総合漢方にんぷ薬・総合漢方育児薬

~頭を使ってではなく、カラダ(感性)で子育てしてみませんか~

親子役割逆転

2014年08月29日 | エッセー
 うつ病になるような子は、小さい頃から親子役割逆転するしか生きる道のなかった子だと、加藤諦三氏はいっている。つまり、親の望むようないい子になる。甘えない。わがままいわない。まじめにお勉強する。手のかからない。

 昨夜、三男の進路の件で、「突然、もう時間がない。今日中に結論を出してくれ。」と言われ、はて、どうしたものかと考えあぐねたけれど、踏ん切りがつかずに、長男に電話した。つまり、長男に悩み相談をした。その電話の最後に、思わず、「これじゃぁ、親子役割逆転だね。」って言ってしまった。夫は、勉強しない奴は就職・・の一点張りなので、相談相手には適さない。基本的には、私も夫と同じ考えだけれど、自分の父親がかって自分に言ったのと同じようなセリフでは、今の選べる時代豊かな時代に育ってきた子どもたちに納得できるはずがない。勉強しなければ、熱意が(本気かどうか)なければ、金は出せない・・・ということが伝わるような、つまり、この体験が社会に出てからも肥やしになるような貴重な体験となるような・・・・やり方って?
 でも、いいアイディアが浮かんでこない。
 で、長男につい電話。頼っちゃうんだ。そして、これまた、彼は、若干22歳にもかかわらず、私よりも夫よりも人生の達人クン。たった、一言でピリッとスパイスの効いたアドバイスをくれた。

 三男は、ずっと、○○になりたいと言っていた。ものすごくなりたい・・・というわけでもなく。今の自分だとこれくらいしかないかな?ちょっと楽しそうだし・・・・。ま、こんなもんだろう。
 そりゃ。そうだろう。今まで、目的に向かって自分の力を出し切るという体験がないんだもの。
 なのに、先日の三者面談で、あっさりと私が、**なら借金してでも学費を出すと、逃げ道として用意していた**の学校に行くというではないか?
 ちょっと、待った~~~~~~。
 どうやら、出席日数が足りないので彼の行きたかったところは無理そうだということがうっすらとわかってきたから、じゃぁ、仕方ない。どこにも行くあてのない僕に残された道は**しかない…という発想だったよう。
 **とは、針灸の専門学校のこと。医療系の専門学校の学費は結構高い。勉強もハードだ。そりゃ、そうだ。人の体を相手にするんだもん。一歩、間違えば致命傷をあたえるやもしれない。ある意味、お医者さんと同じようなスタンスで命に向き合わないといけない領域だ。針灸は、腕のいいところを選ばないと怖いよってアドバイスされたこともある。
 幸いにも、吉村おじいちゃん先生に出逢えた。人間国宝?って思えるくらいの針灸の達人。その吉村おじいちゃん先生が、どこでもいいから学校に行って、針灸の国家試験を取得すれば、一人前にしてくださると頼もしいことを言ってくださった。
 で、三男が針灸の道に進んでくれないかなぁ~と心の中では思っていた。本人に強要することはできないし、探究心がないと腕が上がらないので、生半可な気持ちでは腕の立つ針灸師にはなれっこない。あのビルゲイツでさえ、最後は針灸治療をやっていたという。最後の頼みの綱みたいなところがある。腕があれば・・・の話だけれど。

 なのに、行きたかったところが、出席日数で無理そうだから、針灸の専門学校に行くっていうのもどうかとちょっと不安もよぎった。まぁ、でも、国家試験に合格しなかったら授業料は返すということに同意もしたので、人生、流されながらも自分で決めたのだから、学校だけは卒業し、国家資格は取る(やり通吸覚悟)というスタンスでいれば、何かがついてくるような気もするし・・・・と思い直した。

 なのになのに、高校の先生が、何度もしつこく、針灸でいいの?ほんとうにいいの?と聞いてきたら、やっぱり、旅行関係の仕事の方が、ちょっと楽しそうだし…という気持ちになったようで、トラベル科とかなんとか初めて聞くような2年過程の専門学校の名前をだし、学費を出してもらえるか?今日中に返事をくれ!と突然、言い出してしまった。
 もともと、私が借金してでも行かせてあげたい学校という条件を提示していた。短大でもいいので国立か公立の学校、針灸の学校、もしくは、必死で勉強して入学できるような学校や国家資格を取れる学校という条件だったはず・・だ。
 だから、そんなにお勉強していない彼は、あきらめて、働きながら学校にも行けるホテルマンの学校を探してきた。でも、推薦してもらうために必要なお休みの日数が障害となってしまった。で、針灸で頑張るか・・・という気になっていたのだ。
 で、急に、気が変わって、トラベル科だ。その仕事を3年以上やったら、なんとかかんとか旅行業務管理者という国家資格を受験する資格があるという。確かに、国家資格をとれるような専門学校とは言った。でも、国家資格にもいろいろある。○○管理者って、結構ある。看護師とか針灸師とかとはちょっと違うような気もする。とにかく、よく聞く国家資格ではないので、よくわからない。よくわからないのにトラベル科って2年も何を勉強するのだろう。よくわからない。そんな得体のしれないものに、借金してまでも投資したいという気持ちになれない。
 ・・・と、よくわからない自分の気持ち状態になってしまったので、23歳にして人生の達人である長男に電話をしたってわけ。

 あ~~、なんと、結論にたどり着くのに時間がかかったことだろう。

 この長男の一言を皆様にお伝えしたかった。
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非定型うつ病

2014年08月26日 | エッセー
最近、非定型うつ病の本を読んだ。
 今までのうつ病の人とは、タイプが違って、わがままで怒りを爆発しやすい。非定型うつ病になる人の4割に、パニック障害などの精神病も潜んでいる。仕事となると気分がめいるけれど、好きなことにはルンルンして出かけられる。・・・・などなど。
 で、そうなる人って、ずっと、いい子で優秀だった。そして、それ以前の幼少期に、ママが何らかの理由で忙しかったり、病気でおうちにいなかったり、離婚したり・・・・というママがいない不安を経験している場合が多いという。

 今後、非定型うつ病は、激増すると思う。
 乳児の時代から、集団保育・・・や両親の離婚・再婚という体験は、不安という視点で見ると、残念だけれど、その子どもに与える影響は大きいんじゃないかなぁ。その子の性格にもよる。だだこねがひどかったり、わがままだったり、夜泣きで苦労したり、落ち着きがなくて目が離せなかったり・・・・と手のかかる子は、きっと、大丈夫だ。ちゃんと、ママに表現できているから。でも、育てやすくて手のかからない、しかも、お勉強もちゃんとやれる子は、ちょっと、心配。非定型うつ病になる人は、平均年齢24歳・女性が多い・・・んですって。仕事の失敗や人間関係、失恋などがきっかけとなって、つまづいた時が、・・・・。人生初のつまづきが、幼いころの不安な気持ちにつながってしまう。
 
 幼いころの心の奥にしまっていた不安な気持ちは、消滅することはない。

 だとすると、このママが労働力として駆り出される高齢化社会で離婚・再婚しやすくなったこの時代に生きているという認識をもって、この幼いころの不安をどれだけ少なくしてあげれるかという視点での子育て観もありなんじゃないかな。
 だって、非定型うつ病の人って、職場では、一見わがままで自分勝手にみえるのに、きつい時はうつ病の人と同じくらい心がきついから、それを周りに理解してもらいにくい・・・というより、誤解されやすくって非常に損する。将来、社会にとっても大きな損失となるだろう。20年後、団塊の世代の方たちが、ごそっと亡くなって、日本の人口が6千万とか7千万に激減した時、今の赤ちゃんや幼い子ども達が大人になる。貴重な働き手である若者なのに、非定型うつ病により、労働力に影響が出るという可能性もある。
 最近、ちらほらと職場にも非定型うつ病かな?って女性がいる。彼女らは職場では優しいはずの男性からも冷ややかな視線を浴びている。わがままにみえるから・・・・らしい。
 でもねぇ。よくよ~~~~~~~く考えてみると、そりゃそうだろうって思う。
 だって、小さい頃にその特権であるわがまま・自己主張をちゃんとしていないんだもの。

 今までのうつ病になる人と、非定型うつ病になる人って、何がどう違うんだろう?

 今までの、うつ病になる人って、まじめで完璧主義で自己主張できないいい人というイメージだった。
 で、非定型うつ病になった身近な人は、負けん気の強い、どちらかというとトゲのある自己主張をするタイプ。
 同じうつ病でもタイプが違うなって印象がある。
 その人は、職場で自分よりももっと強くてタフな女性にやりこめられて非定型うつ病になったという。夕方、我慢の限界がやってきて、休憩室に避難。しばらくすると落着き職場へ戻れるのだという。うつ病の人は、しばらくしたら落ち着いて仕事に戻れるというようなことはあまりない。そして、夕方というより朝きつい。
 非定型うつ病の方もふつうのうつ病の方もきつい。でも、元々もタイプが違うのかも。
 どう違うのかなぁ。
 ふつうのうつ病は、もしかしたら、元々は、幼い頃に封印したはずの不安な気持ちが本当は誰かを責めているのかもしれないけれど、脳内ホルモンとしては気力が出なくなるような分泌の仕方(副交感神経を刺激?)が症状となるけれど、非定型うつ病の人は、交感神経が刺激されるのか、イライラ・ワナワナなってきてその場にいられなくなる
ようだ。非定型うつ病になる人は、パニック障害がある場合も多いという。
 もともとの気質+幼い頃の不安大+いい子で育つ家庭で優等生で失敗体験のなかったような人が、どうもうつ病になりやすいなぁと感じる。もちろん、そん傾向はなくても、あまりにも仕事量が多かったり、人間関係が大変という環境因子が強すぎて眠れなくなる人もいるけれど、死を意識するようなうつ状態にはならないと思う。
 死を意識してしまうようなうつ状態になる方は、やっぱり、小さい頃の何かによる不安、そのためにありのままの自分をのびのびと表現できなかった・・・・・という恨みつらみの感情の蓄積が、大人になって、得体のしれない不安感・焦燥感・空虚感の塊のような憂うつという気分となって現れているような気がする。

 加藤諦三氏の『心の休ませ方』より
 「生きるのに疲れた」という人は、小さいころからのストレスの中で、すべてがイヤになったのだろう。そして、心の中に憎しみが抑圧されている。
 生きることに疲れた人は、長いこと憎しみの感情を直接相手に吐き出すことはなかった。また、犯罪を犯すことで憎しみの感情を社会に吐き出すこともなかった。あるいは、反戦運動に参加して正義を盾に憎しみの感情を吐き出すこともなかった。
 しかし、根雪のように凍りついたマイナスの感情を、本人はあまり気づいていない。
 彼は、まじめに生きてきた。「認めてもらいたい」と思って頑張って生きてきた。自分は無理をしていると気づかないで夢中で生きてきた。
 子どもに感謝されたいからしたことを、子どもから「ノー、サンキュー」と言われれば、母親は不愉快である。甘えの欲求を相手との関係で満たそうとしている人が相手に何かをするのは、相手のためではない。相手から感謝されたいからである。感謝されると思ってしたことが期待外れに終わった。それは、拒否ではないが、感謝されたいと思ってした人からすれば、拒否されたと同じなのである。そこで、傷ついてしまう。
 親が子どもに甘えるのは、「親子の役割逆転」である。この場合、子どもは完全に子どもの甘えの欲求を否定されている。「親子の役割逆転」をして育た人は、人の好意を怖くて断れない。
 「ケーキ食べる?」と聞かれたら、「わー、嬉しい。」と答えなければ親から激怒される。「わー、嬉しい」という心の藩王が親は嬉しい。親が子どもに甘えているのである。そして、甘えられないと親は怒る。
 こうした体験を積み重ねていれば、何を言うときも、相手の気持ちを傷つけないように、気を使うようになる。
 コミュニケーションができるとは、本当は食べたくない時に「食べたくない」と言えることである。
 小さいときに、周囲の人から甘えられた人は、心の底に憎しみを持っている。
 自分が幼児的願望を持っているのに、他人の幼児的願望を満たす役割を負わされてしまった人は悲惨である。これは、心理的にはまさに地獄である。

 「お残しは許しませんよ。」
 「出されたものは食べるのよ」
 「好き嫌いは克服しなきゃ。体に悪いわよ。」

 などなど。
 もし、これを言うなら、今日は何を食べたい?って聞いて、どれくらい食べれる?って聞きながら、おかずやご飯の量を加減するような配慮が必要かもしれないと思った。それを抜きにして、もし、このセリフを毎日のように言うならば、それは、上記のような親子の役割逆転状態になっているかもしれない。
 子どもが4人もいると、それぞれ好き嫌いがあって、メニューを考えるのに一苦労する。野菜も口を酸っぱくしないとなかなか食べてくれない。昨日も、市販のところてんについているたれであえたものを出したら、三男が食べようとしなくって、やや命令口調で食べることを強要したら、「給食のところてんの方がおいしいんだよね、」ってぶつぶつ言いながら食べた。

 おいしいなおかつ子どもたちの口に合う料理を作らんとする姿勢って、もしかしたら、親子役割逆転にならないという視点で見るなら、とっても大切なことかもしれない。
 子どもがいっぱいいると、そう毎日、それぞれの子どもたちの好みに合わせることは難しい。でも、これからは、それぞれの子どもに1週間に1回は、自分の好きなものを作ってあげようと意識してメニューを考えようっと。
 
 親から利用されて育ってしまうと、人から利用されることを当たり前と受けとてしまう・・・のだそう。

 「うぜぇ」「くそばばぁ」「お前が出ていけ」「くそっ」「死ね!」壁に穴をあける。

 いいんじゃない?

 少なくとも、親子役割逆転という子どもの心にとって、憎しみという根雪だけは堆積していないはず。少なくとも・・・ね。

 私の母は、私が何か言い返すと、しゅんとなる人だった。
 卑怯な人だ。
 子どもなのに何も言えなくなった。
 
 ギャーギャー言って親子で張り合えたら、どんなによかったことか。

 そして、良かれと思っってやったことを拒否すると、これまた、しゅんとなった。顔がこわばり口を閉ざす。
 そして、そして、何かしてくれたことにやや大げさに感謝の意を示さないと、私も大変なのに、あるいは、忙しのに、やってあげているのに、それくらいの感謝の表現では足りないようなことをしゅんとなって訴える。
 私も、それがわかっているから、そうめったなことでは頼まない・・のに、「ありがとう」とかなり意識して感謝の意を表現すると、素直に「いいのよ。あなたも大変だから、また、何かあったら言ってね。」とぬくもりを感じるような言葉が返って来ない。必ず、「私も草取りで忙しいのに・・・・」という言葉がついてくる。内心
、『あ~~~~~~、できるなら、この人に頼みたくなんかない。でも、どうしようもない。』と思いながらも、だからこそ、感謝の気持ちをおおげさに表現する。イヤな顔を見たくないから。
 疲れる。

 うすうす感じていた。
 母の愛は、見返り(感謝の気持ち)を欲しがる愛だと。
 よかれと思ってやったことに相手が大喜びしないとしゅんとなる。それを指摘すると、顔がこわばり口を閉ざす。
 見返り美人ならぬ見返りぶす(ぶすっとする)だ。
 そうだ。母は見返りブスだったのだ。

 私は、『見返りなくても美人』になりたい。

 母も75歳を過ぎた。
 今までは、まだ、人間性の成長への期待もあり、私しか言える人間はいないと思い、そのことを伝えてきたけれど、最近は、私が、ちょっとでも、そんなことを言うと、すぐ顔がこわばり口を閉ざし、ブスな顔になるので、無理かな?追い込んで認知症になってもらっても困ると思って、伝えることをやめた。あきらめた。
 
 母は、今の出来事への感謝の気持ちの表現が足りないと感じると、20年前に自分の草取りの時間を削ってまでも孫の面倒を見てあげた大変さへの感謝の意が足りていないという不満を訴える。
 これだけやってあげたのに・・・と、何かあるごとに感謝の表現が足りないと嘆く。
 今、起こっている問題で、母に母の視点がズレていると思うので、そこを指摘すると、責められているように感じるらしく、自分のことを犠牲にして孫の面倒をみてあげたのに・・・・と言って泣き出す。
 恩着せがましい…とは、こういうことかもしれないと思った。
 私は、あることで悩んでいるなんて一言も言っていないのに、勝手に、娘を不憫に思ってか、慰めようとする。自分だったら耐えられないと想像するのだろう。こっちは、涙なんかみせるもんか、肥しにしてやるぞ!と踏ん張っているのに。甘えるのもいい加減にしてよって言いたくなる。
 母は、年を重ねた人ではなく、年をとった人だとしみじみ。

 年を重ねる

 あ~~~、この人は、よかれと思ってやったことをいつまでもどこまでもでれだけも表現しないと不満な人なんだなぁ。よかれと思ってやる=自分がしたいからやる=自分が好きだからやる・・のはずなのに。

 私は、怒られこそしなかったけれど、しゅんとなられることで「親子役割逆転」っ子だった。
 いい子だったし、勉強もがんばった。

 今のところ、うつ病になっていない。

 
 でも、20代後半、やばかったかも。今、思い出してみると、そう思う。

 そう言えば、高校3年の頃も、実は、うつ病一歩手前だったのかもしれない。
 
 今の時代に育っていれば、うつ病になっていたかもしれない。
 昔は、結構、みんな貧乏な家庭が多かった。母親は今のように、外で働いていなかったから、現金収入が少なかった。おかずは、毎日野菜炒めといってもいいくらいだった。母親が外で働いていないということは、世間知らずで、ある意味、コミュニケーションが豊かではなかったような気もする。
 でも、みんながそうだったから、嫌いなものとか好きなものなんていう感覚も今の子ほどなかったかも。
 全般的に、心が育つには、貧しい体験しかしていなかったなぁ。

 それに比べると、今の時代は、ほんとうに多種多様なものを選択できる。
 選択できるのにできない状況で、親の選択したものを喜べと強要される時代だ。
 これも、うつ病の増加と何か関係があるのだろうか?

 私たちは、時代という環境で生きている。
 いつの時代も変わらぬものと、時代を生き抜くためにその時代ならではの変わるものとある。

 選べる時代なのに、選ぶとわがままという古い時代を引きずることってどうなんだろう?

 お残しはいけませんよ!という言葉一つにも時代がある。

 昔は、出されたものは食べるという視点での「お残しはいけませんよ。」
 今は、何食べたい?どれくらい食べたい?おなかがすくのは何時?などという要素を考慮しつつ、考慮したのに食べない時に「お残しはいけませんよ。」
 贅沢だなぁって思うけれど、そういう時代に生きているんだもん。しょうがない。
 しょうがないけれど、この時代で最善を尽す・・・しかない。
 アフリカでは、食べるものがなくて餓死するって言葉で伝えても、テレビでその映像を見ても、体験していないんだもん。ただ、ただ「お残しはいけませんよ。」というような昔風のお粗末な表現では子どもに伝わらない。
 ホント。今の時代のママは、大変。

 20年後、団塊の世代がごそっといなくなって、少子化で子どもも激減して、その大切な子どもが20代に非定型うつ病になりやすいとしたら、20年後の日本ていったいどうなっちゃうの?








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課題 忍耐

2014年08月17日 | エッセー
 昨夜、悟った。
 私が四男を産んだことで神様から与えられた人生の課題は、『忍耐』だと。
 普通の子にとってもハンパない夏休みの宿題は、四男にとっては富士山みたいなものだとはわかっている。
 わかっているけど、やりたくないモードの四男が、目の前でやりたくないことを無理やりさせようとする私に対して悪態をつく。言葉が汚いし、私のはらわたが煮えくり返るような言葉を言い放つ。屁理屈オンパレードモードに入ったら手が付けられなくなる。最初は私もやさしい言葉で誘導してみるけれど、だんだん、だんだん、堪忍袋の緒が切れるのではないか状態になっていく。叩きまくって蹴ってやろうか・・という心境になる。
 う~~~~~~~~~。ここで手を出したらおしまいだ。深呼吸・深呼吸・深呼吸。

 それでも、かなり譲歩しているのだ。
 何を譲歩していうるかっていうと、宿題の量を。夏休みの友とプリント68枚と漢字20pだよ。プリント68枚ってことは、一日2~3Pしなくちゃ全部終わらない。それに、夏休みの友だ。ただでさえ、すらすらできる子にとっての68枚と四男みたいに漢字をさっぱり覚えていない子にとっての68枚は全然違う。到底夏休み終了までに宿題が終了するはずがない・・・と誰だってわかる。人間、抱えきれない量のものを抱えさせられたら、つらいだけだ。達成する喜びなんてどこにもない。仕事でも、自分のキャパを超える量や質の仕事を一人で負わされたら、心がどうにかなる。そうだ。私もそうだった。夜、眠れなくなった。

 あ、そうか。

 私が、先生のしもべになる必要なんかないんだ。彼が、彼なりの喜びを感じ取れるくらいの宿題のやり方や量を見つけてあげることが大切なんだ。
 ということで、独断と偏見で、3年と4年の漢字の復習5枚を90点以上とれば、残り29pの国語の宿題プリントは答えを写してもいい。もしくは、漢字90点は目指さなくてもいいけれど、全部する。・・・・のどっちがいい?と彼に問うてみた。
 そしたら、漢字5枚90点以上がいいとなった。

 なのに、なのに、いざ・・・となると、やりたくない=ゲームモンスターハンター4をやりたい・・・もんだから、悪態をつくつく。
 のどが渇いていないロバを川岸に連れて行って、いくら、水を飲ませようとしても飲まない・・・・がごとく、覚えようという気持ちがこれっぽっちもない四男に、いくら、覚えなさいと言っても覚えるわけがない。
 こうなると、梃子でも動かそうとするモードになって、目は吊り上り、ヒステリックな雄叫びでギャーギャー言いまくり、『やらないんだったら、○○をしてあげないよ。』的な、例えば、『3DSを1か月職場に持っていくよ。』みたいな脅しという実に残念で貧弱なコミュニケーションという悪循環に陥ってしまう。当然の如く、四男の心はますます硬直し、あと一歩で親子断絶のような修復不可能状態で凍結してしまう。

 あ~~~~~~~。真の賢さは、同じ過ちを繰り返さない知恵を見出す力・・・・だというのに。相も変わらず、雄たけびを上げる自分が情けない。いかん。いかん。今日は、日曜日。幸い、お天気もあまりよくない。今日は、一日、四男の宿題にじっくり付き合おうと決心した。
 この決心がよかった。
 今日は、四男ときちんと向き合うという決心。
 10:30。やっと、重い腰を上げて四男が、漢字を覚えるモードになった。だからと言って、やりたくないモードが消滅したかというとそういうわけではない。4割やりたくない、6割やろう…そんな感じ?正面に座ってい昨日やったところの丸付けをしている私に向かって、「あっちへ行け」とか「何、その目、こわ~~~~。」とか嫌味なせりふをのたまう。ひたすら、忍耐。
 悪態をつきながらも、5個漢字を覚えたとちょっとうれしそうな彼の気持ちが見え隠れし始める。
 そうはいいながらも、ちんたら、ちんたら・・・と時が過ぎていく。日曜日の朝。
 『もっと、さっさと覚えなさいよ。』と言いたい気持ちをぐっとこらえて、ちんたらに付き合うわたし。あ~~~忍耐。
 1時間もしないうちに、「あ~~~、疲れた。ちょっと休憩してもいい?」って聞いてくるので、「いいよ。」という私。
 
 お昼だ。

 この調子だと今日の宿題ノルマが終了するのはいつになることやら・・・。トホホ。
 
 あきらめた。今日という一日を彼のために捧げようとこの時点で決心した。
 
 と思っていたら、お昼から、よく遊びに来るお友達がやって来た。
 こりゃ、ダメだ。
 と思いきや、友達に時々教えてもらいながら、ちんたらちんたら、ときどき、休憩と称して3DSを30分くらいやりながら、まったりとした時の流れにみをまかせるという残念なやり方で宿題に取り組んでいた。ここで、ギャーギャー言いたくなる気持ちをごみ袋にぶっこんで遠くの山めがけて投げ捨てた。もう、いいや、夕方になっても終わりそうにないけれど、彼が最終的にどうするか見守ろうと決心した。
 あ~~~~、夜7時だ。夕ご飯の時間だ。
 あ~~~~、8時だ。
 「お母さん、漢字100個中、20個クリアできそうだよ。」ちんたら、ちんたら。
 そろそろ、寝る時間だ。夜、9時半。
 布団に寝転んで、なぜだか、おもむろに白い紙に自分で漢字の問題を書いて、覚え始めた。
 10時が過ぎた。「もう、寝ようよ。明日の朝、50個クリアか、もしくは、お母さんがお昼休みにおうちに帰ってきたとき60個クリア化すればいいから。」というと、「いや、今、50個クリアをがんばる。」と言い張る。エンジンがかかるのにものすごい時間を要した。朝、10時から始めて12時間後にやっと、本人の中に眠っている“やる気”にスイッチが入った。ク~~~~~~~~~~~~。やる気って、どこにもないんじゃないかと思えるような子にもどこかに潜んでいる・・・とこの時、確信した。
 ただ、そのやる気を起こさせるには、バーベキューの炭をおこすような時間と見守りが必要なのだ。ガス火のようにすぐやる気スイッチの入るようなお子さんをもったお母さんはラッキー。でも、四男みたいに、人から命令口調で指示されることを極端にきらい、だからと言って、自主的にしたくないことをさっさとすまそうともしない手ごわいお子ちゃまは、スタートは促しても、あとは、ひたすら見守る忍耐力と時間というツールで乗り切るっきゃないと子育て20年たった今、やっと、気づいた。
 というか、時間というツールを用意できなかったから仕方ない。
 だって、働いているんだもん。しかも、残業つき。人間関係つきで。心もカラダも余裕がなかった。つまり、時間がなかった。
 自分が働いているのに、こういうのもなんだけれど、子どもがツのつく頃までは、時間(母のゆとり・ゆったり・まったり)は、絶対必要条件。
待てる力がどれだけあるか。
 トホホ。
 専業主婦に、せめて、3時に終わる仕事に就きたかった~~~~。
 帰ってきたら、おやつを一緒に食べながら、学校の話などを聞いて、いっしょに宿題なんかもわからないところを優しく教えてあげながら、楽しいひと時を過ごすことができただろう。
 残業つきのお仕事なんてやっているから、最初は優しくしても、やろうとしないとブチ切れることの生活習慣病になっちゃった。

 ふと、思った。
 仕事って、いかに効率よく効果的に達成できるか・・・・って世界だ。
 でも、子育ては、仕事とは反対だ。反対、つまり、のんびり、まったり、ゆったりママを子どもは成長のために必要としている。

 残業つき共働きだと、家事も必然的に効率と成果を意識してこなすようになる。
 働くママは、気合をいれないと、子育てまで効率よくしようとしまいがちになりそうだ。だって、一日24時間は、働かないママも働くママもおんなじだもん。子どもが手のかからない子だと、働くママはこのことに気づかないまま、効率のよい育児をしてしまう危険性が大きくなる。

 毎日、ゆったり、まったり、のんびり子育ては無理でも、せめて、1週間に1日くらいは、あえて、意識的に、そんな効率度外視ママになるらんとすることは、働くママを社会も労働資本として欲しがるという子どもにとっては受難な時代を子どもが生き抜くためには、とても大切なことのように思えてきた。

 

 





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子どもたちは、『家族狩り』が好きだ。

2014年08月10日 | エッセー
 なんだか知らないけれど、子どもたちは、『家族狩り』を録画して必ず観ている。しかも、何回も観ている。
 今朝も、小4のお友達が二人夏休み企画でお泊りに来ていて、朝、録画した家族狩り第4回の2回目を観ている。
 高3のお兄ちゃんも、なぜだか、これだけは観ている。
 こんな重たい番組、しかも、死が溢れている番組を小4の子にはちと早いんじゃないかと少し危惧したけれど、子どもたちは、それぞれの歪な家庭の中でうっすらと感じているはずのくすぶっている自分の気持ちをこの番組で昇華しているんじゃないかなぁって思えてきた。
 だって、お泊りに来たお友達は、ときどき、そのセリフを反芻していたもの。きっと、今の彼の気持ちを俳優さんたちが代弁してくれているんだと思う。だとすると、この本を書いた天童荒太さんや脚本家ってすごい。もしかして、日本の子どもたちの心を一時的ではあるかもしれないけれど、かなり救ってくれている?映像もこっているなって思う。ポトン・・・ポタン・・・と滴が落ちる映像は、余韻が残る。
 四男のその言葉を反芻しているお友達は、ご両親が離婚され、父親が彼とお兄ちゃんたちを引き取っておじいちゃんおばあちゃんと一緒に暮らしている。そのおじいちゃんとおばあちゃんはちょっと認知症があるらしく、ご飯を作るのはお父さん。どうも、ほとんど野菜料理を食べていないようで、肉とごはんの日々らしい。朝7時過ぎにコンビニの前で見かけることもある。
 もう一人のお友達も、お母さんが離婚再婚(?)され、新しいお父さんとの間に赤ちゃんが生まれた。そして、我が家もまともではないゆがんだ家庭だ。夫が自分の万年不機嫌顔こそ諸悪の根源だと気づき、意識的にかなり努力して笑顔を作ることに挑戦するようになれたら、すべてが変わるはずだけれど・・・・・。自分の不機嫌顔が、どれだけ周りにいる人間の心を攻撃しているか、まだ、その猛威に心から気づけていない。
 そんなこんなで、彼らにとって、なんだかよくわかんないけれど、無意識に惹かれるものがきっとあるのだろう。どこかで、殺したい願望はきっとある。それを実行するかしないか・・・。家族狩りが、彼らの怒りを昇華して、殺すという行為を空想で終わらせることができるとするなら、抑止力としてすごいことだ。
 ちょこっと、反省。テレビを見終わって、私の感想みたいなものをポロッと話したりして、息子との会話を持つことはいいチャンスなはず。いぇってなかった。だって、結構、殺害後の風景が生々しくって、こんなテレビを小4の息子に観させてよいものかどうかとまどっていたから。
 最近、やたら、反抗期で、思わず手を出したくなるくらい腹が立つ言葉を発するので、深呼吸ばっかりしている。一に忍耐、二に忍耐、三四がなくて五に忍耐。
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おだてれば木に登る野心くん

2014年08月09日 | エッセー
 夫も典型的なおだてれば木に登るタイプ。本人も自称、すぐ天狗になってしまうと言っているんだから、夫のことを書いても許されるかな?
 自営業を始めて、すっごく軌道に乗った時期があった。その時には、私のアドバイス(忠告)には耳を貸そうとしなかった。今、その時のことを聞いても、聞く気はなかったとのたまう。
 で、「あなたは、社長にはなれないタイプね。総務課で効率よい組織体制をデータ分析して構築する良きパートナータイプね。」というと、素直に、「そうだな。」ってうなづいた。

 トップになると、舞い上がって、万能感が出てきてしまって、人の意見を聞けなくなる・・・・・これも、野心の変形バージョンだと思う。
 韓国のあの沈没した船の会社の亡くなったオーナーも、きっと、そんなタイプだったのだろう。

 幸か不幸か、夫の事業成功は短命に終わった。
 おかげで、煮え湯を食わされた貧乏人生だったけれど、おだてて木に登りっぱなしの野心むき出し夫と生活せずに住んだことは幸いだったかもしれない。後付けのシアワセ・・だけど。
 なんだかなぁ。自分にもしっかりちゃっかり野心というか虚栄心というか有名になりたい・・・みたいな願望は潜んでいるとうすうす気づいている…にもかかわらず、否、だからこそ、野心が見え隠れする人を好きになることがどうしてもできなかった。この人と結婚すれば、ステータスもお金もゲットできるとわかっていても、いくらかっこよくても、ダメだった。国境なき医師団みたいなところで働きたいなんていう人を支えたい願望があった。何かにひたすら突き進む人をサポートしたい・・・という願望。
 野心とか出世というオーラのある人には、最初から、拒絶してしまいがちなのは、今に始まったことではない。

 地方自治体の公務員を選択した人・・・・(特に男性)・・・は、安定を選んだ人が多いと思う。自分の好きなことややりたいこと・・・なんて無縁だ。だって、3年たったら異動がつきものだもの。でも、その中には、どこに異動になっても、住民サービスに磨きをかけることにまい進している人もいて、そんな人はかっこいい。あんまりいないけれど・・・・。で、でなけりゃ、やっぱ、出世でしょって世界観の男性が多い・・・ような気がする。

 だから、男性は、おだてることでその気になる人種でもあるということ。
 それは、小学生や中学生にも言えることなのだろうか。
 男性は、制服が好きだと聞いたことがある。警察とか自衛隊とか階級が表現される制服が。
 昨夜、ほんまでっかで、背広を着てきちんとした格好をしている時そラフな格好をしている時では、差別意識が違うんだそう。女性も同じで、お化粧をきちんとして今日は決まっているなと実感できる日は、差別意識がニョキニョキ芽生える傾向があるらしい。自信がそうさせるのだそう。
 そりゃそうだろう・・・と思った。
 そして、ふと、イギリス人のきちんとした紳士の背広姿が目に浮かんだ。

 今、ふっと思った。
 私って、『野心』にすっごくこだわっているなって。
 野心を抱いている人に敏感で、野心を抱いている男性に好感をもてない。
 野心があるからこそ、お金もついてくるのに。野心がなければ、お金もついて来ない可能性が高くなるのに・・・。
 なんで、こんなに『野心』にこだわるのだろう。
 夢の扉に出てくるような野心ではなく、じぶんが好きでやっていることが、結果、人のためになる。人のためにやっていることが自分の喜びになっている。そんな男性に魅力を感じる。そんな男性なんて、ごくわずかなのに・・・・。

 私の前世と何か関係があるのだろうか・・・。
 『野心』にひっかかる私って、ちょっと変だ。

 四男が、本を読まないから私が本を読む羽目になったら、やたら、野心にまつわる話ばっかりだったのも、何かの縁?

 今日の新聞に、ポルポト政権自在の№2と№3が、終身刑を言い渡されたという記事が掲載されていた。終身刑といっても二人とも88歳とか、そんな年齢だったけれど・・・。ポルポトが1975年に政権を握り、あの大虐殺を実施した。プノンペンの収容所では1万人が大虐殺されたという。30年・・・・。30年たって、やっと、№2と№3の刑が決まるなんて遅すぎる。でも、日本政府は、この特別法廷に対して、『カンボジア和平の総仕上げ』として今後も法廷を支援するとしているという。この裁判が、正当に実施されるために、全体の4割にあたる83億円(世界最大)を拠出し、検察出身の野口元郎氏が6年判事を務めるなど人的貢献もしているんだそう。
 いいことしているな、日本政府って、ちょっと感動した。

 長男と三男にとって、多分、一番、衝撃的だったのは、その1万人の大虐殺が行われた収容所を訪れたことだったのではないかと思う。思い出したくもないと言ったけれど・・・・。
 野心の野放しにすると、こんな恐ろしい結末になると身に染みて感じたのではないだろうか。
 
 

 
 
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野心か安心か?安心か野心か?

2014年08月03日 | エッセー
 長男と三男は、今、プノンペンにいる。
 乗り気でない三男を長男という強力な助っ人と服を買ってあげたりなんだりして、本当はいけないんだけれど嫌なんだけれど、『行かない。』と言いだされても困るので、なだめなだめしつつ~~~~、どうにかこうにか空港行きのマイクロバスに押し込んだ。
 あれから三日。はるか異国の地で彼らは何を感じているだろう。
 ポルポト政権の爪痕深く、いまだ、貧困から脱出できないでいる国の空気は、日本では想像できない空気だと思う。彼らは、3年前、東日本大震災から半年もたっていない時に、被災地の空気を吸わせた。
 確かに吸っているはずだ。きっと、カラダのどこかにず~~~~~んと潜んでいるはずだ。
 そして、カンボジアの空気感に今、衝撃を受けているであろう・・・・と期待している。

 先日、60歳を過ぎてから大学に行き、最近、卒業したばかりの叔母から電話があった。その時に、彼らが、カンボジアに行っていると言ったら、カンボジアって?って聞いたので、『ほら、あのポルポトという独裁者が、自分より賢い存在を怖れて、教師や医者など知識層を虐殺した国で、20歳以下の人口が7割なんだって。』と言ったら、『ポルポトって誰だっけ?』って聞いてきた。結構博識のある叔母だと思っていたので、みんな、あんまり知らない国なのかなぁって、ちょっと、びっくりした。

 人間には、教訓が必要だ。
 今、たまたま、戦争をしないという年月が、もうすぐ70年という快挙を成し遂げんとするこの日本という国に住んでいるといことで、逆に、戦争の教訓が薄らいでいるという現実も見え隠れする危うさの中に生きている私たちがいる。

 最近、四男に読んであげている本は、シェークスピア。
 恥ずかしながら、私も読んだことがなかった。
 シエークスピアとかマクベスとかリア王とかベニスの商人という単語は知っているけれど、内容は何にも知らずに50年生きてきた。うっへぇ~。恥ずかしい。四男のおかげで、世界文学の大まかなところを体験できて感謝している。ま、児童書だから本物は、もっと、読みにくいのかもしれないけれど・・・。で、やっぱり、シエークスピアのお話の中心テーマは、人間の野心。
 今、マクベスを読んでいるけれど、『マクベスよ。お前もか。』という心境だ。
 王を殺して自分が国王になるなんて思ったこともなかった勇将マクベス。なのに、なのに、大きな戦に勝利を得た帰り道に、3人の年とった魔女に出遭ってしまったのが、運のつき。魔女にそそのかされ、王妃になりたいずる賢くしたたかな妻の強力な支えで、いざとなったらめげそうな心を鬼にして、王を殺して国王になったところまではよかったけ。でも、国王になった途端、猜疑心で心がいつも動揺し、ゆったりと落ち着いて存在するという幸福から見放された人生を歩み始めてしまう・・・そして、精神が病んで自死を選ぶというストーリー。
 3人の魔女は、多分、実は、マクベスの心の中に潜む野心という本能だったんじゃないかな~。
 私たちは、DNAにしっかりちゃっかり野心という遺伝子を受け継いでいる子孫なのだ。場が変われば、心も変わるということを肝に銘じて生きていくしかない宿命なのだとしみじみ思う。
 小4の息子に世界文学全集を夜な夜な読み続けてあげるという珍しい体験から得たものは、世界の、そして、時代を超えて共通する文学が訴えたかったことの一つが、『野心という人間の愚かだけれど、それが人間だという姿を映し出して教訓にせよ。』というメッセージ。小4の息子のお勉強にはトホホな毎日だけれど、おかげで貴重な体験をさせていただいた。だって、小学校高学年~中学校レベルの世界文学全集を毎晩、音読し続けるチャンスなんてめったにないもん。
 そして、ポルポト。
 マクベスは、ナンバー2に上りつめたとたん、野心という魔女にそそのかされるというワンパターンな罠にはまって、王を殺してしまうと、今度は、『誰かが王位をねらっているのでは?』という猜疑心に心が占領され、手当たり次第邪魔者を消していく。でも、消しても消しても猜疑心に心が奪われていく。心穏やかな暮らしから縁遠くなる。何もかもが疑心暗鬼。信じられない。
 ポルポトもきっとそうだったのだと思う。
 だから、知的階級を抹殺した。あらゆる知恵を総動員して・・・・。子どもたちを洗脳し、密告させ、親を殺させた。実の親を・・・・。(この話は、北朝鮮でもあったと聞いている。)
 安心を得るために・・・・。
 そう。№1になるよりも安心という感情の方がシアワセなのだ。
 でも、人間は愚かで、安心しているとつまらない。つまらないからゲームを始める。で、ゲームの勝者になってしまうと、不安になる。不安になるから安心を勝ち取るために、邪魔者を消す。
 戦争と平和・・・。
 戦争反対!と叫んでも、野心という魔女のDNAは抹殺されない。
 野心という魔女をどうしたらやっつけられるか?その知恵を探す旅。
 もう、ほんとうに、男っていう人種は、本能的に戦いが好きなんだから、教訓というお灸をすえないと・・・。
 幸いに、日本にはヒロシマとナガサキという貴重な教訓を得る場がある。中学校の修学旅行では必ず訪れる。オキナワも教訓という意味でもきれいな海に癒されるという意味でも素敵な場所だ。
 カンボジアも・・・。ただ、日本は奇跡の復興を遂げた。賛否両論あるけれど、日本人の勤勉さと理想論を押し付けてきた腹黒いアメリカのなんだかんだの相乗効果により、奇跡の復興を遂げ、生活水準も上がった。しかし、カンボジアは、チガウ。うちわもめの戦争は悲惨だ。一つの国に敵と味方がいて争うということは、隣人に復讐したい人がわんさか存在するってことだもの。
 人間は、安心と野心のアイダを行ったり来たりしてしまいやすい生き物。
 安心(平和)が続くと野心がほしくなるし、野心で心の平静さを見ると、安心を得たいがために何でもしちゃう。

 今朝のテレビで、放射線廃棄物の最終処分場の選定を巡って、環境省の名水百選にも選ばれている地元住民にとっての宝の森を守るために反対運動をしている住民が、皮肉にもその環境省に訴えているという内容の放送があった。そのコメンテーターとして、自民党の議員と元環境相だった民主党議員も出ていた。自民党議員が、もっともらしく、感情論に流されず(つまり、美味しい水を湧きだしてくれる自然を守りたいという住民の意見に流されず・・ということらしい)科学的根拠に基づいてこの国有林を最終処分場にしているというようなことを述べていらしたが、何を持って科学的根拠と言えるのか・・・・・震災で出た被ばくされた土等を処分することに、いくら科学的根拠という言葉を使われても誰も『はい、そうですか。』と納得できるわけがない・・・・のに。この議員が『科学的根拠』というたびに、『このうそつき!』と思ってしまった。また、『科学的根拠』という時のお顔が、プラスチックみたいに見えて、ちょっときつそうだった。それに比べて、今は野党となってしまった民主党議員の方の醸し出す雰囲気とさわやかな弁舌といったら・・・・。魅力的だった。自民党議員の方の意見をいったん受け入れた上で、国民の気持ちを汲んだ発言をされていて好感度がとってもよかった。

 私が何を言いたいか・・・・・。
 国民は物言える野党を大事にすることこそが、平和が長続きするには必須であるということを。
 この元環境相の民主党議員さんの受け答えの気持ちよさには、この方が誠実であるという匂いを醸し出していたからだと思う。

 物言える野党がない国は、危険にさらされる。

 ヒットラーの時代もポルポトの時代もそうだった。
 独裁政治にならんとする、まさにその時に、自分の利益に目がくらまないで、ぐっとこらえて、物言える野党を積極的に支援できる国民がどれだけいるかが独裁を阻止できるかどうかにかかっていると思う。
 金や権力を持った人たちは、利権に走ってしまうもの。それが、人間だから。仕方ない。
 福島原発のトップたちの、あの反省のなさを見てごらん。
 全国の電力会社の株主総会で、原発をやめるという会社の方針案に、なんとなんと、全ての株主総会が、NO!を選んだんだよ。
 安全弁を設置する知恵をどれだけ持てるか・・・・。これが、現実。自分だって、いつ何時愚かな選択をしてしまうやもしれないんだし。
 ヒットラーやポルポト予備軍はわんさといる。もちろん、私だって・・・・。
 
 愛咲くらが思う平和運動とは、物言える野党という安全弁の大切さに気づき、応援し、その野党が権力に目がくらまないようにお灸をすえることも必要という意識に目覚めた人の輪を拡げていくこと・・・かな。

 そして、四男に小学校高学年向けの世界文学全集を読み続けて感じた世界観、つまり、どんなに忠誠心や理想に溢れた人も№2にのぼりつめた途端、DNAに潜んでいた野心が突然目覚めてしまいやすい・・というお決まりの人間の愚かさを、子どもたちに伝えていくこと。
 マクベスだけを読むのでもなく、三国志だけを読むのでもない。
 世界の、そして、時代を超えた文学に触れ続けることで、見えてくる世界を感じ取ってほしい。
 
 四男は、相変わらず、お勉強の方に気持ちが傾いてくれないので、トホホな日々を送っている。
 でも、国語力のゆっくりな四男のおかげで、私も世界の古の文学(といっても小学校高学年レベルの本だけど)に触れることで、『結局、人間って野心に弱いのね。気をつけなきゃ。』という真理に触れることができたという体験はかけがえのないもののような気がする。四男も、ずっと、聞きつづけているうちに、自分の力でそう気づいたみたいだ。
 それが、大事。
 自分で気づく。
 私は、彼に、人間の叡智は伝えられたのではないか・・・。

 国語の時間に、読み書き以外は、先生、ずっと、世界文学の読み聞かせをされたらいいんじゃないかな?そしたら、先生も楽だと思う。授業の準備って大変だもの。

 叡智は伝えられたかもしれないけれど、お勉強の方は、さっぱり。

 先日も、大バトルだ。
 母と子の絆も断絶したか・・・とあきらめかけた。
 半端ない夏休みの宿題の量をどうにかさせようとあせる私が、けっして、したくないわけでもないし、漢字も覚えたいという意識もゼロではないけれ
ど、あまりにも量が多すぎて、やる気が失せつつある四男にあえてさせようとギャーギャー言ってしまう私と悪態をついて口答えばかりすると四男との悪循環バトル。終いには、堪忍袋の緒が切れて、添削用の青いペンで宿題プリントに思いっきりぐちゃぐちゃと書きなぐってしまった。
 オーマイガッド!
 わかっている。
 わかっているのだ。
 
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