総合漢方にんぷ薬・総合漢方育児薬

~頭を使ってではなく、カラダ(感性)で子育てしてみませんか~

高齢者肺炎球菌副作用の衝撃

2016年08月29日 | エッセー
 住民の方から、高齢者肺炎球菌の通知が届いたけれど、副作用はないんですか?という問い合わせがあった。
 予防接種読本にも副作用はいろいろ書いてあった。
 ネットでも調べてみた。
 そしたら、とんでもない記事に出会ってしまい、一時、放心状態になってしまった。

高齢者の肺炎のほとんどは誤嚥性肺炎で肺炎球菌によるものではない場合が多い。なので、どうして、国が肺炎球菌の予防接種を積極的に勧めるのか?なぞだそう。
 私は、国が助成するのに、どうして、65歳なのだろうと不思議には感じていた。このワクチンの免疫が何年もつのか・・・・?5年?10年?
 もし、10年だとしても75歳。一生に1回だけ助成するならば、どちらかと言えば、75歳を対象にした方が肺炎による死亡率を下げられるような気がする。国は、一生に1回しか助成しないと言っているのに、なぜ、65歳という比較的まだ免疫力のある65歳を助成対象としたのだろう?

 この2点の疑問もなぞである。

 しかし、ネットの記事には、もっと、リアル。世界規模で、私たち庶民は、ごく一部のとってもお金持ち集団に実は牛耳られているのではないかという内容であった。まさに、広瀬隆氏の『億万長者はハリウッドを殺す』的な世界が、ワクチン会社やアメリカの保険会社にもあてはまるというお話。

 この高齢者肺炎球菌の効果を評価する調査が、南アフリカの世界でも最も貧しい国、マラウイとモザンビーク、そして、アメリカ、スェーデンで行われた。そして、その結果は、貧しい国の二つは効果があったが、先進国の二つの国の調査では効果はなかったという。
 衛生状態が改善された結果、感染症が激減するのであって、ワクチンによって減ったのではないという見解もあるそう。

 このブログでは、『なぜ、先進国では効果がないという調査があるにもかかわらず、日本の厚労省は、CMまで展開して積極的に高齢者肺炎球菌予防接種の助成をすることにしたのだろう?』の答えをこう述べている。
 ①日本政府が米メルク社製肺炎球菌ワクチンを買うため(買収?脅迫?)
 これは、さもありなん。

 しかし、次からは、強烈。この方の意見が真実かどうかはわからない。そして、厚労省の意見も同様である  

 ②効果のない肺炎球菌ワクチンを接種させ、病人を増やし、薬を販売するため。
 これは、どういうことなのだろう。副作用がいろいろあって、薬を使うということだろうか。
 副作用には、接種部位の腫れなどが多いけれど、ギランバレー症候群などもある。そういえば、最初にこのワクチンが登場したころは、副作用が怖いから、一生に一度しか受けられないと言われていた。今でも、最低5年は開けないと再接種できない。やっぱり、からだには負担のあるワクチンなのかもしれない。

 そして、私が一番ショックだったのは、
 ③肺炎球菌ワクチンの副作用で医療費高騰を招かせ、日本が誇る国民皆保険制度である国民健康保険を解体させ、アメリカの保険会社が乗っ取ろうという野望があるという。

 アメリカには国保という素晴らしい制度はない。高額の保険をかけなければ、手術も何も受けられない。そして、最悪なのは、高額の保険をかけていても、保険会社顧問弁護士が、出さない工面に紛争するという。それ以上に有能?な弁護士を雇わなければ、病気になっても簡単には保険金を払ってくれないのだそう。

 外資系の保険には手を出さない方が身のためかもしれない。

 オバマ大統領は、国民皆保険制度を構築するために、頑張った人。でも、行く手を阻む力は、大統領でもどうすることもできなかった。超お金持ちは、世界規模で牛耳っている。きっと・・・。
 

 世界のお金を牛耳りたいある種の物に関わるごく一部の超お金持ちたちには用心しましょう。

 石油・原子力・薬・ワクチン・保険・・・・など。


 それにしても、がっくり。
 私の仕事は、国民皆保険制度を維持するために、改善可能な生活習慣病の改善という小さな目標を達成することで、人工透析を一人でも減らすという大きな目標に向かって、日々、精進しているのに、なんのために・・・・とお国が信じられなくなった。

この記事が事実かどうかは定かではない。
 でも、太古の昔から、人類は野望と平和への希求をあっち行ったりこっち行ったりしてきた。
 血を流すような戦争はなくても、人の心に野望が宿している限り(もちろん、私の中にもきっと、否、絶対存在するはず)この記事に似たようなことはあると思う。

 そんな世界規模の魂胆に対して、無力な私ができることは、日々の仕事を精一杯誠心誠意で取り組んでいくのみ。

 先日、夫がテレビで仕入れた、なかなかいい言葉を私に伝達してくれた。

 『半径3メートル以内の人を幸せにできない人は、世界を幸せにできない。』(家でも職場でも・・・)

 なるほど。

 全然、できてないじゃん。

 昨日、70歳になった方を集めて健康教育をさせていただいているとき、素敵な言葉をいただいた。


 70歳。50代になって、私は死ぬときどんなおばあちゃんでいたいかなぁ?って思うようになりました。パートナーのいらっしゃる方は、せっかくご縁があったのですから、いろいろあるとは思いますが、いい関係でいられたらいいですね。男と女の脳はどうやら、正反対に近いものらしいので、なぜって、似たような者同士が結婚して子供を産むと、もし、それが、生きていくうえでマイナス的な要素だとその要素が2倍になって濃縮していくので、生きることが大変になり、生き残れる子孫を残すという動物のさ大使命を果たすことができなくなる。つまり、淘汰されてしまうので、マイナス要素を中和するために、正反対の者同士が引き合って結婚するようになっている。しかし、いざ、生活が始まると正反対だから、そりゃぁ、大変ってことになる。
 コミュニケーションと察することが得意な脳の持ち主である女性が、コミュニケーションと察することの苦手な脳の持ち主である男性に自分と同レベルを要求するから、おかしなことになる。男性の脳が不安にならないコミュニケーションを女性が率先してしましょう。
 例えば、雲行きが怪しくなったとき、誰が見ても雨が降りそうなお天気になったとき、家にいる夫に「雨が降りそうなのでよろしくね。」とメールをしたとする。
 そのメールを見たとたん、夫はどうしていいかわからなくなる。
 妻は、何を言いたいのだろう?
 察することの苦手な夫は狼狽える。
 『傘を持って迎えに来てほしいのだろうか?』とか『窓を閉めてってことかな?』とか『洗濯物を取り込むのかな?』とか・・・・。

 悩む。そして、疲れる。そして、腹が立ってくる。

 あるいは、妻が、ただ、今日会った出来事を聞いてほしくて、他愛ないおしゃべりをしているだけなのに、問題解決思考の男性は、何の悩み相談なのかなぁ~と思いながら聞いている。しかし、一向に、悩みが明確化されない会話が続く。
 そして、疲れてくる。
 『で、結論は?』あるいは、『何を言いたいの?』

 そう。男性と話すときは、まず、結論から話す。あるいは、『○○をしてちょうだい。』と明確に指示する。つまり、命令した方が楽ちんなんですよ。男性全員がそうだとは限りませんが・・・。



 というようなお話をしたとき、ある女性が、『そのあとが大切よ。』と。

 その方は、ご飯を食べるときには、いつも、ご主人に『ありがとう』と言って握手をされるのだという。しかも、結婚してからずっと。

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50代になると・・・・。

2016年08月17日 | エッセー
 なってみてわかったこと。
 40代は、仕事において、自分のやってきたことの『集大成』という思いが強くなり、仕事で足跡を残さんと頑張った・・・かな?
 そして、50代。
 50代に入ると、自然と40代とは仕事へのスタンスが変わってきた。体力的なこともあると思うけれど、後輩たちの邪魔をしたらいけないかな?後輩たちがのびのびやりたいことをやれるような環境を作ってあげたいと思うようになった。頼られてはいけないとも思うようになった。仕事で何かを成し遂げたいというよりも、職場で全体の調整役というかコーディネーター(黒子)役への興味がわいてきた。

 育てる?
 というとおこがましいかな?
 でも、50代ってそんな感じ。あと少しで、退職が迫ってくる時期だもの。自然だよね。上手に枯れていきたい。

 なってみて、わかった。

 先日、美容室に3か月ぶりに行った。
 そこで、美容師さんが、「最近、なんだか育てたいと思うようになった。50代に入ってから・・・。私は、結婚していないし子どももいない。今まで、女一人でお店をやってきた。40代は、このお店を繁盛させるということに、つまり、美容師としての腕を磨くことこそ・・・・という気持ちでやってきたけれど、50代に入って、死ぬとき、素敵な女性でありたいと思うようになった。認知症になってしまえばわからないけれど・・。そして、気づいた。私の人生に欠けていることって、育てるってことだって。だから、弟子でもとろうかなぁって最近思うようになった・・・って。
 一人前になること。そして、育てること。この二つがそろって初めて、死ぬときに、ちょっとはいい感じになって死を迎えられるような気がする・・・と。
 そうかもしれない。
 男性は特にそう感じることが多いんだけれど、この道一筋で生きてきた人って、ある意味がんこ。融通が利かない。
 でも、この道一筋で生きてきて、弟子を育てている人って、かっこいい人が多いなって思う。
 柔道の井上康生さんなんかも素敵だ。頑固なだけでは人は育てられない。

でも、本当に育てるって大変。
 一筋縄ではいかない四男とのギャーギャーで、今日も、最後は「残念な人だ。」と言ってしまった。だめだ。レッテルを貼ってはいけないとあれほど反省しているはずなのに・・・・。自分の意思を押し通して文句しか言わない彼に、人を育てるうえで口にしてはいけない言葉をポロポロポロポロこぼしてしまう自分が情けない。せめて、彼が何か一つでも好きなものに出逢えていれば、むごい言葉『残念な人だ』と言わなくてもすむのに。マインクラフトというゲームだけ・・ということが、残念な気持ちにさせてしまう。「あなたが、生きているだけでいい。」というほどの器になれない情けない自分。
 人を育てるってそんな簡単なものじゃない。

 自分の器の分しか、人は育たないだろうから。

 どうしたら、器を少しでも大きくできるか・・・。

日々、育てるということに苦悩している私。
 

 二人で、育てるについて、あーだ、こーだと言っている時に、たまたま、二人とも知り合いで、昔、看護婦さんだった・独身だったというご高齢の方についての話題になった。たまたまだろうけれど、わがままの激しい方が結構いらっっしゃる。その姿を見て、バリバリ働くことだけの生き方は、へたをすると、がんこというかワガママで周りが大変なおばあちゃんになってしまいがちになるので、育てるという苦労も人生には必須かもしれないという結論に達した次第。
 謙虚になれる。
 仕事バリバリでも、子どもがちっとも言うことを聞いてくれず、子育てに苦労していると、人間としてまだまだだなという感覚になれる。というか、いやが応でも謙虚にならざるを得ない。でも、もし、独身で仕事バリバリで退職まで過ごしてしまうと、バリバリな自分だけ。


 子どもがいるいないではなく、人を育てるという環境にあえて身を置くことが、人をより魅力的にさせる力はあるだろうと思う。

 だって、井上康生監督かっこよかったもん。オリンピックに出てらした頃は、熊さんみたいだった。でも、今、彼の弟子たちが数々のメダルを手にしたときの、監督としてのたたずまいは、超かっこいい。渋い。

 イチロー選手は、選手として50歳まで頑張ると言っている。彼の顔は、職人気質。それはそれでかっこいい。でも、彼には50歳になったら、ぜひ、次世代の選手を育ててほしいな。

で、50代。

 育てる。
 男子体操の白井選手のいインタビューでも『育てる』って魅力になるんだと実感した。それはそれは、すばらしいインタビューだった。19歳と言ったら三男と同じ年だ。なのに、白井選手のインタビューは自信と謙虚さと自分らしさ満載のあっぱれなインタビューで驚かされた。そして、その中で、内村航平さんへの尊敬ビームが半端なかった。内村選手も19歳でアテネでメダルをとっているけれど、あの時と違って、今回のオリンピックはリーダーとしての責務をしょってのオリンピックだった。
 人は、育てるというポジションを与えられると、成長するんだなぁってしみじみ。一流な人ほど一流を育てる才能が開花する。顔つきが違ってくる。そして、白井選手が『内村選手のようなリーダーになりたい。』と連発するくらいのすごい魅力を醸し出してくる。
 福原愛ちゃんもそう。

 
 
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思考前夜

2016年08月10日 | エッセー
 何か嫌なことがあると、頭の中でいろいろと考えてしまう。マイナスに考えてしまう癖がつくと、それは、いつしか運命にまでなるとマザーテレサがお 話しされた。
 いろいろ考えてしまうがゆえに、躊躇して行動しない場合もある。
 行動しないという行動は、どんどん頭でっかちにさせてしまうのではないだろうか。
 ぐじぐじ考えるその前に、私たちは何かを感じていないだろうか?
 ひらめき?
 最初に浮かんだ考え?考える前に考えた瞬間の何か。

いいことが浮かんだのに、ほんの数秒遅れで打算や躊躇や常識もろもろの思惑という計算による思考が、いいことが行動にまで至らないことの連続を、私たちは生きている。特に、私ってやつは・・・・。

 したいって思ったことを即行動に起こす力やしたくないと思ったことを拒否する力は、常識や人間関係で傷つきたくない自分の存在や保身やメリットデメリットの計算など、あとで思考したパワーに圧倒されて、すぐ却下されてきた。
 特に、私はそうだった。

 四男を見ていると、超わがままに感じて腹立つことばかり。でも、おそらく彼は、最初に感じたことや思考したことを行動しているだけなのかもしれない。だとすると、私と正反対。
何か出来事に遭遇したとき、パッと最初に思い浮かんだことを行動し、曲げようとしない四男は、私に一番欠けていることを鏡となって教えてくれているのだろうか?
 げんなりするくらい、自己主張を押し通す。

 今朝も、彼とのバトルでエネルギーを奪い取られ、息も絶え絶えだった。

 夏休み企画として市が募集した海でのシュノーケル体験。友達のお母さんが応募してくれて、そのことは2週間ほど前に伝えていた。そして、昨日、「明日だからね。早く寝なさいね。」と言ったら、「6時半に起こして。弁当はコンビニ弁当がいい。」と宣って、彼は寝た。
 なのに、なのに、朝になったら、前々日のキャンプの疲れがまだとれていなかったのか、「行かない。」と言い始めた。「それは困る。お友達は、あなたが行くと言ったから行くことにしたのよ。お友達は他に知っている人がいないんだから、あなたが行かないとひとりぼっちになるじゃない。あなたが行かないことが困るのではなくて、あなたが行かないことでお友達が一人になることが申し訳ないんだよ。」と必死で訴えても、行こうとしない。「後生だから、行ってちょうだい。」とめっちゃクチャ必死になって頼むのに、彼には伝わらない。こいつ、思いやりという気持ちはあるの?ないの?うそでしょう?ありえない。筋金入りの自己中人間だ。

 時間だ。
 あきらめて、とりあえず、集合場所に・・・。
 担当の方に謝罪する。お友達にも。
 でも、ふと、もしかしたら、お友達が来れば行くかも・・・と思い、時間がギリギリだけれども、お友達を連れて家に戻った。
 この作戦は、成功するかに見えた。

 しかし、最後の砦でつまづいた。
 サンダルで来るようにと言われていたのに、彼の白いサンダルを少し汚れているという理由で履こうとしない。「もともと、気に入っていなかったから、前から、新しいサンダルを買ってって言っていたのに。今、新しいのを買ってよ。」って、朝の7時半にお店が開いているわけがないし、時間もない。どうしようもできないことを平気で口にする。じゃぁ、シューズでいいから・・・と言っても、みんなサンダルなのに、僕だけシューズなんて恥ずかしい。

 せっかく、行きそうになったのに。断念。

 なんだろう。
 視線恐怖症みたいな不安障害はあることは事実。
 だからなのだろうと思う。そこを乗り越えるだけでも大変で、プラス他のマイナス因子が加わると、できなくなる。

 普通の子どもだったら、お友達がひとりぼっちになることを想像する余裕があるけれど、四男には、きっと、その余裕がないんだろうなぁ。
 わかっている。でも、いつも、こんな壮絶なバトルがくっついてくるので、くたくただ。
 職場についた時には、もう、一日の仕事が終わった時のような疲労感。

 でも、ふと思う。
 彼は、思考の前の直感を大事にしているなって。
 妥協しない。

 私の人生と全く違う。
 ある意味、私の憧れの姿である。もちろん、子ども時代で、しかも、対親とのバトルに限ってのこと。この時期こそ、思考前夜を大切にしなきゃいけない適齢期。この時期に、思う存分自己主張できた子どもは、思考していい子で注目されたいとかコワイから言いたくても言えないとかこれは言っちゃいけないのだろうか・・・と躊躇するとかなどの打算がない自分を思いっきり表現できる。思考する前の感覚に磨きがかかる。
 でも、思春期を過ぎるころに勃発すると、それは、少しチガウ・・・かな?って話になる。大人になってかかるはしかみたいに重症化してしまうから、親も子も命がけ。というか、思考前夜という素直な感覚、直観は封印されてしまっているので、屈折した表現が暴走してしまう。目いっぱい屈折した暴走を噴出しきった後に、素直な思考前夜のひらめき・直感が顔を出すような気がする。
 そんなギリギリの事態は、できれば避けたい。

 知らないことを知ることが人生だとするならば、四男という私と正反対の超まがまま人間に四六時中付きまとわれて辟易している私だけれど、彼こそ、私の知らない世界を私に体験させてくれる天使なのかもしれない・・・・と思うことにしよう。

 頭でっかちよ。さようなら。

 妥協だらけで、自分を見失ったわたし。
 ちっとも妥協してくれない四男。
 妥協とは思いやり。
 でも、自分を忘れ去った妥協は、思いやりでもなんでもない。
 それくらいなら、四男のように、わがままを通した方がよほどまし。

 
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