総合漢方にんぷ薬・総合漢方育児薬

~頭を使ってではなく、カラダ(感性)で子育てしてみませんか~

叱られることに慣れた子に育てよう?????

2012年10月29日 | エッセー
 え?叱られることに慣れる子に育てよだって?
 疑問符・・・・でしょ?

 実は、今、私は、実の母と夫の諍いの間に入って、人の心と人生についていろいろと考えさせられている。
 そして、母を見ていて、『やっぱ、けんかできない奴はいかん!』『子どもを優等生に育てたらとんでもない目に合う。』と痛感している。 夫との価値観の違いから生じるもめごとで眠れなくなっている母は、自分の人生を強制終了して、ただただ余生はストレスからなるべく遠ざかり、当たり障りのない表面的な付き合いグループのミニバレー仲間とミニバレーで生じる笑いだけで楽しく生きていければいいと断言した。

 今日、母と電話でしゃべっていて、はっと気が付いた。

 人生の課題って、『ほんとうに守るべき者がいたとき、その守るべき者が守ってほしいときに、命を懸けて(というとやや大げさだけれど)守れるか?』なんじゃないのかとピピーンと来た。

 もちろん、人それぞれだとは思うけれど、言いたいことを言えない、他人から言われたことをうじうじ考えて悩んで眠れない…みたいな、つまり、私のようなタイプの人にとっては、それが大きな人生のテーマのような気がしたのだ、母としゃべっていて。もちろん、カエルの子はカエル・・で、母は、私に輪をかけて、言いたいことを言えないタイプだ。かといって、人の話もろくろく聴いていない。聞けない。これじゃあ、お友達ができないはず(私はそれが気になるの)。

 母は、「もういい。もう72歳なんだから、残りの人生、当たり障りなく楽しく生きたい…。」とつぶやいた。
 
 「そうなんだ。じゃぁ、お母さんの人生ってなんだったの?私は、今、しみじみ思うのよ。私は、夫が怖くって、4~5年前まで、ほんとうに言いたいことが言えなかった。それが、どんなに子どもの心を寂しくさせていたか。特に長男が一番の被害者。彼が、17歳になるまで守れなかった。高2の冬にやっとやっと、怯むことなく、夫に向かって行けた。いっくら絵本を読んであげたり、山や川に連れて行ったり、おいいしい(かどうかわかんないけれど)手づくりのピザをを作ってあげたり、ガミガミ怒らなかったとしても、子どもの盾となり、理不尽なことをのたまう夫に反抗する子どもを守る(夫が何を言おうが吠えようが、真正面から向き合い、一歩も譲らず、きちんと子どもの気持ちを伝えるということ)ことができなければ、それは、ほんとうの愛がないってこととおんなじなんだよ。長男には、ほんとうにほんとうに申し訳ない気持ちでいっぱいだ。彼は、思春期まっただ中の頃、いっつも自殺のことを考えていたと、二十歳になってぼそっと語ってくれた。溜息・・・・。
 私は、17年かけて、ほんとうに守るべきものを守るためには、どんな相手にも怯まず挑んで行ける力をどうにか手にすることができた。でもお母さんは、どう?お父さんともけんかは避けてきたでしょう。お父さんは子どもには優しかったし、幸か不幸か私にも大きな反抗期ってやつがなかったから、怯まず子を守るっという機会にたまたま出会わなかっただけ。今、最後の機会=チャンスかもしれないよ。だって、けんかすべき愛すべき夫も亡くなった今、私の夫が相手でお母さんには少々手ごわいけれど、守るべきものを守る力を出せるなんて、もう、ないよ。だって、もう、守るべきものがないんだから。」
 思わず、そんなセリフが滔々と溢れ出てきて、自分でも驚いた。

 そうだ。そうなんだ。
 守るべきものを守るべき時に守る力をつけることこそ、人生だよ。
 それができなくって、何が、優しい?
 守るべき時に守れない優しさって、うそっぱち。偽善者だ。
 私も、4~5年前まで、しっかりちゃっかり偽善者だった。トホホ・・・。
 
 
 で、『母さんよ。あんたは、まだ、ほんとうの愛ってやつを兼ね備えていないんだよ。それで、人生を降りちゃっていいの?』って話だけど、これ以上の負荷は、母をうつ病にさせてしまいそうなので、もうやめた。今からは、母を、母ではなく老人だと意識して接していくしかない。残念。そう、残念。


 で、私が、人の話をきちんと聴いていないから、それじゃぁ、お友達ができないで一人寂しい思いをするんじゃないかと思って、そんなこと言えるのは私くらいだってわかっていて、あえて憎まれ役を買って出て、「きちんと聴けてないよ。」って、母にいうと、すぐ、シュンとなる。もう、みんな物忘れもするんだし、年をとってきたら思い込みが強くって、勝手耳になっていくもんなんだから、「あ~ら、そうだった。わ~は、は、は」と笑いに変えて、「気をつけなくっちゃいけないわねぇ。」なんてユーモアで返してくれればいいのに、叱られたって思いが強いからどんどん落ち込んでいく。そうなると、もう、こっちはお手上げ。「もしかして、お母さんは、小さい頃から、優等生だったでしょう?」って言葉が、なぜか、私の口からこぼれた。

 「そうだった。叱られたことがほとんどなかった。」と母。

 学生時代に、叱られたことがない優等生タイプの人は、打たれ弱い。
 たぶん、こういうタイプの人は、大人になって、失敗を怖れる。失敗した後、落ち込む。私の勝手な憶測であるが、うつ病にもなりやすいんじゃないかなぁ。
 小学校、中学校と先生から、結構、叱られてきた人は、免疫があるから、慣れていて、立ち直りも早い。
 これって、人生をたくましく、有意義に生きるためには、かなり、否、最も大切なことなんじゃないだろうか。

 ということは、四男は、今、かなり強力な免疫をつけつつある。担任にも叱られ、校長先生や教頭先生にも目をつけられ、縦割りそうじの時は、6年生にも恰好な餌食となっているもの。
 かわいそうだわ。叱られっぱなしでって思ていたけれど、優等生と正反対の行動ばっかりしているから、叱られるわけでいたしかたない。先生にもう少し対話をお願いしたいと思っているところだけれど、私さえ(親さえ)守っていれば、きっと、大人になって社会に出たら、強靭な神経で生きてゆけるのかも。そう思うと、まぁ、叱る先生は必要悪かも・・・ね。とにかく、親さえ、子の気持ちを汲んでさえいれば、例え、甘えさせすぎていると言われようが、親がしっかりしてくださいといわれようが、怯まず、子どもを守ってさえいれば、子どもは育つものだと、今、確信をもって言える。
 物は考えよう・・さ。



が、しかし、ウヒョ~ウ。

 本日、PM5:00 担任の先生より、よく言えば、『息子さんのことが心配ですので学校に来てください。』悪く言えば『呼び出し』があり、行って参りました。
 顔で笑って、心で泣いて・・・・いえいえ、
 顔で『はい、先生のおっしゃる通りです。うちの子は。』心で『絶対にわが子を信じるぞ。守るぞ。』って覚悟で出かけました。
 先生も、一生懸命やってらっしゃるけれど、うちの子にはお手上げで、困っていらっしゃるのが顔にしっかり出ていて、優等生でない親って、いろいろお話したくても、なんだか言いたいことを言えないのよねぇ。
 
 お勉強のこととお掃除のことと同じクラスの軽度の知的障害(?)のある女の子へのいじめの3点について、気になるということで呼び出された模様。

 最近は、小学校ってお掃除が縦割りなんだそうな。で、四男は、6年生に『早くしろ!』とか『ちゃんとしろ。』って感じで、指導されることが怖いのか嫌なのか、『6年生がいじめるからそうじに行きたくない。』と10日ほど前から言い始めていた。そして、ついに、先週の月曜日に寝る前、涙を流しながら鼻水もじゅるじゅるしながら、つまり、泣きじゃくりながら『明日、学校に行きたくない。』と言いだした。一度言い出したらきかない四男。ただ、彼の涙は本物だと思ったので、『わかった。じゃぁ、そうじの始まる前に迎えに行くから。先生にも、朝、電話しておくから。』と約束した。
 朝、四男が出かけた後に、担任にお電話すると、「今日は、火曜日で掃除のない日です。」ですって。で、火曜日は、そのまま見送りということになった。そして、翌日も何も言わずに出かけて行ったので、何もアクションしなかったら、夜、「何で、迎えに来なかったんだ。明日は休む。」ときかなかった。
木曜日は参観日だったので、結局、金曜日に昼休み迎えに行って、早退した。
 
 そうじの件では、その6年生の男の子も謝りに来たとのこと。でも、その場所には行こうとせず、今、そうじの時間どこにいるのかわからないと先生も掌握しかねている様子であった。

 呼び出された日に、座らされた場所は、四男の席で、廊下側で一番後ろの席だった。チラッと横を見ると壁に、2年2組のそうじ場所の配置表というものが貼ってあってびっくりした。

なんと、2年2組の生徒は、一人で敵陣に向かわなければならないという設定なのだ。
 他の学年の構成がどうなっているのかは不明だが、少なくとも、2年生は一人で、1年生が?人で、あとは上級生ということになる。
 ありえない。
 これって、おそうじタイムが全然楽しくないよね。緊張しちゃって、つまんないよね。
 そう思った。
 そして、そう思ったとおり、思慮配慮もなく担任の先生の前で、つい口走ってしまった。「それって、楽しくないですよね。一人で行くんですか?2~3人に対して6年生一人って感じじゃないんですか。」と。
 だって、あまりにも驚いてしまったのだもの。自分の口を制御できなかった。
 先生の顔は、怪訝な顔。『このお母さん、なんて変なことを言うお母さんなの?」ってさも言いたげな顔だった。

 だって、見も知らぬ上級生にずっと見張られているんだよ。

 まぁ、おそうじって、まじめにちゃんとする子もいれば、遊んでばっかりの怠け者もいる。でも、時々、ふまじめな子どもたちも、何を血迷ったか、ぞうきんがけの競争なんかしちゃったりして、床がピッカピカになったりする日もある。でも、時に、ぞうきんをギュ~っと絞っていないので、床がびちょびちょになるひもあったりする。
 

 そんなもんじゃなかろうか。
 ちょこっと楽しかったり、めんどくさかったりする世界。それが、学校のおそうじタイム。

 なのに、たった一人で上級生という強敵のいる敵陣へ人質のように連れて行かれ、ちょっとでも怠けていると、「早くせ~い。」「ちゃんと拭け~。」などと命令される。これじゃぁ、まるで、奴隷のような気持になる(んじゃなかろうか)。
 これって、ちっとも楽しくない(と想像する)。

四男のことだ。 
 6年生の目に余るようなおそうじをしたのだろう。
 6年生が、『早くせ~い。』と指導するに至った状況は、十分すぎるほど想像できる。

 しかしながら、四男は、指導されるとか命令されるとか指図されるということに敏感にアレルギー反応を示す性質で、心の扉のシャッターをガラガラガラとおろしてしまう。

 そうなると、指図する方は、どうにかして四男を思うとおりにしたいので、意固地になって、させようとする。でも、四男のシャッターは閉ざされたままだ。で、結局、最後は、キレてしまうか手を出してしまう。そして、人間関係も切れてしまう。

 縦割り教育って何のためにあるのだろう。

 6年生一人が、低学年の子を2~3人お世話することから学ぶものはあると思う。でも、1対1はよくない。むしろ、危険なにおいがするのは、私だけだろうか。
 6年生にもいろんな6年生がいるはず。
 いじめ心なんてほとんどない子もいれば、いじめることに快感を感じている子もいるだろう。
 普段は、いじめ心なんてほとんどない子も、たまたま、前日にお父さんに怒られてむしゃくしゃしている子もいると思う。
 いじめられて辛い気持ちの子どももいるはずだ。

 そんな6年生にとって、低学年の子が非武装でやってきたとき、カラダとココロはどう化学反応を起こすだろうか。

 わかんない。予測不能な世界だ。

 『学校のそうじは、きちんとするものだ。』これは、正義であり、正論であり、誰も文句言えない。
 ストレスの溜まっている6年生は、この正論を利用して、自分の憂さを晴らさない手はない。
 もちろん、無意識の世界のことなので、本人も自分の本心を知る由もないんだけれど。
 四男が、ちゃんと掃除をしなくって、これ幸いと、指導という名のもとに指示、命令をしてすっきりしていたかもしれない。
 あるいは、四男に手を焼いてほとほと困っていたかもしれない。
 それは、わからない。

 ただ、私が気になるのは、学校が、1対1という設定に対して懸念される問題点としてそのことを配慮されていたのかなぁ~という疑問であり、不安。
 私が、担任にそのことを伝えた時の怪訝なお顔から推測すると、どうもそのような視点で検討された形跡はないようであった。これは、学校の上の方が決めたことなのでウンヌン・・・とおっしゃり、そうじをちゃんとすることが縦割りの目的であることが当然というような感じであった。学校は、子どもの心理というものを大事にしてくださっているのかなぁ。いじめの問題について、担任の先生は、通信によく書いてくださる。『いじめはいけません。』という言葉が、私の胸中では空回りして、隙間風がピューッと吹いた・・・よ。
 
 前に、二八の法則という話を書いたことを覚えていてくださっているでしょうか。

 先生たちには、ぜひ、この法則を知っていただきたい。

 幼稚園である実験をした。
 30分くらい遊ばせてから、『は~い、今からお片付けの時間ですよ~。』と先生が言うと、ほとんどの子どもたちは、お片付けなんか目もくれず楽しそうに遊びに夢中になっている。でも、その中の2割の子どもたちが、お片付けを始めるのだ。で、片づけが終わったらその片づけた子どもたちは、別の部屋に行ってもらって、また、しばらく遊びタイム。
 30分経ったら、また、『は~い、お片付けの時間ですよ~。』と促すと、残った8割の子どもたちの中から2割の子どもたちがお片付けを始める・・という。
 人間って、そんなもん。

 まじめに人に言われたとおりにする人は2割。
 でも、その2割が抜けると、次の2割の人となる。

 そして、誰もいなくなったら、自分がやる。

 もちろん、時に、片づけられないという病気を持った方もいるので、100%の保証はないけれど、最後の一人の人は、怠けものなりに知恵を働かせてゴミ屋敷にならないようにするのではなかろうか。夫も、学生時代、片づけるのが嫌だから、本棚から出した本は必ず、元の場所に戻すようにしていたと言う。今じゃ、靴下をあっちに脱ぎ、ズボンもズボッと脱いだまま・・・だ。二八の法則に従って、生きている。私も八になりたいよ。そんなに好きじゃないもの、おそうじ。でも、私がしないと、我が家は誰も二になってくれないんだもの。仕方なく、二になっている。

 世の中、自然にさせときゃ、いい感じになるように、人間の遺伝子にちゃんと組み込まれているのかもしれない。

 人間、自然にさせとくと、最初から、10人が10人、人に言われたとおりのことをまじめにするなんてことは、生物学上ありえないという。10人が10人言われたとおりにまじめにするのは、そこに、恐怖とか脅威が存在するんじゃないだろうか。

 学校は、『そうじをきちんとする』ということが目標である。きちんとする力も大切だけど、2割の法則を知らずして10割の法則を目指してしまうことが怖い。子どものきちんとする力と生きる力を育てるって相矛盾する部分もある。そんなに単純ではない。そのことをよ~く踏まえて、縦割りそうじについて見つめてほしい。
 多分、縦割りにしたら、遊んでいる子も減ってそうじもいい感じになって、先生たちは、1対1の縦割りそうじは成功したと満足されていらっしゃることだろう。先生が、叱るべきところを上級生に請け負ってもらっている部分もあるので、助かっていらっしゃるかもしれない。

 四男は、なぜか、学校の図書室から、『ぼくら、おそうじ隊!』という絵本を借りてきて、読んでとせがんだ。
 小学2年生の番長率いる悪がきどもが、そうじをまじめにしないので女子に叱られいろいろあって、最後は、上級生がピカピカにそうじをがんばる姿に感動して、おそうじ隊を結成してピッカピカを目指すというお話。
 自分は、上級生の中に一人でいることが苦痛で、そうじをすっぽかしているんだけれど、そうれじゃあいけないという気持ちや友達と一緒にできたらいいなぁという気持ちなど、彼なりに悲喜こもごもいろんな気持ちが『おそうじ』に集結して、何かを感じているんだろうなぁっていとおしい気持ちになった。

 何事も体験だ。

 そりゃぁ、できれば、おそうじ隊のように、みんなで力を合わせて何かを達成するというような満足感を得られる体験ができれば理想である。でも、『学校が作った縦割り一人派遣おそうじ』の現場で、上級生の中で一人ポツンと心細さの頂点を感じて逃げ出したい気持ちになるのも体験だと思う。なんだかんだ、すったもんだがあっても、四男が、泣きじゃくりながらも自分の気持ちを私に吐露してくれるうちは、大丈夫なんじゃないかと思っているんだけれど・・・・。だって、世の中に出たら、もっと理不尽な目に合うことは必須だ。理不尽さへの免疫も少しづつつけていかなきゃ、そろそろ。
 そう、親が、子どもの気持ちを汲み取っていさえすれば、子どもは、明日、また、学校へ行く力を蓄えられるんじゃなかろうか。

 夜、夫に、縦割り一人派遣おそうじ体制について、『低学年の子を一人で上級生のところに行かせるってかわいそうだよね。緊張して、そうじに遊び心が付随しないし、もし、その上級生が、いつも親から叩かれたりしてストレスたまっていたら、格好の餌食になっちゃう危険性をはらんでいるから怖いよね。』と言ったら、『え~。上級生の中に一人なんてありえない。普通は、上級生一人に3人くらいの子の面倒を見させるもんだ。』と怒り心頭だった。
 この会話を、四男はしっかり聞いていて、なんとなく、満足したような気配を感じた。
 多分、この会話がよかったのだと思う。
 『お父さんとお母さんは、僕の味方だ。』と安心したんじゃないだろうか。
 それからは、学校に行きたくないと言わなくなった。
 おそうじの現場に行っているのかどうかは把握していないけれど・・・・。

 
 叱られることに慣れていない温室育ちという優等生は、将来、叱られたり失敗したりする体験に非常に弱い。
 小さい頃、はしかにかかるのと、大人になって初めてはしかにかかるのと同じようなものだと思う。ただし、頻繁に叱られると、劣等感をもってしまい、自分はダメだという劣等感を植え付けかねないので、何事も“ほどよく”がよろしくってよ。
 

 
 つぎは、『障害者といじめというエベレストより高い壁』  です。
 
 

 
 




 
 
 
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いつまでたっても甘えたい!

2012年10月20日 | エッセー
 同僚は、四男と同じ年の小2の男の子と女の子の双子の母親だ。
 まぁ、男と女の違いもあるかもしれないけれど、同じ環境で同じように育てても不思議なくらい、性格や好みが違っていて、話を聞いてて実におもしろい。
 人間、性格や好みって、生まれながらにして決まっているもんなんだとしみじみ思う。もちろん、育った環境も加味されるだろうけれど、同僚の双子ちゃんのあまりの違いぶりをみると、やっぱ、持って生まれたものが9割くらい占めるんじゃないかなって思っちゃう。

 忙しい共働きママが集まると、超簡単でおいしい料理の教えあいっこして、話に花が咲く。
 今日も、昨日、何食べた?って話から、私は、二日目のカレーの残りで、敗者復活料理のカレードリアを作ったら、息子どもに大好評だったという話をした。ホント、超簡単でおいしいんだから。何回かあっためなおしているので、煮崩れてとろ~とした状態になったカレーをご飯にかけて、水煮の大豆を8粒くらい散らして、チーズを載せて、オーブンで焦げ目がつくまで焼くだけ。
 ご飯が焦げ目っぽい触感に変身するので、その触感が好き。私は、カレーより好き。時々、水煮の大豆のちょっと硬めのガシッという触感もコレボレーションして結構いけると思う。
 で、同僚は、ジャガイモを千切りにして小麦粉と塩を混ぜて、粉チーズを振り掛けたものをフライパンで焼く料理を紹介してくれた。

 つづく

ただし、フライパンの半分の話。もう半分は、さつまいもバージョンで作ったんだとさ。
 な~ぜ?
 双子ちゃんの女の子の方は、もう、甘いものが苦手で、ごはんとかおかずとかきゅうりの漬物などが大好きな塩っ気党で、朝、パンが続くと気が狂いそうになるという。ところが、男の子は、甘いもの大好きで、ほっておいたら、お菓子とか菓子パンとかが主食でも全然平気で、ご飯がなくても大丈夫な甘党なんだという。それで、フライパンの半分は、ジャガイモで残りの半分はさつまいもってことになったらしい。

 ママは、管理栄養士さんだから、それなりにバランスのとれた薄味の料理で育てていると思う。食環境は、結構いい感じで育っているはずで、その環境で3歳までに出来上がるという味覚も育っているはずだ。なのに、好みがこんなに違うなんて・・・・。女の子は、食環境通りに育っていると思うけれど、男の子がもともと持って生まれた味覚が前面に出て、食環境を圧倒しているところが興味深い。
 へぇ~て、感心した。
 だって、わが子の下二人は、夫の実家に3歳まで預けて、味覚が味付けの濃いものとか肉に偏って、野菜を食べてくれないのも、実家のせい(すみません。)って思っていた。義理の父は、信じられないくらい塩気の濃い料理(否、あれは、塩そのものだ)が好みだし、義理の母は、おやつを見境なく与えていたので、味の濃いものに味覚がやられて、薄味だったり、旬の野菜のおいしさみたいなものを鑑別できない繊細さに欠ける舌に育ってしまったと残念に思っている私にとって、双子の男の子の味覚話は、考えさせられる。


 味覚だけでなく、性格っていうものも持って生まれた性分っていうやつが、かなり色濃くその子の人生を左右するのだと双子の男の子のエピソードを面白おかしく聞かせてもらいながら、しみじみ噛みしめているところ。
 双子の男の子は、一旦、自分がするって決めたら、何があってもそれをやり通すという性分があるらしい。宿題など与えられたしなくてはいけないものも、ちゃんとしなくてはいけないという性分だという。(うっへ~。羨まし~い。)
 私にしてみれば、実に羨ましい性格だ。
 わが子は、遊び以外は、そのような性格はどこにも見当たらないから、宿題など彼の嫌いなお勉強に関することを終了してもらうのにものすごいエネルギーが投入され、ぐったり・・・。宿題や明日の準備がいっつも完璧でないので、いっつもストレスがあって、朝、子どもを送り出した瞬間、やっとほっとするって感じだ。わが子は、宿題をしない、勉強をしないという点で、それをやり遂げたいみたいだが、そうしてもらったら困る人が大勢いるので、仕方なく“いやだいやだ”とマイナスな気分を引きづりながらやっている。まぁ、しないという方向でやり遂げたいわけで、やり遂げるエネルギーとしては、双子の男の子とおんなじなのかも・・・・・(哀)。

 男の子4人を育ててきて、コツコツお勉強する男の子は、小さい頃から無意識に親がこわくって、しなさいと言われたことはしなくちゃいけないと思い込まされて素直にやっている、もしくは、『大きくなったら、医者になるのよ~。』と耳元でささやかれて洗脳されて、そうとも知らずに、『僕は大きくなったら医者になる』と自分の夢を語り、目的を達成するためにがんばれる・・・・そんな子が多いのでは・・と思っていた。遊びたい気持ちを押さえて、コツコツと率先してお勉強ができるなんて信じられなかった。わが子が、特別なのかもしれないけれど、男と女を比較するのはいけないことなのかもしれないけれど、小学校低学年の男の子は、基本4歳児ワールドまっただ中に


 つづく
 この双子の男の子のお話は、またあとで・・・。 










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『あまえ療法』 だって!

2012年10月17日 | エッセー
 『あまえ療法』・・・だって。
 実に、心地よい、いい響き。

 時代が変わっていく・・・・。
 
 『人に迷惑だけはかけないよう育てる』という子育ての価値観は今でも健在だけれど、それが美徳とされる時代は、少しづつ過去の負の遺産となりつつあるようだ。

 60代のご年配な方たちの集まりの場で、『今からの夢はなんですか?』と尋ねたら、一人二人は、『世界一周!』と本当に膨らむ夢を語られた。でも、ほとんどの方が『迷惑をかけないこと』とおっしゃって、びっくりした。
 そ~なんだ。生きがいより、迷惑をかけないことの方が優先するんだ。
 私は野暮な質問をしてしまったと後悔した。
あと10年もしたら、私もそんなセリフを口にするようになるのかなぁ。
 わかる。わかるんだけれど、夢だよ。夢。

 多分、迷惑をかけない・・とは、認知症や脳卒中にならない、ピンピンコロリと迷惑かけずに死にたい…という意味合いでおっしゃったんだろう。

 ほんとうは、本末転倒で、生きがいのある人生をいきいきと送ることで、そういう病気とも縁が遠くなるんじゃないかなぁ~って思う。

 それにしても、実に多くの人たちが、小さい頃から、『人に迷惑だけはかけない人になりなさい。』と洗脳されて育っているという事実を目の前に突き付けられて愕然とした。

 そして、その威力に思わず、立ち尽くしてしまった。 

 もちろん、わたしもそんな風に育てられた一人だ。

 そして、子育てにその言葉はマイナスであると気付いてから、意識して言わない訓練をしてきた・・つ・も・り。
 人に迷惑をかけないことが美徳とするなら、人に迷惑をかけざるを得なくなったらどうなるんだろう。
 どうにかこうにか人に迷惑をかけなくてすんで生きてきた人が、歳をとって、あるいは、病気になってしまって、初めて人に迷惑をかけるという事態に遭遇すると、迷惑をかけることに慣れていないから心がとっても苦しくなる。
 迷惑をかけないで生きてきたという自負心、あるいはプライドがズタズタにされて、立ち直れない。
 
 人は、小さい頃より、迷惑をかけても大丈夫という安心感の中で成長できると、迷惑をかけたり、失敗をしても、感謝の心や失敗をバネにして工夫する力が自然に身について、生きていくのが楽だ。でも、小さい頃より、人に迷惑だけはかけてはいけないと洗脳されて育つと、いつも失敗しないようにしないようにとがんばちゃって、むりしちゃって疲れる。ビクビクしちゃって、自分らしく生きられない。一方、小さい頃より、小さいことで失敗とか失態をチョコチョコして育つと、慣れてるから全然平気な分、自分らしくいられる。心に余裕がある。打たれ強い。

 つづく
 
 と書くと、じゃあ、迷惑かけてもへっちゃらさって思うような子になったらどうするの?て反論がありそうなので、一言添える。
 
 困ることをされたら、その事実をきちんと伝え続けることは必須項目である。
 『あなたが、こういうことをすると○○な風に困ってしまうから、やめてほしい。』 とか『腹が立つからやめてほしい。』とか『大人になってもわがままになりそうだから不安だ。』とか・・・・・。

 それと、親自身が、『ありがたや~。』『ありがたや~。』と口癖になってれば、あんまり難しいことを考える必要もないのかもねぇ。

 職場に、必要以上に、というか、異常に『すみません。』を連発される年配の女性がいる。
 もう、口癖になってしまっていて、病気の域に達している。生活習慣病ってやつ。
 私も、昔、そうだったなぁ~。

 迷惑をかけたとき、あなたの口から自然と出てくる言葉は何?

 『ありがとう』?それとも『すみません』?

 これって、口にした瞬間に、人生が180度違ってくる。
 『すみません』とつい言ってしまう人は、きっと、親からかなり『人に迷惑だけはかけてはいけません。』と言われて育ってきた人なんじゃないかなって思う。
 『ありがとう』って言う人は、あまえ(自己主張)を結構許されて幸せに生きてこられた人かも・・・・・・。

 実は、私も、結婚してしばらく・・・までの人生は、『すみません』人生だった。
 ある時、姑から、そのことを指摘され、初めて気が付いた。
 こりゃいけないって思って、それからは、意識して『すみません』の代わりに『ありがとう』を言うように努力してきた。
 こう言っては変だけれど、姑の性格に魅かれて、結婚を決断したっていう部分もありって感じだった。逆に、姑が超きれい好きでとっても神経質そうな良妻賢母の印象が妙に引っかかって、この男性と結婚したら優しくしてもらえて幸せな生活が待っていると保証書までついていた(ウソ)人との結婚を断念したこともある。
 もしかしたら、わたしの臭覚が、『ありがとう姑』か『すみません姑』かを無意識に感じとる能力があったのかなぁ~。あ~は、は、は。

 私が、『すみません』を連発していた理由は、二つある。
 一つは、自分に自信がなかった。
 本当に、自信がなかった。
 とういうか、“自分”がなかった。
 アホだった。


 つづく

なんでアホだったか。
 そんなに頭はよくないのに、なんだかずっと成績がいいはめになってしまって、試験で悪い成績をとってしまうことへの恐怖感からか、自分で自分を失敗できないカラダにしてしまった高校時代が、私をアホにさせた。
 そんなに記憶力のいい脳の持ち主でもないのに、せっせ、せっせとひたすら記憶脳を酷使することで、ただただ試験で問題を解けないことへの怖れから必死で逃れていた。
 試験への怖れで、自分らしさからどんどん遠ざかっていた高校3年間で、私は“自分”というものを見失い、自分で物事を考える力を養うべき最良の時に、保身に身を捧げる人生だった。だから、自分に自信がなかったのだ。
 
 もう一つは、前にも書いたけれど、決して夫婦仲がいいという両親ではなかったが、かといって仲が悪いというわけでもない、母親の『子どもの前では夫婦げんかをしない』というこだわりのおかげにより、“人生”の荒波なんてちっとも知らないまんま高校時代に突入してしまったことが、つまり、あっちぶつかりこっちぶかりしながら、悩みながらも自分を確認していくという作業をする思春期という時期をピョーンと飛び越えてしまったことが、結果的に、自分構築の基盤にないまま成人式を迎えてしまった。
 最近、同僚が、『中学の頃、自分の友達が、母親が再婚して妊娠したことにひどく悩んでいて、自分もいろんなことを考えさせられた。』というようなことを語っていたけれど、そんな友達もいなかったなぁ~。

 子どもが成長するために、果たして、幸せなにこにこ家族がいいのかどうか・・・。
 
 親は、まっとうな夫婦げんかをしっかり子どもに見せてもいいんじゃないかなぁ。

 ただし、まっとうなけんかだよ。

 まっとうとは、対等ってことと着地点を見つけようと努力すること。
 うちの母親は、両親がけんかばっかりしていたから、『子どもの前では、絶対けんかをしない!』というこだわりを持っていた。よほど嫌な思いをしてきたのだと思う。その結果、娘は、けんかという対立から学ぶはずの“何か”を学べずに、失敗を怖れる自信のない劣等感だらけのアホな大人になってしまった。

 けんか、あるいは、対立から学ぶ“何か”こそ、人生のお勉強なのだと思う。

 『他人に迷惑だけはかけない大人になりなさい。』
 とは、対立をなるべく避ける生き方をしなさいと言っているようなものだ。

 だって、みんな考えることは違うんだもん。
 対立は、人間関係の大前提なのに、その訓練を小さい時からしつけと称して、させてもらえていないと、大人になって自信がないのは当然。小さい頃より、対立する、つまり、『あの人と私は違う考えである。』あるいは、『私は○○と思うけれど、相手は△△と思うんだ。どうしたらいいかな?』という心のぶつかり稽古を、小さいことからやっていくことで、人間関係の横綱になれるのだ。なのに、心のぶつかり稽古を全然していなくって、いきなり初場所に出て行っても、こてんぱんにやっつけられて自信喪失してしまうのが、関の山だ。
 
 けんか(対立)に慣れていないと、他人のちょっとした言動にクヨクヨして眠れなかったり、失敗を怖れたりして、スイッチの切り替えが下手なので、いつもそのことを考えてしまってマイナスの気分から脱しきれずアフターファイブもリラックスできない。そして、せっかく楽しいことがあっても心から楽しめない。それって、もったいない。対立を怖れるあまり、貴重な生き生きと自分らしく生きる時間をもてないなんて・・・・・。
 幸せってなんだろう?
 幸せの価値観なんて人それぞれ。
 でも、その反対の不幸とは、対立を怖れることで生き生きと自分らしく生きる時間をもてないことかも。多分、それって、万人共通なことかもしれない。
 実は、私もその不幸なタイプ。

 もっと、けんかしとけばよかったなぁ~。
 もっと、自分の言いたいことをバンバン言って、バンバンけんかして、バンバンお互い様をすることに慣れておくべきだった。そして、自己主張することで、相手が傷つくことはないし、自分もくよくよしないカラダにしておけばよかった。トホホ・・・。

仮に、がんばって、自己主張しても、今度は、相手の反応が気になる。 
 怒った顔をしたら、なんか変なことを言ってしまったかな?と気に病み、辛そうな顔をしても言い過ぎたかなって気になる。
 結局、自然体で自己主張できない。罪悪感にさいなまされて、かえってストレスになる。
 早期発見、早期治療じゃないけれど、けんかできない子は、なるべく早く見つけてなるべく早く対等なけんかができるよう支援するって、人生を自分らしく生きる第一歩かも。
 発見が遅れれば遅れるほど、自分らしく自然体で自己主張できない、他人の言動がいちいち気になりくよくよして眠れない大人になってしまうかも(私もその一人・・・残念)。自分らしく自然体で自己主張できるって人が、甘え上手。
 『あまえ療法』って、小さいときに、抱っこといえば存分に抱っこしてもらえ、泣きたいときには思いっきり泣かせてもらえ、だだをこねたいときも、温かく見守ってもらいながら思う存分に暴れられる療法とのこと。でも、もう少し大きくなったら、よほど危険でないかぎり、けんか(自己主張)を思う存分させてもらえることもあまえ療法なんじゃないかなぁって思う。

 そんなことをつらつら考えていると、A君のセリフが、妙に気になる。



 つづく

『僕は、クラスのみんなと仲良くなりたいんだ。誰ともケンカしたくない。』

 小学2年生の言葉として、なんだか手放しで喜べない。
 本当にほんとうにそうなのだろうか?
 
 9歳の子どもらしさって感じがしない。

 私が、男の子しか育てていないからかなぁ~。

 まぁ、その子がそう表現するのはいいとして、母親が、そのことを誇らしく心からうれしそうに語る姿に違和感を感じた。
 どうしてだろう?
 とずっと考えていた。
 
 今、わかった、その違和感の元が・・・・。
 そう。小さい頃から小さいことから、対立(けんか=自己主張)にこなれていないと、大きくなって対立が怖くって、自分らしくなれないという自己喪失感にさいなまされ、自信喪失して生きるのが辛くなってしまうかもしれないという危険性をはらんでいるといことに、この母親は微塵も気づいていないということに一抹の不安を覚えたために違和感を感じたのだと。

 「ちょっとくらいけんかもできないと心配だわ。」
 
 謝罪に伺った時、多分、私は、そんな言葉を期待していたのだと思う。
 
 人生、ぶつかり稽古に始まり、ぶつかり稽古で終わる。
 あっちぶつかり、こっちぶつかり、痛い思いを経験しながら、自分を鍛え続ける(自分を感じ続ける)。たぶん、そんなもんさ、人生は。きっと、最後の最後まで。それなのに、まだ、ぶつかってもいないのに、みんなと仲良くなりたいと親に言う9歳の子どもは、どうも不自然。ただ単に無意識の世界での対立への怖れが、彼にそう言わせているのではないのだろうか・・と妙に穿った考えを持ってしまうのは私だけだろうか。
 
 




 
  つづく
 

 

 
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今晩、謝りに行ってきました。

2012年10月10日 | エッセー
 男の子4人だもの。頭を下げることは、覚悟していた。
 今までも、何回か、頭を下げてきた。
 そして、今晩も、夫と小2の四男と行ってきました。

 夜の7時30分に担任の先生から今夜2回目の電話があった。
 そう、その前にも、夕方の6時半頃、一度、報告の電話があったばっかりだった。
 1回目の電話は、学校からランドセルを背負ってそのままお友達の家に遊びに行き、多分、そのおうちのお母さんが学校にランドセルのまま家に帰らずに遊びに来ているという通報を学校にされたようで、慌てて教頭先生が迎えに行かれたとのことであった。
 学童にも行ってないし、行こうとしないので、放課後ほったらかし状態になってしまうことへの危惧はいつもあるのだけれど、友達と遊べるといううれしさで、ついついそのまま学校帰りに寄ってしまったのだろう。
 親に直接連絡してくださればありがたいんだけれど・・・・。

 という連絡を受けて、『学校から一度家に帰ってから遊びに行きなさい。5時には帰るのよ。』と伝えたばかりなのに、また、先生から電話だ。今度は何の電話だろうとややビビッてお話を伺うと・・・。


 つづく

『A君の保護者から、今日、息子さんに30発殴られて学校に行きたくないと言っているという電話がありました。私が教室に入ったときは、息子さんがA君を叩いていて・・・・・・。息子さんは、今日、鹿の角を学校に持ってきていて危険だったので、私がそれを取り上げていたことに不満があって、その憂さ晴らしということも手伝ったのかもしれません・・・・。』

 電話を切って、四男に事情を聴いた。

 本人いわく、『だって、B君がA君を叩けっていうから・・・。B君とチャンバラごっこをしていたら、B君が、A君を叩けっていうから、3発は本気でたたいた。残りは、弱気でぽこぽこした。A君は、ちゃんばらには何も関係なかったし、叩き返しもしなかった。』

 『B君が、叩けって言ったからと言っても、叩いたのはあなただよね…。』と言うと、やや涙目になって、『だって、B君に強く言われたら嫌と言えないんだもん。』

 『そうなんだ。Bくんって怖いんだ。』
 と言うと、『ちがう。B君のおじいちゃんが怖いんだもん。遊びに行ったときに、~早く家に帰って宿題をしなさ~い~ってとっても怖い顔で怒るんだもん。』

 
 
 てなことで、A君は、全くの部外者なのにぼこぼこ叩かれて、叩き返すこともできず、家に帰って、学校に行きたくないと親に訴えたわけで、これは、子ども同士のけんかではない、一方的な四男のA君への攻撃ということで、すぐに夫と3人で謝りに出かけた。

 つづく

四男は、『ごめんなさいしか言わないからね・・・。』とやや拒みながらも、車には素直に乗ってくれた。さすがに、自分はいけないことをしてしまったという気持ちにはなったのだろう。

 相手のおうちに着いてからも、車から降りることを嫌がって大変っていうほどではなかった。
 陰に隠れながらも、『ごめんなさい。』と言えた。

 A君も、にこにこして、すぐに『いいよ。明日は学校に行くよ。』と言ってくれて、ほっとした。

 しかし、四男は、すぐに車のキーを貸して・・と言って、一人、車の中に・・・。(A君のおうちから50メートルくらい離れたところにとめていたので・・・・)
 私たちは、すぐにおいとまするというわけにもいかず、5分くらい世間話をして帰ろうとしたのだけれど、車のところになぜか、A君家族もいっしょに行く羽目になってしまった。
 そして、A君のお父さんが、四男に『これからは仲良くしてね。うんぬん・・・・。』とやや説教めいたことを語り始められたものだから、四男は、四男は耳をふさごうとしちゃって、内心、『ヤバい』と思い、その場を取り繕うのにひやひやした。

 まぁ、どうにか、帰途に就くことができてほっと一息ついたのもつかの間、今度は、四男が、・・・・・・・。


 つづく

今度は、四男が、『明日は学校に行きたくない…』とポツリ一言。

 え~~~~~~~~~~~~~~~。

 なんだかなぁ~。行きたくない気持ちはよ~くわかる。
 勇気を出して、『ごめんなさい。』って言ったけれど、両方の親やA君の妹たちもいたから、ちょっとばつが悪かっただろうなぁと想像できる。
 子どもの世界はナイーブだ。

 この前、『ずる休みは12月の冬休みまでもうなしよ。』と約束して1回ずる休みをしたばっかりなのに・・・・という思いが過ぎって、『だったら、ゲームも5年生まで買わないよ。』とついついいけない交換条件をだしてしまった。
 それでも、『行かない。』とかたくなに言うもんだから、夫に助け舟を出してもらおうと、そのことを伝えると、『いいよ。いいよ。明日は休んでいいよ。』
 え~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~。

 何?このあっさり加減は・・・。
 あ~は~~。夫もかなり喧嘩好きだったみたいだから、謝罪のばつの悪さみたいな男のプライドズタズタシリーズに関しては、超共感できる世界なのかもしれないと思って、夫に『そうなのかい?』ときいてみると、二・ヤ・リ。
 夫も、相当なけんか人生を送ってきているはずなので、謝罪の悔しさ無念さ気まずさみたいな気持ちはよ~くわかるのだろう。


 なるほど。

 それだったら仕方ない。

 日中、誰もいない家に一人残すことが非常に気がかりだったけれど、致し方ない。
 
 翌朝、先生に欠席の電話をすると、案の定、先生は、『一度休むと癖になるかもしれないので、できれば連れてきてほしい。』とおっしゃった。でも、『本人は、明日は行くと言っているので、今日は休ませます。』とお願いした。
 実際、翌日は、吹っ切れたのだろう。さっさと登校した。

 ずる休みの日は、私も夫も仕事で、一日ずっと家に一人でいさせることになる。どうしたものか・・と案じて、昼休みに家に戻ると、ばあちゃんちに行くと言ってくれてほっとする。

 夕方、四男を迎えに行くと、帰りの道中、『ばあちゃんは、小学校と中学校の9年間、一回も休んだことがないんだって。すごいよねぇ。』とポツリ。

 彼なりに、ずる休みすることについて、何かを感じ取ったのだろう。 
 何がどうってことないかもしれないけれど、子育てには、いろんな人が関わった方がいいかな・・・ということをじんわりと感じた一言だった。

 四男は、四男というだけあって、夫や思春期のお兄ちゃんたちの『死ね。死ね。』とか『くそばばぁ~。』とかいろんな言葉を知っているし、使っている。四人も男の子を育てていると、四人四様。長男は、一言もそんなおっそろしい言葉を口にしたことなんてなかった。小学校低学年の頃に反抗的な態度をとったり、だだこねしたり、超自己主張で思わず手が出そうなくらい言うことを聞いてくれないっというようなこともなかった。優しくって、人に気ばっかり使っていた。しかし、四男は、自己主張の塊だ。

 そして、A君は、3人兄弟の一番上で、下二人は女の子。

 わたしは、A君にとって、四男との『え?何で僕が叩かれるの?』という体験もいい体験になったのではないかと一人勝手に思っていたら、A君の母親が、『この子は、争いが大嫌いなんですよ。みんなと仲良くしたいと言うんですよ。この気持ちを大切に育てたいと思っているんです。』と言われてしまって、返す言葉をうまく見つけられなかった。

 長男が、そんな優しい子だったがゆえに、思春期になって外に発散できないので、自律神経失調症になってしまって、小さい頃、四男みたいに自己主張がいっぱいできる子だったら、よかったのにと本気で思っていたので、A君の将来が、ちょっぴり心配になった。
 でも、A君のママが、自慢なんだろうなぁって感じで、争いを好まないわが子をいとおしそうなまなざしで見つめているのを見ると、何も言えなかった。みんな、自分で体験するしかないんだもの。私の体験談は、A君のママの心に届きそうになかったので、長男の話をするのはやめた。
 
 かといって、四男の暴走もやや気になる。
 宿題摩の先生が大っ嫌いなご様子で、先生本人に向かって、『死ね。死ね。地獄に落ちろ!』と暴言を吐いたというではないか。く~~~~~~~~~~~~~~~~~~。本人にとって、とても大事なもの(鹿の角)を取り上げられたらしく、その気持ちはわからないでもないが、う~~~~~~~~~~~~~~。先生に向かって、そこまで言う?って世界だ。

 まぁ、本人の口からも、夜、寝る前の語りタイムで聞いていることなので、そのことを包み隠さず言ってくれるだけでありがたいという思いがあったけれど、先生からもそう言われると、相談されているみたいな感じになって、なんだか、親がちゃんとしてほしいというようなニュアンスにも聞こえて戸惑った。

 つづく

先日、車に乗っている時に、気に入らないことがあって、『死ね。死ね。』と言うもんだから、『死んでほしいと思うくらい腹が立っているのね。その気持ちはよくわかるけれど、そんな言葉を口にしたら、地球を一周して自分に戻ってくるんだよ。お母さんは、あなたに死んでほしくないし、地獄に落ちてほしくない。先生にも死ね。死ね。地獄に落ちろ!って言ったんだよね。(先生には、勝手に鹿の角を取り上げるというパワーがあるのに、自分にはそれを取り返すというパワーがないという悔しさから、彼なりの精一杯のパワーを発揮したのだろう。)でもね、もっとなんかいい言葉はないかなぁ~。』
 と言うと、『僕は、お母さんには、地獄に落ちろって言ってないよ。先生だけだよ。』

 へぇ~、ちゃんと使い分けているんだ。

 つづく

それにしても『死ね。死ね。地獄に落ちろ!』なぞというおぞましい言葉をわが子が、先生に言うなんて。しかも、中2ならさもありなん・・・だけど、小2で。くっ!親の顔が見たい!

 私か・・・・。

 男の子4人の母親ともなると、これくらいの暴言では驚かないけれど、どうしてこうなったかなぁ。
 まぁ、夫は、テレビのニュースを見ながら、中国や韓国に向かってヤジを飛ばしている、その言葉は、残念そのもの・・・だ。

 でも、四男は、とってもいい子だよ。
 知能犯的ないじめっ子にはならないと信じている。

 寝る前の語りタイムで、最初は、担任の先生へのうっぷん晴らし言葉で始まるときがある。お馴染みの『死ねばいいのに。』から始まる。
『そうなんだ。死んでほしいくらい嫌なんだね。』という風に、絶対に、諭したり、否定したりする言葉は使わないで、ひたすら、聴くに徹していると、10分ほどで、心穏やかになっていく。
 そして、心が心底満たされると、お決まりの
 『お休みな~~~~~さい。』
と心を込めて、とてもとても幸せそうにお休みのあいさつをして、す~と眠りにつく。

 みんなに、聞かせてあげたい。
 その、『な~~~~~~~~~~~~~~~さい。』というとてもとても満ち足りたイントネーションを。
 いいよ~~~。
 うっとり。

 そして、思わず、私も、『おやすみな~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~さい。』ととてもとても心を込めて、おやすみのおいさつをしてしまって、一日が終了する。

 聴く の醍醐味は、『死ね。死ね。地獄の落ちろ。』とのたまう四男のおかげで、味わえる・・・・・のだ。

 聴く  という世界は、奥深く、まだまだ、その入り口に立っている私ですら、わが子がどんなにひどい言葉を使おうと、動揺することもなくそばにいてあげらる・・・。それだけで、ありがたい。

 おやすみな~~~~~~~~~~さい。
 
 

 

 
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泣き無知ママと怒りんぼ(虫)無視できない私

2012年10月02日 | エッセー
 私は、3男が1歳半の頃に出逢った抱っこ法によって、赤ちゃんが泣くことはとっても素敵なことだとわかってから、赤ちゃんが泣いても平気になった。平気というか『もっと泣いていいよ!』と温かく見守れるようになった。
 なのに、なのに、カッカと私に対して怒ってくる人間に、どうして、平気でいられないのだろう。どうして、『怒りの感情を全部吐き出してもいいのよ。』と温かく見守ることができないのだろう。
 どうして、同じ感情の表出なのに。
 泣きたいという哀しい気持ち。
 カッカするという怒りたい気持ち。

 喜怒哀楽の怒と哀

怒るというのは、私に攻撃してくるという迫った感があるから、その場から逃げたくなるのだと思う。
 一方、泣かれることは、攻撃されているという感覚はない。
 当たり前と言えば当たり前だけれど、人が泣くとき、怒るときって、どうなんだろう。泣くきっかけ、怒るきっかけは、目の前の私が作っているのかもしれない。でも、きっかけの前の気持ちってものがありそうな気がする。
 私に怒っている、あるいは、激怒している人って、私の言動もしくは、行動がムッとする何かをした結果、もともとその人が、その人の人生の中で作り上げた脳の回路という導火線に火がついてカッカとなった・・みたいな世界の話なんじゃないだろうか。
 そんな気がする。
 そこのところをもう少し、よ~く思考していくと、目の前で私に対してカッカしている人がいても、平気になれるのかもしれない。それを繰り返して慣れていくと、温かく見守れるようになっていくのかなぁ~。

 怒っている人を見て、そのまま怒らしてあげる・・・。
 『そんなに怒らないで』と思うことは、人をコントロールしようとする気持ちがあるってことらしい。
 そうはいっても、攻撃されているって感じるから怒らないでって、つまり、攻撃しないでっていう自然な感情のような気がするけれど、怒りたい人に怒らないでっていうことが、相手をコントロールしようとする気持ちって言われると、そのような気もするし、そうじゃない気もする。
 よくわかんない。
 
 実は、この春、私は、人生で二度目のおさまらない怒りという体験をした。一度目は、賞味1時間でおさまったのに、このときは、おさまりきれず、夜も翌日もその翌日も、かれこれ1週間は怒りという感情がどんどん湧き出てきて、自分でもびっくりだった。
 普段は、怒るってことはそんなにない私にとって、貴重な体験だった。
 この時、私の心は、どうして、嵐のような怒りが吹き荒れたのだろう。自分の心をじ~っと見つめてみたいと思う。

 ところで、最近、夫は、竹島と尖閣諸島問題に対して、テレビのニュースを見るたびに、怒っている。
 はたから見ていると、なんだかんだ言って、日ごろのうっぷんを中国や韓国に向かって晴らしているように思えてならない。
 そして私にこう言う。
 『お前は、腹が立たないのか?』
 『そりゃ、いやだけど。テレビに向かってまくし立ててもどうしようもないもんねぇ~。問題を解決したけりゃ、政治家になるしかないんじゃない?』ってつい言ってしまった。
 ついでに、『私たち庶民は、それよりも、自分に見合った、なんか、自分もやっていてやりがいがあって、なおかつ人のためになるような…そんなささやかなことを、自分なりにやっていけばいいんじゃない?』って言ったら、ブスーっとした顔をしていた。
 

 つづく

津留晃一さんの本に、怒っている人を見て、反応してしまうのは肉体である。耳に聞こえてくる言葉で肉体が反応するものは、全て改善することができます。人は、生卵を食べてじんましんやアレルギーが出るときは、最初のうちは卵を食べないという対応をしても、一生食べないわけにはいかないので、体質改善して生卵を食べれるように意識して努力するのに、怒っている人を見て、肉体が反応することに対しての体質改善をしようとしないから不思議・・・・というようなことが書かれていた。
 そして、このように耳から聞こえてくる言葉で肉体が反応するものは、全て改善することができるのだそうです。

 私は、相手が怒っているときは、怖くて萎縮して緊張して本当に言いたいことが自然体で言えなくなる。心が萎える。これって、肉体の反応なのかなぁ。感情の反応なんじゃないかなぁ。
 どう体質改善したらいいのかなぁ。
 外から聞こえてくる言葉によって反応しなくなるんですって。人のうわさも気にならなくなるし、他人にどう思われているかということが全く気にならなくなるんですって。自分の感情がリンクしなくなる。
 そうなれないから苦しんでいる。
 頭では、『他人にどう思われているかを心配しているかぎり、あなたは他人のものだ。外からの承認を求めることがなくなったとき、はじめて、あなたはあなた自身のものになる。』そうわかっていても、相変わらず、他人のもの人生を生きている私。
 世界に一つだけの花 という歌が、心地よい反面、微妙な違和感を感じていたのは、個性という前に、ほとんどの人が、他人の評価を気にしたり、勝ち負けを気にしたりしている限り、一つだけの花なんて言えないんじゃないか、only oneなんて言えないんじゃないかなぁ?個性とは言わないはず・・・・という思いがあったからだと気づいた。


さて、私が体験したおさまらない怒り体験 についての考察

 わなわなとからだの奥底からあふれ出てくる怒り。深呼吸して穏やかになろうとしても怒りが次から次へと溢れてくる。夜になって、寝ようと思っても、そのことが思い出されるとなんだか怒りが込み上げて来る。

 こんなことは、人生で初めてだった。

 貴重な体験をさせていただいた。

 こんな私にもカラダが勝手に怒ることができるんだという体験は、なんていうか、いつも理性で押さえて本当の自分に出逢えないという不発な気持ち、哀しい気持ち、自分にたどり着けない無念さを払拭してくれたって感じ。

 前年度まで私が担当していた仕事を一回り年下の同僚に引き継ぎ、私がサブとしてフォローするという立場にあった。引き継いでいきなり重要な会議が入っていたので、実績は私が担当し、彼女が今年度以降について進めることにしていた。普通、担当が変わると、その年は、前年度のやり方をやりながら様子を見て、もちろん、必要に応じてより改善していくことはするけれど、予算もあるので大幅な変更はせずに粛々とやっていき、2年目から自分なりの色を加えてよりよき形にしていく。しかし、彼女は、前年度の事業計画書を無視して、よくまだ噛み砕いていない状態で、私の攻め方と正反対の方向から責める形で事業内容を勝手にしかも大幅に変更した。しかも、私になんの相談もせずに・・・。私は、再三、『仕事はみんなでやっていくものなので、共通理解するまでじっくり煮詰めないと、それなりのものにしかならない。まず、みんなが同じ土俵に立つことから・・・。だから、話し合いを持つように。』と何度もアドバイスをしたにもかかわらず、自分で決めてしまって事後報告という形で事業計画をしてしまった。



 一言でいえば、プライドをズタズタにされた怒りとでもいうのだろうか。
 とてもとてもナイーブな仕事なので、私が時間をかけて熟考した末にやっとの思いで形にした仕事を、担当が変わって右も左もわからない年下の同僚が、『何が何だか全然わかんないんです。』と言いながらも、ぽいっと無残に切り捨てたってことに、怒り浸透してしまった。
 人間の価値観なんて違って当たり前だ。
 彼女が、じっくり考えて考え抜いた末に、私と違うやり方を選択したのなら、それは仕方がない。
 でも、最初の入り口で、『私は、柿が好きだから・・・。』というくらいの理由で、私の選んだリンゴで悪戦苦闘して作った貴重なアップルパイをぽいっと捨てた・・・・・というような感じだから怒りがおさまらなかったのかもしれない。
 私が、サブで助ける立場にいたということも怒りをおさまらなくさせてしまった大きな原因だと思う。
 目の前で、私がとてもとても大切にしていたものを、無残にも切り捨てる姿を、常に見せつけられる・・・なんて耐えられない。
 目の前でだよ。
 そして、平然としている。
 そう。
 彼女は、非常に繊細で優しそうにみえる。
 実際、そう見える。気も利く。
 ただ、ふと、ときどき、深い深いナイーブな世界の住人ではないかなっという思いがよぎることはあった。

 私が立てた事業計画は、チームで検討したものであった。単に、私だけの偏った価値観で作ったものではなかった。しかも、その時、彼女も検討する場にいたのだ。
 みんなで知恵を出し合って作ったものを、『一番年下の右も左もよくわからないんです~。助けてください。』と言ってるそばから、『私は、納得できないとダメなんです。』と言って、ぽいっとゴミ箱に捨てる力は、いったいどこから来るのだろうか。
 
結論
 私のおさまらないという人生初の怒りは、私が丹精込めて作り上げた一輪の花のやっと出た芽を、いとも簡単に駆け出しの若手に摘み取られたということに対する怒りだった。しかも、その駆け出しの若手は、『納得いかないとダメなんです。』と言って、どこからか買ってきた見栄えのよい花に植え替えた・・・みたいな。根っこがないよ。根っこが大事なのに・・・・・という無念さも手伝って、怒りが収まらなかったのだと思う。

 根っこを大事に育てたいという私の思いは、私のプライドだったのだろう。私って、日常のこまごましたことに目くじらをたてることはほとんどない。むしろ、私の周りには、日常のこまごましたことに目くじらを立てて、カッカと怒る人が多いなと思っていた。怒る人にとって、わたしが、目くじらに無クジラ(いえいえ無頓着)なことがイライラするってこともあったかなって思ったりもするけれど、私は私で、なんでそんな細かいことにこだわって自分の思うとおりに私が気を配らないことに腹をたてるんだろう・・・と不思議に思ったりもしたこともある。
 そう、怒る人にとって、気配りの閾値が非常に高いなって気がする。
 私から見ると、もし、それを気配りが足りないというなら、それは、気配りという名の奴隷=おべっか的なにおいがして、そこまでは…という思いがどこかにあった。
 でも、きっと、カッカとすぐ怒る人にとっては、その人にとってのプライドが気を配ってもらえないということで傷つけられ、怒りの導火線に火がついてしまうのかもしれないって思う。

 ただ、今回もそうだったけれど、前回のマジ初めての1時間おさまらない怒り体験の相手もどちらも一回り年下の同僚であった。
 年上とか、私より力的パワーの強い人に、いくらひどい仕打ちを受けても、私の怒りの導火線には、そう簡単に火が付きそうもない。
 そこが問題だ。
 どうやら、怒りの爆発は、自分より弱いものによる点火の場合、導火線に火がつきやすいようだ。
 
 逆に、自分よりパワーのあるものが点火したら、自爆してしまいがち。

 だから、怒りとは、相手次第。

 私のおさまらない怒りも年下だから。

 中国で尖閣諸島をめぐって暴動を起こしている。あれは、格差社会であえぐ人たちの怒りの矛先を、ほんとうは中国の上層部や富裕層に向けるべきところを害のない日本に向けさせているとよく言われている。
 怒りを向けるべきほんとうの相手が強すぎると抑圧されて、弱きものにプライドを傷つけられたと感じた時に、爆発しやすくなるのだろうか。
 私は、あんまり怒りという感情を抱かないタイプだと思っていた。
 でも、そうじゃないかも。
 S先生は、私は怒りの感情が未分化だとおっしゃった。
 未分化ってことは、怒りは感じているはずなのに、怒りをきちんと明確に感じ、自分はこう思うと表現し、自分を守るために自分の考えを相手にきちんと伝えることができるという能力が年齢相応に発達していないってことだ。

 わなわなとおさまらない怒りの爆発は、未発達って証拠かも。く!!

 発達障害という言葉があって、みんな他人事のようにこの言葉を認識しているかもしれないけれど、不機嫌な人やすぐカッカとくる人も発達障害だし、わたしみたいに、きちんと怒りを感じ、自分の言葉で自分を表現できないのもある意味発達障害である。まぁ、どうにかギリギリ社会生活を営めている・・・・くらいのもので、社会に適応することが大変だと発達障害という病名がつく・・・みたいな。

 小さい頃から、怒りをきちんと感じ、明確化でき、きちんと相手に伝えることができていれば、わなわなとおさまらない怒りの爆発…なんて必要ないのかもしれない。そのためには、周りの大人が、怒りをきちんと感じ、明確化し、きちんと伝える力がないといけないし、相手の怒りの表現を温かく見守れる力も必要だろうと思う。

 まぁ、そんな恵まれた環境で育つことのできる幸せな子どもってそういないかな?

 わなわなとおさまらない怒りを感じているときは、私は正しい・あなたは間違っているという私が一番なりたくない思考回路に陥っているときでもあると思う。
 
 

 

 

 
 
 
 
 つづく
 










目の前で自分に攻撃的に怒ってくる相手に対して、『あ~、この人は、今、怒りを爆発させて、ついでに今まで溜まっていたうっぷんも晴らしたいんだろうなぁ。すっきりするまで怒らせてあげよう。』と思える日は、いつの日になることやら。

 でも、それをめざしたい。

 
 つづく
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