージ。
 四男にとって、この達成感による快感は彼の人生でまだ未体験の領域のようで、勉強を頑張って良い成績をとるという達成感よ、再び・・・というのが、ない。100点なんて、そんなすごいことは望まない。せめて、90点とか80点とってうれしい、だから、また、頑張るというような脳システムを構築してほしいのに、なかなかそのチャンスがない。
 しかし、達成感が麻薬と同等の快感物質を出してしまうのも考え物かもしれない。
 ちゃんとフェチレベルまでなると、なんでもかんでもちゃんとしないと気が済まなくなる。ちゃんとしないという状態に対して、悠然としていられない。気になって気になって仕方がなくなるんじゃないかなぁ。なんだか、器が、すっげぇ小さい人間になりそうで残念。
 この分野だけは・・・・とかこれとこれだけは・・・・と、自分のほんとうに好きなものに対する達成感による幸せを感じられる人は、ほんとうに幸せだと思う。つまり、優先順位を自然とつけられる人は融通が利くので、心が狭くならないから穏やかな気持ちで達成感を味わえる。でも、すべてにおいてちゃんとレベルを要求する人は、気持ちが穏やかではないだろうと思う。相手が、相手にとってのちゃんとレベルをクリアしているつもりでも、それをちゃんとしていると認識できずにイライラする。自分の心が相手次第になってしまう。
 私の憧れ・・・は、どんな状況でも、心穏やかにいられるようになること。相手次第で、自分の気持ちがジェットコースターのように揺れ動くことが少なるような感覚の人間になりたい。相手がどのように出ても、自分次第・・・みたいな。現実は、ジェットコースターみたいだからこそ、憧れる。
 でもね、少なくと、3年前より、揺れが少なくなってきたような気がする。富士急ハイランドのFUJIYAMAではなく、そこら辺の低学年でも乗れそうなジェットコースターレベルになってきた。ガンで手術して腹が据わったかな?それとも、一度、HUJIYAMAで鍛えられたので、それを乗り越えられた暁のご褒美かな?シレ―レベル(シレ―っとして心が無視できる力)がアップした感がある。
 ちゃんとする人は、あくまでも自分がちゃんとするのが好きだからちゃんとしているだけ。
 でも、ほんとうに好きなのかな?って問いかけると、それはわからない。坂上忍さんは、人に迷惑をかけちゃいけないでしょ?って周りの片に、当然でしょうというような問いかけをしていたので、彼のちゃんとフェチは、キガルありのままだと感じてしまったのです。迷惑をかけていけないという世間体に洗脳されてしまって、もはや、ほんとうのリアルありのままは跡形もない。

 坂上忍さんは、お酒が大好きという。お仕事のない日は、朝から飲む日もあるのだそう。
 なんとなく、なるほどと納得。
 跡形もなくなったはずのリアルありのままがくすぶっているんじゃないかなぁ。それを、お酒に酔うことで紛らわして、現実を見ないようにしているのかもしれない。

 全てにおいて、人に迷惑をかけないというリアルありのままな人っていないんじゃないかな?
 ちゃんとフェチは、リアルありのままが1回転ひねっちゃって、キガルありのままな・・ちゃんとすると達成感という快感ホルモンが出るという条件反射のような気がする。

 自分は、どんな時に快感ホルモンが出るんだろう?
 ささやかな幸せにささえられてどうにかこうにか生きている。なんかあったっけ?
 あ、そうそう。塩茹で冷凍大豆を一粒ずつよ~くかんでその食感とほのかな甘みを感じる時って、快感ホルモンがしっかり出ていると思う。病みつきになっている。ないとストレス。そろそろなくなる頃とわかったら、何が何でも塩茹で大豆を作ることを優先する。切れると気分が悪い。
 それが、あってもなくても平気な方がいいんだけれど・・・。
 ま、大豆ですから。

 私って、結婚してから、おうちで職場で、かなり、ネガティブな状況に追い込まれていて、そんな、快感ホルモンどころではなかったかなぁ。相手がどんな人でも、逃げずに、自分の意見を言えるようになった(ちょっとだけ)今、おうちでも職場でもなんだか、ほんわか快感ホルモンが出ているような気がする。その時その時の快感ホルモン分泌ではなく、10年20年という歳月のなかで、おうちで職場でリアルありのままな自分を表現できるようになったことそのものが、自分に自信みたいなものを与えてくれたような・・・。でも、きっと、そのリアルありのままもキガルありのままに近い自分なのかもしれない。だって、20歳の頃、自分というものがないと気づいてショックを受けて、それから、自分を探し始めたようなお粗末な自分だから。きっと、幼い頃、封印していると思う。封印して自分の欠落したいい子人生を歩いてきたんだと思う。催眠療法とかすると、幼い頃の傷ついていい子の道を選んだきっかけがわかるのかなぁ?

 坂上忍さんは、人に迷惑をかけたくないからちゃんとするとおっしゃる。
 そこに、ちゃんとしない人を否定する空気さえなければいいんじゃないかなって思う。でも、坂上忍さんといっしょにいてちゃんとしないといけない・・・とような空気感・緊張感を醸し出しているとしたら、どうなんだろう?それって、人に迷惑をかけているよね。それも、1回2回の遅刻なんかより、ずっと、圧力がある。
 それに思うんです。きっと、坂上忍さんは、今のところ、元気なんだと。病気をすると、いろんな意味で俗にいう迷惑をかけざるをえない状況に陥ってしまって、ちゃんとするなんて宣言できないもの。

 
 
 
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キガルありのまま・リアルありのまま

2015年01月11日 | エッセー
 アナと雪の女王で大ヒットした『ありのまま・・』をみな気軽に口ずさんでいる。
 そのキガルな感じのありのままの捉え方がなんとなく気になる。ふだん押さえている気持ちや言いたくても言えないでいる抑圧している言葉や気持ちのことをぶっちゃけたい・・・ということをありのままの自分と思っているんじゃないかなぁ。
 エルサは、幼い頃封印した魔力を解いて『ありのままの自分』で生きることを選んだ。最初は、山奥なら、一人という孤独はつらいけれど、誰に気兼ねもなく抑えていたものを解き放ち、のびのびと暮らせるから・・・キガルありのまま。
 と安易に考えていた。でも、現実は、そんな生易しいものではなかった。
 コントロールできないエルサの魔力は、ちょっと一振りで国のすべてを凍らせるほどの威力だったのだ・・・・・リアルありのまま。
 幼い頃、封印した感情は、封印しないとつらすぎるから、耐えられないから、封印した感情。
 しかも、封印だけならまだましで、封印するために、真実を(ありのままの気持ちを・・つまり,リアルありのままを)ねじまげてしまっている。自分で自分の気持ちを捻じ曲げて、その捻じ曲げた気持ちをありのままの自分と思い込んで生きてきている。その時は、それが自分が生き延びるための最善の道だったけれど、それ以来、捻じ曲げた自分が自分と思い込んで生きてきた。捻じ曲げた自分が感じる感情を自分のほんとうの気持ちだと勘違いして生きている。そんな勘違い自分でさえ、押し殺して生きている私たちは、かなり苦しい。せめて、表面上、押し殺している自分の気持ちくらいありのままに表現したい・・・それが、キガルありのまま。
 もはや、キガルありのままでは、心が息苦しくてどうにもならない時が来る。それが、うつ病だったり、パニック障害だったり、非定型うつ病だったり、摂食障害だったり・・。
 幼い頃の封印が強かった人ほど、リアルありのままが爆発しやすいのかもしれない。
 人は、大なり小なり、いい子になろうとしてしまいやすい生き物だと思う。親に認めてもらいたい(親から見捨てられたくない)という欲求は、生存欲求だから。自分の心を守るためにある自己主張より、同じく自分の命を守るための親から認めてもらうことを選ぶ。
 でも、封印が完璧ないい子ほど、大人になって、エルサのようにエネルギーが暴走しやすくなるんじゃないかなぁ。

小さい頃から、いいも悪いも受け入れてもらえた、だだこねもOK、いい子もOK、泣いてもOK、怒ってもOK全てOK、だけど、一線を越えたらビシッと叱ってお貰えた子どもは、自分の感情を思いっきり出し切る体験ができて限界を知っている。絶対、これ以上にはならないとカラダが知っている。だから、コントロールできるようになる。そして、自分の喜怒哀楽の限界という至福の体験をあたたかく見守ってもらえたことで、認めてもらえた・・・ありのままでいいよと言ってもらえたという感覚が心が満たす。将来、空虚という心模様に染まることは、たぶん、ない。

 死にたい・・・と本気で思ってしまう人は、・・・・寂しい・・・と言う・・・。空虚・・・。

 封印した感情を、ありのままになんか出せない。
 それも目の当たりになんかできない。だって、底なしの沼のように空虚なんだよ。
 そんなの、誰だって避けるに決まっている。

 美味しいものを食べたり、パチンコしたり、飲んだり、買い物したりなんかして、リアルありのままな自分をなるべく直視しないようにして、適当に自分をあしらって生きている。

 『私は、自分と言うものを全く受動的に二つの敵対する力が互いに闘う舞台のように感じます。』
うつ病など患った方の言葉です。

 キガルありのままとリアルありのままという二つの敵対する力が闘う舞台を24時間営業したら、誰だって疲労困憊してしまうと思う。それでも、そこを踏ん張って、空虚を乗り越え、二つの敵対する力が闘う舞台を乗り越えられた時、初めて、リアルありのままな自分と自然体で上手にコントロールできるようになるんじゃないかなぁって思う。
 だから、リアルありのままって、ほとんどの人は無意識に避けて、何となく、自分をあしらって生きるのが精いっぱい・・・だよね。ふつう・・・・。


 知人のお子さんが、いじめを受けている。
 初めて、いじめについての対処法を真剣に考えている。自分事として。
 いじめる子どもが、二度といじめをしないような気持ちになるには、どうしたらいいのだろうと本気で考えている。
 もし、今まだ、思春期の入り口で、いじめる子どもがリアルありのままな自分を素直に表現できなければ、その子は、一生、いじめることで快感を感じる人の心の痛みのわからない無情な人として存在し続けると想像する。
 いじめる子は、誰かをいじめて快感を得るというキガルありのままな自分を自分だと勘違いしている。
 ほんとうの自分は、何か抑圧されるものがあって、リアルありのままな自分をノーと拒絶されて、その拒絶を直視することはあまりにも辛すぎる。だから、封印して、でも、ストレスは溜まっているので、いじめていたぶることで得られる優越感という快感に酔うことで発散しているのだと思う。もちろん、本人は無意識にそうやっているんだけれど。

 どうなんだろう。快感のレベルまでなった場合、人は、そう簡単にはやめられないだろうなって想像する。人の痛みどころか、快感を感じるんだよ。いじめていたぶることが・・・。
 そうなってしまった脳をリセットするにはどうしたらいいのだろう?
 まだ、10歳そこそこの成長段階だったら、どうにかなるんじゃないだろうか?大人は無理って思うけれど。

 カールロジャースの『人間尊重の心理学』という本に

 『孤独』についてこう書いてあった。

① 基本的亀裂の中で、体験しつつある有機体は、経験の中にある意味を感じとっていますが、意識的自己は他の意味に執着しています。なぜなら、それこそが人から愛され受け入れられるあり方だったからです。こうして、私たちは潜在的に宿命的分裂を有している。
② 自分の真実の体験、即ち、真の自己を語るべき関係が欠如していること、亀裂した自己の二側面、即ち意識的外面と経験の底にあるものを語ることのできるような人間関係を有していない時、人間は真に触れ合っていないという孤独を感じるのです。

 幼い頃、好奇心や自己主張をわがままと一括されず、いい子でいることで受け入れられていると感じることもなく、いいも悪いもOKというような環境にいられたとき、リアルありのままな自分でいられる。
 もし、そこで、親の思いどおりないい子、育てやすい子でないと怒られるような環境、あるいは、褒めまくられる(つまり、操作される)環境で育っていたら、リアルありのままな自分は封印される運命にある。

 だから、たぶん、ほとんどの人は、リアルありのままな自分を封印して大人になっている。大なり、小なり。
 始まりの始まりの始まりは、赤ちゃん時代。泣いたとき、ぐずった時、夜泣きした時。

 ここで、思いっきり泣かせてもらえなかった赤ちゃんは、すでに、リアルありのままな自分を封印しないと、ママはいやなんだということを、あやされるたびに、抱っこされるたびに、無理やりミルクを飲まされるたびに、おしゃぶりをくわえさせられるたびに強烈に感じている。
 1回ですめばいいけれど、毎日、毎日、何度も何度も、『泣いたりぐずったりしたらママは困る』というメッセージを一番大好きな人から言われたら、そりゃぁ、押し黙るよ。

 池川明先生(産婦人科医)の子どもたちの胎内記憶のドキュメンタリー番組を見た。
 どうやら、子どもたちは、天国みたいなところで、このママのところの子どもになると選んで、宣言して胎内に魂として宿るらしい。そして、どの子も、社会の、あるいは、ママやパパたちの役に立ちたいという大目標を持って生まれてくるらしい。役に立てれば本望だ・・・みたいな。それが、仮に虐待するパパやママだとわかっていても、ママが虐待して気が済むのならそれでもいい・・・と虐待されることがわかっていても、虐待されることがママの役に立つことだったらかまわないという覚悟で胎内に宿るのだと・・・・・。
 
 だから、ママが、赤ちゃんに泣かれて、もう、どうしていいかわからないと途方にくれながら、あやしたり、おっぱいを飲ませたり、おしゃぶりをくわえさせることをしちゃうと、赤ちゃんは、僕はママの役に立っていないと感じて、リアルありのままな自分でいることを封印して、ママの役に立つような、ママを困らせないように泣くことを我慢する子どもになる道を選ぶ。泣かなくても平気なわけじゃない。頑張って、泣かないように踏ん張って生きる道を選んだだけ。
 だから、ときどき、我慢の糸がきれてしまう。
 それは、微睡みの(まどろみの)時間帯にやってくる。
 意識しているときは、緊張して、泣かないようにコントロールできるけれど、眠くなって、意識から無意識の世界に入らんとするような時に、つい油断してしまって、泣きたい気持ちのがまんをコントロールできなくなって、ぐずる。
 抱っこされていると寝てくれるけれど、そーっとお布団におろすと、パチッと目を開けて泣き出すことの繰り返しで、寝付くのに1時間も2時間もかかりますっていう赤ちゃんって、そういう状態。

 幼い頃、いい子、親にとって育てやすい子、思いどおりになる子、言うことを聞く子、素直な子などなど・・・・・は、元々の気質ももちろんあるけれど、きっと、どこかで、ママに『泣いちゃだめよ。』というメッセージを受け取って、泣かない選択をした子どもたち。

 だから、始まりの始まりの始まりで、ママが、赤ちゃんが泣いたとき、「お~、お~、泣いていいよ。泣きたいときはないってスッキリしようね。」と泣くことを応援してもらった子どもは、未来永劫リアルありのままな自分で生きて行ける幸運を手にすることができる。ほんとうの素直さとは、リアルありのままな自分でいられる時の状態。だから、泣いたり、怒ったり、だだこねしたり、ケンカしたりする子が、素直な子のはず。
 俗に、素直でいい子というときの、素直って、もしかしたら、怖くて何も言い返せなくって、一見いい子だったり、へたをすると、言い返すことすら無意識の世界に封印してしまっている子どもなのかもしれない。

 もう一度、カールロジャースの『人間尊重の心理学』より

 人を孤独に閉じ込める重要な一因に、真実の自己、他者には見えない内的な自己は誰からも愛されないのだという確信がある。この感情の起源を追及するのはやさいしい。子どもの自発的な感情、本当の態度が、両親や他人からあまりにも否定されたため、彼は周囲の考え方を採り入れて、自分の自然な反応や本来の自分は誰からも受け入れられないと感じるに至るのである。

 たぶん、リアルありのままの抑圧度に正比例してキガルありのままという現実逃避度も高くなっていくんじゃないかなぁ。何かで快感を得るという代償行為としてキガルありのままな生き方があると思う。
 お酒がストレス発散。でも、飲まない日を設定できる(コントロールできる)人は、リアルありのままな自分の抑圧度が低い。でも、休刊日の設定ができない。適量ですまない。飲み会でもないのに焼酎を3合も4合も泥酔レベルまで飲んでしまう。そんな人は、かなりリアルありのままを封印している人かもしれない。

 いじめる子は、コントロールなんてきかない。
 一たん、いじめで快感を得る体験をしてしまったら、アルコール依存症と同じようにエスカレートしていくような気がする。ただし、なるべく早い時期に周りが気づき、いじめっ子のリアルありのままな自分を理解してあげようとするような積極的傾聴という環境を提供できるとするなら、そこに、可能性はあるはず。

 『人を攻撃せずにはいられない人』という本に、いじめる人は死ぬまでいじめる人で、いじめられた人の気持ちを理解することは不可能に近い・・というようなことが書かれてあった。
 なぜなら、自分が攻撃した人は、それ相応の理由があったと本当に思い込んでいるからなのだそう。

 いじめる人って、一体どこで、そうなっちゃうんだろう?
 親からの抑圧は同じでも、いい子で自分を抑えて自分を傷つけるタイプと、いじめることで快感を得るという人を傷つけるタイプと。元々の気質の違いなのだろうか?エネルギーの違い?

 アルカイダかイスラム国か・・・。フランスでテロが発生した。
 彼らも、いじめっ子タイプじゃないかなぁ。彼らにとっての正義のためなら、なんだってしてもいいと本気で思い込んで、一般市民の命すら平気でなしにできるのだから。
 彼らとの話し合いは、不可能だと思う。

 イスラム教そのものはいいのかもしれないけれど、イスラムの国々のこの欲求不満、抑圧度の強さは、一体どこから発生しているのだろうか。

 ガソリンが129円だって。しばらくは。
 石油価格ってどうやって決められていくのだろうと不思議に思っていた。
 今回の値下げは、アメリカのシェル石油がいっぱい石油を産出して、世界の石油のシェア拡大を狙った戦略に出たけれど、アラブ諸国は自分たちのシェアを守るため、あえて、値下げして世界でのシェアを維持する戦略をとった結果だそう。アメリカ対アラブ諸国の戦い、駆け引きに、石油のない国は左右される運命なのだ。
 ま、今のうちに、ドライブをいっぱいしとこう。
 あと、5年か10年すれば、水素で車が走る時代となるはず。
 そしたら、そんな駆け引きなんてなくなるだろう。いつか・・・。

 



 
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奨学金返還減免と地方再生はありえる?

2015年01月01日 | エッセー
 地方に若者を呼び戻そうと、地方に就職した場合に奨学金の返済を手助けする仕組みが来年度にも始まるという。
 奨学金のおかげでわが息子たちは大学にいけている。市の無利子の奨学金と日本学生支援機構の奨学金の二つを借りているので、返すときは大変だろうなと思うけれど、そうしてもらうより他はない。
 一度は、東京とか都会で仕事をしてほしいと思っている。最終的に田舎に戻ってくるにしても来ないにしても、日本全国から集まってきた人たちと接点が持てるということが大事かなって思って。日本国内の異文化体験をして田舎に戻るのとそうでないのは、やっぱり、視野が違うような気がする。叶うなら、宇宙から地球を見るような視点でものを見れたら生きるのが楽だと思う。これしか道はないという生き方と、180度違う道もOKという生き方じゃ全然違う。お隣の県とわが県でも県民性はかなり違うなって思う。
 
 でも、地元企業で5年間働く・工学や農学など特定分野の学位や資格がある・・などの条件を満たした場合。奨学金の一部もしくは全部を肩代わりするという特典は魅力だ。
 3年都会で働いて、その後5年地元で働くってあり?だろうか。
 
 地方の地方に住んでいて、やっぱり、若者にとっては住みたいって思わないだろうなぁって思う。子どもを育てるにはいい環境だけれど。高齢化率が35%となると、ほんとさびしい。活気がない。街の真ん中以外は、おじいちゃんとおばあちゃんだけって感じで、50代の人がいると若いなって思うもん。
 田舎には就職できるような就職先がないという問題も大きい。農業が魅力になるような企業展開ができてくると活気が出てくるかなぁ?そのためには、国が、自給率をもっとアップするような施作をしないといけないんじゃないかなぁ。

 20年後には、団塊世代も激減し、日本の人口も激減する。
 その時に、日本経済は一体どうなるんだろう?
コメント
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