でもね。
そうは言ってもね。
夫に、期待しないで、『この人はこのままでいい。この人のままでどうやって好きになってあげられるか。私は、この人に何をしてあげられるか。』を考えるなんて、頭の中が、天動説が地動説になったくらい、受け入れがたい。
いやはや、好きにはなれそうにない。
でも、愛するとは、そういうことなのかもしれない。
見返りを求めない無条件の愛を愛というのなら・・・。
わかっている。
問題が発生して、何をやっても改善しない場合は、『そっちの方向に進んでも解決しないよ。正反対の道を選んで進んでいきなさい。』というメッセージだと受け止めようってこと。
右股関節の激痛でトイレまで這っていった時、後ろ歩きなら、全然痛くなくすいすい歩けた。あ、そうか。55年間慣れ親しんできた私の歩き方の癖のまま、歩いてもダメですよ。同じような筋肉の使い方では痛みはとれませんよ。正反対の筋肉を使ってごらん。そしたら、筋肉のバランスが取れて、痛みも取れますよっていうサインが、激痛であるとわかった。
カラダの苦痛、ココロの苦痛レベルになったら、今までと正反対をやってみる。
カラダの癖の正反対は、まだ、やりやすい。
でも、ココロの癖の正反対って、ムズすぎる。
しょうもない旦那って、思っているのに、『このままでいい。』と受け入れるだけでも一苦労しそう。なのに、『何とか、好きになる?』???
そりゃ、結婚したての頃は、がんばりましたよ。結婚したとたん、キレキャラに豹変した時も、朝方まで、彼の無念史を幾夜となく傾聴しましたよ。いつか、その無念史を語る日がなくなり、キレない日が訪れるだろうと期待して。
で、わかりましたよ。
彼は、その無念史を酒の肴にしてしまっていると。
誰かのせいにしているかぎり、自分のほんとうの人生はスタートしない。
アナは、ありのまま・・・・と自分がありのままで生きたいと歌っていた。
その歌声は、世界中に響き渡った。ありまま、あるのままってうるさいなって、正直。
なんか、違うって違和感を感じていた。
どうして、私は、自分がありのままでいたいということに、違和感を覚えたのだろうって、ずっと、考えていた。
で、わかった。
たぶん、自分自身が、ありのままの感情を思う存分表出できるように育っていないから、そのありのままがわからない・・・のに、世間の人は、ありのままがわかっていて、でも、ありのままで生きることって厳しいって認識して、諦めている人もいたりして・・・。だから、ありのまま、ありのままって歌いたいのだと。
オンギャーと産まれた時から、どれだけ、ありのままでいさせてもらえただろう。泣いてスッキリしたいだけなのに、ずっと、抱っことか、すぐ母乳とか与えることから、すでに、ありのままでいさせてもらえない。
だだこねは、すっきりしたいサインなのに、怒られる。なだめられる。
下が生まれて、ママをポッと出の赤ちゃんに取られて悔しくて、ちょこっと手を出しただけなのに、怒られる。ママに、ママを取られた気がして、腹が立つね~~と抱きしめてもらいたいだけなのに。
脳の発達はまだ未熟で、個人差があって、言語化も上手でないから、自分の感情をうまくコントロールできない。その抑えきれない感情をどうにかしたくて走り回って発散しているだけなのに、多動というレッテルを貼られてしまう。一緒に、走り回ってもらえたらうれしいのに。
下の子が生まれて、ママに注目されるにはどうしたらいいかだけを24時間考え続けて、いたずらをしたら、ママから怒られるのを注目されると勘違いして、いたずらに拍車がかかっているだけなのに、この子は、困った子ってレッテルを貼られて・・。
この世は、ちっとも、ありのままでいることを許してもらえない。
ありのままでいさせてもらえない。
私の育った時代は、貧乏だった。
貧乏というだけで、親に〇〇したいって言うことすら、頭に浮かばなかった。そういう空気が蔓延していた。みんながそうだから、疑問すらいだかなかった。
でも、そこから、すでに、ありのままなんてどこにもなかったのかもしれない。
今の時代は、そういう意味では、素敵な時代だと思う。
だけど、その分だけ、ありのままの自分とありのままでいられない自分のギャップに悩んでしまって、心が疲れてしまう。
そろそろ、ありのままでいさせてあげれる人が必要とされる時代になってきたのかもしれない。
で、振出しに戻る。
あ~~~。私は、夫をありのままでいさせてあげれるだろうか(笑)。
仕事だと割り切ってみてはどうか?