総合漢方にんぷ薬・総合漢方育児薬

~頭を使ってではなく、カラダ(感性)で子育てしてみませんか~

男脳 目の前症候群

2013年07月29日 | エッセー
四男と彼の友達の3人で、近くの○○峡に行ってきた。
 私が、一緒に遊んであげる体力もないし、だいたい、アンマリ泳げないし、水遊びも体力がないので好きじゃない。で、もう一人、彼のお友達をゲットして、お昼ご飯も用意してお出かけした。
 今年の夏の暑さは、尋常じゃない。
 しかし、我が家にはクーラーがない。
 さすがに、今年の夏は、クーラーをつけようかと夫に相談したけれど、夫が、クーラーを嫌うので、その他もろもろの理由も手伝って、結局、ない。去年までは、どうにかこうにか扇風機だけで夏を乗り越えられることに、密かな達成感を感じていたけれど、さすがに、今年の夏はちときつい。やせ我慢レベルを超えそうだ。
 仕方ない。で、クーラーのないおうちを脱出して、わが家から20分足らずで行ける○○峡にいそいそと出かけた。○○峡は、我が家にとって、すっごく便利な避暑地なのだ。
 私にとって、○○峡がなかったら、子育てもできなかったと言っても過言ではない。長男を産んでから、20年。何回、通ったことだろう。100回否200回以上通ったと思う。
 少し遠いけれど、いいプールもあって、皆、そこがとってもいいよと教えてくれるので、行ってみようかなぁと思ったりするのだけれど、20分で行ける避暑地の方が勝っちゃうんだよね。
 それは、きっと、私が、緑豊かな大自然に抱かれることの誘惑に負けてしまうから。
 昨日も、別のお友達を一人ゲットして、避暑地に行ったのだけれど、寝ころんで空を見上げると、緑豊かな紅葉の葉っぱの重なり合う中、チラチラと木漏れ日が、


 つづく

 降り注ぐ、ただ、それだけで、至福の時を感じることができる。
 プールでは、ありえない。

 子どもたちも、朝から連れて行ってるのに、夕方になっても一向に帰ろうとしない。砂と石ころと岩と清流と木漏れ日という豪華5点セットにかなうものがあるだろうか。しかも、20分で行ける場所なんて。

 で、夏になるといそいそと出かける私がいる。
 でも、地元の同僚たちも行ったことがないという人が多くて、こっちが驚く。子どもを連れて一人ではいけない。水の事故が怖いと言う。
確かに・・・・・。
 連れて行ったお友達も初めてだと言った。

 お友達の親にも本人にも、『おへそ以上深いところ、私の視界から見えないところに行ったら、すぐ、帰る。』が条件でと伝えた。

 さて、話しは、目の前症候群についてだった。
 この避暑地で日がな一日のんびり過ごすためには、ガスコンロと鍋とラーメンとカップが必需品だ。
 川の上流なので、水は冷たい。
 それで、お昼ご飯にラーメンを持っていくと、これが、うまいんだなぁ。
 冷えたカラダを生き返らせてくれる。
 子どもたちには、大好評だ。

 ということで、荷物が多くなる。
 車から、最高のゆったり空間まで荷物を運ぶのは、私の体力ではちときついので、四男たちにもできる努力はしてもらわなければ困る。
 彼には、バスタオル3枚と着替えを入れたグレーのようなベージュのような色合いの袋と大きな浮き輪と砂遊びには欠かせないスコップと小さな器が入ったバケツをがんばって持ってもらった。 


 つづく

このグレーのようなベージュのような袋がくせものだった。
 彼は、川を目の前にすると居てもたってもいられなくなり、喜び勇んで、荷物をそこらへんに投げ捨てて、水中に突入した。
 そして、ひとしきり川と砂遊びで遊んで、川と砂への興味が2番手になったとたん、冷たい水の存在を認識し、唇が紫色になるほど冷たいと言うことを感知した。
 遊びに夢中な時は感じなかった寒さが、急に襲ってくる。それで、「ほら、最初に荷物を置いたところに、バスタオルの入った袋があるでしょう。あれを持ってきてバスタオルで暖をとりなさい。」と言って、取りに行かせた。しかし、帰ってきて「ない。」と言う。「おかしいわね。もう一度行ってごらん。」と行かせたけれど、やはり「ない。」と言う。「じゃぁ、車の中かもしれないから、車を見てきてごらん。」と見に行かせても、やっぱり「ない。」と言う。
 しばし、あきらめ、「仕方ないわね、あったかいラーメンを作るから、それで、暖を取りましょう。」とインスタントラーメンを作ってあげた。
 それで、しばらくは寒さをしのげた。
 そうこうするうちに、太陽も真上に昇り、かなり暑くなってきて、そう寒さを感じなくなる。
 でも、3時を過ぎるころになると、また、冷たい水が砂や水より認知されやすくなる。それで、「もう一回、最初に荷物を置いた場所を探してきてごらん。」と探しに行かせるけれど、やはり、「ない。」と言う。お友達にも行ってもらったけれど、やはりやはり、「ない。」
 また、時が流れる。
 結局、バスタオルを使うことなく一日を終えた。
 そして、いよいよ帰るという時になって、車に荷物を詰め込んで、でも、やっぱり、持ってきたはずなのに車にもないので、最後に、彼が、最初に荷物を投げ捨てた場所に行ってみた。母は、しぶといのだ。
 やっぱり、なかった・・・・・と思いきや。
 『でも、いや、待てよ。もうちょっと、しっかり見てみよう。』と気合を入れて、再度、じ~っと岸辺の岩や小石を見ると、あった、あった。
 袋の色が、ベージュのようなグレーのような色だから、岩と同化していて認識しにくかったとは思う。
 それでも、3回も、探しに行かせた。なのに、見つけることができなかった。

 
 男脳は、今、自分が一番興味のあることしか視界に入りにくい・・・・・のではないだろうか。
 三男にしても、朝、シャツや靴下はどこ?って、毎朝、聞いてくる。
 シャツや靴下のある場所は、たいがい決まっているのに、「そこら辺にあるでしょ。」と言ってもなかなか見つけきれない。「ここにあるでしょ。」と言わないとダメだ。
 だから、四男にとって、袋を探すことが彼の一番興味のあることでなかったから、川で遊ぶことが一番の興味あることだったから、あと一歩、探すことへの執着心が不足し、探すことへの集中力にかけ、岩と袋の認識ができなかったのだと思う。

 川や砂と遊ぶことに集中力がありすぎて、その他もろもろのことへの集中力がない。
 つまり、男脳は、目の前の一つのことしか集中できない傾向がある。
 
 この、袋がなかった事件で、つくづく、男脳って、目の前症候群なんだと実感した。
 四男は、学校に入る前から、極小サイズの恐竜や戦いの物語風に展開する絵ばかり、寸暇を惜しんで描いていた。親としては、すっごい集中力だと感心していた。が、しかし、小学校に入ると、先生からは、集中力のない子というレッテルを貼られてしまった。びっくりした。彼は、おそらく、脳の中で字を書いたりするような言語領域の発達が遅いのだと思う。字に興味がないので、ひらがなや漢字を覚えられず、ただでさえ、自分の興味のない学校の授業なのに、輪をかけて興味がなくなり、よそ見や手遊びばかりするいわゆる集中力のない子、落ち着きのない子という評価を得てしまった。

そんな話を同僚としていたら、男脳の話に花が咲いた。
 男脳は、料理を大皿に盛ってみんなで分け合って食べることが苦手だということがわかった。
 ある人は夫が、ある人は息子が、大皿を目の前に置いておくと、油断して何も言わないでいると、全部食べてしまう。毎回、毎回、「誰と誰の分はとっといてね。』とくぎを刺さないと全部食べてしまう。何度言ってもダメだ。だから、小分けして一人分づつお皿を準備しなくちゃいけない。と・・。
 わが夫もその傾向がある。冷蔵庫に箱入りアイスがあると、いつの間にか半分以上なくなっている。で、夫に聞くと、「えへへ。」と照れ笑いしながら、「すまん。」と言う。よって、子どもたちは、冷蔵庫に入れるおやつには、マジックで自分の名前を書き、『食べるな!』メッセージを添えるようになった。
 ほんと、目の前症候群だよね。

 それにしても、目の前の大皿、しかも、大皿しか食卓になければ、それは、みんなで食べるということが、ほんとうに理解できていないのだろうか?それも、毎回、『これは、みんなで食べるんだよ。だから、あなたの分は、これくらいよ。』と言っているにも関わらず、毎回毎回、食べちゃう心理って何なんだろう。記憶力はあるはずだ。ただただ、食べたいという目の前の衝動を抑えきれないだけで全部食べちゃうのだろうか?食べながら、良心の呵責というものは存在しているのだろうか?
 わからない。
 もし、これが、典型的な男脳なのであれば、やっぱり、火星人と金星人が結婚したという大前提で共同生活していくことを、常に、意識して、あきらめて暮らしていくことが幸せに生きる知恵なのかもしれない。


 
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たかが一票。されど、一票。

2013年07月24日 | エッセー
 自民党の圧勝だった。
 今回の選挙は、どうしても自民党に入れたい人とどうしても自民党に入れたくない人が選挙会場に行った選挙だった・・・・のかなぁ。
 自民党に入れたくない人の票が政党の数だけ割れてしまったかなぁ。 
 自民党議員が落選した県は、岩手と沖縄と・・・・。福島は?
 
 政治のことはよくわからない。

 ただ、一つだけ言えることがある。
 それは、文句言える野党は絶対必要だということ。
 つまり、野党とのバランスが崩れ、圧勝してしまうと危険だと思う。
 どうか、国民は、どうせ、選挙に行っても、たった一票じゃどうにもならないなんて言わないで、政治のバランスに一票投じてほしいと心から願う。
今、暗殺国家ロシアという本を読んいる。
 イギリスに亡命した男性が、放射能物質を服毒し、全身の皮膚がブツブツになってしまった写真を新聞で見て衝撃を受けた記憶がある。あの時、ロシアは怖いってマジ思った。この本は、ジャーナリストが次々と暗殺されていっても、なお、真実を暴かんとするロシアで最後の砦的存在となったある新聞社のルポである。権力を握った者にいつ暗殺されるかわからない状況で、真実を追求し、真実を見ようとしない大衆にたびたび裏切られているのにも関わらず、それでも国民に真実を伝えんとするそのエネルギーはどこから来るのだろうか?

 わたしは、きっとできない。いつ魔の手が自分に襲ってくるかわからず、ビクビクして生きることが耐えられない。拷問が待っているかもしれないという恐怖が耐えられない。だいたい、権力国家ロシアに比べれば米粒くらいのパワーにもめげて胃がおかしくなるような情けなさでウロウロしているんだもの。チョー!チィッチェー心臓。
 だからというわけではないが、せめて、私に与えられた一票を大切に扱いたいと思う。
 たった1票では政治は変わらないという声が多かったようである。
 でも、暗殺国家ロシアという本を読んでしまうと、きちんと取り扱われる1票の存在がどれだけありがたいことか身に染みる。
 ヒトは、やっぱり痛い目に合わないとこの当たり前の自由のありがたみがわからない生き物なのだろうか。痛い目にあってもすぐに忘れる生き物なのだろうか。
 大学3年生の息子には、『憲法9条、ただ今お勉強中』と『昭恵夫人がんばれ!』を10部コピーし、速達で送った。彼の周りで、選挙に行かなそうな人に配ってくれと頼んで。どうだったかなぁ?私も20歳の学生の頃は、あんまり興味なかったもの。やっぱ、子どもを産んで、子どもの未来について真剣に考えるようになって目覚めたもの。ぼちぼち・・・・だね。

 昨日の朝日新聞に、目を引く記事が掲載されていた。
 フムフムとうなづきながら読み進め、いったい誰がこんな記事を書いているのかと人の名を探すと、納得だった。
 やっぱりね。

 
 

 
 
 
 


 
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綾鷹事件

2013年07月21日 | エッセー
ほっこり。
 子育ての醍醐味ににんまりしている私。
 お休みの日の午後3時。今年の夏は、尋常じゃない暑さが続いている。
 でも、子どもたちは元気だ。家の一坪倉庫で秘密基地を作って遊んでいた。
 遊びに来ていたJ君と四男にガリガリくんをおやつにあげた。

 しばらくして倉庫に様子見に行くと、二人がいない。
 J君の自転車はある。
 ま、いいかとうっちゃていたら、5時を過ぎても帰って来ない。
 用事があって出かけて、7時過ぎに帰ってみると、四男が帰っていた。

 「どこに行っていたの?」と聞くと、「○○峡という川に行こうとしたけれど、遠すぎてたどり着かなかった。」と言いながらも、10㎞以上の距離を、炎天下、子ども用の自転車で走った様子だった。
 「え~~~~~~~~~~、こんな暑い日に、3時過ぎてから、○○峡をめざすなんて・・・・。水分はどうしたの?のどか湧いたでしょう?」と聞くと、「コンビニのトイレの水は飲んでも大丈夫かな?」と聞いてきた。
 「たぶん、水道水なら大丈夫だと思うけれど・・・・。」と一応、答えた。
 「でも、J君の自転車はおうちにあったじゃない。J君は、歩いて行ったの?」と聞くと
 「僕の保育園の時の自転車で行った。そっちの方が、J君の自転車より軽いんだ。」というではないか。
 往復20㎞の道のりを、しかも、炎天下。
 車では、何度も行っている○○峡。で、3時過ぎに暑くなったカラダが行きたくなったのだろう。一人じゃアクションできないけれど、仲間がいると、行動に移すエネルギーのハードルが低くなる。しかし、いざ、自転車で行くと思いのほか遠かった。遠すぎて、初めて、遠いということを実感したのだろう。「もう、自転車では行かない。」とつぶやいた。
 冒険心は、無謀だけど、必要だ。
 子育てで、ここが難しい。
 「今からは、そんな遠いところに子どもだけで行くときは、ちゃんと行き先を言って行きなさいね。」と一応、ビシッと言った。少し、『叱る』の気持ちをかき混ぜて・・・。
 だって、そんな遠いところに行きたいといって、「はい、いいですよ。」なんてすんなり許可する親なんているはずないもの。

 管理しなきゃ、危険。でも、子どもは、管理しすぎるとダメになる。
 昔は、子どもの数も多く、親たちも忙しくって、子どもをちゃんと見れなかった。放任っていえば放任で、よくも、まぁ、無事に育ってくれたって世界だった。でも、今は、管理されすぎて、なんでもかんでも危険という理由で冒険をさせてもらえない。
 子ども時代にすべき冒険をできないで大人になった時の冒険できなかった弊害と、たまに、親の管理の隙間をぬって、もうしないと言わしめるほどの冒険ができた子の大人になっ時の感性を天秤にかけたら、どっちがいいんだろう。

 実は、そんな冒険の話をしたかったのではない。

 テーブルの上に、ごく普通の綾鷹の500mlのペットボトルが置いてあった。

 その話をしたかったのだ。

 冒険につきものの、人の情けを身に染みて感じた四男の極上の幸せについて。

 つづく

「今日、僕、おばちゃんとお友達になったんだ。」
 「へぇ~~~~。おばちゃんとお友達になったの?おばちゃんって何歳ぐらいなの?」
 「30歳くらい?」
 「30歳は、おばちゃんじゃないよ。おばちゃんって言ったら、お母さんぐらいじゃないの?お母さんより若かったの?」
 「わかんないよ。僕には、おばちゃんが何歳くらいなんて。」(だよね。)
 「でも、どうしてお友達になったの?」
 「僕たちが川に着いたら、そのおばちゃんがいて、『どこの小学校?』て聞いたから、『○○○小学校』と答えるとびっくりして僕たちに、お茶とトマトをくれたんだ。僕、トマト嫌いなのに、そのトマトはとっても美味しかった。水につけて冷やして食べたんだ。ほんとうに美味しかったなぁ。お茶は、J君と交代交代で飲んだよ。」と言って、テーブルの上の空になった綾鷹のペットボトルを指さした。
 「よかったねぇ。喉が渇いていたから、ほんとうに美味しかったんだろうね。」
 美味しいにもいろいろある。
 ほんとうに美味しい。喉の渇きを潤す美味しさ。水につけて冷やした美味しさ。そして、なんといっても、おばちゃんの優しさがじ~ンと伝わってくる美味しさ。
 人生で、こんなに美味しいトマトを食べれたという体験は、彼らの人生にとって、人の情けも捨てたもんじゃないという人間を信じる気持ちの原点に値するものとなったと思う。
 ありがとう。おばちゃん。
 後で聞くと、そのおばちゃんは、川の木陰で本を読んでいたという。きっと、お姉さんだよね。8歳の子にとっては、30歳以降は、おばちゃんなんだ。

 ありがとう。お姉さん。

 冒険は危険。でも、人生の宝物が潜んでいる可能性も大きい。

 子どもをあんまり管理しすぎると、この世の情けをあの嫌いなトマトがとっても美味しいトマトに変身して四男のにカラダに沁みいる体験として感じるチャンスも奪っちゃう。
 ここが、難しいところだね。

 
 実は、私が、極上の幸せを感じたのは、旅の情けのお話ではない。
 おばちゃんから頂いた綾鷹の飲み干した後のペットボトルが、極上の幸せを私にプレゼントしてくれた。
 さて、四男は、テーブルに置いてあったその空のペットボトルをどうしたでしょう?

 「これは、大事なものだから、僕の机に飾っとこう。」と嬉しそうに言いながら、机の本棚のところに大切そうに置いたのだ。

 これだから、子育てはやめられない。

 日ごろは、「おまえ」「うぜー」などと減らず口を叩く四男の口から、ときたま、出てくるダイヤモンドに胸がキュンときて、いつまでも、輝きが失せない。その失せない輝きを胸に、私も生きるエネルギーをお裾分けしてもらえる。
 大人だけの世界では、こんなお裾分けなんてほとんどないもの。

 今、綾鷹は、我が家の神棚(四男の机)に奉ってある。
 綾鷹を見るたびに、拝みたくなる。
 ずっと、ずっと。感謝。

 
 

 
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ふぬけ

2013年07月16日 | エッセー
 お化け屋敷に行ってきた。
 というか、恐竜展に行きたいとせがまれて恐竜展に行った帰りに寄ったイオンでたまたまやっていて、また、息子にせがまれて30分待ちで、いざゆかん。
 がっくり。
 不発だった。
 30分待っている間、そりゃ、もう、女の子たちの黄色い声のおかげでかなり期待していたので、ほとんど何事も起らなかったという見事なまでの裏切りにがっくり。
 グループごとにドアを開けて入っていくようになっているので、そのグループの特性に合わせてお化けさんたちが対応するようなシステムだったのかもしれない。年老いた(?)母一人、子一人の場合は、心臓に悪影響しないように・・・という具合に。私たちの前のグループは、男女混合高校生グループ4人でそれなりに盛り上がっていた。黄色い声が最高レベルだったのは、高校生4人の女の子のグル―プだった。
 一グループ脱出する毎に、次のグループを入れるというシステムなので、お化けさんたちは、一日にグループの数だけアクションを起こさなければならない。さぞ、疲れるだろうなぁ。つまり、お化けの人形が機械で操作されてニューッと出てくるのではなく、人間がタイミングを見計らって出てくるという原始的なシステムだのだ。
 私と息子の時は、手抜きしたかな?
 せめて、どこかで、背後から、スーッと触れられるような体験が1回でもあれば、かなりぞっとして、500円という入場料に値する怖さから感じる衝撃を受けることができたかもしれないのに。やっぱ、1回くらいは、体が凍るような怖さを実感したいじゃない。イヤだけど・・・。
 今日は、お化け屋敷解禁二日目だった。夏休み中やっているという。
 今、思えば、終わって出てくる人たちから、『怖かったねぇ~。』というようなオーラが全然感じられず、むしろ、首をかしげる人たちが多かった。まだ、二日目だ。私は、きっと、みんなに不発だったと言いまくるだろう。お化け屋敷にアンケートなんて笑っちゃうけれど、必要かも。

 と言いながらも、その空間にいる間は、いつ、出てくるかわからない怖さがあるので、息子の手をずっと握りしめていたのも事実。息子は、案外平気そうなので度胸があるなと思っていた。しかし、寝る前は、あの光景を思い出すと怖かったようで、私のカラダのどこかに触れながら、『どうか、いい夢を見られますように。ホネホネマンの夢がいいな。』と祈りながら、眠りに入ったご様子だった。

 子育てもお化け屋敷もツボがある。
 そのツボがずれていると不発というくすぶり感が残る。すっきりしない。
 すっごく期待していたのに、お化けが出てくるタイミングがイマイチだった。ちょっとでいいから、さわってくれたら、衝撃が走って、お化け屋敷に対する満足感もアップしただろう。子育ても、叱るタイミングとか、叱ってほしいことでバシッと叱ってもらえないと子どもの心はモヤモヤしたまま不発感が募り、思春期になって、『ちゃんと僕を見てよ。そして、叱るべき時は叱り、喜ばしいときは一緒に喜んでよ。』と抗議する。抗議の仕方は、無口パターンの子もいれば、ギャーギャーパターンの子もいる。
 子どもは、親に期待しているんじゃないかなぁ。叱るべき時と喜ぶべき時を、強烈な叱りと強烈な喜びを。
 どうだろう。自分の感情で叱ってばかりいると(つまり、八つ当たりのことだけど)あるいは、いいお母さんにならなきゃと怒りたい気持ちをぐっとこらえてばかりいると、子どもの不発感、くすぶり感はいかほどだろうか。
 
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 『べつに・・・。』初体験

2013年07月14日 | エッセー
 うっへ~~~~。
 51歳にして、初めて、『べつに・・・・。』と私のカラダが訴えた。
 夫に。

 思春期のお子たちのナイスな言葉ベスト3は、『べつに・・・。』『うざい』『クソババァ』。
 
 この三つの言葉を使うようになったら、子育て大成功ということらしい。

 

 仕事から帰ってきて、夫が、「何か楽しいことはあったかい?」と機嫌よく聞いてきたとき、「べつに・・・・。」という言葉が何かをぐっとこらえた気持ちとともに出てきた。
 たぶん、生まれて初めての『べつに・・・体験』だ。

 わが子は、どんな気持ちで、この言葉を使っていたのかなぁ。

 わたしは、言いたいことをぐっとこらえて「べつに・・・。」と応答するのが精いっぱいだった。言いたいことを言ったらケンカになるので・・・・めんどくさいから。どうせ、この問題は、言っても解決しないし・・・・・・そんな気持ち。
 自分は働かないでのんびりテレビ見たり昼寝したりの羨ましい生活をしているくせに、仕事から帰ってややバテ気味で、ゆっくりしたくても夕飯の支度をしなくてはいけないから気合を入れている私に、『今日は何か楽しいことがあったかい?」なんて、暇を持て余したその言い方が、気に食わない。癪に障る。本当は、『稼げ~~~~~~~~~。』と叫びまくりたい。それを、ぐっとこらえて、やっとの思いで出てきた言葉が『べつに・・・・。』だった。
 ぎっくり腰をしてからかれこれ2週間働いていない夫(何やら大学受験用の英語のテキストは作っているらしいけれど)に対して、実は、相当ストレスたまっていたのだと思う。
 稼ぐ金額ではない。一家の大黒柱意識に欠けていることへのストレスが、根雪のように溜まっているのだ。きっと。

 思春期の子どもたちの、『べつに・・・・。』もおんなじなのかなぁ。
 言いたいことをぶちまけたら、めんどくさいことになるし、言っても解決するわけでもないし、言ったって、どうせ、わかってくれないし・・・・・みたいな。
 

 つづく

どうせわかってくれない。言ったら言ったでギャーギャー正論を言われそうだから、めんどくさくて、しゃべる気にもならない。

 そんな心境かなぁ。

 だとしたら、ほんとうは、聴いてほしいんだよね。アレコレ言わずに、黙って聴いてほしいのだ。きっと。

 『べつに・・・。』と思春期の子どもが、ムスッとして言う時、親は、何て言えばいいのだろう。
 『話を聴いてほしいだけなのに、結局、将来のためにとかなんとか言われるから、どうせ、何を言ったってわかってもらえないと思ってしゃべりたくないんだよねぇ。』・・・・・だろうか。
 どうしても、『でもね。やっぱり、将来の仕事を考えると・・・・・・。』ってオマケで余計なことを言ってしまうから、せっかく聴いても台無しにしちゃうんだよねぇ。

 ただ、思った。
 わが子が、思春期になって『べつに・・・。』と言ったら、子育ては大成功かもしれないけれど、『べつに・・・・。』と言った時こそ、最後まで否定せず、話しを、ただただ聴いてあげようではないか。将来のことは、ぐっとこらえて、別の機会に話せばいい。

 と、自分の『べつに・・・・。』初体験によって、はじめてその心境を実感できた私は、そう決心したのであった。

 終わり
 
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力を合わせる という生きる力

2013年07月13日 | エッセー
 市で取り組んでいる自殺対策に頭を悩ましている。
 結果は、10年後20年後、そう誰もが思っている。
 私の住んでいる市は、中年男性が多いという一般的な傾向と違い、中年の男性は特に多いということはなく、60代70代80代の高齢者が多い。半分くらいはそうだ。しかも、女性と男性は、半々くらい。他の地域より高齢女性が多いというのが特徴である。
 うつ病とか多重債務を苦にしてということでもなさそう。
 高齢女性の場合、『え~~~~~~~、あの人がどうして?信じられない。本当に信じられない。』という方が多いという。

 私の街と似たような感じの隣の市では、NPOも立ち上がり、人と人が触れ合える憩いの場づくりを中心に活動をされているけれど、自殺者数は減っていない。

 薩摩隼人・亭主関白という大人になりきれないわがままな夫、あるいは、父親の存在。そして、それに我慢して従う妻、あるいは、母親の存在。いびつなコミュニケーションしか取れない親に育てられた子どもたちは、それが、見本なので、時代により、少しは、対等に近づいてきているけれども、旧態依然。

 家庭内のいびつなパワーバランスが、街全体の空気にまで浸透しているような気がする。
 
 鹿児島県は、シラス台地でお米がとれないため、上昇志向が強く、亭主関白だけど、それだけの責任を果たす家長としての気概もあったのではないかと思うけれど、隣接するわが町は、九州で一番美味しいと言われるお米の産地である。亭主関白の気風だけはしっかりちゃっかりもらっちゃった男衆が、家長としての人間としての風格を養うことを怠り、ただ単に威張っている・・・・・みたいな風潮が、負の遺産として残っているような気がする。これは、あくまでも私のわが町の印象にすぎないのだけれど・・・・。

 こんな男性とずっと一緒に暮らしていくって、すごいエネルギーがいる。


 つづく
 
どうなんだろう?
 本気で死を選んだ人は、人には相談しないよう。だから、誰にもわからない。遺族でも、亡くなってから、『そういえば・・・。』と亡くなった後に、気づくことが多いという。そんな死にたいと思っている人のサインをどうにかしてキャッチして、その人が死にたい気持ちに追い込まれたいろいろの絡まった糸を一つでもほぐしていくような支援をすることに目が行きがちである。
 でも、どうなんだろう?
 誰にも相談しないと決心し、死を決断した人って、もはや、武田鉄也が言うような『人という字は・・・。』なんて言葉は心に届かないだろう。
 だって、多分、『人という字は、人と人が支えあって、人となる。』ことを人生でじ~~~んと味わい、それこそ、幸せの青い鳥なのだと心から思えた体験のない人なのかもしれないと想像する。
 人生、裏切られることばっかり、いろんなものを失って苦しいことばかり・・って思えても、人生のどこかで人と人が無心になって力を合わせて何かを成し遂げようとする時、計り知れないほどの幸せを体感するという体験を一度でもできた人は、ぎりぎりのところで踏ん張れるのではないだろうか・・と想像する。
 
 30人31脚小学生大会ってあるよね。
 あれって、すごく、ものすごくいいんじゃないかな。
 みんなで力を合わせて、無心になって、ゴールを目指す。
 一人だけ突出してもだめで、みんなで調度いいところを探り合って足並みそろえて・・・。
 一人一人の個性もあるんだけれど、そこをぐっと押さえて、ただただ倒れないよう、なおかつスイードも意識して、ただただ、それだけに集中して・・・・・・でも、他のことは一切意識しない。
 果たして、他のスポーツで、こんなに強烈に他者と一体感を感じるスポーツはあるだろうか?
 大縄跳びもいいかもしれない。

 スポーツ以外では、合唱とか吹奏楽など。

 小学校や中学校で、そんな体験を一度でもでき、人と人が支えあうという一体感という世界を体験できた人は、たとえ、思春期や大人になって、死を考えるような試練があっても、『人間って最悪だ。他人なんて誰も信用できない。』ではなく、『人間って最悪だ。でも、人間って捨てたもんじゃない。』というような前向きな生き方が可能なのではないだろうか・・・・・。

 力を合わせる醍醐味って、ブランドのバックを買った時の喜びとかわが子が大学に合格した時のような感激とは、格が違う。後者は、その時かぎりだし、優越感で幸せになる。でも、


 つづく

 でも、人間って捨てたもんじゃないという体験は、一生、その人の心にじ~~~~~んと種火として存在し続け、その人にとって、人生の試練がやってきたとき、燃え尽きないようエネルギーを供給してくれるような気がする。

 かなうなら、オリンピックに燃えるのもいいけれど、日本全国の小学校6年生が誰一欠けずに参加する30人31脚大会、あるいは、大縄跳び大会、もしくは、合唱コンクールや吹奏楽コンクールなどを国レベルで開催してもらえたらいいなぁ。
 そしたら、きっと、苦しくても、どうしようもない空虚に溺れて、その苦しみから逃れるために死を選ぶというような人が減るような気がする。

 武田鉄也が、金八先生として『人という字は、人と人が支えあうって初めて人というんだよ。』と語ったとき、今でも、時々、パロディにされちゃうけれど、支えあうというより、力を合わせて初めて人となるのかもしれない。



 

 

 
 
 
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渋滞学?

2013年07月07日 | エッセー
渋滞学という学問があるって初めて知った。
 渋滞をどうやったら解消できるか研究する学問だという。
 世の中、おもしろい研究がいっぱいあるんだと感心した。
『シゴトの渋滞学』の著者、東大先端研教授・西成活裕の自然発生する高速道路の渋滞をほとんどコストをかけずに見事解消された研究には、感動した。
 目の付け所が、さすが科学者って感じだ。
 ある上り坂と下り坂の先にトンネルのある高速道路で、頻繁に渋滞が発生するという。普通だったら、渋滞にならない車の台数なのに、そこは、なぜかしら、すぐ渋滞を発生するということで調査研究をされ、とあることを実行したら、自然に渋滞が解消され、その実験は見事成功したというお話。
 その試みとは、渋滞が発生したという情報が入ったら、その手前のインターから、8台の車を走らせただけ。
 ただし、その8台の車は、常に同じ車間距離をとるようにしたとのこと。
 渋滞は、なぜ、発生するか・・・・。
 上り坂・下り坂・トンネルという三つの条件により、ブレーキ・アクセルをみな思い思いに踏み込む。渋滞っぽくなればなるほど、人の心は、なるべく前進したい欲求が湧いてくるので、ついつい、前の車との車間距離が短くなる。で、ちょこっと前の車がブレーキを踏むと、慌てて急ブレーキを踏んでしまう。すると、後ろの車もブレーキを踏んで・・・・・そんなこんなの車間距離をめぐるアクセル・ブレーキの連鎖により、渋滞が発生するのだそう。
 そこに、同じ車間距離で8台の車を走らせることにより、そのアクセル・ブレーキの負のエネルギーが吸収され、自然と渋滞が解消されたということである。

 すごいね。


 で、この先生、車の渋滞だけでなく、世の中のつまること(滞ること)全般にわたって研究されているという。
 仕事がはかどらない、残業が減らないのはどうして?という研究にも取り組んでいらっしゃる。

そして、職場の残業を解決するには、まず、やりたいことをやれる、あるいは、やりたいことを否定されないという職場であることと、「継続』を最優先に意識して、余裕をもって確実にできる仕事量にし、2時間単位で仕事の割り振りをする、常に、1日1週間1か月という単位で計画し、遂行するようにする。そのために、職員のスケジュールを大きな紙に書いて壁に貼って、他の人が今、何をしているかのミエル化を図ることも大切であるとのこと。最近は、みな、パソコンのスケジュール表に記載しているが、パソコンは、ミエル化していそうで、実は、見えていないことも多いので、壁に貼って、みんなが何をしているかを理解することも必要なのだという。

 人は、得意不得意分野がある。だから、なるべく好きなことをやれた方が、職場のいろんな人と取り組む場合は、パワーを発揮できる。また、ずっと継続していくということも仕事としては重要なので、一人の人が張り切ってパワー全開で引っ張っていくことは、組織で仕事をするという場合は、効果的ではない。みんなで理解しあって、協力し合って、出る杭は打たないで、長~~~~~~~くやっていくような組織こそ、効率も上がり、残業もしないでも済むようになるらしい。


 少し、反省した。

 40代の私は、母と子の絆を深めるための事業に燃えていた。尊敬すべき素晴らしい師との出会いから、師のような人間性にはとても到達できないけれど、少しでも近づきたいという思いで、師と一緒に取り組む事業を他の同僚にも理解してもらい、一緒に歩いていきたくて、
いろいろと試みたけれど、なぜか、なんだかそっけなくつれなかった。そして、ついに同じ土俵に乗るところまでも到達できなかった。ふと、師をライバル視しているような気がしないでもないなぁと感じることもあった。
 あの時は、素晴らしい人と出逢うと、人は、その人に近づきたいという憧れの気持ちから、吸収するべくマネゴトを始めるものだと思っていた。でも、なぜか、そんな人は、少ないんだということも、この苦い体験から学んだ。
 組織で働くときは、みんなで理解しあって、同じ土俵に乗れて、それぞれのやりたいこと好きなことが尊重されながら、それぞれの長所がうまく調和して、目的と計画のミエル化を図りながらお仕事していくことが、とっても重要なのだ。
 どんなにいいものでも、みんなが、同じ方向をむくことができなければ、組織のお仕事としては不適格。


 つづく

 仕事は、まずは、質より量より『継続』をもとめるべきなのだそうです。
 仕事の意欲も、渋滞と同じようで、最初にやる気バリバリアクセルを踏みっぱなしでも、どこかでブレーキを踏んだりしており、結局流れの詰まりを招きやすいので、始めは、もどかしいなぁと思ったとしても、まずは、これなら絶対できるだろうという簡単な仕事をチョコチョコと進めてから、だんだんと加速をつけていく。そして、物理の世界でいう『慣性の法則』の波にうまく乗せていくといい仕事ができるらしい。つまり、目の前の仕事も最初は『重い荷物』のようにあつかって動かしていくと、最終的に、慣性がついてきたらすごいエネルギーになていくということらしいです。

 仕事ってなんだろうね。

 精一杯やればいいと思っていたけれど、もっと賢くあらねば。
 
 40代のわたしは、2割余力をもってお仕事するどころか、1.5倍,時に、否、人の2倍の仕事をこなすような日々を送って喘いでいた。決して、好きでやっていたわけではなく、私が『イヤです。それ以上はできません。』ときちんと自分表明を出来なかったことでせざるをえなくなってしまった。そして、私の性分として、やるからにはきちんとするというメンツみたいな意識が働くものだから、自分で自分の首を絞めるようなお仕事の仕方をしていた。もうねぇ。冗談を言う余裕なんてどこにもない。たわいない会話をする余裕もない。だから、周りは、私がいったい何をしているのかよくわからないので、優しくもしてくれなかった。そうすると、私は私で、こんなに必死なオーラを出しているのに、誰も優しい言葉の一つもかけてくれない冷たい人たちという風になっちゃって・・・・・・。


 つづく

 
 完璧に渋滞していた。
 先生曰く、『8時間働くなら2時間は余裕を。』 
 先の、高速道路の自然渋滞を解くカギと同じで、8台の車が車間距離を同じように保ちながら走ることが、つまり、仕事も7割で3割は余裕をもつことが、結果的には、いい感じになっていく・・・・。
 とするならば、40代の私の仕事は、超渋滞状態だったということになる。
おまけに、男の子4人の子育てに対しても、ほとんど協力しない父親になりきれない夫、つまり、大きな男の子がプラス1とくっついたアフターファイブだもの。寝ている間以外は、全てが渋滞生活だった。

 女性が、社会できちんと認められながら子育てしながら働き続けることをモットーとして生きることを選択すると、こうなる。
 寝ている以外は、渋滞生活。

 いかんぞよ。

 いつかは、ダウンする。
 もしくは、子どもたちの心が渋滞するかも。それを、しわ寄せとも言う。
 もしかしたら、国も渋滞するかもよ。
 
 女性が子育てしながら働き続けることは、最終的に  輝く  という点で素敵なことだと思う。
 でも、子どもにしわ寄せがあってはいけない。しわよせではなく、しあわせにさせてあげなくちゃ。何のために子育てしているのかわからなくなる。そのためにも、子育てしながら働く女性のいる職場での渋滞学について、もっと女性が主体的に考えなくっちゃ。子どもの心が渋滞しないように・・・。声かける暇もなさそうなオーラバンバンの人に、ものを頼んだり、相談しようとしたりなどなど甘えられる人っていないよね。子どもも、ママがそんなオーラを出していたら、がまんする。それが、心の渋滞になる。
 ほんとうは、『子どもの心の渋滞はいつ解決するの?』『今でしょ!』と言いたいところ。
 ママが、わが子の心の渋滞に気づかず、ほっておくと、どうなるんだろうか?



 四男が、小学校に入学した時、『おかえりなさい休暇』という年休制度を導入してほしいと心から願った。
 週1回でいい。
 ルールに縛られた学校という窒息しそうな場所でがんばってきたわが子が、校門を出て、ほっとして、「もうすぐおうちだ。今日だけは、ママがおうちにいて、いつもよりとっても優しいお顔で『おかえり』って言って抱きしめてくれる。」と、ルンルンの2乗の気持ちを抱えて「ただいま」と言える国って、最高だと思う。

 仕事を3割減らしたうえに、残業がなくなるシステムって、今の、働きながら子育てしながらママには、最高の贈り物になるはずだ。
 
 西成教授に弟子入りしたいな。
 そして、残業しないで、やりがいも感じる職場で働き、尚且つ、『おかえりなさい休暇』に飛びついてくれるようなママがいっぱいになったら、寂しい子どもの心の空虚が、みるみるルンルン2乗で埋め尽くされるかもしれない。

 

 追伸、
 先生は、数学を実社会のみんなの困りごとを解決するための研究をされているという。
 今の、私の困りごとは、蚊。
 せっかくの熟睡をたった1匹の蚊にたった1か所刺されただけで、遮断される。
 そこまでは、まだ、いい。
 その後は、たった1匹の蚊の羽音に超敏感になり、眠れなくなる。
 眠いから、蚊取り線香も化学物質なのであまり炊きたくないという気持ちも手伝って、火をつけないまま、つい、うとうとしてしまう。と、そこに、また、あのいや~~な羽音が、耳元を襲う。目が覚める。なんだか、腹が立ってきて、頭が冴えてくる。眠れない。

 朝、ぐったり。疲れがとれない。
 眠い。
 でも、仕事は休めない。


 蚊やを購入したい。
 
 でも、たった1匹で、毎晩ではない。
 そこで、ぜひ、商品化してほしい蚊退治グッズがある。もう、何年も前から、構想中の蚊退治グッズなのだ。売れると思うんだけど。
 夜中に、蚊が耳元でブ~~~~~ンと超不快な羽音で私の睡眠に侵入した時、その羽音の音源を狙ってシューッとやっつけてくれるそんなスプレーを開発してほしい。電気をつけると、蚊は暗がりに隠れちゃうので電気はつけれない。仕方なく、羽音が耳元にやってきたら、手当たり次第、パチンパチンと憎き蚊をやっつけようとやっきになるけれど、しばらくしたら、また、ブ~~~ンだ。クソ~~~~って感じ。
 羽音の振動をキャッチし、自動で蚊を狙ってくれるセンサー付きスプレーをどなたか3千円くらいでお願いしたい。
 
今朝も、5時にお出ましになった。
 くそ~~~~~~、あの羽音の憎たらしいことこの上ない。
 やっぱり、蚊帳を買おうかなぁ。
 誰か、センサー付きスプレー早く作って!



 終わり



 
 



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おむつ外し難航中

2013年07月01日 | エッセー
 久しぶりにおむつの話。

 例え、生きた化石と言われようが、なんと言われようが、布おむつを絶滅させないと誓った愛咲くらだったけれど、最近は、時代にあらがうことも大切だけれど、流されることもいいのかなぁ~って、そんな気がしてきている。
 神様が、時代というものをヒトにお題としてお与えになっている・・・様な気がする。
 だから、あきらめとは違う気持ち。
 その時代を生きる人間の課題として、神様が、時代という個性を人間に与えているような気がしてきたのだ。
 紙おむつの付けは、次の時代の課題としてきっと浮上してくるだろう。
 察する力が鍛えられないまま、育児という難問に挑戦しようなんて、日々のトレーニングなしで、突然、フルマラソンで走る・・・みたいな無謀さが、実は、実は、潜んでいるようないないような・・・。
 布おむつの最大の効用は、赤ちゃんの皮膚感覚の春夏秋冬をとおしてほとばしる感性への刺激もさることながら、実は実は、ママの察する力をつけてくれる最大のトレーニングマシンなのだと、以前書いた。

 そして、ここにきて、やっぱりそうかも…と思い始めている。
 先日の3歳半健診で、『育児で困っていることで、他のお母さんに聞いてみたいこと」というテーマで、井戸端会議をしたら、今どきのママは、3歳半でおむつはずしに結構、悩んでいることがわかって、意外だった。
 ほんのちょっと前までは、おむつはずしあるいは、トイレットトレーニングと言えば、1歳半の頃の育児のテーマだった。

それが、3歳半のテーマになりつつある。
 あるママの悩みは、『トレーニングパンツにして気持ち悪くさせても、そろそろさせてみようかと促しても絶対にしない。促せば促すほどかたくなになる。』という悩みだった。敵も、3歳半だ。素直になれない心模様も発達してきている。あるいは、ママを振り向かせるなら、おむつがはずれないことだ・・・と見抜いて、意地でも教えない・・・みたいなママ独占作戦に目覚めてしまっているのかもしれない。
 どうやら、『気持ち悪ければ、教えてくれますよ。そんなもんです。』なんてアドバイスは、1歳半児には言えても、3歳半児には通用しないようだ。 
 はてさて、困ったもんだ。
 で、他のママたちに、『いいアドバイスはないですか?』と尋ねると・・・。


 つづく

 『うちの子の場合は、普通のパンツをはかせたら、かなり気持ち悪かったみたいですぐはずれた。』
 『うちの子は、それではだめで、トレーニングパンツの厚めのタイプでOKだった。』

 などなど・・・・。

 どうなんだろう?
 『そろそろしようか・・・。』と促しても、かたくなに拒否するその子どもの心境とは・・・・?

 意地。

 意地を張る。

 つまり、人が素直になれない時って、どんな時だろう?

 『そんなの虫がよすぎるよ。勝手だよ。』って思う時。
 命令されているって感じ。尊重されていないって感じ?
 愛を感じない時。
 非難されているって感じるとき・・・。
 上から目線。


 そんな時かなぁ~。

 その場では、的確なアドバイスができず、はてさてどうしたものか…と考えあぐねて、同僚の保健師たちと何でだろうねぇ~と話し合ってみた。
 そしたら、合点の行く答えに出逢えて、『そうだ。そうだ。大切なのは、おむつをはずすことではなく、そこだよね。』ということになって、改めて、育児について考えさせられた。


 つづく 

そこってどこ?

 そこって、“やりとり”というプロセス。
 『あら、まだ、おむつ濡れていない。もう、3時間たっているから、そろそろおしっこを促してみようかなぁ?』
 って気持ちが、そこ。

 ローマは一日にしてならず。

 おむつはずしも、一日にしてならず・・・・なのだ。

 そんな、いきなり、トレーニングパンツにしてみたって、そうは問屋が卸さない  んだよ。
 今まで3年以上も、おしっこのことを真剣に考えず、『ちとやばいかな?周りのみんなもパンツになってきた。』と危機感を感じて、突然、おむつはずしに目覚めても、子どもとのやりとり抜きには成功しないのだ。きっと・・・。

 つまり、もう3時間たっているから、というおむつをはずすタイミングを見計らう力が、やりとりの始まりである。
 たぶん、もう3時間たっているということの始まり時期が、1歳くらいからなのかなと思う。
 その頃に、ママが、見計らって『おしっこしてみようか?シートトトト』っておしっこを促してみることが大事なのだと思う。

 その1歳半の頃、はずそうという気持ちから、ママは、いつも、常に、わが子のおしっこに関して、見計らっている。つまり、察している。
 いつも常に、見計らってもらえる子どもは、そこに、きっと、ママの愛を感じることだろう。

 いいねぇ~。


 それが、大事。
 これこそ、子育て。
 

 つづく

 見計らっていると見張るは全然違う。
 見計らうの始まりは、気持ち悪い思いはさせたくないという母の愛がある。
 しかし、見張るになると、おむつをはずさねばならないという義務感からチェックするというなんだか緊張感をみたいな空気が母をとおして子につたわてしまうような気がする。

 いつもいうけれど、母と子は、以心伝心。
 だて、おなかの中から、ずっと、ずっといっしょだもの。一心同体が始まりだもの。
 ママの、ねばならないという緊張は、しっかりちゃっかり伝わってしまうのだ。

 私は、個人的にトイレトレーニングという言葉は苦手である。
 ただただ、気持ち悪い思いはさせたくないなぁ~という母の無償の愛から始まった結果が、おむつはずしなのだと思う。
 結果的におむつがはずれた・・・みたいな。

 そう、結果的におむつがはずれちゃった・・・・・ラッキー・・・ぐらいの重圧感のない気持ちが、子どもにとってどれだけ大切か・・・。
 気持ち悪そうだから、さっきのおしっこから、もう、3時間も経っているから、そろそろおしっこをさせてみようかなぁ・・・・。

 母の無償の愛を感じているときの赤ちゃんの気持ち。
 母から重圧感という緊張を感じている赤ちゃんの気持ち。

 後者は、母から『おむつをはずさないとダメな子ね。』という脅迫状をつきつけられているような気分になるんじゃないかなぁ。

 そうなると、子どもも自然体になれない。素直になれない。意地・・・みたいな感情も芽生えてくる。きっと。

 そうやって、マイナスの気持ちのやりとりが始まる。

 というか、敵は3歳半だ。
 最近、ママに叱られることもやたら多くなってきた。ママから、命令されることもしばしばだ。『お兄ちゃんなんだから・・・』『お姉ちゃんでしょ・・』なんていう大嫌いな言い方をされた暁には、心の中では、きっとキレているはず。
 子どもはママがいないと生きてゆけない・・・・というどうしようもない現実を生きている。
 そして、ママは大好きだけど、ママは大キライという両価感情をまるでブランコに乗っているように、行ったり来たり、行ったり来たりと心が大きくスイングしているので、結構本人もきつくなっている。
 そこに、おむつはずしという大きな課題を与えられたら、ココロもパンクしちゃうのかもねぇ。
 保育園では、ちゃんとできるのに、おうちだとダメ!というお子さんは、ママへのいろんな気持ちがあるんだと思う。きっと。
 『おむつは、ママの気持ちを私に振り返向かせる最高のグッズだ。』
 と妹が生まれてから、ママをとられてとっても寂しく、尚且つ妹へライバル心を燃やしている子どもは、察知するだろう。そうなると、意地でもおむつをはずさない選択をしちゃうはずだ。
 そりゃ、そうだよね。
 
 人間の最大の欲求は、私を認めてほしい・・・だもの。そして、一番認めてほしいのは、ママやパパだもの。(やっぱ、ママが一番かな?)
 ママやパパに認めてもらえないと感じて育った子どもは、その後の人生で、自分のやりたいことをやることより、自分を振り返させることをやることを無意識に選んで生きていくかもしれない。
 このことの持つ意味の重大さをわかってもらえるだろうか。
 つまり、自分のやりたいこと言いたいこと、あるいはイヤだと言えることより、自分を認めてもらうことが重要な人間になるということは、ほんとうの自分を捨てるってことなんだよ。いつも常に・・・の場合だけど。
 中学生で茶髪する子とか・・・・・ほんとうにほんとうに自分のことを認めてほしいんだろうなぁと思うと切なくなる。
 誰もママの代わりにはなれないもの。
 そんな子どもたちに、『いのちを大切にして。』というセリフは、心に響いていくのだろうか・・・て、いつも思う。
 だって、彼らは、いのち(自分のほんとうにほんとうにしたいことや言いたいこと、イヤなことはイヤだと言えること)よりも認めてもらうこと(自分のしたいことだと勘違いして)を自分の人生で最優先しているのだから。
 

 とにもかくにも、おむつをはずさないかぎり、ママは私に関心を向け続けてくれるという快感は、ママがおむつが濡れているたびにがっかりする顔を見る不愉快さよりも勝っているのだ。けなげだねぇ~。

 子どもは、ママを振り向かせるためだったら、なんだってする。
 たとえ、いつも叱られてばかりいても・・・。否、叱られれば叱られるほど・・・。
 虐待をされている子どもほど、ママに見捨てられたら生きていけない不安も大きいので、そんな子ほど、ママのそばから離れようとしないと言われている。
 と考えると、ママにとって困ることで、ママを振り向かせようとする子どもは、まだ、ママに対して安心感を持っているのかもしれない。ママは、絶対、私を見捨てない・・・ということだけはわかっているのかもしれない。

 となると、ど~よ。

 いい子になってママを振り向かせようとする子と悪さをしてママを振り向かせようとする子・・・・どっちが、ママに対して安心感をもっている?
 子どもが言うことを聞いてくれなくてトトホ状態の疲労こんぱい・寝顔を見ていると時だけが幸せママへ朗報。
 
 大丈夫かも。
 あなたのお子さんは。
 あなたを信頼しているから、悪いことも(本当は好奇心からかもしれないけれど)やっちゃえるのかもしれない・・・よ。
 ママは、私が何をしても、絶対見捨てない・・・・という信頼・・・。
 ひょっとして、ひょっとして、
 育てやすい、言うこと素直に聞いてくれる子どもって、もしかしたら、ママに対する信頼というか安心感に揺らぎがあるかもしれない。
 私が、したくない、イヤだと正直に自分の気持ちを訴えたら、ママは、私を見捨てるかもしれないという一抹の不安があるから、ノーと言えなくなっているのかもしれない・・・・よ。
 あくまでも推測だけど。

 というわけで3歳半になって、おむつはずしに四苦八苦しているママへ~
 しばらく四苦八苦してください。
 ママに振り向いてもらえていると子どもが十分実感できるまで。

 できれば、おむつをはずすことを目的とせず、おむつは気持ち悪いから、気持ちよくさせてあげたいという無償の愛を入り口にしてほしいけれど・・・。
 蒸し暑い夏に、紙パンツなんてぞっとする。
 何度も言うけれど、私は、夏のストッキングは、人生で避けたいものの№2だ。皮膚が、拒絶する。
 いつも、ギリギリ否もうだめかも・・・・とわかっていながら、ベストとスカートと黒のハイソックス3点セットで仕事に行っている。
 50を過ぎたおばさんが、ハイソックスなんてど~~~よと思いつつ、恥も外聞もない姿を世間にさらしている。
 何歳まで、黒のハイソックスって許されるかなぁ~。
 ため息。
 それくらい、ストッキングがいやなのだ。
 なのになのに、真夏に紙パンツなんて・・・・。見ているだけで、身震いする。皮膚がぞぞっとする。さぞや、お尻の皮膚が不快だろうなぁとかわいそうになる。
 想像してごらん。
 
 そしたら、『気持ち悪くてかわいそうだから、おむつをはずしてあげたい。』という感情が湧いてこない?
 おむつを外そうと思ったら、そっちが先だよ。
 ママが、3歳半だからはずさないといけないと思っている限り、子どもは教えてくれないかも。
 以心伝心。


もし、『あ、この子は、おしっこを教えないことでママの心をゲットしたいのかも・・・・。』と直感が感じたら、例の、子育ての特効薬『ふたりっきりのラブラブ』を決行してみるのもいいかもね。
 ふたりっきりのラブラブの方が、極上の幸せに決まっているんだ。
 だから、そんな本当は気持ち悪いけれどそれよりも何よりもママの気持ちのゲットが勝るがゆえにおしっこを教えないことを選択してきた子どもは、ふたりっきりのラブラブでママの心をゲットを選ぶに決まっているじゃん。
 
 昨日、傘を買った。
 傘をなくしたから、傘を買った。
 傘って、すぐなくす。
 よって、すっごく好きな傘は買わない。だって、高いもん。
 値段と好みの二つの調和のとれた傘を探して、まぁ納得できたら買うって感じだ。
 昨日買った傘は、すっごく好きってわけではなかったけれど、まぁまぁかなって感じで、お値段を見たら、3,000円が890円だったので、即、買った。
 この年になると、自分が元気になれるカラーに自然と目が行くようになる。ピンクとかオレンジとかモスグリーンとか。1位がピンクで2位がオレンジで3位がモスグリーンかな?。
 で、その傘は、残念ながら、グリーン基調だった。でも、ちょっとデザインに個性があり、高級感もしっかりあった。
 人は、頭の中の天秤で、いろんな角度からの重い軽いをはかり、何を選ぶかという最終ジャッジを下す生き物だと思う。
 品のある言葉だと、それを“吟味する”という。お下品な言い方だと、“値踏みする”という?女性は、特にその傾向があるかも。お値段とその他もろもろと・・・・。
 そう。私も値踏みして、そのグリーン基調の傘を購入した。妥協して購入したけれど、大好きってデザインじゃないけれど、高級感と個性的なデザインがチラチラして、結構、ルンルンしている。

 何を言いたいか。
 傘とおしっこと何の関係があるのかって?
 あります。あります。
 子どもの心の中も、値踏みしているんです。ママの愛情とその他もろもろを。
 理想のママの愛情は、ふたりっきりのラブラブ。
 でも、それは無理だから、仕方ない。紙パンツにおしっこした皮膚の状態はかなり不快だけれど、それに付随するママの視線には代えがたい。だから、おしっこをママには教えてあげないことをチョイスする・・・・というように『ママの気を引くという天秤』にかけているのだと思う。
 たぶん、子どもの心の中は、全て『ママの愛情(ママの気を引く)』と何かを常に24時間天秤にかけて、その瞬間瞬間チョイスした行動をとっているんじゃないかと思う。けなげ~~~~~~~~~。子どもって、結構、妥協して、ママの気を引くことを選んで生きているのだ。

 察する力の弱い人ほど、布おむつでトレーニングしてほしい。
 私自身、マジ、ぼ~~~~~っと人間で、察する力なんてしょぼいもんだった。
 でも、子育てをとおして、かなり鍛えられ、ちったぁまともな人間になれたって、自画自賛している。
 トイレトレーニングではない。マッスルトレーニングでもない。さっするトレーニングのために、布おむつはあるといっても過言ではない。
 時代に流されて、でも、時代にあらがわず、でもでも、ほんとうに大切なツボだけは押さえて生きていこうじゃないですか。
 

 追伸
 3歳半まで紙パンツを使っているというおうちって、お金持ちなのかなぁ?
 もし、ふつうの過程であったら、『もったいないから、おしっこをちょびとしているけれど、目をつむって、もう少しはかせておこう!』というような計算を、いつも常に、心のどこかでしていないだろうか。

 以心伝心。

 気持ち悪いから、はやく気持ちよくしてあげようという気持ちの以心伝心ともったいないからもう少しはかせておこうという気持ちの以心伝心を3年半感じ続ける子どもの気持ちを想像してごらん。


 終わり

 
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