総合漢方にんぷ薬・総合漢方育児薬

~頭を使ってではなく、カラダ(感性)で子育てしてみませんか~

シアワセ問答 その1脇

2015年09月23日 | エッセー
 ツタヤにDVDを返しに行ったら、『神様とのおしゃべり』という本が目に留まって、つい、買ってしまった。さとうみつろうさんという方が著者。
 昔、ほんとうかどうかわまらないけれど、宇宙のしくみってそうなっているのかもなぁと思えて素直に読めたら、物の見方ががらりと変わることができ、ココロがすごく楽になる法則を教えてくれる本だった。いい出会いに感謝。また、ひとつ。
 表紙には、あなたの常識は、誰かの非常識と書いてあった。いいねぇ。そして、ページをめくると、『不安よ、来い。』だって。帯には、『99%の幸せを差しおいて1%の不満を探す人間のなぜ』そうだよ。そう。わかっている。
そこそこ美味しいものを食べれて、一軒家に住めて、育児って難問だけど男ばっかりだけど4人も子どもに恵まれて、人間関係はいろいろあるけれど仕事は楽しくて、よくよく考えれば、これだけでかなりシアワセなはずなのに、アルコール依存気味のキレキャラお子ちゃま夫の存在により、毎日どんより曇空に感じてしまうという心理。戦火のマララやクルド族の20代の女性兵士たちに比べれば、シリア難民に比べれば、どれだけシアワセか・・・・。
 頭では、わかっている。でも、なぜか、どうしても、マイナスなことに目が行ってしまい、結果、どんより曇り空になってしまう。
 この、頭では分かっていることをカラダで感じられるようになりたい。

 この本には、その仕組みが書かれてあるという。
 わかっている。物の見方が変われば、夫に理想(理想でなくごく普通の父親像を求めているだけなんだけど)をついつい強要してしまう(もちろん、言葉には出さないけれど・・・)心理から脱却できるはず・・・だと。
 チャレンジ!(いっつもチャレンジばっかり・・・・にトホホ)

 初っ端から、なるほど。
 『お前はすでに幸せじゃ。なぜなら、お前の願いは一つ残らず全て目の前に叶っておる。』
 『私が創り上げたこの世界は、全てその人の思うままなんじゃ。ある人にとっての「現実」とは、100%その人の思い通りにできている。』

 うそ~~だ。望んでいないことばかりバンバン起こっている。会社になんか行きたくない。
 『じゃあ。行かなければいい。』
 会社を辞めたら、給料をもらえないからごはん食べれない。
 『じゃぁ、ご飯を食べなければいい。』
 そしたら、死んじゃうよ。
 『じゃぁ、死ねばいい。』
 死にたくはない。

 
 『そうだろう。死にたくない。だから、会社に行ってるんだろう?願いはかなっているじゃないか。ご飯を食べれているんだから。』

 ご飯を食べるために会社に行きたいと自分で願っておきながら、会社に行きたくないと同時に願うなんて・・・。


 この方程式、私の人生にもあてはまることばかり。

なぜだか、小さい頃から、優しくて素敵な女性になりたい…という模索をしていた。
 よくわからないくせに・・・。

 神様は、その意味もよくわからない私に、体験して私がいろんな人の気持ちを実感できないと優しくて素敵な女性になんてなれないから、いろいろ体験させたくて、こんなにもたくさんの課題をお与えになるのだろうか。
 優しくて素敵ってとっても抽象的。
 実は、自分でもよくわからない。
 ただ、いつも崖っぷちにいるような気がする。崖っぷちでためされているよう。蓮の花のように、泥の中に根を深くはって美しく咲きなさいと言われているんだろうなぁと思いつつも、逃げ出したくなる。

 優しくて素敵な女性になりたいから、そのためには人の気持ちを理解できないといけない。だから、いろんな気持ちを体験するために崖っぷち体験がやってくる・・・・のかな?
 こじつけでそう思い込もうとしている私がいる。でも、こうも崖っぷち体験目白押し状態が続くと辟易って感じ。
 慣れたけど。
 慣れると、いいこともある。少々の崖っぷち体験なんて平気になれるから。
 でも、ただ慣れただけであって、つまり、麻痺してきたわけで、物の見方が抜本的に変わったわけではないので、実は、無意識にストレスをため込んでいるかもしれない。

 頭だけでなく、反応として物の見方を変えたい。

 今の現実は、私が望んだから。
 ただ、
 ①願いが叶うころに、本人が願ったことを忘れていたり、
 ②願いが複雑で、叶ったこと自体に本人が気づけなかったり、  
 ③まちがえた願い方をしたせいで、変な形で叶ってしまったり
これらたくさんの理由が絡み合って、『人生は全て私の望み通り』と思えない。そして、『望んでいないことが人生には起こる。』と感じた時に、人は苦しむ。

 そういえば、20代後半、自分の心のドロドロに溺れかかって、こりゃ、とても、素敵な女性になんかなれないと悟って、じゃぁ『何のために生きるのか』という迷路に迷い込んで息苦しくなった時があった。その時、出した結論は、とりあえず、そのことは棚上げして、結婚して子育てという目標に切り替え、日々、自分を忙しくすることで、迷路から脱出する。そのために、その時出逢った人に縁があったということにして、結婚した感がある。
 そして、お陰様で、この20年余り、崖っぷち体験の連続のおかけで、『何のために生きるの?』という迷路なんて、どこに行ったの?ってくらい日々を生きることに精一杯の日々だった。

 願いは叶った?


 『仕事はスピーディに、だけど、丁寧にやりとげたい。』という願いを叶えるために、チェックマンというイヤな上司が存在するんじゃ。

 なるほど。
 スピーディと丁寧は相反する願い。だから、2番目の願いをチェックマンというイヤな上司とセットにして、願いを叶える・・・・のか。ということは、人間にとって、スピーディと丁寧の両方を兼ね備えるっていうことは難しいってこと?

 そうか。
 私っていう人間は、わりと理想に突っ走る傾向がある。そして、自分でもチェック機能が甘いなって思うことが時々ある。

 こんなすばらしいことなのに、どうしてみんな乗ってこないの?ってことがよくあった。
 今では、仕事って一人でできるものではない。人生、仕事でもなんでも、何をしたかではなく、どうあったか・・・。つまり、その仕事をその場にいるメンバーたちと楽しくやれたかどうかの方が大事なことだと認識している。
 
 そうか。
 理想に走りやすい私だからこそ、私の周りは、完璧主義っぽい人が集まってくるのかなぁ?
 その極めつけが、チェック大好きな、とりわけ、私のすることなすことのすべてが気になるらしいAさんの存在・・。今の今までは、目を皿のようにして私を見張っている感すら漂い、これは、もう、いじめのレベル?って感じで、Aさんの発する言葉に心が萎えて、エネルギーをごっそり持って行かれることが多かった。でも、今、わかった。半端ないAさんの私に対する執拗なチェックは、つい理想に走ってしまいがちな私に必要なものだった・・・・と。裏を返せば、それほど、私って存在は、理想に走りやすい分、脇が甘いってことなんだろうなぁ。
 確かに。
 
 視点が変わった。
 今までは、ただ、ただ、できるだけ、Aさんの視線エリアから脱出したい気持ちの見え隠れする日々だった。でも、なんだか、ちょっとだけ、ちょっとだけね、ありがたいという感謝の念が見え隠れするようになった。超脇の硬いAさん。足して2で割れば、ゼロとするなら、私って超脇が甘い人間なのだろう。
 
 

 

 
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『着物の喪服を借りる』は あり。

2015年09月16日 | エッセー
 義理父の葬式の朝、義理母がたびとぞうりがないと言い出し、みんなで金策ならぬたび・ぞうり策に走った。一見そう見えないけれど、実は認知症が結構進んでいるかもしれないという感じの方は、整理整頓力の低下でわかることが多いなって思う。私も、いきつけの美容室に電話してみた。着付けとかはやっているけれど貸したりはしていない。でも、母親が持っているかもしれない・・・ということで、わざわざご実家まで探しに行っていただいた。そのことを電話で義理母に伝えると、他にも不備がいっぱいあったらしく、結局、喪服一式借りて、そこで着付けまでしていただくということで、急きょ、そうなった。通夜のときは洋服だったので、洋服という選択肢もありなのかなと思ったけれど、80歳。やっぱり、喪主は和服・・・にこだわった?
 でも、正解だった。
 粋だった。
 私も喪主になったら、喪服を借りようと思ったくらい。
 今の季節の着物は、特に粋だ。
 義理母は恰幅もいいので様になる。
 義理母が持参した喪服は夏用ではなさそうだったし、少々よれよれ感があったので、借りてほんと成功だった。
 今まで、こんな粋な喪主の着物の喪服姿を見たことなかったので、洋服でいいんじゃない?って思っていたし、仮にもし、私が喪主になっても洋装でいいかな、めんどくさいし…て思っていたけれど、義理母の和装姿を見て、私も借りるぞって思った。夏の喪服は、女性を引き立たせてくれる優れもの。
 同僚たちにその話をしたら、借りるのもそう高くないらしい。着付けとクリーニングまで込みで2万円しないらしい。決~~~~めた。
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りりしさを

2015年09月15日 | エッセー
 りりしさを 
 残し旅立つ
 青年の
 めざすははるか
 一途に前へ


 この歌は、次男が自転車日本一周の旅を始めたばかりの頃、長崎で泊めていただいた次男曰く『あんなおばあちゃんがいたらいいなぁ。』という上品な女性が詠まれた、その時、日記にしたためられた短歌。

 東北地方のすごい雨風に次男が巻き込まれていないか心配になりお電話を下さって、その時にこの歌を詠まれたことを教えてくださった。母としては、感無量。息子には、『こんなおばあちゃんが電話番号とか名前を教えても・・・。』と教えてくださらなかったらしく、息子も連絡の使用がなかったところ、息子は、我が家の電話番号をその方に教えていたらしい。
 赤の他人に、わが息子をこのように詠んでいただけるなんて、母として、子育ては無事卒業できたという安堵と誇らしさで胸がいっぱいになった。
 次男という風は、きっと、あっちこっちに幸せを運んでくれているのかなぁ。
 もちろん、息子にとっても、この出会いは宝であり、誰かに騙されても誰も信じられない・・・・というような最悪の事態にはならないような気がする。
 
 長崎の夜景を見ようと、必死こいて30キログラムの荷物を積んだ自転車を押している次男の姿に、何とも言えないいじらしさみたいなものを感じてしまい、思わず声をかけてしまったとのこと。
 やっぱ、いいよね。一生懸命の姿って。

 義理父が、早朝、息を引き取った。
 夫の妹さんの娘さんも葬儀に参列するため帰省していた。結婚して札幌にいて、夫と同じ職場で働いているという。この短歌がすっごく光り輝いていたので、つい、彼女に次男が今、自転車で日本一周をしていること、そして、「残念、昨日ぐらいまで北海道にいて、今は青森かもしれない。もう少し、早く知っていたら、会えたのにね。いとこ同士だもんね。」と言いながらも、もしかしたら、まだ、札幌にいるかもしれないと思って、電話したら、いた。札幌でウロウロしているよう。ラッキー。いとこと彼女の夫が働いているところは、すすきのの真ん中のイタリアン居酒屋で、そこのオーナーは鹿児島県出身だという。何はともあれ、いとこと彼女の夫は、本州の真ん中から北海道を二人で自転車で旅したことがあるという。やっぱ、シンパシーを感じるよね。彼女たちは、さすがに安いビジネスホテルに泊まりながらの旅だったとのこと。
 などなどのご縁をいただいて、彼は、しっかりちゃっかり、そのイタリアン居酒屋に。で、写メが送ってきた。そこで焼いているという手造りフランスパンやパスタ、ビールなどご馳走になり、おまけに、ビジネスホテル代までいただいたとのこと。よかったね。初めてのホテル泊。ここしばらくお風呂にも入っていないらしい。温泉代もバカにならないから我慢していると言っていた。超久しぶりのお風呂と満足のいく食事で、後半戦のスタートだ。
 彼にとってのこのイタリアンでの美味しい食事は、単なる口に美味しいというレベルではないだろうなぁ。
 
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べき中毒

2015年09月10日 | エッセー
 “べき”が怒りの元だったなんて。
 ワナワナとした怒り、抑えることのできない怒りは、人生で2回しか体験したことがない。そんな怒りの感情が未分化な私でも、子どもたちにはギャーギャーが絶えない。特に、四男とは日々、格闘技だ。あれも、べきが発信源の怒りなんだろうか。まぁ、そうだろう。勉強するべき。学校には行くべき。毎日、宿題はすべき。日本人だもの、お箸は美しく持つべき。早寝すべき。早起きすべき。ゲームはこの世から消えるべき(だって、止めさせるのに、毎日、大変。)。べきが多すぎて、四男がそんな私とは正反対なもんだから、心穏やかになんてなかなかなれない。“べき”の嵐でヘロヘロな日々。これじゃ、自家中毒というかべき中毒だ。
 もし、わたしが、心から、したくない勉強はしてもしなくてもいい。毎日、多すぎる宿題は全部してもしなくてもいい。お箸は食べ物を口に持っていくことさえできればいい。眠たいときに寝ればいい。学校に遅れなければ遅く起きてもいい。ゲームも好きなだけすれば飽きるさ。・・・・・とこだわりの心から解放されたら、逆に、四男は、今のような姿でなくなり、勉強したり、程よくゲームしたりするようになるのだろうか。トホホ・・・。
 息子は、わたしの”べき”を映し出す鏡?
 他のお母さんより、かなり、大目に見ているような気がするんだけどなぁ。大目に見るというかおおざっぱというか・・・。なのに、息子を育てるのはかなり心がタフでないとどうにかなりそうになるくらいしんどい。
 大目に見ているつもりでも、実は、心の奥底には、他のお母さんより“べき”がカビのように根を張っているのかなぁ?
 クソババァとかおまえとか・・・・を筆頭に息子の様々な腹立つ表現は、私の“べき”を触発していることは確かなのだろう。
 私は、表層意識では、そんなに“べき”という感覚はなさそうに自分では思う。なのに、なぜ、四男は鏡として、私の前に超わがままな存在として立ちはだかるのだろう?
 もしかして、もしかしたら・・・。

 いろんなことをがまんしてきた・・・。


 結婚してこの方、したいことを95%くらい我慢してきたような気がする23年、『もう、やめなさい、もっと、好きにしていいんだよ。」というメッセージを、四男が鏡になって私に送ってくれているのだろうか・・・。

 もっと、わがままに生きたいという願望はかなりあると思う。○○したいと思ったら、すぐ、してみるということを、結婚して家族を持って、だめんず夫に子どもをまかせられないもんだから、全て(この全てという意味は、最終責任を負うという意味)を一人でやってきた(と自分では思っている)せいか、いろんなことをほとんどあきらめてきた気がする。自分ではそんなに意識してこなかったけれど、断念という感覚が根雪のように積もり積もっているのかなぁ。
 夫はいるのに、人的にも経済的にも母子家庭のような生活をしてきた。プラス母子家庭のようなものなのに、わがままですぐキレる大きな子ども(夫のこと)がいるので、家の中は張りつめた空気に浸食され、全然、のびのびできない20年間だった。ここ2~3年だ。のびのびできるようになったのは。おまけに、仕事も辞められないから、1か月くらい、のんびりすっごくきれいな海に抱かれて過ごしたい・・・いうようなこともできない。
 
 つまり、この20年、はめをはずせなかった。

 昔、精神科のお医者さんの講演で「心が病んでいる人は、はめをはずせない。はめをはずせるうちは大丈夫。」っておっしゃったことを思い出した。

 はめをはずせない性格ではなかったのに、はめをはずせなくなって、窒息しそうな私に、息子が、もっと、はめをはずしなさいと体をはって教えてくれてるのかなぁ。
 母になると、子どもが一人でご飯が作れるようになる頃までは、羽目を外して、ふらりと旅になんか、なかなか行けない。私は、42歳で四男を産んだので、母としてはめをはずせない期間が、倍くらい長くなってしまった。
 
 夫のだめんずは、妻が仕立て上げる・・・らしい。
 私が、もっと、早い時期から、夫なんかに気兼ねせず、ときどき、はめをはずせていたら、今とは違う風景があったのかもしれない。
 

 自由気まま・・・・に生きたいなぁ。


 ウオーキングしていたら、ふと、こう思った。

 自分をべき人間とは思わない。でも、人間として成長したいというなんだかわけのわからない発達欲求を持っていた。
 思えば、小学生のころから、○○物語というような少女がステキな大人になる・・という類いの本ばっかり読んでいた。
 そして、思春期の頃は、ステキな優しい女性になりたいという憧れを抱いていたなぁ。そう。怒らない優しい笑顔の女性。もしかしたら、『ステキな優しい笑顔の女性になるべき』というべき中毒に、実は実は、しっかりはまっていたのかもしれない。


 だとしたら、相当なべき中毒。
 裏を返せば、ステキな優しい女性でない女性に対して否定していたってことになる。
 ○○な人になりたいなということは、○○な人になりたいなんてちっとも思わない人を否定することになる可能性があるなんて思ってもいなかった。憧れが強いほど、無意識の世界ではそうでない人を否定していたなんて・・・。

 胃がんってわかった時、お世話になったホメオパシーの先生が、私を苛める人に対して放った『あんな人にはなりたくない』という言葉に対して「世の中、いいも悪いもない。コインの裏と表があるだけ。あなたとその苛めるという人はコインの裏と表。」とおっしゃった。その時は、その意味がよくわからなかった。
 でも、今、少しわかったような気がする。
 本当の素敵な優しい女性なら、どんな人もただそんな人がいるというだけで、いいも悪いもないというようなすべてを包み込むような懐の深さを兼ね備えているんだろうなって。なのに、私は、ステキな優しい笑顔の女性になりたいとちっとも思わない女性は認めていなかった。意地悪するとなんだかスッキリする女性の存在を否定していた。そんな私が、ステキな優しい笑顔の女性になれるわけがない。
 きっと、たぶん、ほんとうに優しい女性とは、この世のすべてをいいも悪いもないというような批判のないまなざしで包み込むような境地に達した人なんだろうなぁ。むりだわ~~~~~~~~~。

 
 
 ところで、人生でたった2回のワナワナ怒りという希少な体験は、私の心の奥底のどんな“べき”がそうさせたのだろう?
 どちらも、後輩のとった行動だった。
 なんで、あんなにワナワナという怒り、つまり、制御不能な怒りの感情に支配されてしまったのだろう?
 なんだか、後輩に全面否定されたという体験が怒りに火をつけたような気がする。自尊心が粉々に砕け散ったような感覚だった。
 キーワードは、後輩。
 『後輩は、先輩を全面否定すべからず。』つまり、『後輩は、先輩には一目置くべき』という『べき』が私の心の奥深くにしっかり居座っていたのだろうか。
 どうして、先輩から全面否定されると怒りではなく、傷ついてエネルギーを奪われて反論すらできない自分にがっくりくるのに、後輩が同じことをしたら、制御不能な怒りになるのだろう?
 先輩と後輩でどうしてこうまで反応が正反対なんだろう?
 どんなべきがどこに潜んでいる?
 
 人生でたった二度だけのわなわな怒り体験の一つは、前年度まで私がやっていた仕事を引き継いだ後輩が、未だ、引き継いだばかりのときに、私が3年かけて精一杯やってきたそれなりの形をたった一日で全部白紙に戻し、何もわからないのに形にこだわって、国が示す一般的な形に見場よくして資料を作成したとき。
 しないんだって。ふつう。
 型にこだわるタイプと中身をかみしめないと型を作れないタイプ。そのギャップに腹が立ったのかな?一日で私の3年間のもだえ苦しみながら作り上げたものを、いとも簡単に吹き飛ばしたこと?それが、後輩だったこと?
 とにかく私の自尊心がめちゃくちゃ否定され、目の前が真っ暗になった。
 
 キーワードは、自尊心を全否定された・・・。
 自尊心って生きるために必要だと思う。
 
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べき

2015年09月03日 | エッセー
 朝、NHKを見ていたら、怒りに関する番組をやっていた。カルチャーショック。たった、5分ほどの番組なのに、ストンと入って、すぐ実践できそうで、かなりためになった
 最近、本屋さんでも怒りのコントロールという類いの本をよくみかける。
 怒りを抑えるという形でなく、コントロールするって、どうやったらいいのかな?って興味はあった。
 夫は怒りの人。そして、私は怒りの感情が未分化な人(決して、怒りの感情が湧きにくいということではないらしい。昔、お世話になった母と子の心理カウンセラーのS先生が私にそうおっしゃり、未分化な怒りの感情はどうやったら分化するんだろうとドキッとしたことがある。喜怒哀楽、どの感情も大切で、怒りの感情が未分化だと自己防衛という生き抜く力が弱いのらしい。)。
 さて、私たちが、怒りを感じる時、腹が立つとき、イライラするときって、その人が、『こうあるべきだ』と信じている価値観と正反対の価値観に出会った時に感じる感情なのだという。
 自分が正しいと信じている価値観と反対の価値観の人がいれば、怒りの感情が否が応でも湧いてくる。
 つまり、イラッとする時って、○○すべきだと思い込んでいる価値観を自分が知る機会でもあるのだそう。
 番組では、7~8人のグループで、それぞれが○○すべきと思っていることを模造紙に書いて表にして、他の人がそのべきは、自分の中で何番目くらいに優先するべきか、順位をつけてもらうというワークをしてもらっていた。
 その結果に、おのおのがびっくりしていた。
 だって、人それぞれ優先順位が全く違うんだもの。
 今まで、他の人も当然、自分と同じように考えていると思っていたのに、全く違う価値観を優先させる人もいるという現実にカルチャーショックのシャワーを浴びて、べき崩しというすばらしい体験をしていた。
 そうすると、どうなるか?
 今まで、同僚に対して○○すべきなのにこの人はそうできない人と不満に思ったり、イライラしていた人が、世の中、いろんな価値観があるんだ・・と許せるようになる。以前のように、イライラしなくなるという。

 怒りのもとは、相手の何かではなく、自分の中の『べき』というこだわりであり、怒りが大きければ大きいほど、べきという縛りで自分の心をがんじがらめにしているということだと・・・・。
 そうか。すぐ怒る人って、べき人間って思うことにしよう。なんだか、少し、気持ちが楽になった。

 
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