総合漢方にんぷ薬・総合漢方育児薬

~頭を使ってではなく、カラダ(感性)で子育てしてみませんか~

だだこね七変化 3

2012年05月31日 | エッセー
 トイレの戸も壊れて、中国式トイレみたいになり、便器も欠けていて、窓ガラスも割れ放題の東京都中野区のある中学校の話。
 あれって、だだこねしたい(小さい頃だだこねを十分させてもらえなかった)、思春期でやり直しをしたい(魂の生き残りをかけて)中学生のだだこね・・・だ。
 だだこね進化系だ。

 ポケモンの進化系だね。

 ポケモンが進化したら、カッコイイけれど、だだこねが進化したら大変。

 で、中野区の中学校の場合、一つのテーマを決めて、5~6人のグループで感じたことや考えていることを思い思いにはなしてもらうというグループワークを10回程度やったら、壊す的だだこねが自然となくなっていったとのこと。

 な~ぜ?


 みんな違うんだ。自分ひとりだけ悩んでいると思っていたけれど、みんな悩んでいるんだ。
 世の中にはいろんな人がいて、いろんな考えがあるんだ。

 という体験が、視野を広くする。
 おぼれかけていた心が、水中から脱出でき、堤防から川を眺めるような気持ちの余裕が出てくる。

 そういうことなんだろうか。

 誰にも言えなかった。悩みなんて。恥ずかしくって。
 相談なんかできないと思っていた。
 相談するなんて恥ずかしいことだと思っていた。
 人に弱みを見せるなんて恥ずかしいと思っていた。

 でも、違うんだ。
 みんないろんな考えがあって、いろいろ悩んでいる。

 そういう体験をしたとき、
 相談してもいいんだ。恥ずかしいことじゃないんだ・・・と気づく。

 この気づきが、トイレを壊したい衝動を一気にかき消してくれるのかもしれない。

 だって、小さい頃、泣いたらダメ!って(つまり、相談したり弱みを見せたり本音を言ったり、だだこねしたらダメ!って)決定的なメッセージに洗脳されてしまったんだもの。

 自殺する人で相談する人は6割といわれている。残りの4割は、マジ相談されない。どんなことがあっても相談されない。相談したくっても相談できないのではなく、相談する気がさらさらない。というか、相談するという概念がないという。
 人生がそういう風に舵を切ってしまった。
 男性の高齢者のなかで、誘っても誘っても絶対出て来ない男性って結構いらっしゃる。こんな方をいくら外に誘ってもむり。でも、きっとほんとうは寂しい思いをしていらっしゃる。ほんとうは、誰だって、心にタッチされたい。

 だだこねできる力=弱音を吐ける力=素直に自分の気持ちを表現できる力=相談できる力=生きる力

 結構、みんな違うんだなぁ~という体験は、井戸端会議以外に、海外に行ったり外国人と知り合いになったりするのもいいかも。

 そして、とにかく住んでいるところに良くも悪くもいろんな人が住んでいるっていい。
 風通しの悪い町では、画一的な考えの人が多くなる傾向がある。一方、風通しのいい町には、いろんな人が住んでいる。
 私の住んでいる街は、自殺者が多い。日本で一番自殺率の低い県は和歌山県で、和歌山と私の住んでいる県を比較したデータがある。いろんなことを比較しているなかで、特に差があったものが、和歌山県は在日外国人の数や海外旅行者の数が多く、宮崎県は、精神疾患で入院している数が多い。
 地域にいろんな人がいるということは、それだけ自分の価値観と違う人に普段接しているということで、それはとても大事なことなのだと思う。一方、これが不思議なんだけれど、和歌山県の校内暴力数は宮崎県の19倍以上であったこと。

 思春期のだだこねを表現できるということ、つまり、心に貯まった負のエネルギーを良い悪いは別にして校内暴力という形で噴出できる(発散できる)とその後の青年期に内にこもるようなことにはなりにくいのだろうか・・・・。
 
 何がよくて何が悪いかわかんない。


 つぎは、『だだこね七変化! 次男の場合』です。

 
 

 
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だだこね七変化!2

2012年05月30日 | エッセー
 友人の子どもが2歳の頃のあるお話。
 急に、ギャーギャー言い出して、何とかなだめようとしたけれど、全然、ギャーギャーが止まらなくって、抱きしめようとしても嫌がって、どうしようもなかったそう。仕方ないので、しばらく、ほったらかして、したいようにさせてあげようと見守っていたんだそう。そしたら、一人で暴れるわ!暴れるわ!もう、大変。たんすの中の物を全部外に引っ張り出してギャーギャー、ギャーギャーあっち行ったりこっち行ったり・・・・。45分くらいはそうしていたそう。

 そして、45分過ぎた頃、突然
 『あ~すっきりした。お母ちゃん、喉乾いた。』と一言、つぶやいたそうな。


 彼女は、えらかった。
 普通なら、親が切れてしまいそうなところを、したいようにさせてあげよう!と子どもが落ち着くまで同じ部屋で、ただただ見守っていたのだから。
 だだこねしてる子って、そばにいたら、妙に癇に障ってしまって、ゆったり構えて見守るなんてことはなかなかできないもの。
 
 なんだか知らないけれど、本人にもわからない悶々としたどうしようもない出口のない不快な気持ちのその出口が、だだこねなのかもしれない。何かちょっとした気に食わないことが、過去に言いたいけれど言えなかったことのどうしようもない苛立った気持ちの導火線に火をつけて、怒りみたいなものが爆発する。すっきりしたいために・・・。
 たまったものは、何でも出さなきゃね。ガス抜き!ガス抜き!

 だから、だだこねってとっても大事。

 いろいろたまっているんだよ。
 で、たまたま、ちょこっと気に食わないことで、聞き分けのない行動をとってしまうんだけれど、そんなとき、そのきっかけになったちょこっと気に食わないことだけにトラワレテハイケナイ。

 それは、あくまでもきっかけなだけ。

 そのことを解決してあげようとしても、気は治まらない。
 きっかけを解消しても、なおギャーギャー聞き分けのないことをし続けるとしたら、あきらめよう。
 ただ、ただ、そばにいて、スッキリするまで見守ってあげよう!
 できれば、「なんだかもやもやしてすっきりしたいんだよねぇ~。苦しいねぇ。すっきりしたいねぇ。」と声かけてあげながら・・・・。(これを声かけお手当てという?手を当てなくてもお手当てできるんです!)まぁ、心にゆとりがあればの話だけれど・・・。なかなか、ゆとりってないけれど・・・。深呼吸して・・。


 子どもは、本当は、キャッチボールをしたい。心と心の・・・・。
 かくれんぼとかおにごっことか、追いかけて、追いかけられて、つかまりそうなその瞬間のワクワクする気持ちが、タッチした瞬間あるいは見つかった瞬間、心にもタッチされた・・・・みたいな。

 心にタッチされたい。

 今日、同僚が、知り合いの荒れた中学校に通う学校のガラスを割る荒れた男の子の話をした。

 とにかく、ガラスを見ると割りたくなるんだそう。何がどうって言えないけれど、ムズムズと割りたい衝動に駆られて割ってしまうんだそう。その気持ちは止められないって言っていたって。で、親は、いつも学校に謝罪に行くという。謝罪だけですめばいいけれど、そういう場合って弁償だよね。きっと。ガラスって結構高いよね。
 多分、きっと、この何とも言えないガラスを割りたい衝動に駆られてガラスを割ってしまうのもだだこねの変形バージョンだと思う。

 何ともいえない出口の見えない悶々とした不快な気持ち・・・・・・憂さ?

 本人は、特に理由はないと言う。けれど、ごくごく小さい頃は、しっかり理由があった。まだ、言葉をしゃべれない頃。
 ティッシュを取ろうとしたら、ダメ!と言われて、箱ごと奪い取られた。
 そこら辺のものを口に入れようとしたら、ダメ!って言われて、お勉強しちゃダメ!って言われた。
 水溜りでぴちゃぴちゃしてたら、ダメ!って言われてできなかった。
 泥んこ遊びをしていたら、ダメ!って言われた。
 お友達のおもちゃがおもしろそうで、ただ、おもしろそうなだけだったから、取ったら、ダメ!って言われた。
 お友達におもちゃを突然とられて、取り返そうとしたら、『ダメ!貸してあげなさい。』って言われた。
 悔しくって泣いたら、『男の子ならメソメソ泣いちゃダメ!』とたしなめられた。
 妹がおもちゃを取ったので、取り返そうとしたら、『お姉ちゃんなんだから』と言われた。
 挙句の果てには、したいことをさせてもらえなかったもろもろや『いやだ!』と反論できなかったもろもろの憂さを晴らそうとだだこねという勝負に出たら、ガツンと一発食らわされた・・・・・・などなど。

 
 


 憂さを晴らすという言葉がある。

 この憂さって今に始まったことではない。
 小さい頃から、積もりに積もった根雪みたいなものだから、本人にも分けわかんないくらい根が深いのかもしれない。

 私は、この憂さを晴らすという言葉がピーンと来ないけれど、夫は、憂さ人だ。私がイライラした気持ちになるときは、自分でも明確な理由がわかるから。

 よく、ストレス発散って言われるけれど、憂さ人は、ストレス発散レベルでは、そう簡単には晴れない。だって、小さい頃からの根雪だもん。

 知り合いの息子君は、思春期になって、乳幼児期からたまった憂さの根雪をどうにかして溶かして、もう一度、オンギャーっと生まれたときのようなのびのびした気持ちの自分になりたくってウズウズしているんだと思う。
 脱皮?

 どれくらいガラスを割れば憂さが晴れるのだろう。
 友人の2歳の子(女の子)は、45分タンスの洋服を片っ端から引っ張り出すことで、スッキリした。

 はて、14歳の男の子は・・・・?
 
 小さいときに、だだこねをしたいだけさせといた方がはるかに楽なんじゃないかなぁって思うんだけどなぁ。

 14歳でガラスを思う存分割れたら、アルコールで憂さを晴らすというアルコール依存症になって、ぐだをまくということに、もしかしたらならないかもしれない。

 でも、もっといい方法がある。
 ガラス代高いし。

 ず~っと前にも書いたけれど、中野区の中学校の話。覚えている?


 つぎは、『だだこね七変化 3』です。



 

 


 

 
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だだこね七変化!

2012年05月28日 | エッセー
 四男にてこずっている。
 実は、のびのび育てるということは、人から命令されたり、怒られてたりすることへの抵抗感の強い子に育つ可能性もある、それでもそこをひっくるめてあたたかく成長を見守れるという覚悟あってののびのび派かということを問われている。
 学校というのは、保育園と比べるとはるかに多くのルールが立ちはだかる。先生の話を45分も座って聞く・・・なんてスゴわざも待っている。先生の多くは、『○○しなさい。』という命令世界の住人だ。
 四男にとって、小学校入学は、試練だった。
 ひらがなも全然興味をもたなかったので、覚えてもいないし、名前も書けないまま入学したので、授業についていけず、一段と学校嫌いになってしまった。あれだけ絵本を読んであげたのになぁ~。おまけに左利きなので、字を書くことの難易度が高く苦手意識を持ってしまった。

 三男に仕事と家事に追われて手をかけなかった(手をかけてあげたかったけれどできなかった)ら、お勉強の方が大変なことになってしまったので、四男には、意識的に時間を割いた・・・・が、これが、チョー大変だった。
 ただでさえ、させられることへの抵抗感が強いところに、字が読めない書けないのダブルパンチで、宿題1枚終わらせるのに、1時間も2時間もかかってしまう。私は、仕事から帰って、夕食を作って家事全般のめどが立つのが午後8時。頑張って頑張って午後8時。下手をすると、9時が過ぎる。




 つづく

 本人もやる気がないところに宿題そのものがやらせ感が強い上、母親がどうにかさせようとする。最悪のさせられ感の中、やらねば先生に怒られる。それはいやだ。
 授業にせよ、宿題にせよ、渓流のような川の中を上流に向かって上って行くような抵抗感って、きっとどの子にもあると思う。でも、四男にとっては、それが渓流ではなく濁流の様に感じられ、その抵抗感も一筋縄ではなかったんじゃないだろうか。
 私もギャーギャー言いたくない。言いたくないけれど、言わないとちっとも前に進まない。ギャーギャー言う自分がいやになって、ややキレ気味に「もう、いい。宿題しなくてもいい。」と言うと、「いやだ。先生から怒られるからする。」と言う。じゃぁ、と気を取り直して、深呼吸して、優しい口調で『さぁ、わからないなら、口に出して問題を読んでごらん!』と言う。が、しかし、素直に、読もうとしない。すると、私の語気が荒くなる。すると、「もっと優しく教えて!」と訴える。優しくしたいけれど、素直に私の言うことを聞かないから腹が立ってくる。人間だもの。

 で、結局、ギャーギャー、ギャーギャーエンドレス。
 夜の10時が過ぎる。
 そうなると、寝る時間がジャンジャカせまってくるので私もあせる。

 親子ギャーギャー合戦が、輪をかけて繰り広げられる。

 10時半を過ぎる。
 
 もう、ぐったり。

 小学1年生を11時前に寝かせてしまうことへの負の感情が一段と私の背中にのしかかる。

 せめて寝る前くらいは、優しくしてあげたいのに、「早く寝なさい!」とため息つきながら、四男を責めながら、一日の最後を締めくくる羽目になる。

 そんなくり返しの日々にげんなりしていた。

 が、しかし、ある日の夜10時、戦いの後、やっとどうにか宿題が終わってほっとした瞬間、
 四男は、驚きの大逆転さよならホームラン発言をしてくれた。

 え~~~~~~~~~~~、そういうこと?

 どういうことかというと、


 つづく

彼は、「あ~、楽しかった。」とスッキリした顔でこの想定外の言葉を言い放ったのだ。

 「え~~~~~~~~~~~~、あれが、楽しかったの?」

 「うん、楽しかった。」
とニコニコ顔。

 な~ぜ?

 これって、もしかして・・・・だ・だ・こ・ね?

 あ、そうか。彼は、だだこねをしていたんだ。

 な~んだ。だだこねか。
 だったら、納得。
 小学校に入学して、学童にも行っていないので、夕方、一人さびしくNHKのテレビを見ていることも多い日々。私も、仕事から慌てて帰って、ギュッと彼を抱きしめるけれどせいぜい30秒。
 1分後は、まな板と包丁と格闘している。
 彼と、ゆっくり向き合って遊ぶという時間がほとんどない。
 ほんとうは、学校というルールのある場で、やや窮屈にかなり頑張って生きているのだから、おうちに帰ったら、ほっとしたい。しばらくは、ぼ~っとしていたい。なのに、おうちに帰っても一人。ほっとはしても、太陽がないから(お帰りといってくれるママがいないから)寂しい思いを抱えている。
 まだ、まだ、甘えたいお年頃。

 私なんか、今でも、実家に行って、父しかいないと「お母さんは?」と聞いてしまうもんね。
 母がいるからどうってこともないのに、母がいないと殺風景に見えるのが実家てやつだ。もしかしたら、母親って存在は、家に命を与えているのかもしれない。
 でも、それって、私がいつも学校から帰ったら母がいたという体験があってこその世界。
 四男は、大きくなって、私と同じような実家像を感じているだろうか。違うだろうなぁ。多分・・・。でも、仕方ないよね。それに変わるあたたかいものを子どもたちにどう提供できるか・・。
 よ~し、寝る前に、「あなたを産んでお母さんはとっても幸せよ~。生まれてきてくれてありがとう。」ムギューーーーーー!をツのつく年齢までは、嫌がるまで心を込めてやるぞ~~~~~~~~~。

 


 ところで、彼は、無意識に私と向き合える唯一の宿題をする時間を戯れる時間と決めてしまった。
 私も宿題を済ませてもらわないと、一日が終わらないので、どうしても必死になる。その必死が、彼にとっては、向き合うの一種だと感じられた。ほんとうは戯れるという一流の向き合うがいい。でも、それは忙しそうなママを見ているとムリ。だから、例え戯れるというようなほんわかゆったりの向き合うの正反対バージョンのギャーギャー向き合うでもはるかに幸せに近かったのだろう。宿題というお互いにどうしても向き合わなければならないグッズを通して、母と子が向き合えるという子どもにとって最高no幸せを勝ち取ったのだ。『ギャーギャー必死宿題』も『楽しく1対1で遊んでもらえること』も、向き合うという点では、同じと言えば同じなのかもしれない。出すエネルギーは全然違うけれど・・・。

 子どもは、向き合ってほしいのだ。
 ただ、ただ、きちんと向き合ってほしい。
 キャッチボールがなぜ幸せかというと、きちんと向き合わないとボールをキャッチできないから。

 ママが向き合ってくれるのなら何だってする。
 子どもってそういう奴だ。これって、子育てで一番大事なつぼだよ。
 あらゆる角度からやってみて、これならママが向き合ってくれると判断した行動が選択される。多分、本人は知ってか知らずしてか・・・だけど。

 すごいね。子どもって。
 やっぱ、ママを振り向かせるためなら何だってする。
 というか、オンギャーと生まれてから、ただ、ただ、そのことだけに焦点を絞って、ママを観察し、向き合うセンサーキャッチにより、一番向き合ってくれると感じたある行動を確立していくのだと思う。

 子どもの、問題行動といわれるもののほとんどは、多分、そういうことなんだと思う。本人にとっては、これをすればママが振り返ってくれるという行動を無意識にしているだけなのに、周りは、それを『問題行動』というレッテルを貼り、なんとかそれをやめさせようとする。

 すると、子どもは、『」あ~は~、これをするとママはぼくを注目してくれる。これはいいぞ。もっとやってみよう。』と認識し、やめるどころかもっと強化してしまう。

 極上のきちんと向き合う体験さえできれば、そんな問題行動なんて、あっという間に消失してしまうものなのに。

 抱っこ法は、まさに、極上のきちんと向き合う方法だ。
 親業もきちんと向き合うコミュニケーションを学ぶ方法。能動的聞き方とかIメッセージとか勝負なし法とか・・・。
 どの子とも、二人っきりで、おうちの外という非日常の場でラブラブするのもかなりいい。
 寝る前に、どの子とも『生まれてきてくれてありがとう。あなたを生んで幸せよ。ムギュー。』をしよう。
 お手手絵本も心のキャッチボールのボールに十分なりうる。

 共働きで、時間がないという人ほど、つぼを押さえて、ママが僕ときちんと向き合ってくれていると実感できるよう意識的にやってみて!

 だだこねは、きちんと向き合ってもらえていない、きちんと僕を見てよ~!というサイン以外の何物でもない。

 それにしても、たった1枚の宿題にあきれるくらいの労力を注ぐくらいなら、どっと疲れが出て体力も気力も消耗するくらいなら、帰宅して10分でも15分でも家事を忘れて、心のキャッチボールをしたほうがはるかにましだ。

 でも、家事を忘れるって難しい。

 それにしても、そおれにしても、宿題ギャーギャーが、だだこねだったとは・・・・。

 
 ところで、実は、だだこねっていろいろある。

 小さい頃、親が怖くて、だだこねをさせてもらえなかった子どもは、思春期に家庭内暴力みたいなことをやってやり直しをするかもしれない。『きちんと向き合えよ~。くそばば~。くそじじい~。』ってね。エネルギーのない子は、引きこもってしまうかもしれない。思春期にやりなおしができなかった人は、アルコール依存症とかギャンブル依存症などの依存症になっていく。うつ病もそうかも。アルコール依存症の人ってうつ病が潜んでいる場合が多い。飲んで人ががらりと変わるって人は、だだこねしているんだよ。絡んでくる人とか暴言はいたり暴力を振るう人って。飲めない人でも急に不機嫌になってしまう人もそう。子どものだだこねも大変だけれど、大人のだだこねは、勝手に一人でやって・・・という醒めた感情しかわかない。



 子どものうちに、いっぱいだだこねさせてあげよう。
 でも、かなうなら、きちんと向き合う方法を学んで,だだこねより、はるかに素敵な方法で向き合えたらいいね。

 思うに、子どもって鬼ごっことかかくれんぼとか大好きだよね。

 もう、小2なのに、四男は、毎朝、2階の寝室から、『ど~こだ!』って叫ぶ。
 そう、かくれんぼ。
 毎朝、私は、上の子たちのお弁当を作ったりなんだりで、そんなかくれんぼにつき合っている暇なんてないんだけれど、『おかあさ~ん、早く来て~~~~~。』とお誘いがかかるもんだから、よっこらしょって2階まであがって、本当は、すぐに見つけているんだけれど、『あれ~、どこかな~?かわいい○○君は、どこに行ったのかなぁ~?』なんて言いながら、あっちこっちと探し回る振りをする。

 あれって、なんだろう。僕と向き合って~の変形バージョン?

 
 つぎは、『だだこね七変化 2』です。

 
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わたしを噛むんです。

2012年05月23日 | エッセー
 1歳半健診で、『何か育児で困っていることがあって、他のママに聞いてみたいことがありますか?』と聞くと、『最近、私を噛むんです。うちの子だけでしょうか。どうしたらいいでしょうか。』というママがいた。

 『蹴りたい背中』というタイトルの本があったけど、『噛みたいママの腕』なる心境になった子どもの気持ちってなんだろう?
 
 他のママたちは、『うちの子も噛むので、痛い気持ちを体験しないとわかんないと思って、私も噛み返します。』『でこピンします。』『痛いから止めてと言う。でも、止めてくれなくて困っています。』などなどと結構噛まれた体験があるみたいであった。

 8割くらいのママが、噛み返すと答えてびっくりした。
 『痛いから止めて。』は正直なママの気持ちだから、ほっとする。でも、その前に子どもの気持ちを汲んでいない。

 え~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~。噛みたい気持ちは何処へ・・・・。

 うちの四男も噛んだ。

 しゃべりたくてもしゃべれないもどかしさ。
 怒られて言い返したいけれど言い返せないはがゆさ。
 くそ~~~~~~~という気持ち。


 つづく

 おっぱいという最高の武器をもっているママの腕を噛むというその心理を知っていたら、噛み返すなんてことはきっとできないだろう。きっとしないだろう。
 「どうしてわかってくれないの~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~。」と地団太を踏んで、どうしようもなくなって、「この~わからずや~~~~~~~~~~~~~~~~~!」と叩きたくなる・・・・そんな気持ちになったことない?

 好奇心からやっている行動を、いちいち「ダメ!ダメ!」と言われたり、「あ~しなさい。こ~しなさい。」と言われたら、誰だって「クソ~、この野郎!」と思うはず。

 好奇心こそ、命。

 「命を大切にしなさい。」ってよくいうけれど、それは、つまり、「好奇心を大切にしなさい。」つまりつまり「“やんちゃ”を大切にしなさい。」「“いやだ!”を大切にしなさい。」ってことになる。
 他に、「障子の穴をあけることを大切にしなさい。」
    「自分の髪を切ることを大切にしなさい。」
    「ご飯をぐちゃぐちゃと遊ぶことを大切にしなさい。」
    「泥んこで遊ぶことを大切にしてください。」
    「水たまりでビチャビチャすることを大切にしてください。」
    「台所のものを全部外に出すことを大切にしてください。」
    「ボールペンを分解することを大切にしてください。」
           などなど1~3歳児は、命で溢れている。


 噛み返されたときの、子どもの衝撃はいかほどだろう。


 想定外で、唖然としてしまうだろう。
 そして、数秒後に最も信頼しているママのことが信じられなくなるという何ともいえないの哀しみにうなだれるかもしれない。

 でこピンも・・・・。

 命がげんなりしてくる。

 1歳半すぎて、「いやだ!」と言葉で言えないうちは、噛むという形で表現するしかないのだ。
 
 そのけなげな気持ちをどうかどうかわかってください。

 どうかどうか・・・・。


 
 「言いたいことがわかってもらえなくて、はがゆくって、噛みたくなるんだよね~。」と子どもの気持ちを代弁してあげよう。そして、この子が、噛むほどに言いたい気持ち、伝えたい気持ちとはなんだろう?」とママなりに子どもの気持ちを汲もうとしてみよう。そうすると、子どもがそれほどまでに訴えたい気持ちに近づいてゆけると思う。気持ちがぴったりフィットしなくてもいいのだ。子どもが噛みたくなるくらいになったその気持ちを汲もうとするママがいるだけで、噛みたい気持ちが半減する。
 以上『蹴りたい背中』否、『噛みたいママの腕』物語でした。





 つぎは、『だだこね七変化!』  です。
 

 

 

 
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おいしいおっぱい(夜泣きしない美味しいおっぱい)

2012年05月22日 | エッセー
 赤ちゃんの訪問に行って、「夜泣きが大変なんです。夜も2時間おきに起きるので、へとへとです。」というママがいた。
 よくよ~くお話を聞いていると、おっぱいを飲むとき、顔をそねったりするという。
 もしかしたら、おっぱいがまずいのかもと思って、「甘いものや油で揚げたもの、それからお肉などをよく食べていないですか?」と質問すると、「ケーキを毎日4個食べています。」・・・・・・。
 4個じゃなかったかも。もっと多かったかも。
 本当は、ケーキ毎日1個でもおっぱいはまずくなる。
 でも、毎日4個食べている人に、「週に2個くらいにしてみませんか?」とも言えず、「せめて1日1個にしてみませんか?」と言ってみた。
 それから、数日後、お電話をすると、なんと、夜泣きがなくなったとおっしゃるではないか?
 あれから1個も食べてないとのこと。
 びっくりするとともに、そりゃそうだろうなぁ。毎日、毎日、朝から晩まで、まずいおっぱいを飲まされていたらストレスたまるだろうな・・・と思った。
 「おっぱい、まずいよ!甘いお菓子はやめてよ!」としゃべれたらいいけれど、いかんせん、赤ちゃんはしゃべれない。
 必死で、夜泣きという形で訴えるしかない。
 これだけ泣いて訴えているのに、ママは、どうして気づいてくれないの~~~~~~~~~~~~!!!!!



 それにしても、よっぽどまずかったんだろうなぁ。

 飲むたびに舌で押し出すようなしぐさをするときも、まずい。
 カラダ全体をそねりながら飲むときも、まずい。(ストレスたまっている場合もあるけれど)
 乳首を噛むときも、まずい。
 吐くときもまずい場合がある。

 果物のとりすぎもまずいから、要注意。
 毎朝、パンとコーヒーもまずい。バターとかマーガリンとか油はおっぱいがまずくなる。

 お口に美味しいものは、週に1,2回楽しみとしてとっておこう!

 
 つぎは、『私を噛むんです。』  です。

 
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Are You 毅然ママ?

2012年05月20日 | エッセー
 しつけは、ゆる~でいいと思う。
 でも、本当にダメなことは、ダメ!という毅然とした姿勢は、大事。

 放任ではないのだ。

 大きな枠の中でのびのび泳がせるということは、大きな枠を越えた時は、バシッとダメ!と言える毅然としたママになれるってことでもある。

 いえる?

 大きな枠って何だろうね。

 つづく

 私が思う大きな枠は・・・・・けじめ。

 私個人としては、しつけという言葉より、けじめという言葉が好き。
 しつけという言葉には、上から目線的においがするもん。

 乳幼児期の愛とは、『ほんとうに必要としているときに必要としているものを与えること』と『ママのゆったり安心基地』と『けじめ』の三つだと思う。

 だいたい何時に起きて、だいたい何時になったら朝ごはんを食べて、だいたい何時になったらお散歩に連れて行ってもらえて、だいたい何時になったらお昼寝・・・・そして、だいたい何時になったら3時のおやつ・・みたいな。
 
 だいたい、しつけという言葉がママの意識の中に出てくるのは、1歳半前後。
 ちょうど、だだこねが始まる頃、大人の思いどおりにならなくなり始めた頃。

 だだこねが始まると手がつけられなくなる。そうなると、ついついあめ玉やチョコでなだめてしまう。
 ほんとは、ママに甘えたいだけなのに、ママは子の心を知ってか知らずしてか、きちんと向き合う時間も精神力もないから、ついあめ玉を与えてしまう。そうすると、ママは、せっかくの精神力をつけるチャンスを失ってしまう。

 1回、お菓子を与えてだだこねがおさまる体験をしちゃうと、もう、だめ。癖になる。
 バックに、子ども用のあめ玉袋をしっかりちゃっかり持ち歩くようになってしまう。
 ちょこっとでもギャーギャー言い出すと、尽かさず、バックの中から、疾風のようにあめ玉を子どもの口の中に入れる。癖になっているから、技としては磨きがかかっている。

 こうなると、『けじめ』は子どものカラダに刻み込まれない。子どもの心は、けじめがないとふわふわしてつかみ所がなくなる。自分でもどうしてよいかわからなくなる。これって、結構、きつい。

 共働きだと、特にフルで働いていると、夕方、超忙しい。保育園にお迎えに行って、車に乗せて帰る途中、ほんとはママに甘えたいから、だだをこね始める。でも、ママも忙しい。困る。ほんとに困る。

 つい、
 つい、
 いけないと思いつつ、あめ玉を・・・・・・。

 なぜ、あめか・・・・?

 それは、車の中を散らさないため。クッキーやせんべいだと散らかるもんね。
 3歳くらいまでは、あめ玉そのものが危険。車に乗っていて、急ブレーキなんかかけて、思わず誤飲して窒息なんてことになったらどうするんだろう。

 でもね、だだをこねるたびにこんなことをしていると、子どもの心の中に、『あ~は~、ママは、私がちょっとだだをこねると私の思うつぼになる。ママなんて、たいしたことない。ちょろいもんよ。ママなんて!』とママを見くびるような気持ちが芽生えてくる。
 上から目線で子どもに怒るパワーという武器を子育てに使ってはほしくないけれど、かといって、あめ玉という武器を使ってなだめるというその場しのぎも、一見、ママが勝っているように見えて、実は、子どもがパワーという武器を手にしているからよろしくない。家族内でパワー戦争は、もうやめよう。
 人間は、どこかで尊敬という念を持って関係を持ちたい生き物なんじゃないかなぁ。子どもでも大人でも。
 たいがいなことはOKだけど、大きな枠を越えた時は、『ダメなものはダメ!』とビシッと言ってくれると、あ~ら不思議。そこに尊敬という気持ちが発生する。人を尊敬する快感ってある。憧れ・・・みたいな気持ちを体験できる子どもは幸せだ。たぶん、俗にいうマイナス思考な人にはならないんじゃないかなぁ。生きていて苦難に出会っても前を向いて乗り越えていくような人間に育っていくんじゃないかなぁ。

 反対に、ぐずったときあめ玉をくれるたびに、子どものハートは、何かさびしさみたいなものを、人を信じれる喜びとは正反対のような残念な気持ちを膨らませていくのではないだろうか。

 Are you きぜんママ?  or ぎぜんママ?
 


 

 おやつの時間でないのに、おやつを与えないというけじめ。(あめ玉1個もしっかりおやつだよ。)
 おやつにおやつとして最高の地位を与えたあげよう。
 実は、「お腹が空いた~。」というときにご飯を食べるって、意欲の貯金通帳をどんどん増やしてくれる優れもの。



 
 最近、うつ病が増えているという。
 3歳までに、意欲の貯金通帳を満期にできた子は、その通帳で、思春期以降の荒波をどうにか生き抜いていける。
 楽しみにしていたランチをさぁ食べようとするたびに「食べちゃだめ!」と言われ続けたら、あなたはどんな気持ちになるだろう?きっと意気消沈するだろう。それだけではない。くそ~という憎しみすら持つと思う。
 赤ちゃんだっておんなじ。
 好奇心から手を伸ばすたびに、『ダメ!』といわれ続けたら、意欲の貯金通帳は全然増えていかない。
 大好きなママのはずなのに、くそ~という憎しみの感情も併せ持ってしまう。
 これってかなりつらい。
 心理学的には、これを両価感情という。
 大好きと大嫌いの二つの感情を母親に持つなんて器用なことは、ふつうだったらできない。
 だから、大嫌いという憎しみの感情は無意識の世界に押し込められていく。でも、押し込めているだけなので、消えてはいない。
 ママへの憎しみの気持ちの行方については、また、どこかで書きます。


 もう一つ、『空腹』も意欲の貯金通帳をどんどん増やしてくれる優れものって知っていた?
 『お腹空いた~。』という感覚は、カラダの底から湧きあがってくるもの。エネルギー。空腹は意欲の元なのだ。

 なのに、ちょっとだだをこねたら、すぐ、あめ玉を与えるなんてことをしていたら、お腹空かないよ。意欲も萎えてくる。生きる力が落ちてくる。
 夕ご飯も美味しくないから、ちょこっとお箸をつけただけで遊びだす。
 遊びだしたら、「ちゃんとご飯を食べなさい。」と怒られる。
 仕方ないから、野菜ジュースを飲ませたり・・・・する。(野菜ジュースっていうけれど、野菜100%じゃないし。結構砂糖が入っている。消化もよすぎて、腸も育たない。)

 おやつをおやつとして最高の地位まで引き上げてあげよう!
 
 おやつをおやつの時間として光り輝くものにするって、今の飽食の時代だからこそ、必要なことかもしれない。
 待ちわびる喜び。

 虫歯の調査をしたことがある。
 虫歯0本の子と虫歯のある子のチガイを統計学上有意差があったものが、赤ちゃんのときに唾が多くてよだれかけがたくさん必要であった子と普段は、水とかお茶を飲ませるようにしていたという二つであった。
 ジュースやイオン飲料など砂糖の入った飲み物を普段はあまり飲ませないように意識しているママだと子どもは虫歯になりにくいという。ジュースやイオン飲料など冷蔵庫に買い置きせず、土曜日とか誕生日まで待ちわびる飲み物に格上げしちゃおう。

 ジュースなどの飲料水は、消化がよすぎるので、あっという間に血液中に到達する。すると、インシュリンというホルモンがドバっと分泌される。インシュリンは、血液中の糖分を血液の外に出して、血液の中の糖分を一定に保とうとする。実は、インシュリンは、アドレナリンという攻撃ホルモンを道づれにするのだ。
 だから、一日何回もジュースやイオン飲料を飲んでいると、アドレナリンもバンバン出るので、怒りやすくなる。キレやすくなる・・・のだそう。
 
 3歳までに、意欲の貯金通帳を①ダメ!ダメ!と言わない②腹ペコご飯③待ちわびおやつで満期にしちゃおう!

 つぎは、『おいしいおっぱい(夜泣きしない美味しいおっぱい)』です。

 
 

 
 
 
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とことん体験 2

2012年05月17日 | エッセー
 人間は、体験するために生まれてきた・・・のだそう。

 うれしいことも哀しいことも腹が立つこともルンルンすることも・・・・全部体験したくてこの世にやって来たそうな。

 うれしい気持ちも哀しい気持ちも怒りの気持ちも楽しみワクワクする気持ちも・・・とことん味わいつくしたい・・・というのが、魂の言い分なのだそう。

 哀しいことや腹が立つことなんて苦しいだけで味わいつくしたくもないけれど、十分に味わいつくすと光が見えてくるかもしれない・・・気がする。

 何でも、体験してみないとわかんないよね。

 小さい頃から、なんでもとことん体験させてもらえていると、『自分』の輪郭が明確になってくる。自信がついてくる。
 とことんしている中で、こうすれば痛いとかこうすればうまくいくとかこうすれば気持ちいいとか・・・試行錯誤を楽しくやっていく力もついていくはず。

 2~3ヶ月の赤ちゃんに手袋をさせているママの、その理由は、もし、目に指が入ったら心配だから。これを、本末転倒っていう。2~3回目に指を突っ込んで痛い思いをして初めて、目に指を突っ込まなくなるよう筋肉の動きがとれるようになる。つまり、器用になっていく。

 6~7ヶ月の赤ちゃんには、やけどしない程度にアイロンを熱くして、触らせて、ちょこっとアッチッチ体験をすると用心深くなる。

 前にも書いたけれど、おもちゃも取られてみないとその気持ちに気づけない。
 取られて、取られたときの気持ちを十分堪能させてあげよう。そこからしか、取り返す勇気は溢れてこないのだから。

 三男が2歳の頃、はさみに興味を持ち始めた。
 よく、カーテンを切って困るという訴えもある。
 まぁ、カーテンだと困るよね。
 困るときは、正直に、「困るからやめてぇ~。」と叫ばなくっちゃ。
 いくら、とことん体験と言っても、本当に困ることは、時と場合によるいうことも体験しなくちゃね
 再生不可能なものは、困るよね。よほどお金持ちでないかぎり。
 それと、命にかかわるような危険なことも困るよね。
 我が家のルールはあった方がいい。
 子どもにとって、無制限というのも困るのだ。
 大まかなルールの中で、とことん体験できると、そこから、個性という輪郭が形成されていく。○○さんちの○○君という個性が・・・。個性は、おお~きな枠組みの中でとことん自由に泳がせてもらうことでできあがっていくもの。

 ところで、はさみに興味を持ち始めた三男は、ざくりとあるものを切って、それがとっても面白くって、どんどんどんどんザクッザクッと切り始めた。
 あるものとは、自分の髪の毛のこと。
 何分、鏡を見てかっこよくなりたいというような気持ちは、まだ、芽生えていないし、手も不器用なので、同じところだけをザクザクきり刻んでしまって、円形脱毛症のようになってしまった。

 それを見た義理の母が、「そんなことしたら、もう、いっしょに自転車になんか乗せてあげないからね。」と、本当は、母親である私に文句を言いたいところだが、それもできず、まだ、2歳の三男に怒っていた。隣に私もいたけれど、しれ~っとして、「あの、ざくっとした音がおもしろいんでしょうねぇ。あ~はっはっ!」と笑ってこたえた。

 わたしには、証拠写真がある。
 私の小さい頃の白黒写真。
 これがあるかぎり、しつけは厳しくしないほうがいい、否、しなくても大丈夫なんじゃないかとしみじみ思うのだ。
 その、証拠写真とは、


 昔の家は、縁側があって、ず~っと障子が続いている感じ。私は2歳か3歳って頃だと思う。そのず~っと続いている障子のすべてが破れていて、私は、そこで背伸びしてブスッと指を突っ込んでいるという構図の写真の主人公だった。

 画面いっぱいブスブスと破れた障子の真ん中で、私はとっても自慢げに背伸びして、ブスっと一刺し。
『ヨッ!日本一!!お見事!!!』とほめてあげたくなるくらいな映像だ。
 

 この証拠写真があるかぎり、我が家の障子が破れようが、ふすまを破ろうが、怒れない。

 それでも、頑張って、家を建てて5年くらいは、大晦日に障子の張替えをやったけれど、張り替えても張り替えても穴ぼこぼこになるのであきらめた。今は、カーテンでがまんしている。

 ふすまもしかり。

 ふすまの場合は、幾重にもなっているので、最初は、ビリビリが面白くってはがしていたけれど、少し大きくなると、父親に怒られて言い返せなくて腹が立つとビリビリ、ビリビリとやっていた。どの子も・・・・・。

 あの証拠写真があるかぎり、私は怒れない。

 し、


 不安にもならない。
 つまり、ここでちゃんと叱らないと将来とんでもない子になるんじゃないかという不安は、全く  『ない』。

 しつけなきゃという呪縛は、このまま黙って見ていたらまともな大人に育たないんじゃないかという不安に起因している場合が多いと思う。

 大丈夫。大丈夫。

 今の私は、その正反対のために去年大病を患ったのだから。

 50歳を迎えて、私の人生の終盤の課題は、『わがままに生きる』・・・だ。

 それにしても、あんなに伸び伸びと育ったはずなのに、どうして、言いたいことが言えないような人間になってしまったんだろう。

つづく

 
しつけは、そう厳しくなかった。けれど、母親の何かに洗脳されたのだと思う。

 まぁ、しつけも洗脳の一環ではあるとは思うけど・・・・。
 だって、インドに行けば、手づかみで食べるのが当たり前だし、結構、床に皿を並べて食べている。日本だと、『犬じゃないんだから』と怒られる。
 お国が違えば、正しいことも間違いとなるのだから、人と違っていても『別に・・・どうでもいいんじゃない?』とこだわらなくなるんじゃないかなぁ。そういう意味で、国際交流っていいよね。

 ただ、日本人らしさってあってもいいと思う。
 着物を着て、犬みたいに食べるより、しんなりおしとやかに食した方が、やっぱり美しいと感じて、気分よくなる。
 らしさの強要はいけないと思うけれど、らしさの姿が美しいと人に幸せを与えるものなので、らしさも好き。国際化の中で、外国の人が日本に求めるのは、日本人らしさ。らしさに正しいも間違いもないけれど、らしさという異文化は国際人として求められている。

 ○○さんちの○○ちゃんという『らしさ』が、日本人らしさの基盤になる。
 その○○さんちの○○ちゃんは、どうやってらしくなっていくと自然かなぁ~。

 私は、まず、ママが、きちんとしつけなきゃと頭で考えて叱るのではなく、ママがされて困るときに、『困る~。』と叫ぶことのくり返しでらしくなって行くのではないかなぁと思う。
 「あなたが、こんなに散らかすとママは疲れがどっと出てイライラして困る~~~~~~。」などと困ることを訴え続けていると、『あ~は~、ママは、私が○○するときついのね。いやなのね。」とわかるようになる。別に、非難されているわけではないので心が傷つくこともない。あんまり疲れてどうにかなりそうなときは、叫べばいい。叫んでいると、なんだかスッキリしてくるから不思議不思議。「ママは~」とママを主語にしているかぎり、子どもの心を傷つけないのだ。だから、安心して叫べる。ギャーギャー言える。そして、ギャーギャー叫んでいるうちに、なんだか自分のことが好きになってくるから一石二鳥だ。
 子どもって存在はありがたいよ。
 職場では、とても言えないセリフや醜態を全部さらけ出しても、子どもは受け入れてくれるもの。

 「ママは、あなたが○○するとうれしい~。」「腹が立つ~。」「哀しい~。」「幸せ~。」そして、「困る~。」「助かる~。」などなど、語ったり叫んだり飛んだり跳ねたりしていると、「子どもは、あ~は~、ママは僕が○○すると困るんだ。」「うれしいんだ。」などをカラダに刻み込んでいく。パパもおんなじだ。「パパは、○○すると困る~。」「うれしい~。」「腹が立つ~。」と気持ちを表現していると、あ~は~、パパは僕が○○すると困るんだ。ママの困るとは、また、ちがうんだなぁ。ってうすうす感じて育つ。
 おばあちゃんもおんなじだ。「おばあちゃんは、あなたが○○すると困る~。」
 おじいちゃんもしかり。
 いろんな人の困るやううれしいや腹が立つや哀しいを聞き続けて、9年目にしてやっとピピピと脳の中の回路が一瞬でつながって、TPOという感覚が花開く。

 9歳まで、待とう。

 マジ、九つまで待とう。

 それまでは、いろんな人の困るやうれしいや哀しいや腹が立つを知って、もちろん、自分もあっちぶつかりこっちぶつかりしながら、自分のうれしいや困るや腹が立つや哀しいを体験しつくして、迷惑をかけないというTPOと上手に甘えられる(困ったときは助けてもらうチカラ)が、自然と身についていく。
 9歳まで・・・。

 


 いろんな人の、困るを聞いていくうちに、自然としつけられていく。そして、○○さんちの○○ちゃんという個性ができあがっていくとともに、らしさが形作られていく。

 ところで、1回、困ると叫んだから、すぐ、困ることを止めてくれるなんてことは、ない。
 だって、自己主張したくってうずうずしているんだもの。

 だけど、思いっきり自己主張できたら、時には、困るって言っていたっけ?と思い出し、困ることを止めてくれたり、お片づけをすんなりしてくれることもある。
 どっちにしても、幼い子どもの記憶が持続するのは、4歳過ぎてからと言われているので、4歳くらいまでは、『あんなに言ったのに・・』とか『あの時、約束したのに・・』と憤るだけ損だ。エネルギーの無駄遣いかも。
 まぁ、9歳(ツのつく時期)までは、ときどき気分でしてくれてラッキーくらいな構えでいるのが、子育てでイライラしないコツといえよう。


 つぎは、『けじめ・毅然としたママ』  です。

 
 
 
 

 
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とことん体験

2012年05月14日 | エッセー
 乳幼児期の発達をぐ~んと伸ばすとっておきのツボは、
 ママが、ゆったりしていつもそばにいること。
 そして、大人は、よほど危険なこと意外は、手も口も出さないこと。
 の二つである。

 特に、『初めて』の体験は、自力で成し遂げたという満足感を十分に味わわせてあげたい。

 そして、『とことん』飽きるまで味わいつくさせてあげたい。

 子どもは、とことんやったら、次に行く。
 でも、途中で『危ない!』あるいは『ダメ!』と言って、中断させると欲求不満が溜まっていく。

 寝返りしようとしている赤ちゃんをが手を貸して寝返りさせてあげていない?
 まだ、自力でお座りできない赤ちゃんをポンとお座りさせていない?
 (お座りさせると結構大人しく遊んでくれるので助かるよね。
 でも、自力で座れないってことは、まだ、背骨や骨盤が出来上がっていないってことだから、むりやり座らせると将来、背骨や骨盤のトラブルで悩むかも。)
 まだ、はいはいもしていない、歩くことができないのに、ベビーサークルなどに座らせていない?
 (足の筋肉だけ先に発達して、上半身はまだまだだと、全身の筋肉のバランスが悪くなるよね。運動神経に影響しない?)
 6ヶ月の頃、たまたま、ティッシュの箱が置いてあって、1枚スーッと引き抜いたら、これがおもしろいんだ。もう1枚・・・もう1枚・・・・・もう1枚・・・・エンドレス・・・。
 ママが気づいたときには、時すでに遅し。からっぽってことはよくある。

 人差し指と親指であのうす~いティッシュ1枚を抜き取るって技は、オリンピックの体操選手内村航平君なみの離れ技なのだ。チガウカ・・・。でも、6~7ヶ月の赤ちゃんにとっては、かなり高度な神経技で、これをすればするほど脳神経は発達していく(と思う)。

 6ヶ月健診で、『あなたは、ティッシュ何箱許せる?』ってママたちに聞くと、みな、ほんとうにみんな顔を見合わせて『ムリ』みたいな顔になる。最初のママが、『1箱?』とやや苦しそうに答えると、次のママも、苦しそうに『1箱』と内心ゼロと言いたいけれど言ったらいけないかなぁと思っているような顔で答えてくださる。そうなると、みんな『1箱』と回答する。が、しかし、最初のママが『ムリ。ゼロ。』と言うと、その次のママも、『ムリ。ゼロ』とすんなり答えてくださる。これが、最初に『どれだけでも・・』と言うママに当たると、どうなるかっていうと、『え~、ムリ。がんばって1箱。』という感じになる。まぁ、めったにいないけど。ときどき、ハンカチをティッシュみたいに入れて遊ばせているという賢いママもいるけれど・・・・・。
 つまんでいる姿を見たら、すぐ、『ダメ!』と言って箱ごと取り上げるというママが大多数だ。
 
 まぁ、2~3箱くらい見て見ぬふりをしてほしいもんだ。
 出したティッシュなんて、ビニール袋にでも入れときゃ、ちゃんと使えるじゃんって思うんだけど、どうして許せないのかなぁ。
 途中で、取り上げるくらいなら、最初から赤ちゃんの目に止まるようなところに置かなければいいのになぁって思う。お預けを食らうってつらいよね。というか、取り上げられてお預けもないんだから、たまったもんじゃないよね。
 もし、パパが、「ゴールデンウイークは、デイズにーランドに行って隣のホテルに泊まろう。」と言ってくれていて、何もかも準備して、「さぁ、出発!」という時になって、急に、「やっぱり行くの止めよう!」なんて言ったらどうする・どんな気持ちになる?

 わたしは、「くそ~!このヤロー!! 」とギャーギャー叫んで、それでも腹の虫が収まらないでプンプンし続けるだろうなぁ。そして、いつまでも根に持ってしまうだろうなぁ。ひょっとすると離婚の危機にまで発展するかもしれない。

 まぁ、そこまでいかなくても、ママともととっても美味しいランチのお店に行ったら、定休日で開いてなかったとしたら、どんな気持ち?どうする?
 そんなことが何回か重なったらどんな気持ちになる?

 6ヶ月の赤ちゃんのティッシュはそれくらい赤ちゃんにとって大切なティッシュだのだ。

 親指と人差し指でつまむという発達は、すごいことなんだよ。脳神経と筋肉の絶妙なバランスがあってこそつまめる。これを思う存分あきるまでさせてあげて、もう少し大きくなると、小さな積み木を上手に重ねられるようになる。でも、この時期にそういう遊びをさせてもおらえていないと、不器用になる。5本の指で積み木を持つ子どももいたりする。体験不足なのだ。

 生後3ヶ月くらいになると、ひとりで自分のカラダを使って、飽きもせずに一人遊びをする。
 これが大事。
 指しゃぶりもよくする。
 どの指が一番美味しいかなぁ?って感じでむしゃぶり、へたをすると握りこぶし全部を食べようとしている。よだれをたらたらこぼしながら。
 これを邪魔しちゃいけない。

 集中力は、ここから始まる。

 一人遊びをしているときは、そっと見守ってそばにいるだけでいい。

 飽きるまで。

 おじいちゃん、おばあちゃんも一人遊びのときは、忍の一文字でがまんして見守ってほしいと思う。孫がかわいくてかわいくて抱きしめたい気持ちは十分わかる。なんでもたまにならいいけれど、いつもそうだと、孫は欲求不満を抱えた集中力のない飽きっぽい大人になっちゃうぞ!

 幼児期になると、砂・泥・水ととことんをしたい。

 すごいよ。
 何もなくても、砂・泥・水さえあれば、子どもは一日中遊べる。

 わたしは、よく車で20分の知る人ぞ知る隠れ渓谷に連れて行った。がたごと道で道中大変だけど、何ヶ所か穴場があって、自分たちだけの秘密の場所みたいになっているのでリフレッシュできた。朝のトーストとコーヒーとお昼のツナおにぎりを準備して、朝、8時半には我が家を出て、帰るのは、いつも4時とか5時だった。
 
 遊具なんてなくても遊べるチカラをつけさせたかった。
 な~んて、うそ。
 本当は、家にいると散らかって散らかって、自分がどうにかなりそうだったから。
 どうせ、散らかっている状況が変わんないのなら、家でギャーギャーわめくだけ損。ストレスが溜まるだけ。
 で、思い切って、川へ連れ出して、私は、ごろんとリラックスタイムにすることにした。
 川に小さな子どもを3人も一人で連れて行くなんて信じられない・・・かもしれないけれど、いつも神様に祈っていた。そして、いつでも川に飛び込めるように、浮き輪に紐をくくりつけた救命グッズを持ち歩いていた。

 おかげで、よく遊びよく遊ぶ子どもたちに育った。

 へたをすると、水たまりで泳ぎだす。


つぎは、『 とことん体験 2 」  です。
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わがままとしつけの境界線

2012年05月11日 | エッセー
 『どこまでが好奇心の芽を育てる』で『どこからがしつけ』なのか、あるいは、「どこまでが自己主張(自分を大切にする心を育てる)』で『どこからがわがまま』なのか・・・。長男の時は、悩んだ。他人の目も気になるので、ここは一応叱っといたほうがいいのかなと思いながらも、『いや、待てよ。これは、好奇心だよね。ここで、好奇心の芽を摘んではいけない。』という思いも払拭できず、建前で叱る・・みたいになっちゃって、全然心が伴っていないってこともよくあった。
 だいたい、1歳半の頃になると、どんなママたちも悩むみたい。

 わがままとしつけの境界線・・・・

私たちの魂は、自己主張するためにこの世にやってきた・・・という話を聞いたことがある。
 自己主張ができずにイイコのまま大人になるとうつ病やがんなどの病気になりやすいという本を読んだこともある。
 悩むよね。
 『イヤダ』の始まる1歳半。
 それは、自己主張の始まる1歳半。
 大事にしたい。
 自分というコアの基本を作り上げる大切なお年頃。それが1歳半。
 あれもダメ!これもダメ!と言って、『自分』というこの世で一番大切なものを見失わせたくない。

 よく、保育園に早く出したほうが、協調性ができていいんじゃないかと思うので、そろそろ保育園に出そうかどうか迷っているという相談を受ける。
 めっそうもない。
 経済的に厳しいからなどという理由で、涙を呑んで保育園に出す・・・以外に保育園に出す理由はないかもしれないとこのごろ思う。子どもの権利という側に立つならば・・・。
 
 
 協調性は、ツのつく時期まで(つまり9歳)、思いっきりわがまま(自己主張)できたという基盤が培われて、初めて生まれる生きる力であって、周りの目を見ながら自分を押し殺してその場を何とかうまく切り抜ける・・・そんな自分のない協調性は協調性とは呼ばないんじゃないかなぁ。

 まだ、自分というコアの基礎工事が出来上がっていない時期に、集団に出すと、どれが自分という意思でどれが他人の意思なのかわからず意識が公私混同されたまま、自分というものが確立されてしまう可能性が出てくる。自分の考えと思い込んでいたけれど、実は、ごくごく幼い頃に他人から植え込まれたものだったりするんだけれど、本人は、すべて自分だと信じて疑わない。信じて疑わないのだけれど、思春期という生まれ変わりの時期に、ごく小さい頃に他人が侵入している人は、なんだかわかんないけれど、苦しい気持ちになってしまう。思春期はみな葛藤というものが生じるんだけれど、その葛藤を乗り越えることが、小さい頃、『いやだ』『いやだ』『私が』『僕が』を思いっきり言わせてもらっていないと難しいようである。

 先日、たまたま、ほんまでっかを見ていたら、思春期に『うっぜえ~』『くそばばぁ~』『べつに・・・』という言葉が出てきたら、子育ては大成功とある教育心理学者の方がおっしゃっていた。自分というコアがある子どもは、思春期に一度『くそばばぁ~』の洗礼を受けて脱皮していくのだろう。
 三男にトホホな私は、これを聞いて、ほっとした。なんせ、典型的な『くそばばぁ』少年だったから。ちなみに、次男君は、『べつに・・・』+『うざい』少年だったけど。ただ、長男は、母親の気持ちがよくわかるいわゆる母親にはイイコだった。父親や学校の先生にはめいっぱい反抗していたけれど、『くそばばぁ~。』なんて私に言ったことは一度もなかった。むしろ、私の気持ちを汲みすぎて何もいえなかったんじゃないかと思う。もっと、わがままを言いたかっただろうに・・・・。母親が大変そうだから、自分がわがまま(自己主張)言って、これ以上お母さんを苦しめたくないと思って、言いたいことを飲み込んでいたのだと思う。
 長男は、今、20歳。今になって、ドキッとすることを言う。「僕は、よく自殺しなかったと思う。」・・・と。やばい、ギリギリだった。
 次男は、今、高3。昨日の夜、ケーキ屋さんの小さな袋を「母の日には、二日早いけど、はい。」と渡した。中には、私の大好きなモンブランケーキが1個入っていた。
 ウ・・・・・・・。涙。
 初めて。
 母の日のプレゼントなんてどの子からももらったことがなかった。
 どちらかというと無口な次男が、突然、信じられないことをしてくれるもんだから、うるる・・・ときた。
 チョー幸せ。
 それにしても、どうして?彼に何が起こったのだろう?
 思春期の荒波を乗り越えたのだろうか。
 不思議だ。
 

 
 ところで、『自分』って体験しないとわかんない。
 石ころにつまずいて転んで、初めて、石ころに用心するようになる。痛い思いをしないと石ころへの対処法がわかんない。
 他の子に、おもちゃを取られてみないと、取られた気持ちなんてわかんない。
 最初は、唖然とする。
 二度目は、クソ~っと悔しい思いが沸いてくる。
 三度目は、取り返すぞ~。僕の大事なものだもの。・・・と自分を守る術を考え始める。
 でも、そう簡単にはいかない。
 何度か行きつ戻りつの気持ちと行動の中で、ついに僕の大切なものを取り返せた。
 やった~。
 なんともいえないミナギルチカラをじゅわ~っと感じた。

 すべて、体験。

 失敗も体験。
 否、失敗こそ体験。

 誰も手を貸してはいけない。
 他人が侵入しては、自分は形成されない。
 大人が、ダメ!ダメ!と手も口も出しすぎると、子どもは自分が自分でなくなる。
 しつけ・・・・か。



 ママは、耳を貸してあげるだけでいい。

 そう、ママが耳を傾けてあげるだけで、100%勇気!だ。
 
 

 
 

 『いまどきのお母さんは、子どもをきちんとしつけていない』というおばば様たちのお言葉に敏感になりすぎて、やたら叱ってしまうママも結構いる。
 

 二イル選集の問題の親の冒頭に、

 問題の子どもというものは、決していない。
 あるのは、問題の親ばかりだ。

 とある。
 ほんの小さな子どもが、何かが目の前で動いているのに気づく。自分の手である。そのうちに、この新しい発見に対して自分になにかができるということがわかってくる。つまり、動かすことができるのだ。彼の次の願いは、これがいったいどういうものなのかを知ることだ。この発達段階の子どもには、あるものがよい物かどうかを確かめる方法は、一つしかない。
 口である。
 そこで、手を口へ持っていこうとする。ところが、3ヶ月の赤ちゃんにとってそんなにやさしいことではない。
 子どもは、何度も何度もやってみる。しまいには疲れてしまう。それでも、まだ、続ける。この様子を母親がじっと見ている。そして、何度もやっているうちに子どもがいらだってくるのを見て、手を貸してしまう。子どもの手を口へ持っていってやるのだ。とたんに、赤ん坊は足をばたばたさせ、大声をあげる。母親が子のこの神聖な行為を踏みにじったからだ。
 子どもの本来の目的は、自分の手を口に持っていくことであった。しかし、その目的はすぐに消え失せて『手がそこにある』ということに気持ちを変えなくてはいけない。


つづく

母親は知らず知らずのうちに、子どもから創造的な成功の喜びを奪ったのだ。意図的でないにしても、神聖な知的成功よりも物質的な成功を大切にしてしまったわけだ。
 いらだっている子どもを見て、ミルクビンや赤ん坊の心を台無しにするおしゃぶりをくわえさせる。子どもがいらだっているのは、創造的な遊び活動をしたいのに、させてもらえないからだ。こういうことはよく起こる。



 大人にとって、おしゃぶりがありがたいのは、それは赤ん坊が泣くのを防ぐからだ。たいていのしつけは、基本的には、大人が静かに生活できることを目的にしている。だから、子どもはいつも静かにしていなくてはならない。これは、受身的な生き方である。
 子どもは、創造はタブーであることを知らされる。音を立てたり、物を壊したりするからだ。そして、程度の低い行動、つまり所有や受身の行動に目を向けるように強いられる。
 創造活動を抑止されると、子どもは、発達の前段階に属する快楽を求めなくてはならなくなる。退行するのだ。

 問題の子どもは、人に関心をもつ。
 人間(両親)が、子どもの生活における一番大きな要素になってしまったのである。子どもは、人に対して所有的な興味を抱くようになる。結果、家族をみじめにして楽しむ。


 二イルという方は、もう、今は亡き人である。
 1920年代の頃、イギリスにサマーヒルという自由な学校(全寮制)を作った人。そこでは、勉強は、やりたい人だけすればいい。学校や寮のルールは、週1回、子どもたち中心の会議みたいなものがあり、そこで、決められていく。もちろん、スタッフの温かい見守りという愛情の中で、問題に対してみんなが過ごしやすくなるよう民主主義的に会議が進められていく。この学校に入った子どもは、最初は、これ幸いと遊んで暮らすけれど、たいがい、3~6ヶ月もすると遊ぶことにも飽きてきて、自分から授業に出るようになっていく。そして、最終的には、勉強大好きで自分の目的に向かって猛勉強し始めるという。
 日本にも、奈良県ともう1ヶ所に、二イルのサマーヒルのような学校を目指した学校があるときいている。いいなぁ~。



 でもね。最近のお母さんたちって、結構、子どもをのびのび育てたいという価値観を持っている方が多くて、ついほくそえんでしまう。

 先日も、1歳半健診の井戸端会議で、『子育てで困っていて、他のお母さんに聞いてみたいことは?』というお題で、あるママが『ご飯を食べるとき、ちゃんと食べるのは、最初だけで、あとは、ぐちゃぐちゃと遊び始めるんですが、皆さんはどうしていますか?』という質問があった。

 つづく

3人目というママが、「一人目のときは、ぐちゃぐちゃが気になって仕方なかったけれど、不思議と2歳になったらやらなくなった。時期だと思うので、まぁ、こんなもんでしょって感じで今は、好きにやらせている。時期。時期。大丈夫。今だけだから。」「うちも、そうだった。時期だよねぇ~。好きにさせていいと思う。」「うちも・・・」とキャリアママの発言に、一人目の新米ママは、ほっとされる。
 『よかった。我が子だけがそうだと思っていたけど、みんなそうみたい。それも、発達の一段階みたいだから、このままでいいのか。』と・・・。
 こうやって、『びしっとしつけないといけないのかなぁ?それとも、温かく見守っていればいいのかなぁ?』と悩んでいた不安いっぱいママは、一歩づつ肝っ玉母さんへの道を歩いていくのだ。めでたし。めでたし。

 一応、最後に、「まぁ、ある程度時間がたったら、けじめは必要かもしれません。30分とか1時間くらいたったら、下げましょう。それと、自分が疲れていて、子どもがぐちゃぐちゃしているのに耐えられないときは、正直に、『今日はママ疲れているから、もう、やめようね。』と本音を伝えることも大切です。」とは伝えた。

 つづく

 この時期の愛は、とことん体験。

 とことんは、命そのもの。

 とことんやれたら、次の発達段階にいける。
 でも、しつけと称して、あるいは、散らかっている・ギャーギャーいう生活に耐えられなくて、したいことをさせてもらえないと、未練たらたらな気持ちを抱えたまま、年だけとっていく。

 二イルは、未練たらたらな子は、退行して、物を使って遊ぶのではなく、物を所有することに関心を持つと言っている。物を使って創造していくうちに壊す子どもは、順調に発達している。でも、物を集める子、もしくは、物を大切にしているように見える子の中には、創造はタブーであると」しつけられ、仕方なく退行して物に執着してしまった子どももいるかもしれない。

 

 つぎは、『とことん体験』です。
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頭を使うと疲れる・心が動くと疲れない の 法則

2012年05月05日 | エッセー
 育児ストレスがたまってヘトヘトというママって、案外、頭を使っちゃっている人が多いんじゃないかな・・・て思う。
 子を産んだら、否、子を宿したら、頭使っちゃだめ・だめ。
 頭を使って子育てして、子どもが思いどおりにしてくれれば、達成感という“満足”を手にすることができるかもしれない。でも、なんせ、相手は自己主張をお仕事とする世界の住人だ。思いどおりにいくわけがない。というか、思いどおりにさせちゃいけない。
 親の思うとおりに育った子どもは、やがて大人になって、他人の思いどおりになるような自分のない人間になるんだそう。

 自分がないことに虚しさを体感し始めると、もう、大変。うつ病が忍び寄る。

 自己主張のかたまり君とどんだけ楽しくやってゆけるか?という課題は、わりと自分の思いどおりになるお仕事をクリアしていくという課題より崇高なものかもしれないと思う。
 夫と言う存在(結婚)と子どもという存在(育児)は砥石みたいなもだそう。
 夫によって、子どもによって幸せになるのではなく、夫や子どもという砥石に磨かれることによって人間として豊かになっていく・・・・それが、結婚の目的であり、子育ての目的であるって誰かが書いていた。

 前にも書いたけれど、私は、典型的な初代マニュアル人間だと思っている。
 はっきり言って、マニュアル人間って、観察力がないよね。それと、感じる力も弱い。
 だから、相手(赤ちゃん)をよ~く観察して「どうしてほしいのかなぁ。」とあれこれ試行錯誤して研究するということが苦手。
 抱っこ法のS先生は、「人のマネをしているかぎり、我が子を見ていない。」
とおっしゃっていた。ガーン!

 人のマネって育児書とか誰かの言葉とか・・・。
 感じる力が弱いと、育児書を頼り、育児書のとおりにいかないと不安になったり、イライラしたり、一喜一憂したり・・・と心が安定しない。赤ちゃんにとって超いい気分は、ママのどっしりとした安定感というオーラにいだかれること。赤ちゃんの幸せのためにとせっせと育児書を読んでいるのに、心が不安定になってしまったら本末転倒だ。

 ここ4~5年のママたちの子育てに対するストレスは信じられないくらい強くなってきている。20年前の赤ちゃん健診では想像つかないくらい不安でいっぱいママが激増している。
 多分、感性より知性の勝ったママが増えてきたためだと思う。



 つづく

 私もしっかりちゃっかりマニュアル人間。
 で、しっかり育児書に限らずありとあらゆる本を読破した。
 一冊の育児書だったり、ママ友一人・・・・という一人情報だと、どうしても偏ってしまい、そうじゃなかったとき、困惑して育児不安が生じてしまいやすい。
 どうせ、感性より知性が勝っているのなら、よりどりみどりの情報をゲットして、そこから、自分にあっていそうなものをチョイスして、自分なりの育児をしていくと心が楽になるんじゃないかなと思う。

 いろいろ読んでいると、見えてくる世界がある。

 右の端っこの情報と左の端っこの情報をゲットすることが、安心に導く知恵への第一歩だとふと気づく。

 そうすると、直感的にホンモノのニオイをかぎわける力が自然とついてくる・・・し、本物らしき情報が向こうからやってくることも多い気がする。

 ちょっと前の話で、大河ドラマ『篤姫』で、母上役の樋口可南子が、数々の名言を娘の篤姫にプレゼントしていてカッコイイなとしびれたことがあった。
 その一つに、『大事なことを決めるときは、可もなく不可もないような意見だけではなく、こっちの端っことあっちの端っこの意見をよ~く聞いてみて、それから判断しなさい。』みたいな名ゼリフがあった。
 その時、開国派のトップの意見と尊皇攘夷派のトップの意見を真摯に耳傾ける篤姫って素敵だなと感動した記憶がある。篤姫にとっては、尊皇攘夷派は敵対する関係だった思うのだが、あえてそのトップの声をきちんと聞けるその器の大きさにはあっぱれだった。
 私には、果たして反対派の意見をきちんと聞ける力があるだろうか?
 というか、私のことを嫌っている人や私の悪口を言っている人の話をきちんと聞けるだろうか?

 つづく


きっと、聴けないだろうなぁ。
 自分をいじめていた人の話なんて・・・・・。
 
 世の中、、いじめられた人のための本は結構あるけれど、いじめた人の本ってあんまり見たことないなぁ。
 いじめる人ってわがままに生きているから、ストレスたまんないよね。だから、悲しいかな。結構楽しんで人生を謳歌している。でも、いじめられる人って、生きるのが苦しいから、『人生とは・・・・』なんてことを必然として考えてしまうもの。だからかなぁ~。だいたい、いじめる人って、いじめているという感覚がないことが多い。自分は正しいことを言っていると思い込んでいる。だから、あっけらかんとしていられる。一方、いじめられる人は、自分に自信がない分、自分の言うことが正しいときっぱりと言えない。というか、世の中に、正しいということはないんじゃないかとうすうす気づいているから、『あなたは間違っている。』なんて
とてもとても言えない。金子みすずみたいな世界観を持っている。『みんな違ってみんないい』みたいな・・・・。 

 と私が思っているから、聴けないだろうなぁ。

 ってことは、私自身が、『みんな違ってみんないい。』と心底思っていないという証拠・・・か。
 そう。『みんな違ってみんないい。』と思っている人たちの意見には耳を傾けられても、『私が正しい。あなたは、間違っている』という思考の持ち主グループの意見には、素直に耳を傾けられない。

 いつか、そんな人の話も、手の平の上で転がすように、「あ~、こんな考えのある人もいるのね。」と冷静に、過去の仕打ちに心揺れることなく聞けるようになれたらいいなぁと憧れる。いつか・・。いつのことになるやら・・。

 
 ところで、一つのジャンルでホンモノを見つけると、不思議なことに、他のジャンルでホンモノと思うもの同士もどこかでつながっていることに気づく。芋づるみたいに。


 長男が、1歳半の頃、しつけについてわからなくなったときがある。
 しつけとわがままの境界線の判断に頭を使ってしまったので、いちいち『ここでは、叱った方がいいのか。』『この場合は、わがままではない。のびのびとその子らしさを発揮しているのだから、見守ってあげていいのだろうか。』『ここは、叱らないと他人の目が気になる。でも、こんな楽しそうにしているのに中断させたらかわいそう。』などなど・・・。
 子どもをのびのび育てたいという思いが強いからこそ、戸惑った。

 そのときに、図書館で『問題の子どもは問題の親がつくる。』という本に出会った。その本に、二イル選集のことが書いてあった。さっそく、図書館で探すと二イル選集の中の『問題の親』『問題の子ども』『問題の先生』などの本があり、一気に読んだ。
 目からうろこ。
 この本との出会いが、育児のホンモノ本との出会いだった。
 


つづく

要は、相手を(我が子を)一人の人間として尊重するというスタンスがあるかどうか?問われるのはそのことだけ。
  
 1歳半だろうが、9歳だろうが、20歳だろうが何歳だろうが、スタンスは変わらない。
 抱っこ法を体験すると、生まれたての赤ちゃんでも、そこにマジでわかりあいたい伝え合いたいという気持ちさえあれば、そこに、尊重されるという世界が生まれるということを実感できる。
 しつけってどこか、上から目線って感じしない?
 1歳半の子どもにしつけって必要なのだろうか・・・。

 しつけに悩んでいる人がいたら、二イル選集の『問題の子ども』と『問題の親』を読んでほしい。
 そこから、子どもの可能性のすごさと子どもを信じきれる確固たるものにきっと出会えると思う。そして、きっとしつけに対する自分なりの価値観が明確になっていくと思う。
 マニュアル人間が、我が子をできるだけ感性豊かな子に育てたいと願うなら、先輩の知恵を本から吸収するのはそう悪くはない。だって、自分たちは、母親から感性豊かに育ててもらっていないもの。しかたないよ。


 つぎは、『わがままとしつけの境界線 』 です。
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反省!チョコチョコ・フォアグラおっぱい

2012年05月01日 | エッセー
 今まで、おっぱい足りないかな症候群にかかったママたちへのラブコールをいろいろ書いてきた。育児書に書いていないであろうおっぱいにまつわる私の苦い体験が、少しは役に立ってもらえたらいいなと思っている。
 『おっぱい足りないかもという不安』と『泣く赤ちゃん』は織物の縦糸と横糸のように複雑に絡まって、ママの心をより一層不安にさせていく。その、絡まった糸を私の体験を知ることで少しでも、解いていくお手伝いができたら・・・。

 実は、長男のときのおっぱいが出なくなった理由ナンバー1は、カロリーオーバーだった。
 出ないと思うから、チョコチョコ吸わせていたら、チョコチョコおっぱい癖がついてしまった。おかげで、2人目3人目もわりとチョコチョコ吸わせていた。
 「一日何回おっぱいを飲ませますか?」という質問に、いつも「チョコチョコ」と答えていた。
 本当は、お腹がすいていないのに、泣けばおっぱいを吸わせていた張本人が、実は、わ・た・し・・・・だったのだ。
 偉そうなことは、何も言えない。
 
 おまけに、夫は赤ちゃんが泣くことを嫌った。

 今、思えば、随分と残酷なことをしていた・・・。

 泣いてスッキリしたいだけなのに、泣くとすぐおっぱいをくわえさせていた。
 「泣きたいよ~。」とぐずるときは、「僕は僕でありたいよ~。」という時。
 なのに、「泣いちゃダメよ。」と口封じして、「あなたはあなたであるな!」「あなたがあなたらしくあることはダメ!」=「泣く(本音を言う)あなたはNO!」と泣いておっぱいをくわえさせるたびにわが子を否定していた。

 オー、マイ、ガッド!

 3人目の育児休暇後、職場復帰したとき、たまたま専門誌に日本抱っこ法協会の安部秀雄先生の『抱っこ法』についての特集があり、衝撃を受けた。
 エ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!

 知らなかった。

 赤ちゃんって、泣いてすっきりしたい存在なんだ。

 本当に、初耳だった。

 そして、わたしは、子どもたちにある種虐待まがいのことをしてきたのだとその時、初めて知った。脳天をガ~ンと一発殴られたようなショックと哀しみと後悔が私を襲った。

 まるで『フォアグラおっぱい』じゃん、わたしのおっぱい。

 あれほど、おっぱいに関するありとあらゆる本を読破して、いいおっぱいを飲ませようとしてきたのに、そんなこと一言も書いてなかったよ~。
 慌てて、自分なりに『抱っこ法』の本を何冊か買って読んでみた。実際、どんな風にしたらいいのかイメージがさっぱりわかなかったのでビデオも買って観てみた。

 そして、やってみた。

 だけど、今まで、そんなに大泣きさせたことがないので、狂わんばかりに大泣きされると、どうしてよいかわからなくなって途中で挫折。

 仕方がない。

 本の後ろに書いてある著者に勇気を出して電話してみた。セラピストが近くにいないか紹介していただくために。

 そして、なんと、九州で二人しかいらっしゃらないということがわかった。
 近いほうのセラピストも我が家から車で3時間はかかるけれど、背に腹は変えられない。

 つづく

 スッキリするまで泣かせてあげることの体験と、三男が1歳半になったので、そろそろ卒乳をしたかったので、きちんとお話し合いをしておっぱいを卒業させてあげたい、赤ちゃんからお兄ちゃんになる卒業式をきちんとさせてあげたいと思って、セラピストを訪ねることにした。

 6歳と3歳と1歳半の息子たちと母と5人で、いざ、出発。
 3時間かけてついたセラピストのカウンセリングルームは、木の香りのする素敵なアパートだった。

 3人の息子たちは、そこに置いてある木の香りのするおもちゃで楽しそうに遊び始めた。
 その隣の部屋で、私が『実は、・・・・・』と話始めると、三男が、突然、おろろ~んと畳に伏せて泣き崩れたのだ。

 あんなに楽しそうに木製の機関車出遊んでいたのに、『聞いていたのかよ!』ってびっくりするとともに、私の、『実は』話にうなづく気持ちを抱えていたのだと思うと、不憫で不憫で申し訳なかった。

 知らなかったとはいえ、心の底から、『ごめんね。』という気持ちがあふれ出してきて、すまない気持ちでいっぱいだった。

 「実は、仕事に復帰して、阿部秀雄先生の抱っこ法の記事を読んで、泣けばすぐにおっぱいを飲ませていた私は、随分と子どもたちに本音を言ってはいけないというメッセージを送っていたんだという事に気づいたんです。悔やんでも仕方ないので、抱っこ法の本を読んで、ビデオまで買って自分なりにチャレンジしたんですけど、何せ、あんまり泣かしたことがなかったもので、張り裂けんばかりに泣いて、15分くらいたっても泣き止まないとどうしてよいかわからずお伺いしました。」と話し始めたところで、三男が泣き崩れた。
 1歳半で泣崩れる姿想像できますか?
 ショック・・・・でした。

 先生のお部屋は、本音が出やすい空気を醸し出しているとしかいいようがない何かがあったのだと思う。

 そのまま、抱っこ法のセラピーが始まった。

 私が、三男を横抱きにして、先生が膝を抱いて・・・。
 先生は、ずっと「泣いてスッキリしたかったけど、泣いたらおっぱいで言いたいことが言えなくてつらかったねぇ~。」「がんばっていたねぇ~。」「言いたいことが言えなくてつらかったねぇ~。」「思いっきり泣けなくてつらかったねぇ~。」と語りかけてくださった。40分ほどだっただろうか。ひたすら、ずっと・・・。ずっとだよ。40分くらい心を込めて、ひたすら、「つらかったねぇ。泣きたかったよね。」
 そんな風に三男に語りかけながら、抱きしめてくださっていた。

 三男は、最初、必死に抵抗していた。手をばたばた、足をばたばたさせて。それをまあるく抱きしめてあげながら、最後まで(スッキリするまで)ずっと語りかけてもらいながら、泣けるという至福のときをへて、最後は、うっとりする目で私をみつめていた。ほんと、うっとりした目ってそれはそれはたまらない。また、みたくなる。
 わたしも、涙が止まらなかった。
 あ~、知らなかったとはいえ、泣きたいのに泣かせてあげられなかったという思いがじ~んと溢れてきて、涙・涙・・・だった。

 抱っこ法って、子どもだけが泣いてスッキリするから幸せという単純な世界ではない。抱っこしている母親が、子どもの必死の抵抗から本気の泣きに変わっていく姿をダイレクトに感じる体験をとおして、いろんな思いが溢れてきて思わず、涙したその瞬間、二人は結ばれるという劇的な、なんだろう、魂と魂が通じ合うとでもいうのだろうか、ハートをわしづかみにするとでもいうのだろうか・・・・そんな鳥肌の立つような恍惚とした幸せを感じることができる。つまり、母親の愛情が、赤ちゃんの胸にず~んと伝わるのだ。その涙した母親から、慈愛というものを赤ちゃんは感じる。
 ちょっとキザだけど、真実の愛・・・・みたいな。

 つづく

 そう。だから、抱っこ法ってまた、やりたくなる、そんな魅力をもっている。

 もし、抱っこ法のセッションをして、母親の目に涙が浮かばないようなら、母親には子どもの心の叫びは届いていないってことになる。子どもは、それなりに、泣いた分だけはすっきりするけれど、それ以上でもそれ以下でもない。

 元々、わざわざ3時間かけて来た一番の目的は、きちんと三男と話し合って三男とのおっぱい卒乳をトラウマにならないようにしたかったから。本当は、もう少し、飲ませてあげたい気持ちもあったけれど、2泊3日の出張が入ったので、急遽、きちんと話し合って卒乳する必然が出てきた。慌てて、自分なりにチャレンジしたけど、挫折したため、ここに来たのだ。
 「あのね。あなたも1歳半になったのでお兄ちゃんになってほしい。おっぱいは赤ちゃんが飲むものだから、おっぱいバイバイして、がんばってお兄ちゃんになろうね。」とお話し合いを始めたら、泣き始めた。「つらいよねぇ。まだ、赤ちゃんでいたいよねぇ。でも、お兄ちゃんになろうね。おっぱいはバイバイしようね。がんばってお兄ちゃんになろうね。」とずっと話しかけてスッキリするまで泣かせてあげた。
 

 三男の次は、次男のセッションをしてもらった。
 次男は、もう3歳。体も大きいほうなので、先生と二人がかりで、必死で抱きしめながらの抱っことなった。
 そりゃもう、彼も必死の抵抗だ。3歳なので、私の髪を引っ張ったり、噛んだり、叩いたり、それはそれは抵抗した。私も負けじと抱きしめる。そう、抱きしめる。まあるく。決して、羽交い絞めにするのではない。身動きできないようギューっと力を入れながらも、取り押さえるというオーラではなく、まあるく抱きしめるというオーラで、彼を抱っこした。
 ついに、彼は唾をペッと吐いた。
 そりゃそうだ。最後の必死の抵抗の証が身動きできない彼にとってはペッだったのだ。
 でも、最後に、彼の口から出た言葉に、私は、思わず鳥肌が立った。私だけではなく、いっしょに付いてきてくれた母も涙した。
 彼は、「お母さん、神様ってどこにいるの?」と聞いてきたのだ。うっとりしたまなざしで・・・。

 

 次は、長男の番だ。
 長男は、実は、この日の朝から37度5分の熱があって、少し、きつそうであった。
 けれど、次男と三男のセッションをまじかで見ていて、何かを感じたのだろう。
 「今日は、お熱があるからどうする?」と聞くと
 「僕もする。」

 でも、彼は、もう6歳だ。
 しかも、熱が出て体力がない。

 だから、何となく泣くことにも力が入らず、スッキリしない抱っこになってしまった。

 つづく

この日の体験をとおして、私は、赤ちゃんが泣いても平気な肝っ玉母さんに大変身できた。

 平気って言っても無視する“平気”ではなく、うろたえることのない懐の大きい“平気”だよ。

 抱っこしてもこれ以上泣くことはないという体験は、すごい。
 みんなも一度してみたら、子育てにものすごく自信がつくよ。

 ママには自信を、そして、子どもには「僕が何をやってもママは見捨てない。」という安心感をプレゼントしてくれる抱っこ法って最高!

 そりゃ、そうだよね。唾を吐いても、噛み付いても、もがいても、蹴っても、噛んでも、ママは、めげないで抱きしめてくれたんだもの。そりゃぁ、そりゃぁ、至福の喜びだよ。

 抱っこ法って、元々は、アメリカの大学の○○教授が、自閉症児の発達支援プログラムとして開発したセッション。自閉症児は、どちらかというと喜怒哀楽を感じてはいるんだけれど、それを認知する力と表現する力が弱く、結果的にコミュニケーションがうまくいかない。そのため、相手に自分の言いたいことや気持ちがうまく伝わらないことも多く、もやもやした気持ちも募りやすくなる。結果、アドレナリンなどの攻撃ホルモンの分泌が高まる。それを発散するために動き回る(多動・落ち着きがないという行動)など問題と思える行動をとりがちになる。 

 それを、抱っこ法で、発散してあげて、気持ちをわかろうと勤めながらずっと語りかけてあげることで、とっても心がすっきりしていくのだ。すっきりすると多動などの問題行動はもちろんなくなり、コミュニケーションがとりやすくなるので、自閉症児の育児は随分と幸せなものとなる。

 抱っこ法のセッションは、ママに、妊娠してからの物語を語ってもらうことから始まる。うれしかったことだけでなく、つらかったことや悲しかったこと、腹が立ったことなど全てを語ってもらっていくと、抱いている赤ちゃんが大泣きをし始める“時”がくる。「そうだよ。そこだよ。それがつらかったんだよ。そこをママがお話してくれて、いっしょに泣けたら、私もスッキリするの。」って感じで、大泣きし始める。びっくりするくらい。

 「産後、別室だった。」「産もうか産むまいか悩んだ。」「結婚しようかどうか悩んだ。」「切迫流産だった。」「お産が大変だった。」「逆子だった。」「お臍が巻いていた。」「女の子がよかったのに男の子でがっかりした。」などなど。

 人生、100%の幸せなんてそうそう・・・・ない。
 妊娠・出産も理想どおりには行かないもの・・・・。それも人生・・・。

 何かトラブルがあるのが問題なのではないんじゃないかなと思う。
 赤ちゃんとのことであれば、そのトラブルをきちんと受け止めて、「いろいろあるけれど、ママといっしょにがんばっていこう。」と励ましあって生きてゆく・・・それが大事なんじゃないかと思う。だから、スルーが一番いけない。

 いろいろあるよ。ほんとに。

 隣の芝生は青く見えるものだけれど、やっぱり、ひとそれぞれ。


 つぎは、『頭を使うと疲れる。心が動くと疲れないの法則』です。

 

 
 
 

 
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