総合漢方にんぷ薬・総合漢方育児薬

~頭を使ってではなく、カラダ(感性)で子育てしてみませんか~

ありのままでいさせてあげれるだろうか。

2023年12月31日 | エッセー
 でもね。
 そうは言ってもね。
 夫に、期待しないで、『この人はこのままでいい。この人のままでどうやって好きになってあげられるか。私は、この人に何をしてあげられるか。』を考えるなんて、頭の中が、天動説が地動説になったくらい、受け入れがたい。
 
 いやはや、好きにはなれそうにない。
 
 でも、愛するとは、そういうことなのかもしれない。

 見返りを求めない無条件の愛を愛というのなら・・・。

 

 わかっている。
 問題が発生して、何をやっても改善しない場合は、『そっちの方向に進んでも解決しないよ。正反対の道を選んで進んでいきなさい。』というメッセージだと受け止めようってこと。

 右股関節の激痛でトイレまで這っていった時、後ろ歩きなら、全然痛くなくすいすい歩けた。あ、そうか。55年間慣れ親しんできた私の歩き方の癖のまま、歩いてもダメですよ。同じような筋肉の使い方では痛みはとれませんよ。正反対の筋肉を使ってごらん。そしたら、筋肉のバランスが取れて、痛みも取れますよっていうサインが、激痛であるとわかった。

 カラダの苦痛、ココロの苦痛レベルになったら、今までと正反対をやってみる。

 カラダの癖の正反対は、まだ、やりやすい。
 でも、ココロの癖の正反対って、ムズすぎる。

 しょうもない旦那って、思っているのに、『このままでいい。』と受け入れるだけでも一苦労しそう。なのに、『何とか、好きになる?』???
 そりゃ、結婚したての頃は、がんばりましたよ。結婚したとたん、キレキャラに豹変した時も、朝方まで、彼の無念史を幾夜となく傾聴しましたよ。いつか、その無念史を語る日がなくなり、キレない日が訪れるだろうと期待して。
 で、わかりましたよ。
 彼は、その無念史を酒の肴にしてしまっていると。
 誰かのせいにしているかぎり、自分のほんとうの人生はスタートしない。

 アナは、ありのまま・・・・と自分がありのままで生きたいと歌っていた。
その歌声は、世界中に響き渡った。ありまま、あるのままってうるさいなって、正直。
 なんか、違うって違和感を感じていた。
 どうして、私は、自分がありのままでいたいということに、違和感を覚えたのだろうって、ずっと、考えていた。
 で、わかった。
 たぶん、自分自身が、ありのままの感情を思う存分表出できるように育っていないから、そのありのままがわからない・・・のに、世間の人は、ありのままがわかっていて、でも、ありのままで生きることって厳しいって認識して、諦めている人もいたりして・・・。だから、ありのまま、ありのままって歌いたいのだと。

 オンギャーと産まれた時から、どれだけ、ありのままでいさせてもらえただろう。泣いてスッキリしたいだけなのに、ずっと、抱っことか、すぐ母乳とか与えることから、すでに、ありのままでいさせてもらえない。
 だだこねは、すっきりしたいサインなのに、怒られる。なだめられる。
 下が生まれて、ママをポッと出の赤ちゃんに取られて悔しくて、ちょこっと手を出しただけなのに、怒られる。ママに、ママを取られた気がして、腹が立つね~~と抱きしめてもらいたいだけなのに。
 脳の発達はまだ未熟で、個人差があって、言語化も上手でないから、自分の感情をうまくコントロールできない。その抑えきれない感情をどうにかしたくて走り回って発散しているだけなのに、多動というレッテルを貼られてしまう。一緒に、走り回ってもらえたらうれしいのに。
 下の子が生まれて、ママに注目されるにはどうしたらいいかだけを24時間考え続けて、いたずらをしたら、ママから怒られるのを注目されると勘違いして、いたずらに拍車がかかっているだけなのに、この子は、困った子ってレッテルを貼られて・・。
 この世は、ちっとも、ありのままでいることを許してもらえない。
 ありのままでいさせてもらえない。

 私の育った時代は、貧乏だった。
 貧乏というだけで、親に〇〇したいって言うことすら、頭に浮かばなかった。そういう空気が蔓延していた。みんながそうだから、疑問すらいだかなかった。
 でも、そこから、すでに、ありのままなんてどこにもなかったのかもしれない。
 今の時代は、そういう意味では、素敵な時代だと思う。
 だけど、その分だけ、ありのままの自分とありのままでいられない自分のギャップに悩んでしまって、心が疲れてしまう。

 そろそろ、ありのままでいさせてあげれる人が必要とされる時代になってきたのかもしれない。

 で、振出しに戻る。


 あ~~~。私は、夫をありのままでいさせてあげれるだろうか(笑)。

 


































 















 仕事だと割り切ってみてはどうか?




 






















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夫婦というものは、一番相性の悪い者同士

2023年12月30日 | エッセー
 斎藤一人さんの本に、『夫婦というものは、世の中で一番相性の悪い者同士がくっつくのです。』と書かれてあった。
 だったら、夫婦喧嘩がなくなるわけがないじゃん。
 昔から、われ鍋にとじ蓋って言われている『夫婦とは論』。
 もし、あなたが家の中でゴロゴロされるのが嫌だとすると、相手は絶対ゴロゴロするのです。
 働かない人間が嫌いな人はには、働かない人がつく。
 口うるさい人が嫌いな人には、口うるさい人がつく。
 とにかく、相手が困るようなことを絶対にする。
 
 相性のいい夫婦は、案外、相手が早く死んでしまう。

 だから、相手がどんな嫌いなことをしても、相手を変えようとしないこと。相手に期待しないこと。

 『なんでお前は…。』『どうしてうちの旦那は…。』と思っている間は、苦しみから救われることはありません。
 『この人は、このままでいい。』
 『このままの人をどうやって好きになってあげられるか。私はこの人に何をしてあげられるか。』と考えるのです。
 そう考えるようになると、相手が変るか、あるいは、縁が切れます。


 夫婦って、われ鍋にとじ蓋なのだって。肝に銘じるしかない。

 互いに一歩も引かない、罵り合う夫婦げんかは、あきらかに面前DVだ。きっと、われ鍋にわれ鍋夫婦なのだろう。
 
 面前DVにならない夫婦げんかって、夫婦って所詮、われ鍋にとじ蓋さ。どっちも完璧に正しいわけじゃない。だから、一歩引きましょう・・・という気持ちがどちらかにある夫婦げんかかもしれない。お互い、意見は言うけれど、一歩引きあう人間性があると、うまくいくのかな?今回は譲歩するわって感じで、お互い。
 子どものいる家庭生活の正論は、ほぼ妻が勝利する。だって、こどもの命と生活が懸かっているのだから。だから、夫婦げんかしても、夫の個人の幸せという正論は、歯が立たない。で、夫婦げんかが始まるのだ。
 名もなき家事がピーンと来ない夫にキレる。名もなき家事をいちいち指図する妻にキレる。
 
 相手を変えようとしない・・・か。
 
 しんどいなぁ。

 面前DVは、お互い自分の自己主張を曲げず、相手を変えようと意地を張る夫婦のけんかで、面前DVでない夫婦げんかは、途中で、どちらかが諦めるけんかなのだろうか。
 否、それも、ちょっと、面前DVグレーゾーンかもしれない。

 お互い、自己主張はしっかりできる。でも、そうか、今回は、俺が妥協するかっていう夫婦げんかは、面前DVにはならない?

 私の母は、暗黙の自己主張をしていた。私の父は、母のこだわる価値観に対して暗黙に自己主張することを最初から、諦めていた。
 そんな家庭で育った私は、のほほ~~ん。

 夫婦げんかは、子育てに必須なツールだ。ただし、罵り合わない夫婦げんか。
 そうすると、こどもは、みんな自己主張していいのだ、お母さんの自己主張って、こうなんだ。お父さんの自己主張って、お母さんとは違っているんだ。みんな、違うんだ。私は、どんな自己主張する?
 という基盤をもって大人になれる。

 けんか(自己主張)ってものすごく大事な自己防衛ツール。
 夫婦って、所詮、われ鍋にとじ蓋さって、大前提に立って、罵り合わない夫婦げんかをしよう。

 
 
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夫婦喧嘩と面前DVの違いは?

2023年12月29日 | エッセー
  つい最近、叔母(母の一番下の妹)が、『あなたのお母さんは、あなたの妹が結婚する時、その相手が〇〇大学なんですーーー。ウフフ。と嬉しそうに紹介したことを覚えている。』と、母のことを語った。
 私自身は、育つ過程で、自慢話的な話をしいている母の姿を見たことはない。他人に対しては、むしろ、控えめであったような記憶しかない。
 でも、叔母の一言で、母は、実は、結構エリート意識が高かったのに仮面をかぶって本音を隠し、骨の髄までぶりっこだったのかもしれないと空恐ろしくなった。
 エリート意識に優越感を感じる、その気持ちはわかる。そりゃ、娘の夫が有名大学卒業って、単純にイヤな気持ちはしない。
 でも、他人には言わない。
 それを他人に言った時点で、母は実は、人間性とか品性とか優しさとかそんなことよりも、優秀であるか否かが、意外と大きな物差しになっている人なんだということを証明したってことになる。
 日頃から、そんなことを言っているのなら、わかる。
 でも、日頃は抑えていて、あまりにも嬉しくて抑えきれなくなって、叔母につい言ってしまったのだろう。
 だから、母は普段、本音を言わないぶりっこだと思うにいたった。
 そう。母は、私が子育てで一番大切だと痛感している『ママは自分の気持ち実況中継アナウンサー』という思いの正反対にいる人だった。
 母なりの持論である『子どもの前では喧嘩をしない。』は、祖父母のお互い一歩も引かない夫婦喧嘩を見て育ってきたせいだと言う。母は、両親の激しい夫婦喧嘩を反面教師として学んだ。子どもの前では夫婦喧嘩をしないとことを鉄則として守り抜いた。
 しかし、その結果、私は、『怒りの感情が未分化です。だから、自分を守る力が弱いです。』と心理カウンセラーの先生から指摘されるような、残念な人間に育ったと思う。自分を守る力、つまり、防衛力のなさは、決断力のなさとなり、本当に必要な時に決断し行動しないといけない時に、ズルズルとなってしまいがち。事実、その優柔不断さで、離婚に踏み切れず、子どもたちに本当に申し訳ないことをしてしまった。今、自分の蒔いた種と向き合わされて、すまない気持ちで、日々、胸を締め付けられるような思いを抱いて、でも、前を向かなきゃと深呼吸しながら、生きている。
 父は父で、頑固な側面のある母とは、話し合いができないと諦めていたのだろう。成人してからのことだが、私が、母にちょっと反抗的なことを言おうとしたとき、ノンノンって感じで首を横に振って『それ以上言うな。言っても無駄だ。』みたいなしぐさをした。
 ってな感じで、私は、両親の生の感情の交流を感じないまま、見せかけの凪という家庭で育ってしまった。
 自分の気持ちを全然実況中継してくれない父と母の元で育った私は、怒の感情を発達させることができず、苦労した。
 イヤな仕事もノーと言えず、サービス残業というしわ寄せが押し寄せて、育児時間を削られて、結果、こどもとゆったり過ごすまったりした時間をもてず、もちろん、だから、自分の気持ち実況中継なんかする暇もなく、子どもたちも忙しそうな母に遠慮してしまいがちになり、こどもも自分の気持ちを実況中継なんかできず・・・。

 負の連鎖だ。

 夫婦喧嘩の是非について

 最近は、子どもの前での夫婦喧嘩を面前DVという。
 面前DVは、実際に親が子に暴力をふるったり暴言を吐くことよりも、子どもの脳の発達へのダメージがはるかに大きいということが、最近わかってきた。
 だから、子どもの前での夫婦喧嘩をやめようと厚労省もキャンペーンを始めた。
 昔は、夫婦喧嘩は犬も食わないって言われていた。
 でも、今では、力や言葉の暴力よりも、子どもに悪影響があると言われ始めた。
 自己主張的な夫婦喧嘩はいいのかな?
 お互いに罵り合う夫婦喧嘩はアウトなのか?

 夫婦喧嘩を見たことがなかった私は、親が何を感じているのかさっぱりわからないで、だから、自分の中の怒りとかイヤだという感情つまり、自分を防衛するための自己主張を明確に表出することができない大人になってしまって、苦労した。

 本当にこどもの前での夫婦喧嘩はアウトなのだろうか?

 おそらく、どちらも一歩も引かない場合が、アウトなのかもしれない。両方が一歩も引かないと、最後は、罵り合いで終わるしかない。お互いがお互いの欠点や過去の過ちをあげつらって、罵声だけが行き交うようになっていく。激しくなっていく。
 大方の夫婦喧嘩は、途中でどちらかが引く。つまり、折れる。否、我慢する。耐える。
 それも、なんだか、けんかのお手本としては、いかがなものか。

 
 
 
 
 
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『今、ここ』って『自分の気持ち実況中継アナウンサー』になるってことだったんだ

2023年12月24日 | エッセー
 マインドフルネスの『今、ここ』って、どこ?
とずっと、探し続けていた。
 そして、一周回ってやっと辿り着いた。

 そう。
 自分の気持ち実況中継アナウンサーになる。

 つまり、ありのままの自分を抑圧しないで表現する。

 瞬間瞬間に感じる自分の気持ちを言葉にすることを24時間意識し続ける。
 
 小さい頃から、ずっと、自分の気持ちを表現することを許されて育ってきた人は、つまり、わがまま、あるいは自己主張、好き嫌い、したいしたくないを素直に表現することを許され、あたたかく受け入れてもらえて育ってきた人は、自分の気持ちを抑圧されることなく生きてこれた最高に幸せな人だ。
 泣いても笑っても怒っても哀しんでも、ありのままでいさせてもらえた。

 アナは、♪ありのままの自分・・・♬って歌っていたっけ。
 そして、みんな♬ ありのままの自分・・・♪って歌っていた。

 みんな楽しそうに、ありのまま*ありのままってはしゃいでる。
 みんなありのままな感覚で生きていられるから、楽しそうに歌えるのかなぁ?って、いいなぁって。
 でも、本当に、ありのままに生きている?
 イヤなことはイヤって平気で言えてる?
 したくないことはしたくないって平気で言えてる?
 したいことを我慢しないでしてる?

のだろうか。
 

 『今、ここ』が『自分の瞬間瞬間に感じる気持ちをしっかり感じ取って、今、私は〇〇な気持ちなんだ』と気持ちに集中するってことだとすると、な~~んだ。私は、母子手帳交付のときに、妊婦さんに『胎児の時期から、自分の気持ち実況中継アナウンサーになってください。』とお伝えしていたっけ。
 
 10か月、つまり、24時間✖30日✖10か月=7200時間ずっと、私だけのママの子宮というおうちでママだけを感じて過ごしている赤ちゃんは、お産によって、突然、分離される。お産とは、ママの気持ちに溢れた子宮のおうちから、突然、追い出されるってこと。慣れ親しんだ住処から突然、追い出されたら、どんな気持ちになる?一刻も早く慣れ親しんだママのそばにいたいよね。
 なのに、生まれた瞬間から、ママが突然、いいお母さんをめざしてしまったとしたら・・・。いいお母さんを目指さなくても、特に第1子の育児は初体験なので、すべてが緊張しっぱなしになりがち。え?これ、ママ?なんかお腹の中にいた時のママと違う?と不安になってくる。この不安も夜泣きぐずりの一因になっているかもしれないと言われている。

 得体が知れない  

 のが、人間にとって一番の恐怖だ。

 恐怖や不安を感じている時に、人はニコニコなんてしていられない。怖いよ~こわいよ~って言いながら、誰かに抱きしめてもらいたい・・・はず。
 でも、どうだろう。
 めそめそ泣いたり、ギャンギャン泣いたら、ママ、どうする?
 
 たいがい、あやす。

 よかれと思って。

 あるいは、『泣いたら抱っこしましょう。抱き癖なんかつきません。泣いてもほったらかすような母親は虐待です。』と提唱される小児科医の一言によって、罪悪感の種を植え付けられて。もちろん、無視はいけない。でも、抱っこして携帯をみているって、それは、虐待ではないのだろうか。でもでも、ずっとぐずって、一日中抱っこせざるを得ない状況になったら、携帯でもみていないと・・・。
 
 

 実はあやすとは、泣いたらダメよというメッセージ。
 泣きたいのが、赤ちゃんの、ありのままの姿。
 なのに、ありのままでいちゃだめよって、お産後、外界での唯一の命綱であるママに言われたら、従うしかない。妊娠中とお産後のママの激変ぶりには戸惑っても、だからと言って、パパって赤の他人。いくら、助産師さんが優しくても、ママではない。逆に、いくら激変しても、大元のママはママだ。だから、唯一の命綱はママだけ。
 妊娠中、ヨットぽかった(そんなに自分の気持ちを伝えてくれなかった)ママが、お産後、豪華客船をめざすっぽい(相変わらず、自分の気持ちは伝えてはくれないけれど、僕のためにいいお母さんにならんとしている)ママになってしまったママにびっくりして、怖くなって、泣いて慰めてほしかっただけなのに、ママは、僕が泣くのはイヤなんだ。ホントは泣いてスッキリしたいだけなんだけど、ママが嫌がるなら我慢する。だって、ママは命綱だから。

 子育てとは、わが子を

 ありのままでいさせてあげる 
 
 それが、ママとパパの一番大きな仕事。

 一日中、ぐずるからと、抱っこしているのは、ずっと、ありのままでいてはだめよって、耳元でささやかれているようなものかもしれない。

 妊娠した瞬間から、大人になるまでに、いかに、ありのままに居させてあげることが、大事業であり、偉業であるかを考えてみたい。

 なぜって、私が、還暦過ぎても、ちっとも、ありのままでいられない哀しい生き物だから。
 自分史と重ねて、『ありのまま』と『生きる意味』というものを見つめてみたい。
 
 
 
 


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マインドフルネスの『今、ここ』はどこ?

2023年12月09日 | エッセー
 最近、マインドフルネスという言葉をよく目にする。 
 目にしたり耳にしたりする割には、?である。
 活字では、瞑想して、邪念を感じないようにして、今、この瞬間を感じる・・・みたいな。
 そもそも、瞑想、瞑想って言うけれど、座禅を組んでいる人たちは、ほんとうに瞑想できているのだろうか?今、その瞬間の気持ちと共に座っていられるのだろうか?
 昔昔、鎌倉のお寺で、一度だけ、座禅というものを体験したことがあるけれど、邪念よりも何よりも、足がしびれるなぁという肉体問題との闘いレベルというお粗末な結果であった。
 仮に、足がしびれなくても『今、ここ』になんていることは、できそうにない。今の気持ちをしっかりキャッチして、あ~~、私は、今、こういう気持ちなのねって感じるためには、ほんの少し前の気持ちを引きづっていてはむり。
 そもそも、日々、しんどい悩みを抱えているから、瞑想したら、その悩みが解決するのではないかというような期待感で、その場所に居てしまいがち。そんな過去の苦しみや未来への不安を抱えてしんどい人が、『今、ここ』にいることって、かなり難易度の高いセッション。
 だから、呼吸を意識して・・・とか言うのだろう。

  あ~~~。
 私そのものが、きっと、ずっと、『今』を生きてこなかったから、『今、ここ』がピーンと来ないのだろうか。
 還暦を過ぎた私は、なんと60年もの人生の大半をまともに生きてこなかった・・・・。おそらく、小学校入学と共に、私の人生から『今、ここ』が消失してしまった。学校で強制的に椅子に座らされ、贔屓する先生の存在とかいじめっ子の存在により、『今、ここ』ではなく、過去の恐怖とか未来の不安の渦に巻き込まれていった。通知表も私の『今、ここ』をう奪ってしまったかもしれない。パッとしなかった通知表が、小3の2学期に初めて算数が5になったその時から、輝きだした。勉強は好きではなかったけれど、やっぱり5はうれしかった。それから、なんとなく5が増えていったけれど、今度は、5を失いたくないという守りの態勢に入ってしまった。そこから大学受験まで、守りの態勢でしか勉強できないビクビク人生が始まってしまった。試験のたびに、上位からの脱落を怖れる心に支配されて、しんどい。ほら、オリンピックで一度、金を取ってしまったら、それまでの攻めの勢いではなく、守りに入ってしまってカラダが緊張してしまってしんどいって聞くじゃない。レベルが違いすぎて例えとしては笑っちゃうけれど、攻めるときは『今、ここ』にいやすいけれど、守りに入ると、不安が『今、ここ』にいることを邪魔しちゃう。順位とか成績って、モチベーションアップになってやる気につながるけれど、不安になりやすい(つまり、『今、ここ』にいることが上手でない)人にとっては、大きな壁になる。
 それからそもそも父親も母親も、『今、ここ』をしっかり表現してくれないもんだから、私の『今、ここ』がどこにあるのかちっともピーンと来なくて、ほわーんほわーん。おまけに、母親のぶりっ子度合いが半端なかったし、私が、ほんの少し、自己主張するとしゅんとなるから、『今、ここ』を主張することを諦めてしまった。おまけにおまけに、なぜだか、自爆。自分で自分の『今、ここ』を『優しい素敵な女性になりたい』という抽象的な理想を追いかけるメルヘンで封印してしまった。
 さらに、受験という未来への不安が拍車となって、いよいよ私から『今、ここ』を奪っていった。
 もはや、『今、ここ』にいないという生活習慣病の域だ。
 
 マインドフルネスって言葉をさらっと言える人って、小さい頃から、ちゃんと『今』を生きてこられた人か、もしくは、その正反対で苦しんで、瞑想という世界観まで到達できた人かどちらかだと思う。
 ありのままに・・・とアナは謳う。
 みんなもカラオケで、ありのまま・・って歌っている。
 本当に、多くの人は、ありのままに育っているのだろうか。
 『〇〇したい。』って思ったら、それを否定されずにのびのびとやりたいことを思う存分にできる日々を過ごして大人になれたのだろうか。
 小さい頃から、『今、ここ』にいることを許されて育った人は、ずっと『今、ここ』にいれる。当たり前のように・・・。
 そんな人は、きっと、ストレスが溜まりにくいはず。
こうかい 
    






 
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『腰痛は怒りである』 腰痛よお前もか。

2023年12月02日 | エッセー
 次男が、また、腰の調子がイマイチになって来たとラインしてきたので、母心として、椎間板ヘルニア攻略法を模索した。
 一年前、次男が激痛で身動きもできなくなって救急車を呼んで入院したとき、お医者さんは、どうかなぁ?椎間板ヘルニアかなぁ?と即診断とならず、退院まじかになって、やっぱり、少し、椎間板の隙間が腫れているようだから、椎間板ヘルニアですねって感じで、激痛の割には、診断がつきにくいのねって、少し、不思議な感じがしていた。
 あの時、実は、うつ的になっていて精神科に通っていたって息子は言っていた。ストレスでお酒も飲んでいたとも。
 総合して、ストレスでお酒を飲みすぎて不摂生したために、肝臓が弱り果てて肝臓の張りがなくなって、腰骨を支える筋肉も落ちて、ヘルニアになったんだって解釈していた。
 肝臓に負担をかけない生活と筋力アップとあっためるの3点セットを息子に伝授した。
 で、再発のイヤな予感。
 こりゃいかん。どげんかせんといかん。
 そう思い始めたとたん、昔、図書館で借りてきた本のタイトルをふっと思い出した。
 その本のタイトルが『腰痛は怒りである』だ。

 あの当時、へぇ、腰痛って、物理的ではなく精神的なんだって、衝撃的だった。ブルータスお前もかではなく、腰痛お前もかって感じ。
 でも、本の中身は覚えていなかったので、早速、図書館で借りてきて読んだ。
 まぁ、腰痛も心身症の一つの症状で、ストレスで胃がキリキリと痛いとか下痢しちゃうとかそんな感じだってわかった。
 ①生まれ持ったその人の体質と
 ②運動・休養・食事などの生活習慣と
 ③物事の捉え方あるいは気質

 の三つの要素にストレス負荷の大きさ
 が加わり、痛みなどという症状で宿主である私に、そっちじゃないよって黄色信号を点滅してくれる。

 どうやら、腰痛もそっちじゃないよって黄色信号の一つらしい。

 本にこう書いてあった。
 椎間板ヘルニアの好発年齢は30代。もし、老化現象だったり、腰椎のずれだったら、50代60代70代と高齢化と共に増えていくはず。息子は20代後半だ。  母は、『え~~~ショック。息子はまだ20代。これからの人生、一生、椎間板ヘルニアと共に生きていくんだ。不憫~~~。』って心の中で叫んでしまった。でも、ひょっとして、心を整えることに意識を向けられるようになったら、椎間板ヘルニアとさよならできるかもしれない。
 この本にはこうも書いてあったし・・・。
 もし、物理的に骨がおかしくなっているなら、いつも痛いはずだ。痛い時もあったり、そうでもない時、全く痛みを感じない時もあるとするなら、それは、精神的な問題である。
 
 この世は、案外、心身症だらけかも。

 長男が小さい頃は、よく熱を出して保育園をお休みすることがあった。あの時は、『また、知恵熱ねっ。』て言っていたっけ。
 次男は、知恵腰痛?⇒椎間板ヘルニア
 三男は、知恵下痢?⇒痔
 四男は、知恵腹痛?まだ、10代なので、病気レベルにまではなっていない?

 私は、高校時代、受験のストレスから、睡眠不足なのに、どんなに疲れていても朝まで悶々として眠れない体験をしている。知恵不眠だったのかな?受験当日の朝、下痢との戦いだったから、知恵下痢?
 病気になる前に、受験地獄から脱出できたのでよかった。

 ところで、この本のタイトルは、『腰痛は怒りである』である。『腰痛は、哀しみである』とか『腰痛はストレスから来ている』でもない。
 怒りが次男の心に?と疑問。
 彼は、自分の人生をこの仕事で終わらせて良いのかというようなジャンルの進退の葛藤というストレスから出社拒否状態になっての激痛だったという。そこに怒りという感情はなさそう。
 なのに、なぜ、怒り?

 
 
 

 
 
 


 
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