子どもに自分の信じる宗教を人権侵害だという感覚もなく、わが子に押し付ける人たちがいる。
最近は、そんな人たちも虐待と同じであるという認識がやっと社会的に浸透してきた。
不思議だった。愛を探求するはずの、あるいは、平和を願う人たちの宗教がどうして、子どもの人権を侵さないで、子どもの芽をのびのびと育てるという子育てで最も大切な使命をスルーしてしまうのか。
『信仰から解放されない子どもたち』横道誠著 を読んで納得した。
彼らは依存症なのだという。
信仰依存症。
アルコール依存症とかギャンブル依存症とか。叱るのをやめられないのも依存症だと書いてあった。
それをすると、一瞬の刹那、スーッとしてしまうという。
お酒を飲んでいるときは、イライラや鬱々した気持ちから解放され、心がスーッとしてしまうらしい。
それと同じような感覚を宗教にのめりこむことで感じてしまった。
アルコール依存症の母は、子育てよりもアルコールを選んでしまった。ギャンブルで大損してしまった人は、仕事よりもギャンブルを選んでしまって、会社のお金を横領してしまった。
宗教依存症の人は、子どもを育てることより宗教を選んでしまった。その結果、高額の壺を買ってしまって多額の借金を抱え、貧困に陥り子どもたちは高校にも行かせてもらえなかった。
この本には、依存症になりやすい人のタイプとして、発達障害を抱えていたり、機能不全家族(親がアルコール依存症などでDVなどがあり温かい家庭ではなかった)の一員であった場合が多いと書かれてあった。
福祉に救済を求めてくる人たちには、こんな人たちが多い。優先順位の付け方が、目の前の自分の欲求に負けてしまって、生活が成り立たなくなる。
私は、それをすると心がスーッとするというような、つまり、それをしないと憂鬱な気分とかイライラしてしまうというような感覚が、常にいつもはない。でも、常にいつもそうだとしたら、心がスーッと晴れることをしちゃうと思う。
溺れかけていたら、誰だって、浮き輪にしがみつく。
その浮き輪が、アルコールだったり、ギャンブルだったり、宗教だったり。
本当は、自分が誰かの浮き輪になれるようになった時に、依存症から抜け出せる。
つまり、自分のために生きるのではなく、誰か困っている人の為に生きると覚悟をしたときに抜け出せる。
断酒会は、そのチャンスを与えてくれる最後で唯一の素敵な会だと思う。
でも、断酒会に辿り着くときは、多くの人がすべてを失って、命を失うかどうかの最後の瀬戸際のとき。
人は、そこまで行かないと目が覚めない。
宗教は、依存症の中でも質が悪いかもしれない。
だって、人の為になることを生きる目的にしているから。
アルコールやギャンブルは、うすうすいけないとわかっている。でも、やめられないから、その罪悪感を払拭するために、また飲む。あるいは、今度こそ勝つぞと馬券を買う。
しかし、宗教を信じる人は、その罪悪感がないんだもん。堂々と憂さを晴らすことができる。
でも、やはり、子どもたちを置き去りにして、食べるものも与えないで、宗教活動にのめりこむという心理は、想像しがたい。
死に至らしめるほどの虐待となんら変わらない。
世の中には、発達障害の人や機能不全家族に生まれてしまった人たちが、ある一定数いる。というか、まったくそうでない、夫婦仲よく温かい家庭で育つ人の方がはるかに少ないかもしれない。
大なり小なり、みな、何かを抱えていると思う。皆、生活が破壊されないギリギリで生きているかもしれない。
ただ、発達障害の人とか機能不全家族で育ってしまった人の憂さは、おぼれかけてしまうレベルの憂さなのだと思う。
発達障害の傾向のある人は、おそらく、木を見て森を見ずらい気質があるような気がする。物事を、あるいは、自分を俯瞰して見ることが苦手だと思う。だから、小さい頃からよく怒られるようなことをしがちで、実際、怒られてばっかりいるから憂さが溜まりやすい。機能不全家族で育った人は、いつも親にビクビクしているから、不安から憂さが溜まりやすいかもしれない。そして、どちらも、遺伝的傾向は否定できないような気がする。つまり、親も怒りやすいかも。ガミガミいいやすいかも。イライラいしやすいかも。
憂さ。
人間ドックもいいけれど、憂さドックってないだろうか?
憂さの量が、依存症になる前に食い止める。
最近は、発達障害の子どもたちへの支援が充実してきている。
でも、それは、就学前まで。
それでも、小学校の先生は頑張っていらっしゃると思う。
ただ、中学校になると、数学の専門の先生が担任をするというシステムなので、その辺の理解が弱くなっていって、ただでさえ、思春期で憂さが溜まりやす時期なのに、その憂さを上手に晴らすことができにくくなる。
きっと、苛めって憂さばらしだ。
男の子4人を育ててきて、中学時代は、思春期は、まだまだ、木を見て森を見ず状態なのだということを知った。『あの時はわからなかった。自分がダメだからそうなったんだと思っていた。でも、今だから言える。親や教師たち大人の子どもを育てることから逃げた偽善のせいだって20歳を過ぎてからわかった』と表現してくれた息子たちに感謝する。
ましてや、小学時代は、木しか観ていない。
特に、発達障害系がありそうな子どもは、本当に目の前の自分が興味を持っていることにしか目がいかない傾向があると思う。つまり、興味のないものは、全く眼中にない。
テレビで、小6くらいの子どもたちが、世界の視野でSDG,sのこととか世界経済や戦争のことなどを語っているのを見て、凄いなって感心した。
彼らの脳は、早熟で、俯瞰して物事を見る力が勝っているのだろうか?わが4人の子の小6時代はというと、まったくもって興味なさそうで、凡人なのねって思った。
まぁ、私も、子どもを育てる立場になって、初めて、新聞が面白いと感じるようになったし、選挙に興味を持つようになったわけで。だから、小6でバンバン世界情勢を語る子どもたちがちょっと怖くなったり。
少年刑務所に入ってくる子たちの多くが発達障害を抱えているというようなことを『ケーキを切れない子どもたち』という本に書いてあった。
発達障害があるから事件を起こすのではなく、発達障害により起こるトラブルで怒られることが多いが故の2次障害、あるいは、学力がついて行かずに自信がもちにくくなったりして、憂さが溜まり、それが脳の発達を邪魔して、ケーキを6等分する認知能力などにも影響し、認知が歪んで、さらにトラブルが起き、さらにさらに憂さが溜まって、その憂さを発散する過程で事件が起こる・・・。
憂さをどれだけ貯めさせないで、大人になるか。
発達障害のある子とか機能不全家族の子たちに必要な支援の視点は、そこにあるような気がする。
おそらく、気持ちを汲んで言葉にしてくれる大人が、周囲にどれだけいるか、それが、一番の支援かもしれない。
難しい。
怒るようなことをしてしまいがちな子どもの気持ちをあえて、怒らずに汲むなんて。
そういう私も、今、まさに、気持ちを汲んで言葉にするという筋肉を生活習慣レベルで身につけなければという状況に追い込まれている。
自分がしんどくて余裕がないと、まっさらになんて聴けない。油断すると、否、油断しなくても、いつもの癖で思い込みの感情が邪魔をして、見当外れな、つまり、相手がただただ自分の気持ちに寄り添ってほしいだけなのに、寄り添うどころか、傷つける言葉を悪気なく発してしまっている・・・らしい。
小林正観さんは、いつも常に、どうしたら喜んでもらえるかだけに意識を集中する生き方がツキを呼ぶっておっしゃっていた。
おそらく、最高の喜びは、気持ちを汲んでもらえたという、つまり、気持ちをわかってもらえたという共感だと思う。
結構、傾聴訓練をしてきた方だと思う。
そして、傾聴の難しさも痛感してきた。
相手をわかろうと必死にならないと傾聴ってできない。必死じゃないと油断したすきに、思い込みがめちゃめちゃ邪魔をしてくるから。
でも、今、ふと浮かんできた。
相手が一番喜んでくれるのは、気持ちをわかってくれることなんだ。だから、最高の贈り物=傾聴をギフトしようというようなスタンスだと邪念が入りにくくなり、本物の傾聴に近づけるかも。
小林正観さんは、毎朝、今日は誰をどんなふうに喜ばそうかと考えようとおっしゃっていて、朝、一応、そう思うようにしていたけれど、なかなか浮かんでこなかった。
でも、気持ちに焦点を当てるよう意識していくと、自然と喜んでもらうことが増えるような気がしてきた。
今、世の中に蔓延している正しいとか間違っているというような視点とは正反対の世界観が、もしかしたら、地球を救うのかもしれない。
プーチンさんがどんな人か知らない。習近平さんがどんな人かも知らない。でも、もしかして、小さい頃から、気持ちを汲んでもらえるような体験が豊富であったら、権力という魔物に依存しないですんだかもしれない。
あ~~。でも、本当に、まっさらで気持ちを汲んでわかろうとするなんてヒマラヤレベルだから。トホホ・・・。