総合漢方にんぷ薬・総合漢方育児薬

~頭を使ってではなく、カラダ(感性)で子育てしてみませんか~

レモンと人生

2015年10月30日 | エッセー
 本屋さんに行った。
 そして、齋藤啓二さんの『フランクルにきく』という本が目にとまった。
 パラパラっとページをめくってみる・・・と、直球悩み解決言葉に出会った。

 『レモンをレモネードにする。それが、人生』

ふと、相手はレモンなのに、『レモネードじゃない』と批判ばかりしている自分の愚かさに気づき、愕然とした。自分にとってイヤな人ってレモンのようにすっぱい人。すっぱい人はすっぱい人でどうすることもできない。でも、私の物の見方でレモネードにすることは可能なはずなのだ。きっと。
 これからは、自分にとってイヤな人を見たら、レモンを思い浮かべる癖をつけてみよう。
 そして、どうしたら、レモネードにできるかな?って問いかけるってことを意識してみようかな?
 毎日、やっていたら、そうとう知恵がつきそうな予感。ちょっと、ルンルン。
今までも、同じような言葉に出会っていたのに・・・。
 バラはバラで美しい。バラをかすみ草にしようとするからおかしなことになる。
 子育てもそう。かすみ草はかすみ草。なのに、バラの花を咲かせようとするからおかしなことになる。
 でも、花は基本的にきれいだもんね。野に咲く花も可憐。汚くはない。だから、ピーンと来なかった。
 でも、すっぱいレモンはレモンでそれでいいとは、微妙。やっぱ、レモン1個丸ごとは食べられない。レモネードなら美味しくいただける。レモンはレモンのままでいい。ただ、レモンを食べたい人が工夫して美味しいレモネードを作れるかどうか・・・。レモンを酸っぱいからイヤだと言って批判ばかりしていても美味しいレモネードにはならない。批判ではなく工夫すると美味しく味わえる。それが、人生。
 
 難しいけれど、トライしてみよう。
考えてみれば、レモンが、もし、地球に存在しなかったら、私たち、かなり困る。から揚げにレモン一切れジューっとかできないし、レモン酎ハイもないし・・・。エグザエルは一晩でレモンサワーを100杯以上飲むというし・・・。

 という風に頭の中では人生の公式を理解はできている。
 理解はできているけれど、カラダ全部丸ごとレベルまで達していないから、うじうじ、うじうじ。
 目の前のレモンが、レモネードに見える体験がないから・・・。
 つまり、物の見方が抜本的には変わっていないってこと。

 物の見方をバシッと変えるためにも、日々、レモネード思考を意識するっきゃない・・・のかな?
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アワスカオガナイという不登校のはじまりのハジマリ

2015年10月26日 | エッセー
 四男が『学校に行きたくない。』とマジで言い始めて1か月。
 子どもが学校に行きたくない・・・・・と訴えることって、親にとっても大問題。今日、その日をどうするかという問題と将来への学力大丈夫?という不安で、なんとしてでも学校に行かせたいという心境に陥ってしまう。
 毎朝、毎朝が勝負だ。超疲れる。
 寝る前はいい感じなのに、朝起きたら、瞬時に「僕、行かないよ。」の第一声を浴びさせられる。これって、身に応える。
 どうにかこうにかわが子を先生に託したとたん、安堵感。そして、一秒遅れで、もう、今日一日が終わったような疲労感に襲われる。
 マジ、仕事に行っても小一時間、脱力感から仕事が手につかなかったこともある。
 仕事に遅れるわけにはいかない。これが、しんどい。

 他人は思うとおりにならない・・・自分が変わるしかない。そうわかっていても、こればっかりは、とにもかくにも学校に行かせなくっちゃと思ってしまう。なんとかなるさという真の境地に達するために、この課題が天から降ってきた?
 
お陰様で、不登校に関する本を何冊か読ませていただいた。
 1990年代の終わりごろの出された「笑う不登校」という本を読んでいると、『子どもが好きなように自由にのびのびとさせて、子どもの中に眠っている底力を信じよう。大丈夫だよ。」といメッセージを多くの親が語っていた。とことん、自由に好きなように暮らしていたら、10代後半になったら、スクッと立ち上がって、やりたいことを見つけてきた。そして、そこで、いろんな人たちと出逢って、いつのまにか仕事を始めていた。とっても楽しそう・・・・。そんな感じ。中には、テレビ見放題、ゲームし放題、昼夜逆転を何年も・・・て子たちもいた。違う居場所を見つけてきらきらしているって子もいたけれど、さすがに、昼夜逆転が何年も続くと耐えられるだろうか・・・と不安になった。親が不安にならないためにも、じかに体験談を聞きたいと思った。
 そのあとに読んだ本は、最近出された『不登校になったら最初に読む本』
この本の著者は、元気学園という不登校児を対象とした中高校生の全寮制の学校の創始者。最終的には、本来進むべき学校にもどしてあげるようバックアップしていくという。
 この先生によると、子どもが不登校になるのは、三つの壁のせいだという。
 三つの壁の最初は、いじめとかのきっかけ。二つ目の壁は、学力がおいてきぼりになって自信をなくして行きたくても行けなくなること。三つ目は何だったかなぁ?
 とにかく、なるべくはやいうちに、学力や体力などの力をつけてあげて、自信をもたせてあげることがとても大切だと書いてあった。

 最初は、どうしたらいいのかわからなかった不登校対策も10年で経験値を高め、グッと変化してきたと言えるのだろうか?それとも、子どもを信じてとことんやりたいようにやらしてあげているうちに、自然治癒力みたいな力が湧いてきて、社会に適応していけるようになれるのだろうか・・・・。
 この1か月、色々なことを思いめぐらした。
 その間、義理父が亡くなり、長男の嫁としてのいろいろや三男が専門学校をやめてのいろいろや認知症?って感じる義理の母や実の母へのいろいろなどなど、どっちかというとマイナスな出来事が目白押しの1か月だった。でも、私の頭の中は、9割5分四男の『学校に行かない』に揺れ動く1か月だった。こんな風に言うと語弊があるかもしれないけれど、お葬式とかもうでうでもよかった。息子の将来に比べれば・・・・。
きっかけは、いじめの恐怖だった。
 でも、学力も体育も今いちな彼にとって、学校そのものが彼に自信を与えてくれる場所ではなかった・・・ということが、基盤にあってのいじめられるかもしれないという恐怖は、いつ、学校に行かないと言ってもおかしくない状況だったのかもしれないと思う。

 しかし、今回、行きたくない騒動という体験から、私は、実に多くのことを学ばせていただいた。

 その一つが、先生に『アワスカオガナイ。』という心理が、意外と多くの子どもが学校に行けなくなる気持ちに追い打ちをかける気持ちを代表する心理ではないかということ。
 『アワスカオガナイ。』とは、一体どんな心境を言うのだろう?



 四男の不登校の決定打は、四男が二日ほど休んだ次の日の朝、私が担任の先生に学校を休むことを伝える電話をした後に起こった。
 それまでは、「お腹が痛いんです。」とか「少し、熱があって…」などという理由で休ませていた。しかし、三日目ともなると、そういう嘘も耐えられなくなる。朝、電話口で先生に「実は、○○クンに苛められて、怖くて行けなくなったんです。」というようなことを伝えたとたん、彼は、学校に行く勇気を一気に奪われてしまったという。勇気をくじかれたのだ。

 親にしてみれば、先生に相談したいくらいの心境なので、まさか、よもや、学校に行けない理由を伝えることが、そんなに子どもの勇気をくじく重要な要因になるとは思ってもみなかった。
 
 彼にしてみれば、また、いじめられるのではないかという怖れの感情を抱くということは、恥ずかしいことだったのだろう。そして、そんな負け犬みたいな心理を先生に知られるということは、これまた、とっても恥ずかしいことだったのだろう。如何せん、子どもたちは、人生10年しか生きていない。まだ、まだ、経験不足だ。彼らにとっては、秘密を他人に知られることって、思いのほかしんどいことなのだ。きっと。

 昔、読んだ精神科医 甘えの構造で有名な土井ケンロウ先生の本に、統合失調症の患者さんの思春期の頃の心模様を描いた描写があって、そうなんだ・・・と合点がいった記憶がよみがえってきた。

 思春期前期の頃、そう、10歳とか11歳の頃から、子どもたちは、親に言えないような秘密(恋とか恥じらいとかしてはいけないことをしてしまったとか)を抱くようになる。それは、とてもノーマルな感情で、正常な発達をしている証拠でもある。
 この秘密を抱き続ける力がないと、それはそれは心が張り裂けんばかりに苦しくなる。
 統合失調症は、思春期に秘密を保持できないことから圧病する・・・らしい。

 そう。人の心の中にあるさまざまな心模様を、つまり、裏のドロドロも込みな自分の心を調度いいに調整することが苦手な人が、統合失調症になる可能性があるということ。だから、統合できない、つまり、統合するのに失敗したという意味で病名がついたと言える。

ただでさえ、怒涛の思春期。
 なのに、秘密を保持することができないという脳の体質をもっているってことは、ダブルパンチだ。
 砂糖と塩を上手に使って、美味しく料理する・・・・みたいな。
 塩がいっぱいすぎたり、砂糖がいっぱい過ぎると、味を修正するのも難しくなる。
 統合失調症になるような人のほとんどが、幼い頃、全く手のかからない育てやすい子でしたって親がおしゃっる。ほんとうにいい子。文句を言わない。反抗しない。素直。親の言うことを聞く。
 彼らの心の中には、ほんとうは、怒りの感情や悲しみの感情も存在するはず。でも、それが、表にちっとも出てこない。出さないのか出せないのか・・・・。怒りの感情の存在がよくわからない。塩を封印して怒涛の思春期を迎える。思春期は、第2の生まれ変わる大事な時・・・だと言われる。その生まれ変わりの節目で、砂糖だけで生きてきた彼らも、やっぱり、塩を自覚するようになる。親に言えないような自分の塩的感情をどう扱ってよいやらわからず、『こんな塩的感情をもつ自分はいけない子』だと思い込み、しんどい気持ちのド壺に陥っていく。そして、幻聴や妄想の世界を作ることでどうにか精神的安定を保てるようになる。生きるために逃げ場所を見つけたのだ。でも、これは、とっても危険。いつしか、逃げ場所が彼のほんとうの自分を乗っ取っていく。この時期に、つまり、思春期に、本物のカウンセラーに出会えた人は、救われる。
 
私が、なぜ、ここで、あえて統合有失調症のことを書いたか。
 それは、それくらい思春期って秘密が大事だってことをわかってもらいたかったから。
 
 では、なぜ、秘密の世界が存在するようになるのか・・・・。
 たぶん、それは、恥ずかしいという感情の


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言霊~榎本孝明さん編

2015年10月12日 | エッセー
 クギヅケのゲストに榎本孝明さんが出ていらした。
 榎本孝明さんと言えば、ネパール・水彩画、そして、なんといっても不食で有名な方。
 お話を伺っていると、昔から、集中力がぐっと高まるということで、時代劇の撮影中は1週間くらい食べないこともよくあることで、榎本さんにとってはごく自然なことなのだそう。
 そうは言いながらも、気功や古武術などもたしなまれるということで、やっぱり、仙人みたいな方。
 そして、番組の最後で、ちょっとしたパフォーマンスを見せていただいた。
 もう一人のゲストであるココリコの遠藤さん相手に、言霊の威力をまざまざと見せつけられてしまった。
 なんのことはない。
 肩幅くらいに、足をひろげて立ち、榎本さんが、遠藤さんのみぞ内あたりを人差し指でポンとつつくだけのパフォーマンス。
 ちょっとだけ、遠藤さんぐらつく。
 次は、「ご自分の名前を言ってください。」と榎本さん。
 で、「遠藤○○」と遠藤さん。
 そして、榎本さんが、また、みぞうちをツンと突っつく。
 すると、なんと、なんと、遠藤さん、よろめかない。
 遠藤さん、びっくり。

 次に、他の片の名前を言ってくださいって榎本さんがおっしゃって、遠藤さん「高田○○」って言葉にする。
 で、また、ツンと突っつく。

 すると、なんと、よろけてしまった。

 次に、今度は、「バカ野郎」(多分、そんなようなネガティブな言葉だった)って言ってくださいって榎本さん。
 で、遠藤さん「バカ野郎」
 そして、ツン。
 すると、今度は、足元がかなりぐらついて、後方に倒れんばかりのよろめき度。

 そして、フィナーレの言葉は「ありがとう」。
 「ありがとう」と言って、ツンしても、全く動じない。
 これには、遠藤さん、びっくり仰天。

 私も、もちろん。

 これは、一体何を意味するのだろう。

 自分の名前って、それくらい大切?
 そして、「バカ」「死ね」「どうせ、私は○○・・。」「邸レベルだ」「ダメ」などなど、批判的な言葉やネガティブな言葉って、カラダからエネルギーを奪ってしまうってこと?うちの子たちがよく言う「クソババァ」もそうなの?

 そして、やっぱり「ありがとう」は、魔法の言葉なのね。

 ところで、言葉にしなくても、心の中で念じたとしたら、それはどうなるのだろう?
 言葉に出すか出さないかで全然違うのだろうか?
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洗濯日和と空爆日和

2015年10月09日 | エッセー
 ロシアのニュースで天気予報のような奇妙な言葉が当たり前のように流されていた。
 すごい国だ。
 『シリアへの空爆にはもってこいの日』を『空爆日和』と言うのだそう。
 ロシアはイスラム国に空爆したいのか?シリアに空爆したいのか?
 ウクライナにいた義勇軍がシリアに行くという。
 シリアへの応援かと思いきや、シリアの民間人の多い地域やイスラム国の兵士の少ない地域を空爆しているらしい。
 戦争は、そんな風にして、ジャイアンになりたい症候群の無意識が渦巻きながら結集していくのだろう。
 そして、誰も止められなくなる。
 『戦争がいったん始まったら誰も止められない。』

 そうならないための教訓を歴史から学べるのかなぁ。

 シリアからの難民の数は半端じゃない。ドイツなどヨーロッパの国々は毎日何千人何万人のシリア難民を受け入れている。ドイツのある町では、難民の多くが10代後半の男の子だという。せめてこの子だけでも・・・・となると、やっぱり男子が選ばれる・・・。でも、ひとりぼっち。一人ぼっちの男の子たちがドイツのある町にいっぱい保護されているという状況がうまく想像できない。

 いっそのこと、いったん、シリアの民間人を全員、世界の国が受け入れて、シリアを空っぽにしちゃって、イスラム国関係者だけにしちゃえば、イスラム国が成立しなくなるんじゃないだろうか。
 千畝さんが、ユダヤ人にパスポートをできうる限りの力で発行し続けたという逸話はまんざらでもない。ヨーロッパのユダヤ人をヨーロッパから全員一時避難させることができたら、ヒットラーはどう出ただろう?

 と思っていた矢先、アフガニスタンで、タリバンよりイスラム国が優位に立ちつつあるというニュース。
 ロシアの思惑とイスラム国の思惑が交差して、アメリカやヨーロッパ、そして、日本はこれからどうなっていくのだろう・・・という一抹の不安がよぎる。
 どうなんだろう?
 イスラム国はイスラム国にとっての正義を堂々と貫かんとしている。裏表なく。
 ロシアは、誰が見ても、建て前と本音を使い分けているということがわかるような裏表術を平気で採用している。建て前が一応正義なので、誰も何も言えない。
 じゃぁ、アメリカは?ヨーロッパは?
 どこか、偽善のニオイがする。平和という偽善が見え隠れしている。裏で何してんだろう?ロシアの裏は暗殺のニオイがつきまとうのでビビる恐怖だけれど、アメリカの裏はそれすらもわからないうちに自然淘汰されているかもしれない。

 いずれにしても、戦争も平和も何もかもグローバルな時代となった。
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上西真由美議員さんと上沼恵美子さん

2015年10月06日 | エッセー
 クギヅケで、上沼恵美子さんが、上西議員にズバリこういったときは唸った。
 『あなたが議員をやめないということは、音痴が美空ひばりをめざすようなもの。』
 上沼さんってすごいなって感心。
 言葉を操る仕事のプロだと思った。

それにしても、上西議員、トークがお上手でない方だった。上沼さんが「司会者がこんなにイライラすることはない。」とぶちまけてらしたけれど、視聴者である私もイラッときた。
 彼女は、いわゆる、超女性脳的な話し方。結論が見えない。「こうでねぇ。あ~でねぇ。そしてねぇ。だからねぇ・・・・。」と続く。質問に対して的外れな受け答えをする。
 議員という弁舌豊かな職場では受け入れられにくいしゃべり方だろうなぁと思った。
 コメンテータの方々の男性陣が、32歳の若い女性に対してあれだけ辛辣な直球を投げるってことは前代未聞だと思う。「後生だから、10秒で伝えたいことをまとめる訓練をしてください。」って懇願していた。にもかかわらず、彼女は自分の言い分、された仕打ちに対する反論を繰り返すのみ。コメンテータの中の唯一女性心理カウンセラーが、「あなたは人の話を聴く力が弱いので損をしている云々・・・。」と愛情を感じるコメントをされたことが唯一の救いだった。
 上沼さんがすごかった。
 あそこまで言う?っていうくらい、「議員を辞めなさい。とにかく、今はいったん辞めて、例えば、結婚して子育てをしたりするなどの体験の中で自分磨きをしてから、もう一度正当な形で選挙に出なさい。」と物申しても、辞めそうな気配がなかった。

 それにしても、「音痴が美空ひばりを目指す」・・か。
 一流と認められるくらいになるには、そうだろうなぁ~と、一流と縁のない私は、しみじみ。
 自分の分を知ることも大切。
 上西議員は、今、自分の分を見失っている・・・・よう。
 あれだけ、コテンパンにやられても、「でも、私は毎週、地元に帰って、有権者のみなさんの生の声をお聞きし、それを政治に反映させたいという思いで溢れているんです。」と繰り返す姿は痛々しくもあった。
 男性陣が、あれだけ、コテンパンに若い女性に物申すってことは、めったにないこと。よほどのこと・・・・なんだけどなぁ。職場でも、男性は女性より優しい。仕事と割り切っているせいだろうか?女性は、私的感情が職場でも出やすい。優しくないなって思うこともしばしばある。仕事は仕事なのに。

 
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シアワセ問答 その2現実

2015年10月03日 | エッセー
 『信じたことは、全て現実となる。』らしい。

 今の、この現実は、私が信じたことなのだろうか。
 だとすると、ぞっとする。
 夫は、アルコール依存症になりかけている。飲むとハリネズミと同類化する。ちょっと気に食わないとすぐキレる。てんで話にならない。なのに、息子たちが誰も近寄らないことを私の育て方のせいにする。寂しいのだ。きっと・・・。だから、こう伝える。「誰だって、ハリネズミのそばになんかいたくないでしょ。誰だってほっとする人のそばにいたいもの。今のあなたはハリネズミみたいなんだよ。あなただって、ハリネズミのそばでくつろぐことなんてできないでしょう。何かあると、すぐ、私のせいだったり人のせいにするのは、傷つきたくないからだと思う。傷つくのが怖いからハリネズミになって、現実の自分ときちんと向き合おうとしない。」
 私は、仕事柄、アルコール依存症の方と接してきて、体験的にアルコール依存症はかなりの確率で依存症レベルから脱却することは難しいと信じている。
 この『アルコール依存症はめったなことでは治らない。』と信じきっている私の信念が、今の現実を作り出しているのだろうか。

 今の私の現実は、私が信じたこと?
 うっそ~~~~~。

 ていうか。私って、何を信じているの?よくわかんない。

 この本には、主人公が、「金持ちになりたい。」と心から願っているように見えても、実は、心のどこかで『どうせ、サラリーマンなんて、宝くじに当たらない限りは金持ちになんかなれっこない。」と確信犯的に信じている。だから、金持ちになれない。・・・と書いてある。一方、金持ちの家に生まれた人は、心の底から金持ちなので自分が貧乏になるなんて微塵も思っていないので、どんどん金持ちになる・・・らしい。トホホ・・。
 私も金は天下の回り物だろうとは思う。だから、あまり貯めこもうなんて思わず、使った方がいいらしいとは思う。が、しかし、心の底から『金は天下回り物』と信じているかと問われると、?である。
 実は、育った環境が大きいらしい。
 親から譲り受けた固定観念というものは、かなり頑固にカラダの隅々まで浸透している。だから、頭でいくらそう理解しても、カラダの反応がついていかない。調度、右利きの人が左利きにせんとふんばるような難易度か。
 お金持ちに生まれて何不自由なく育った人は、お金に困った体験が全くない。貧乏のびの字もない。だから、心から、お金は天下の回り物だと信じ、固定観念化している。
 それに比べて、私なんか、貧乏という強い認識はなかったけれど、お金に余裕のある家という風には全然感じられない育ちだった。母が数ミリの小さな粒を一枚200個くらいピンセットで埋めていくという内職を、地道にやっている姿を見て育ってきた。その1枚が5円とか8円という世界だ。家族旅行とかしたこともない。言葉に『貧乏』という言葉を出さなくても、そんな姿から自然とお金にどこか執着してしまう固定観念を植えつけられていったのだろう。ただ、おやつには困らなかった。だって、おうちがお店だったから。今みたいなコンビニではなく、○○商店という時代に育った。特に、菓子パンには何不自由なく育った。明日は賞味期限というような菓子パンを自由に食べれた。その当時では珍しく、お菓子も結構自由に食べていた。もちろん、『これ食べていい?』って聞いてからだったけれど、『ダメ!』って言われた記憶はない。
 だからだろうか、結構、母親は現金には不自由していたらしいけれど、そんなに貧乏って感じないで育つことができたのは・・・。

 言葉にしなくても、親の生活からにじみでる辛抱しているという感覚ですら、『私は貧乏』という固定観念が植えつけられるとしたら、言葉で「おうちは貧乏だから」なんいう親の口癖は、超強力カビとりキラーですら取り払えないっ様な貧乏という固定観念が植えつけられているはず。
 おっとっと、危ない。危ない。
 子育てでマイナスの固定観念を植え付けないように配慮するってとっても重要な任務なんじゃないかと思えてくる。
 でも、配慮のレベルでは貧乏という固定概念を払拭するほどの威力はないかもしれない。

 心の底から、『金は天下の回りもの。お金がなくてもお金には困らない。必要なときには天から降ってくる。』そんな強い信念をカラダ全身で出すほどのオーラは、貧乏に育った人にはなかなか出せないだろうなぁ。

子どもを育てるとき、絶対言ってはならない言葉がある。それは、マイナスのレッテル。
 レッテルを貼るような言葉を子どもに向かって吐くと、子どもはどうせ自分なんて・・・というネガティブな自分像を持ってしまうから。
 つまり、それが、固定観念。
 
 よく、子育ては、Iメッセージでって言われる。YOUメッセージは、子どもの心を深く傷つけてしまうから。
 傷つけた上に、固定観念まで植え付けてしまうなんて、子どもの心の成長にはダブルパンチだ。

 だから、子どもに腹が立った時は、Iメッセージでギャーギャー言うようにしてきた。Iメッセージに関しては、結構、板についてきたなって思う。レッテルもなるべく貼らないようにかなり努力してきたつもり。全然、お勉強に興味がなくって、漢字は覚える気さらさらないし、そんな子に無理やり覚えさせようとするもんだから、これまた、ギャーギャーと言葉の格闘技をやってきたけれど、それでも、できない子というレッテルだけは貼らないよう細心の注意を払ってきた・・・つもり。でも、宿題が11時を過ぎても終わらないような長時間バトルに突入すると、思わず、マイナスのレッテルを貼るような言葉が溢れ出てしまったことも何度かある・・・。「アホかいな?」みたいな・・・。あれほど、絶対言わないと心に誓っていたのに、あまりにもしようとしないわが子についついレッテル言葉を欲してしまった。不覚にも私としたことが・・・。たった一言でも、言葉にしたら、せっかくの努力も水の泡・・・なのに。ま、言葉にしなくても、ため息なんてざらだったけど。言葉でない表情は、子どもの固定観念形成にどれくらいの影響力があるのだろう?
 お金の件に関しても、悔やむ。
 少なくとも『金は天下の回りもの。どうにかなるさオーラ』は出していなかったかなぁ~。
 けちではないつもり。でも、一時期、夫が働かない時期もあって、家計は火の車だったので、子どもたちには欲しいものを我慢させていたかなぁ~。というか、欲しいって言わせなかったかなぁ~。言えなかったかなぁ。特に、長男に対して。
 彼らは、お金に対して、どんな固定観念が植えつけられているのだろう?
 知人は、息子たちみんなを予備校に3年くらい行かせている。寮だったり自宅通学だったり。子どもって、親の経済力に合わせて無理難題のぎりぎりのところの要求をするもんなんだなぁって思う。彼らは、お金に関してどうにかなるさっていうような楽観的固定観念という財産を三浪体験でみにつけたんじゃないかなぁ?いいなぁ~。

 でもね。ここ1年、困った時には助け舟がやってくるという不思議な現象が続いている。
 こうも続くと、『こうなったらどうしよう。』とう不安が減ってきた。そして、マジで『なんとかなるさ』っていう気がしてくるから不思議だ。『なんとかなるさ』計器があったら、70%否、80%くらいはなんとかなるという気持ちだ。あと一息。
 子ども時代に、『なんとかなるさ』という固定観念をプレゼントしよう。
 沖縄の方言に、『なんくるないさぁ』ってある。これって、ひょっとして、ひょっとすると、実は、子育て環境で一番大切なキーワードなのかもしれない。
 インドに行った時も、ことあるごとに『ノープロブレム』(問題ない)って言われて、カルチャーショックを受けた記憶が蘇ってきた。
 オートリクシャのおじちゃんに写真を撮ってもらうために私のカメラを渡したら、落っことして、フィルムを入れるところがキチンと閉まらなくなった。つまり、壊れた。その時、そのおじちゃんが言ったセリフが『ノープロブレム』(問題ない)だった。
 彼は、知人のカメラ屋さんに私を連れて行ってくれた。そして、そのカメラ屋さんもノープロブレムと言ってくれた。しかし、そこは、畳4畳半くらいの小さなお店。カーテンでしきった暗室らしき部屋(?)に入って行き、しばらくして出てきた。そして、そのカメラ屋さんは、なんと、昔、郵便小包などを縛る細い紙ひもでカメラをぐるぐる巻きにして、ニコッと笑って『ノープロブレム(問題ない)』と・・・・・。
 そう。なんとかなった。フィルムは感光せず、インドで撮った写真はアルバムにしっかり納まっている。

 わたしが、インドに行って得た貴重な体験は、この『笑顔のノープロブレム(問題ない)』という問題発言のシャワーを浴びれたことだたかも。
 


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