最近、いい感じ。
何が、いい感じかというと、どんな状況が起きても、以前よりは、ほんの少しだけ、その出来ごとに感情が振り回されないようになった気がする。ほんの少しだけだけど。
さとうみつろうさんの『Rei』を読んだから。
とある子どものセリフ。
修学旅行中、台風がやってきそうで、てるてる坊主をつるして、生徒たちに「大丈夫、お天気の神様を信じていれば、台風なんて来ないよ。」と言って、みんなで祈った。
でも、翌日、しっかり台風がやってきてしまった。
「お天気の神様を信じる力が足りなかったかなぁ~。」とつぶやいたら、ある生徒が、「先生、ちゃんとお天気の神様を信じたの❓」って聞いてきた。
そして、
「先生が信じたのは、お天気の神様なんでしょう?」
「じゃぁ、今日は『台風』が一番いいってことだよ。だって、神様が選んだお天気がこれなんだから。」
部屋に向かって、「よっしゃー、みんな、今日は一日中ゲームができるぞ‼」と喜びながら生徒たちは駆け出して行った。
信じることの本質を見たような気がした。
先生が信じたのは、『晴れた方がいいに決まっている。』という過去の『自分の記憶データ』
でも、生徒が信じたのは、『お天気の神様』
今日の天気は、その信じたお天気の神様が選んだのだから、晴だろうが雪だろうが台風だろうが、もう、それを信じるだけ。
信じるということはそういうことだったのか・・・。
どんだけ~~~!
というくらい、試練が私に振ってきた。
今も・・・。
神様は、まだ、足りない。もっと、人間として成長しなさいと、私にいろんな過酷な体験というお題をお与えになるのか・・・。
と、今の今までそう思っていた。
めっちゃ、お天気に左右されて生きてきた。
でも、この文章に出逢って、視点ががらりと変われた。
息子が、自分のことは棚に上げて、てめぇは、その年になっても俺と同じレベルじゃないか。『老害・老害・老害!!!!!』・・・・と連呼するたびに、自分のやるべきことはやらないくせに口撃しまくってくる息子に、腹が立った。思春期だからと笑い飛ばせるほどの器に、どうしてもなれなかった。息子も、俺がどんだけわがまま言おうが、それすらも笑いに変えられる器の母になってほしいのだと思う。
息子の口撃が始まって、最初は、優しく受け入れようと頑張る。でも、これでもか、これでもかとしつこく口撃してくるもんだから、堪忍袋の緒が切れる状態に陥っていく。
あ~~~、今日もだめだったか・・・。ユーモアのセンスの欠片もない。
もう、これ以上、ヒステリックになりたくないから、黙る。
黙ると、また、息子が突いてくる。
なぜ、黙るのか・・・と。
そして、決め台詞で最後の一撃だ。
「こんな時に、話題を変えるっていう能力はないのか?僕はやっているよ。大人なのにそんな采配もできないのか。僕ですら気を使ってやっているのに…。」と。
今からは、息子の口撃の最中も、今までよりは、腹が立たないような気がしてきた。
だって、神様が、思春期の息子が、自分のことを棚に上げて、自分より43歳も長く人生を生きているんだから俺と同レベルなんて情けないと母の人間性を査定しまくる嵐がいいと判断したのだから。神様を信じよう。お天気の神様を信じるように・・・。
『お天気の神様を信じる』
という発想は、偉大だ。
今や、起こる出来事すべてに対して、神様がいいと判断してこの出来事をプレゼントしてくれているというような受け止め方が自然と身についてきた。そうすると、今までは、災難が降ってくる、神様はなぜ、こんなにも試練を与えるのだろうかと嘆いていたけれど、今は、様々ないろいろが全部、あ~、神様が必要だと与えているんだと、神様を信じられるようになってきた。そして、こんな状況でも楽しみ見つけようという気になってきた。結果、心がとても穏やかになった。
穏やかな心をゲットできただけで、不幸感が消失するっていうところがほんとうにありがたい。
そう。
今まで、台風のときに、楽しめない人間だった。小雨でも・・・。60年余りの生活習慣。そうそう簡単に切り替えられるもんじゃない。たとえ、切り替えられても、すぐも元に戻っちゃう。というか、楽しむっていう力が欠落していた。ワクワクするような趣味がないっていうか・・・。
雨が降ろうが、台風だろうが、今を楽しんで生きる。
つくづく、自分ってやつがない人生だったんだろうな・・・。
この年になって、やっと、人生のスタートを切った感が無きにしも非ず。
つまり、人生とは、晴にの日も小雨の日も台風の日も、そんなのお構いなしに楽しむなり。
やっと、お構いなしな感覚の入り口に辿り着いた。やっと・・・。
感謝。
何が、いい感じかというと、どんな状況が起きても、以前よりは、ほんの少しだけ、その出来ごとに感情が振り回されないようになった気がする。ほんの少しだけだけど。
さとうみつろうさんの『Rei』を読んだから。
とある子どものセリフ。
修学旅行中、台風がやってきそうで、てるてる坊主をつるして、生徒たちに「大丈夫、お天気の神様を信じていれば、台風なんて来ないよ。」と言って、みんなで祈った。
でも、翌日、しっかり台風がやってきてしまった。
「お天気の神様を信じる力が足りなかったかなぁ~。」とつぶやいたら、ある生徒が、「先生、ちゃんとお天気の神様を信じたの❓」って聞いてきた。
そして、
「先生が信じたのは、お天気の神様なんでしょう?」
「じゃぁ、今日は『台風』が一番いいってことだよ。だって、神様が選んだお天気がこれなんだから。」
部屋に向かって、「よっしゃー、みんな、今日は一日中ゲームができるぞ‼」と喜びながら生徒たちは駆け出して行った。
信じることの本質を見たような気がした。
先生が信じたのは、『晴れた方がいいに決まっている。』という過去の『自分の記憶データ』
でも、生徒が信じたのは、『お天気の神様』
今日の天気は、その信じたお天気の神様が選んだのだから、晴だろうが雪だろうが台風だろうが、もう、それを信じるだけ。
信じるということはそういうことだったのか・・・。
どんだけ~~~!
というくらい、試練が私に振ってきた。
今も・・・。
神様は、まだ、足りない。もっと、人間として成長しなさいと、私にいろんな過酷な体験というお題をお与えになるのか・・・。
と、今の今までそう思っていた。
めっちゃ、お天気に左右されて生きてきた。
でも、この文章に出逢って、視点ががらりと変われた。
息子が、自分のことは棚に上げて、てめぇは、その年になっても俺と同じレベルじゃないか。『老害・老害・老害!!!!!』・・・・と連呼するたびに、自分のやるべきことはやらないくせに口撃しまくってくる息子に、腹が立った。思春期だからと笑い飛ばせるほどの器に、どうしてもなれなかった。息子も、俺がどんだけわがまま言おうが、それすらも笑いに変えられる器の母になってほしいのだと思う。
息子の口撃が始まって、最初は、優しく受け入れようと頑張る。でも、これでもか、これでもかとしつこく口撃してくるもんだから、堪忍袋の緒が切れる状態に陥っていく。
あ~~~、今日もだめだったか・・・。ユーモアのセンスの欠片もない。
もう、これ以上、ヒステリックになりたくないから、黙る。
黙ると、また、息子が突いてくる。
なぜ、黙るのか・・・と。
そして、決め台詞で最後の一撃だ。
「こんな時に、話題を変えるっていう能力はないのか?僕はやっているよ。大人なのにそんな采配もできないのか。僕ですら気を使ってやっているのに…。」と。
今からは、息子の口撃の最中も、今までよりは、腹が立たないような気がしてきた。
だって、神様が、思春期の息子が、自分のことを棚に上げて、自分より43歳も長く人生を生きているんだから俺と同レベルなんて情けないと母の人間性を査定しまくる嵐がいいと判断したのだから。神様を信じよう。お天気の神様を信じるように・・・。
『お天気の神様を信じる』
という発想は、偉大だ。
今や、起こる出来事すべてに対して、神様がいいと判断してこの出来事をプレゼントしてくれているというような受け止め方が自然と身についてきた。そうすると、今までは、災難が降ってくる、神様はなぜ、こんなにも試練を与えるのだろうかと嘆いていたけれど、今は、様々ないろいろが全部、あ~、神様が必要だと与えているんだと、神様を信じられるようになってきた。そして、こんな状況でも楽しみ見つけようという気になってきた。結果、心がとても穏やかになった。
穏やかな心をゲットできただけで、不幸感が消失するっていうところがほんとうにありがたい。
そう。
今まで、台風のときに、楽しめない人間だった。小雨でも・・・。60年余りの生活習慣。そうそう簡単に切り替えられるもんじゃない。たとえ、切り替えられても、すぐも元に戻っちゃう。というか、楽しむっていう力が欠落していた。ワクワクするような趣味がないっていうか・・・。
雨が降ろうが、台風だろうが、今を楽しんで生きる。
つくづく、自分ってやつがない人生だったんだろうな・・・。
この年になって、やっと、人生のスタートを切った感が無きにしも非ず。
つまり、人生とは、晴にの日も小雨の日も台風の日も、そんなのお構いなしに楽しむなり。
やっと、お構いなしな感覚の入り口に辿り着いた。やっと・・・。
感謝。