総合漢方にんぷ薬・総合漢方育児薬

~頭を使ってではなく、カラダ(感性)で子育てしてみませんか~

児童書『聖書物語』から学ぶクリスマスイヴ

2012年12月29日 | エッセー
 クリスマスも過ぎた。
 50年。
ず~っと、よくわからないままクリスマスイヴというお祭りに一応参加してきた人生。
 四男は、95%サンタさんがプレゼントを持ってきてくださると信じているようだ。
 夏の頃から、スーパーにいくたびに、ほね骨ザウルスを指さして、空に向かって『サンタさん、このほねほねザウルスの大きい箱4箱入り1セットと小さい箱8箱入り1セットをください。』と叫んでいた。おかげで、イヴの日の夜7時、こっそり家を抜け出して、近所のスーパーをあっちこっち探し回って苦労した。だって、セット全部そろってなんかいないんだもの。
 私はというと、サンタさんが持ってくるなんて微塵も信じていなかった。物心ついた時から、母親が靴下に、りんごとかグリコのキャラメルなどを詰めて枕元に置いてくれると知っていた。冷めていた。そして、子ども心にも、日本は仏教なのにどうして信じてもいないキリスト教の誕生前夜祭をするのだろうかと訝しげに思っていた。

 そういう意味では、おませさんだった。

 親に聞いても、何にも答えてくれないし、聖書を読もうとしても最初の2~3ページで挫折してしまい、よくわからないまま生きてきた。

 

つづく


 絵本の読み聞かせというのは、結構、ありがたい。
 私一人だったら、決して読むことのなかったであろう本を音読で読ませていただけるんだもの。

 聖書もそう。

 児童書でこの50年、旧約聖書と新約聖書の違いもよくわからないし、もちろん、全体のストーリーもほとんどわからなかった私が、キリストが、マリアを母として馬小屋で生まれ、大人になって、願うだけで病気が治ったり、貧しい人にお金が与えられたり・・・という不思議な力を持ち、教えを説いて遊説の旅をしていくなかで、ねたみを買い十字架にかけられる・・・・くらいの知識しかなかった私が、ほんの少しだけ賢くなった。

 アダムとイヴの物語が、どのようにキリストにつながっていくのかさっぱりわからなかったけれど、一応、つながった。

 そして、何よりの学びは、キリストの五つの教えをきちんと認識できたことだ。

 1、人の悪口は言ってはなりません。
 2、つまらない誓いをたててはなりません。
 3、『はい』なら『はい』、『いいえ』なら、はっきり『いいえ』といいなさい。
 4、あなたたちは、敵となる人も、愛しなさい。
 5、自分にしてもらいたいと思うことを、人にもしてあげなさい。

 特に3の、『はい』なら『はい』、『いいえ』ならはっきり『いいえ』と言いなさい・・・・には、ドキッとした。
 知らなかった。
 キリスト教といえば、4の『なんじの敵を愛しなさい』が定番で、まさか、まさか、自分をきちんと表明しなさいも定番であるとは・・・・・。意外だった。でも、さすが、キリストと感動した。
 小2の頃、キリスト教について疑問を抱いて親に質問した時、せめて、この五つの教えだけでも伝えてもらえていたら、私は、もう少し、自分を大切に生きることができたのかもしれない。

 『はい』なら『はい』と、『いいえ』なら『いいえ』とはっきり言いいなさい。

 キリストの教えを信じている人たちにとって、この教えは、当たり前であり、カラダに沁みついているのだろうか。
 羨ましい。
 小さい頃から、一人一人が、『はい』『いいえ』をはっきり表明するのが自然な育ちをしていると、『いいえ』と言ったら傷つかないだろうか・・・とか、逆に、『いいえ』と言われて心が萎えるということも少ないだろうから、生きるのが楽チンだろうなぁ~。いいなぁ~。
 もう、傷ついたり、萎えたりしっぱなしの人生だったもの。

 自分がかわいくて、これ以上、傷つきたくなくって、『いいえ』をはっきり言えないいだけの『優しさ偽善の術』で生きてきた。
 でも、小さい頃より、当たり前のように、『いいえ』の交流のある世界の住人であったなら、『いいえ』が『私』の領域まで侵入せず、したがって、ココロが萎えることもなく、ただ、『あ~、この人は、私と違う○○な価値観を持っている人なのね。』と、つまり、『私は、桔梗が好きだけど、あの人は、バラが好きなのね。』と同じ感覚で、自分と違う価値観の人を認められる人間になれるのだと思う。
 それって、ものすごく、ものすごく、ものすごく、超大切な生きる力。
 生きるのが、とっても楽だよ。
 許せる許容範囲が広い・・・・から、少々なことでは、カッカしないはず。

 キリスト教徒は、生きるのが楽なのかなぁ。羨ましいなぁ。

つづく

一応、クリスマスプレゼントを四男の枕元にそっと置いたけれど、キリスト教をちっとも信じていない、よくわかりもしないのに、まねごとをしてしまう私ってや~ねって感じだ。胸くそ悪いってこういうことを言うのだろうか。
 そして、もうすぐお正月。お年玉ってやつもある。
 神様は、こんな私たちを見ていてどんな気持ちなんだろう。
 いい子にしていたら、サンタさんが来るよ・・・とか、いい子にしていたらお年玉をもらえるよ・・・・・とか。
 いい子って何だろう?

 大人にとって都合のいい素直な子・・・だよね、きっと。
 『はい』『いいえ』をはっきり言う子・・・じゃないかも。


 山の上の教え


 あなたがた、まずしい人はさいわいです。
 神の国は、あなたがたのものですから。
 あなたがた、いま悲しんでいる人たちは、さいわいです。
 やがて笑うようになるからです。
 一生懸命正しいことを求める人は、さいわいです。
 やがて満たされるでしょう。
 心の清い人はしあわせです。
 やがて神様をみることができるでしょう。
 平和のために働く人は、さいわいです。
 神様の子と呼ばれるでしょう。
 正しいことをしているのに、人からいじめられ、のけものにされ、悪口を言われている貧しい人は、さいわいです。
 天の国は、そういう人たちに開かれているのですから。
 けれども、富む人たちは災いです。
 そのひとはすでに慰められているからです。


 

 
 つづく

 


 











私が来たのは、自分を正しいとうぬぼれている人にではなく、自分のことを正しい心で悔い改めようとしている人たちです。』
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困らせる人は、先生だそうです。

2012年12月26日 | エッセー
 あなたを苦しめ、あなたをなぶり、あなたを混乱させ、あなたを困らせる人は、みんな、あなたの先生です。
 彼らが賢いからではなく、あなたが賢くなりたいと思っているからです。

 と最近読んだ本に書いてあった。

 え~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~。

 つづく

 確かに、人として寛容でありたい・・と願ってきたけれど・・・・・。
 去年、胃がんとわかる前の頃、神様は、これ以上、私に試練をお与えはならないだろう・・・・とマジ、思っていた。それくらい、試練続きであった。なのになのに、去年の夏に胃がんと宣告され、胃を切る羽目になったとき、いくらなんでも、もう、もう、マジ、これ以上、試練はお与えにならないはずと思った。
 が、しかし、四男のことで、校長室から強力な磁石が我が家に向けて発せられ、挙句の果てに例の事件。
 そして、最大の大打撃は、夫という存在。

 夫に関しては、もう、これは笑ってごまかすしかないというほど、たぶん、くじ運が悪い。

 結婚してからというもの、自分でいうのもなんだが、悲劇のヒロインかと錯覚してしまうほど、私は幸せからは遠い世界の住人だった。今までは、それを、しょうもない夫のせいだとしていた。実際、まぁ、そうなんだけれど、本日から、夫を私の先生だと思い、賢くなるぞ!
 どうやって、賢くなるか・・・・。
 私は、私の夢を実現させるべく、閃きに向かってアクションを起こすことにした。
 夫は、夫で、しょうもないけれど、夫なりに精いっぱい生きている。
 それは、それで、事実である。
 世間一般から言えば、全然、父親として夫としての責任を果たしているとは思えないけれど、もういいや。
 夫は、きっと、夫なりの人生の課題と向き合っているのだ。
 最低限、夫としてこうあるべき、父親としてこうあるべき・・という概念を、本日、私は、捨てます。夫は、夫で勝手にしてください。もう、夫のことで、私の大事なハートがじくじくなるのはごめんです。夫として、父親として、せめて、これくらいのことはしてほしいと訴えるくらいいいような気もするけれど・・・・。


 私は、この困った夫を、私が賢く(寛容になりたい)なりたいと思ているから、神様がよこしてくれた先生なのだと腹を据えて受け入れる覚悟を決めた。

 もう、惑わされないぞ!
 と宣言した瞬間から、目の前をウロウロされると、心が揺れるし、疼くし、マイナスの感情が脳裏を駆け巡る。
 弱いな、私。

 私は、人からこうあるべきだと強要されたら、窒息してしまうと思う。
 なのになのに、私は、夫にこうあるべきだ(一家の大黒柱として稼ぐべきだ。あるいは、共働きなんだから家事はそこそこしてもらってもいいはずだ。)という概念で夫に強要している。稼がない夫、共働きなのに洗濯物を干してごみを出す以外は何もしない夫を無視できず、悶々としている。理想の夫なんて微塵も望んでいないけれど、今の夫は、そりゃないだろうレベル。せめて、これくらいは・・・と求めてしまう。
 私が、こうあるべきだという概念をあっさり捨てて、あてにせず、じゃあ、『私がやる』ときっぱり断言できたらいいのだけれど、すっぱりあきらめきれたらいいのだけれど、あと一息。

 たぶん、本気であきらめきれたら、全てが変わるんじゃないだろうか、何かがいい循環で動き出すんじゃなかろうかという予感がする。予感がするんだけれど、一切の未練もなく夫を夫として父親としてあてにしないという心境までなるには、もう一歩。それが、難しい。

 不妊症の治療をしていて、5年も10年も頑張ったけれどできなくて、もう、ほんとうに心底あきらめて、夫婦二人用の家を建てたとか自分の趣味に打ち込んでいたら、授かったという女性は多い。

 心底あきらめて、もういいやと悟ったとき、カラダがココロから解放されて、ストレスがなくなり、自由にのびやかになり、その結果、ホルモンのバランスがよくなって妊娠するのかなぁ。

 私も、夫に対して、夫として父親として・・・なんてもうどうでもいいやとあきらめて、心底、当てにせず、期待しないから何もしてくれなくて心がざわめかなくなり、ココロがのびやかになり、その結果、何かいいことが起きそうな予感はするのだ。

 あ~~~~。あと、一歩。あと、一歩なんだけどなぁ~。

 つづく

ふっきれる・・・・。

 そう、ふっきれた時、何かが動き始める。 
 そんな気がする。

 『こだわりを捨てる』という本をひろさちやさんが出されている。
 こだわりか~~~~。
 そうかもねぇ。
 こだわりが、諸悪の根源なのかもねぇ。
 こだわるから、悩む。
 他人が関わること(つまり、他人が自分の思うとおりにならないこと)にこだわるのをやめて、ただただ、自分の夢にこだわる(焦点を当てる)。

 他人は他人で、その人の価値観に照らし合わせればせいいっぱい生きているはずなのに、自分の価値観と合わないと、そのせいいっぱいを受け入れられず、なぜだか、自分がまっとうで、相手がおかしいという感覚に陥ってしまうのは、なぜ?

 他人の価値観を押し付けられることは、束縛されることと同じなので、それは不幸なことだけれど、ただ、自分と違う価値観の人と暮らしているというだけでなんだかイライラしたり不愉快になったりするのは、不幸ではなく、きっと、人間的に器がちっちぇ~・・・・んだと思う。

 神様は、お試しになっているのだろうか。
 かなり、想定外な夫と暮らす羽目になって、さぁ、どんだけ心が穏やかでいられる?っていう感じで、問われているような気がしてならない。そうでないと、天から災難がこんなに降ってくるわけがない。

 事実、最近、少々の災難には、ちっとも動じない自分がいて、すごいなと自画自賛しちゃったりしている。

 想定外に慣れてきた。

 いいぞ。いいぞ。その調子。あともう一息で、夫の価値観へのこだわりからさよならできる。
 つまり、幸せになれる(はず)。
 グッドバイ!こだわり。

 つづく

 

 
 
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『できないことで落ち込む』に慣れよう

2012年12月10日 | エッセー
 今の教育に一番必要なのは、できないことそれ自体は、へっちゃらというのびのびした他人の目線のない空気の中で、できたら自分がうれしいという感覚になれるような授業展開だと思う。四男もできない、あるいは、できそうにないことを人前でやらなくてはならないという事態が生じると、『しない』となって、非常に困る。他の子は、できるようになろうとして必死に頑張るのに、四男は、恥をかきたくないのだろう、頑なに断固『しない』という選択をする。
 先日も、参観日で、大縄跳びがあった。縄跳びを回す先生の距離が縮まったら難度が上がる。四男は、どうもタイミングが合わず、毎回、縄がひっかかってしまい、4回目のトライで失敗してしまったとたん、『しない』を選択してしまった。先生は、知ってか知らずしてか、四男のことはおかまいなしに他の生徒たちとせっせと大縄跳びにいそしんでいた。四男は、ふてくされた様子でしゃがんでいる。途中、仲のいいお友達がやってきたけど、本人も、保護者の前で、もうこれ以上恥をかきたくなかったのだろう、結局、最後までしゃがんでいた。
 親としては、『頑張れよ。』と言いたくもなったが、大勢の保護者の前でもうこれ以上恥はかきたくないだろうとも思い、彼の切なく苦しい心境を察すると胸がキュンとした。
 タイミングをとれないということは、運動神経がイマイチなのだろう。
 ただ、一つ、もしかしたらそれも関係あるかもと思い当たる節もあり、先生に伝えてみたけど、即、却下だった。


 つづく

四男は、小学校に入るころまで、この子は右利きだろうか?それとも左利きだろうかとずっとわからなかった。お箸やハサミや鉛筆は左手で持つので左利きだろうと思うのだけれど、スポーツをするときの踏み足は右だし、野球のバットも右手で持つ。右か左かはっきりしない感じがずっとしていた。
 だからと言っては言い訳がましいけれど、右か左か定まっていないカラダだから、タイミングをうまくとれずに、大縄飛びに飛び込むタイミングをとれずに、ひっかっかってしまうのではないかと、つい思ってしまって、それを先生に伝えてみたのだ。

 『できないこで落ち込む』に慣れよう。
 確かに、四男は、できないことに落ち込むことに慣れているかもしれないけれど、下手をすると苦手意識と恥ずかしい気持ちの増幅により、できないことのマイナス面を増強してしまう可能性もあるので・・。


 つづく

心配。

 と思っていたら、今日は、またまたダメ押しのように、二者面談で担任に想定外のことを言われてしまった。

 「あなたのお子さんは、落ち着きのない子です。正直言って、あなたのお子さんにより授業が滞ることもあり、困っています。」

 私は、四男が生まれてこのかた、落ち着きのない子だと思ったことは一度もない。というより、むしろ、集中力のある子だと思っていた。といっても、保育園までの話だけれど・・・。2センチ四方に細かくペンで絵を描くのが大好きで、その集中力には感動していた。
 要するに、自分のしたいことや興味のあること(つまり、遊ぶこと)には、誰にも負けないくらいの集中力を発揮する。しかし、それは、裏を返せば、自分のしたくないこと(お勉強・・とくに、地道に覚えようと努力しなければならない読み書き)には、とことん、しないという選択をしてしまうということになる。やりたくない束縛だらけの空間に(つまり、教室に)7時間も拘束されてごらん。苦しくなるよね。だから、自分の世界に入っていく。その結果、授業中、先生の話はあえて聞かない。その結果、手遊びをする。空想にふける(つまり、ぼ~っとしている)。そして、最近は、離席するようになった・・・・らしい。もう一人、離席の先輩がいるので平気な気持ちで席を立つようになったのだと思う。

 その姿を見て、先生からすれば、四男は、胸を張って何の迷いもなく”落ち着きのない子”と自信を持っておっしゃるのだ。
 私が、いくら、それは、ほんとうの落ち着きのない子とは違うのではないでしょうか?と訴えても、聴く耳を持ってくださらなかった。


 つづく

 そして、こうおっしゃた。
 「正直に申し上げて、○○くんは、テストの成績はこの学年で一番最後です。国語が、特に、漢字が書けないのが心配です。ひらがなもかけない時もあります。どうでしょうか。○○くんは、今の状況だと全然授業を聞こうとしないので(授業に参加していないので)難しいと思います。私も○○くんに合わせていくわけにはいきません。無理です。でも、○○くんは、1対1だとできる力があるので、3年生になったら、国語だけは特別支援クラスで授業を受けるという形にした方がいいように思うのですが・・・・・。」

 え~~~~~~~~~~~~~~~~。特別支援クラス~~~~~~~~~~!!!!!

 と内心、びっくり。
 でも、5秒後に、その方が彼のためにはいいかも・・・とありがたい気持ちにもなった。
 マンツーマンで個人レッスンしてくださるというのだから・・・・。ちょっとショックだけど、物は考えようだ。ありがたいじゃん。
 
 四男は、学校というシステムに全然同化しようとしていない。
 でも、今の日本では、彼の居場所は学校しかないのだ。今の学校をいうシステムの中で学力を身に着けていくしかないのだ。どうにかして、それなりに同化し、それなりに最低限の学力は身に着けていってもらうしかない。

 つづく

担任の先生は、正直言って迷惑と言いたげな余韻を響かせながら、こうおっしゃった。子どもたち全体の学力をつけてあげたいのに、四男のせいでそれができいない。四男にかまっていたら他の子の授業の弊害になるというような冷たい視線を、親としては感じた。親がもっと叱りしてもらわないと困るというようなやや批判的な視線をチクリと感じた。

 私は私で一生懸命やっているんですけどねぇ。この四男ときたら、ほんとうに扱いにくい子なんだもの。やる気モードになるまでに相当な時間を要するし、先生は先生で宿題をドバっと相手かまわず出されるし・・・・。もう少し、相手によって宿題の量を調整してくだされば、四男のやる気モードも短時間でウォーミングアップされるのに・・・・・。そこらへんのところを訴えても耳を貸そうとしてくださらない。こりゃ、ダメだ…と思った。

 それで、先日の講演会で右脳左脳のお話をされた澤口教授を師とする支援学校の先生に、家庭での対応の仕方などのコツをお聞きしたいと相談すると、「それもいいかもしれませんが、直接はダメです。児童相談所に相談してきちんとしたルートにのっとってください。」とおっしゃった。
 校長先生が、ぜひにということで、先の講演会が実現されたという。四男の先生は、一番前の席でその話を聞いていらした。ときどき、こっくりこっくりと頭で舟をこいでいたけれど・・・。あの右脳左脳のお話は、この担任の先生にはどう聞こえたのだろうか?まさにまさに、四男のような子どもへの対応の仕方をちょこっと変えるだけで、成績もぐ~ンと伸びる話だったのではなかろうか。自分のクラスに自分にとって非常に困った扱いにくい子どもがいる。どうにかしたい。と思えば、その先生のお話をもっと詳しく聞いて、四男に試してみようという風には思われないのだろうか?

 先生との面談は、先生から、『私は彼を見捨てました。』という最後通告だった。


 つづく

親は親なりに精いっぱいやっているのに、先生から『お宅のお子さんにはほとほと困っています。』と言われたら、親はどうしたらよいのだろう。せめて、アドバイスくらいしてほしいし、そんな気になる子についての対応の仕方についてのノウハウを学ぼうという気持ちでいてほしいものだ。わかるよ。わかる。うちの子だけが生徒ではないし、時間は限られているっていうのは。でも、それならそれで、ゆっくり対応する余裕がないので、対応の仕方について私も学んでお伝えしますので協力をお願いします・・・などなど、言ってくださればありがたいのに、私が、仮面落ち着きのない子だと訴えても、聴く耳を持たず、私が持っていて先生が知らない四男の情報についてちっとも興味を持ってくださらなかった。何が残念かって、それが一番残念だった。
 自分の情報が一番だという過信は、怖いなと思った。
 あ~~~、この先生は、人間には興味ないんだろうなぁ。仕方ない。

 もっと、人間に興味のある先生に出逢えますように。

 つづく  
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グリム童話の原本効果~大・大・大~

2012年12月02日 | エッセー
 昨日、今日、いろいろなことがあった。
 四男に関しては、毎週一つずアンビリーバブルな出来事に遭遇していることになる。
 それにしても、厄年?って言いたくなるほどの出来事が、まぁ、次々と出てくる、出てくる。
 夫との結婚でも、かなりの未知との遭遇であったが、去年、私が胃がんになってから、一段と「これでもか。」「これでもか。」と嵐のように、普通だったらたぶん“不幸”と称される出来事に遭遇している。そして、ここにきて、四男関連事件の続発だ。
 そして、そして、今回は、もうこれ以上辛いことはないのではないかというくらいの出来事に遭遇した。
 ただ、私って、未知との遭遇慣れしているのだろうか・・・・。恐れ戦き不安で眠れないほどの動揺は、不思議としていない。

 まだ、今回の事件についてはお話しできないけれど、前回の、ダイヤモンド万引き事件よりはるかに深刻な出来事だった。

 そして、改めて、この世を生きていくためには、その人に合った試練は必須だということ。風邪にそこそこかかることで免疫をつけて、大きな風邪にもめげない強い免疫力を身に着けるのと同じように、そこそこの試練に耐えぬいていくことで、大きな試練にも果敢に挑める(挑みたくなんかないけれど、逃げられないのなら向き合うしかないもんね。)力が身についていく・・・みたいな。
 今回のわが子の反応を見ていて実感した。
 
 そして、試練に耐えうる生きる力を身に着けるための心の栄養剤として、グリム童話の原本は、計り知れない力を持っているのかもしれないと、ある種感動するら感じるほどの威力を持っていると確信した。


 つづく

漢字やひらがなに苦手意識をもっている四男は、本も自分で読むより、読んでもらう方が楽しいというものだから、私も自分で読んでいて面白いものを読まなきゃストレスになると思った。だって、もう、かれこれ20年も読み聞かせをしているんだもの。そろそろ、卒業させてほしいってもんだ。でも、四男の読み書きという発達分野は、どうやら亀さんみたいなようなので、本人が読んでもらうことを楽しみにしているのなら、彼がもういいというまで読んであげようと決心した。もういいというまで読んであげると、彼の頭の中で言語に関する分野がグレードアップしてくれるのではないかと期待して・・・。
 だけど、20年。20年だよ。やっぱ、私も楽しまなくっちゃ。
 ということで、前々から、読みたいと思いながらも、読書として読むとなるとなんだか億劫になるグリム童話の原本を読むことにした。これが、声に出して読んでいると、結構、おもしろい。
 知らなかった。こんなにいっぱいお話があったとは。
 そして、読んでいくうちにわかった。だいたい、ふたパターンのお話になる。よく知っている灰かぶり(白雪姫)パターンの話とボ~っとしている3番目の息子がなぜだかお姫様と結婚してハッピイエンドになるというお話だ。


途中で、結構、人が死んだり、殺されたりするんだけど、最後は、主人公は、王子様、もしくは、王女と末永く幸せに暮らしました・・・・で終わる。そして、なぜか、女の子は、絶世の美女のみ。なのに、主人公が男の場合は、どんくさくのろまな冴えないタイプ。

 な~~~~~~ぜ?

 それに、結構、意地悪な気持ちや怠け者の気持ちなど人間の生々しい気持ちをしっかり描写し、偽善者ぶらず、人間の本音をちゃっかりあからさまに表現している。
 たぶん、これがいいんだと思う。
 子どもは、偽善者を見抜く。
 どんなに、どんなに優しい人でも自己チューなのだ。
 これは、正しい。
 愛咲くらが、このいブログで使う最初で最後の『正しい』という言葉。
 
 そして、たまには、死んでしまいました・・・とあっけなく終わる時もある。

 『人間のドロドロした気持ち』と『波乱万丈な人生も最後は全員ハッピイエンド』がセットになって、子どもの心は、たぶん、きっと、『よかった~~~~。みんな、結構、意地悪なんだ。』とほっと胸をなでおろし、『いろいろあっても絶対幸せになるんだ。』という絶対的安心感に抱かれて成長することができるのではないかと思う。

 昨夜、寝る前に読んであげたお話は、『のんき男』
 このお話は、いったい何を言いたいんだろうなぁ?
 除隊したばかりの兵隊さんが、パン1個とコイン4個というお粗末な退職金をもらって歩いていると、乞食に変装したペテロが、物乞いしたのでパン4分の一切れとコイン1個を与えた。しばらく行くと、別な乞食に変装したペテロが、また、物乞いをしたので、男は、パン4分の一切れとコイン1個をあげた。そして、しばらく歩いていくと、またまた、別の乞食に変装したペテロが物乞いしたので、男は、パン4分の一切れとコイン1個を与えた。そして、自分もおなかが空いたので、コイン1個で葡萄酒を買い、残り4分の一切れのパンを食べて、歩いていたら、今度は、除隊した兵隊に化けたペテロが、『僕は、病気の人を治す薬に通なので何かと役に立ちますよ。』と言って、一緒に旅をしようと誘われたので、一緒に旅をすることになった。
 そして、ある日、ある土地の王様の娘が危篤状態ということをうわさで知り、王様のところへ向かった。

 つづく

 しかし、間に合わなかった。王妃は二人が到着する前に亡くなってしまったのだ。男は、もし、道連れの男の薬で王妃を助けられたら褒美をたくさん頂けると思っていたのに、亡くなってしまってはそのチャンスもないと残念がった。けれど、道連れの男は、死んだ人も生き返らせられると言う。死体をぐつぐつ煮込んで、肉をはがして骨だけにして、ある順番に並べると、なんと、王妃は生き返ったのだ。

 道連れの男は、褒美はいらないとかたくなに断ったが、男は、ちゃっかり褒美をいただき、道連れの男が邪魔になったので、一人で旅を続けた。褒美もあっという間に散財してしまってどうしたものかと思っていると、またまた、ある国の王妃がなくなったという噂を聞いたので、いそいそと王様のところに行って、生き返らせると宣言し、道連れの男がやったとおりに、死体を煮込んで骨だけにしてみたけれど、どういう順番に骨を並べたらいいかわからず、適当に並べてみた。案の定、王妃が生き返らなくって困っていると、例の道連れの男がやってきて助けてくれた。またまた、褒美を山ほどもらったけれど、やっぱり散財し、とぼとぼ歩いていると、また、あの、道連れの男がやってきて、男が口にしたものはなんでも詰め込めるという袋をくれた。ある日、古い宿屋に入ると、ある国の王様が、自分のお城に恐ろしい悪魔がいるため、自分の城に住めずに、この古い宿屋に泊っている、今まで、悪魔をやっつけに行ったものは、誰も生きて帰って来ないという。そのお城に、この男は、怖がりもせず、あっさり乗り込んで、9匹の悪魔を道連れの男がくれた袋に簡単に詰め込んで、お城から出てきた。
 男は、そののちも、ずっと世界を旅してまわり、年をとった。そして、旅にも飽きてしまい、自分の居場所がほしくなってきた。そしたら、ある声が聞こえてきた。『道は二つあります。一つは、狭くて不快なこともある道だけれど天国に着きます。もう一つの道は、広くて楽しいことの多い道だけれど地獄に着きます。』と・・・。
 男は、狭くてきついのは嫌だと思い、地獄行きの道を選んで楽しく歩いていくと地獄の門番が、あの悪魔の一人で、あいつだけは地獄になんか来させるもんかと思い、門を開けてくれなかった。で、仕方なく、天国の道を歩く羽目になり、天国の門に着くと、あの変装した乞食であり道連れの男だったペテロが門番だった。ペテロもこいつは天国へは入れられないと思い門を開けなかった。でも、男は、「天国よ。袋に入れ」と言ったので、あっさりと天国に入ることができたとさ。ペテロは、苦笑い。
 おしまい。

 このお話は、何を言いたいのだろう。
 最初こののんき男は、乞食のペテロにわずかばかりのパンとお金を与えたので、そういう道徳的なお話かと思っていたら、そのあとは、しっかりちゃっか欲張りなごく普通の人間像を描き、気ままに好きなように生きてきたけれど、年とって居場所が欲しくなったら、最後は、ちゃっかり天国という居場所をゲットしたという気ままでも幸せになれるというお話だった。

 いい人だけで終わらない話は私好み。
 人間は、欲には負けちゃうけれど、自分の好きに生きてもいいよ。時に、ほろっと優しい気持ちになっっちゃったりすることもあるし。ま、そんなもんさ。人間って。こんなしょうもない人間だけれど、どうにか天国には行けそうだよ。じゃん、じゃん・・・。

 小2の四男は、幸せもんだよ。
 夜な夜な、このようなしようもない人間だけど幸せになれるというお話を聞かされて、8歳という幼児でもない思春期でもないこの時期を過ごすことができるなんて。字がスラスラ読めないばっかりに、ありとあらゆる角度から『好きなように生きてごらん。大丈夫。最後は、幸せが待っているから。』というメッセージを嫌というまで聞かされる8歳って、そういないと思う。
 万引きをダイヤモンド体験にするために、さりげなく愛咲くらは、夜な夜なグリム童話の原本を読んでいる。
 あれだけ、人が死んだり生き返ったり、殺したり、怠けものになったり・・・・しても、最後は、幸せに暮らしました・・・・というメッセージは、きっと、きっと、万引きという一見人生の汚点に見える体験も光り輝く貴重な体験として、彼の人生に花を添えるだろう…と信じて。

 もう一つの体験は、時効になってからお伝えします。

 まぁ、『人生は、運』と今回しみじみ思ったということだけお伝えしたい。
 そう考えると、四男は、返り咲きの運命を手にして生まれてきたような気がしてならない。


 おわり。

 

 

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