え?叱られることに慣れる子に育てよだって?
疑問符・・・・でしょ?
実は、今、私は、実の母と夫の諍いの間に入って、人の心と人生についていろいろと考えさせられている。
そして、母を見ていて、『やっぱ、けんかできない奴はいかん!』『子どもを優等生に育てたらとんでもない目に合う。』と痛感している。 夫との価値観の違いから生じるもめごとで眠れなくなっている母は、自分の人生を強制終了して、ただただ余生はストレスからなるべく遠ざかり、当たり障りのない表面的な付き合いグループのミニバレー仲間とミニバレーで生じる笑いだけで楽しく生きていければいいと断言した。
今日、母と電話でしゃべっていて、はっと気が付いた。
人生の課題って、『ほんとうに守るべき者がいたとき、その守るべき者が守ってほしいときに、命を懸けて(というとやや大げさだけれど)守れるか?』なんじゃないのかとピピーンと来た。
もちろん、人それぞれだとは思うけれど、言いたいことを言えない、他人から言われたことをうじうじ考えて悩んで眠れない…みたいな、つまり、私のようなタイプの人にとっては、それが大きな人生のテーマのような気がしたのだ、母としゃべっていて。もちろん、カエルの子はカエル・・で、母は、私に輪をかけて、言いたいことを言えないタイプだ。かといって、人の話もろくろく聴いていない。聞けない。これじゃあ、お友達ができないはず(私はそれが気になるの)。
母は、「もういい。もう72歳なんだから、残りの人生、当たり障りなく楽しく生きたい…。」とつぶやいた。
「そうなんだ。じゃぁ、お母さんの人生ってなんだったの?私は、今、しみじみ思うのよ。私は、夫が怖くって、4~5年前まで、ほんとうに言いたいことが言えなかった。それが、どんなに子どもの心を寂しくさせていたか。特に長男が一番の被害者。彼が、17歳になるまで守れなかった。高2の冬にやっとやっと、怯むことなく、夫に向かって行けた。いっくら絵本を読んであげたり、山や川に連れて行ったり、おいいしい(かどうかわかんないけれど)手づくりのピザをを作ってあげたり、ガミガミ怒らなかったとしても、子どもの盾となり、理不尽なことをのたまう夫に反抗する子どもを守る(夫が何を言おうが吠えようが、真正面から向き合い、一歩も譲らず、きちんと子どもの気持ちを伝えるということ)ことができなければ、それは、ほんとうの愛がないってこととおんなじなんだよ。長男には、ほんとうにほんとうに申し訳ない気持ちでいっぱいだ。彼は、思春期まっただ中の頃、いっつも自殺のことを考えていたと、二十歳になってぼそっと語ってくれた。溜息・・・・。
私は、17年かけて、ほんとうに守るべきものを守るためには、どんな相手にも怯まず挑んで行ける力をどうにか手にすることができた。でもお母さんは、どう?お父さんともけんかは避けてきたでしょう。お父さんは子どもには優しかったし、幸か不幸か私にも大きな反抗期ってやつがなかったから、怯まず子を守るっという機会にたまたま出会わなかっただけ。今、最後の機会=チャンスかもしれないよ。だって、けんかすべき愛すべき夫も亡くなった今、私の夫が相手でお母さんには少々手ごわいけれど、守るべきものを守る力を出せるなんて、もう、ないよ。だって、もう、守るべきものがないんだから。」
思わず、そんなセリフが滔々と溢れ出てきて、自分でも驚いた。
そうだ。そうなんだ。
守るべきものを守るべき時に守る力をつけることこそ、人生だよ。
それができなくって、何が、優しい?
守るべき時に守れない優しさって、うそっぱち。偽善者だ。
私も、4~5年前まで、しっかりちゃっかり偽善者だった。トホホ・・・。
で、『母さんよ。あんたは、まだ、ほんとうの愛ってやつを兼ね備えていないんだよ。それで、人生を降りちゃっていいの?』って話だけど、これ以上の負荷は、母をうつ病にさせてしまいそうなので、もうやめた。今からは、母を、母ではなく老人だと意識して接していくしかない。残念。そう、残念。
で、私が、人の話をきちんと聴いていないから、それじゃぁ、お友達ができないで一人寂しい思いをするんじゃないかと思って、そんなこと言えるのは私くらいだってわかっていて、あえて憎まれ役を買って出て、「きちんと聴けてないよ。」って、母にいうと、すぐ、シュンとなる。もう、みんな物忘れもするんだし、年をとってきたら思い込みが強くって、勝手耳になっていくもんなんだから、「あ~ら、そうだった。わ~は、は、は」と笑いに変えて、「気をつけなくっちゃいけないわねぇ。」なんてユーモアで返してくれればいいのに、叱られたって思いが強いからどんどん落ち込んでいく。そうなると、もう、こっちはお手上げ。「もしかして、お母さんは、小さい頃から、優等生だったでしょう?」って言葉が、なぜか、私の口からこぼれた。
「そうだった。叱られたことがほとんどなかった。」と母。
学生時代に、叱られたことがない優等生タイプの人は、打たれ弱い。
たぶん、こういうタイプの人は、大人になって、失敗を怖れる。失敗した後、落ち込む。私の勝手な憶測であるが、うつ病にもなりやすいんじゃないかなぁ。
小学校、中学校と先生から、結構、叱られてきた人は、免疫があるから、慣れていて、立ち直りも早い。
これって、人生をたくましく、有意義に生きるためには、かなり、否、最も大切なことなんじゃないだろうか。
ということは、四男は、今、かなり強力な免疫をつけつつある。担任にも叱られ、校長先生や教頭先生にも目をつけられ、縦割りそうじの時は、6年生にも恰好な餌食となっているもの。
かわいそうだわ。叱られっぱなしでって思ていたけれど、優等生と正反対の行動ばっかりしているから、叱られるわけでいたしかたない。先生にもう少し対話をお願いしたいと思っているところだけれど、私さえ(親さえ)守っていれば、きっと、大人になって社会に出たら、強靭な神経で生きてゆけるのかも。そう思うと、まぁ、叱る先生は必要悪かも・・・ね。とにかく、親さえ、子の気持ちを汲んでさえいれば、例え、甘えさせすぎていると言われようが、親がしっかりしてくださいといわれようが、怯まず、子どもを守ってさえいれば、子どもは育つものだと、今、確信をもって言える。
物は考えよう・・さ。
が、しかし、ウヒョ~ウ。
本日、PM5:00 担任の先生より、よく言えば、『息子さんのことが心配ですので学校に来てください。』悪く言えば『呼び出し』があり、行って参りました。
顔で笑って、心で泣いて・・・・いえいえ、
顔で『はい、先生のおっしゃる通りです。うちの子は。』心で『絶対にわが子を信じるぞ。守るぞ。』って覚悟で出かけました。
先生も、一生懸命やってらっしゃるけれど、うちの子にはお手上げで、困っていらっしゃるのが顔にしっかり出ていて、優等生でない親って、いろいろお話したくても、なんだか言いたいことを言えないのよねぇ。
お勉強のこととお掃除のことと同じクラスの軽度の知的障害(?)のある女の子へのいじめの3点について、気になるということで呼び出された模様。
最近は、小学校ってお掃除が縦割りなんだそうな。で、四男は、6年生に『早くしろ!』とか『ちゃんとしろ。』って感じで、指導されることが怖いのか嫌なのか、『6年生がいじめるからそうじに行きたくない。』と10日ほど前から言い始めていた。そして、ついに、先週の月曜日に寝る前、涙を流しながら鼻水もじゅるじゅるしながら、つまり、泣きじゃくりながら『明日、学校に行きたくない。』と言いだした。一度言い出したらきかない四男。ただ、彼の涙は本物だと思ったので、『わかった。じゃぁ、そうじの始まる前に迎えに行くから。先生にも、朝、電話しておくから。』と約束した。
朝、四男が出かけた後に、担任にお電話すると、「今日は、火曜日で掃除のない日です。」ですって。で、火曜日は、そのまま見送りということになった。そして、翌日も何も言わずに出かけて行ったので、何もアクションしなかったら、夜、「何で、迎えに来なかったんだ。明日は休む。」ときかなかった。
木曜日は参観日だったので、結局、金曜日に昼休み迎えに行って、早退した。
そうじの件では、その6年生の男の子も謝りに来たとのこと。でも、その場所には行こうとせず、今、そうじの時間どこにいるのかわからないと先生も掌握しかねている様子であった。
呼び出された日に、座らされた場所は、四男の席で、廊下側で一番後ろの席だった。チラッと横を見ると壁に、2年2組のそうじ場所の配置表というものが貼ってあってびっくりした。
なんと、2年2組の生徒は、一人で敵陣に向かわなければならないという設定なのだ。
他の学年の構成がどうなっているのかは不明だが、少なくとも、2年生は一人で、1年生が?人で、あとは上級生ということになる。
ありえない。
これって、おそうじタイムが全然楽しくないよね。緊張しちゃって、つまんないよね。
そう思った。
そして、そう思ったとおり、思慮配慮もなく担任の先生の前で、つい口走ってしまった。「それって、楽しくないですよね。一人で行くんですか?2~3人に対して6年生一人って感じじゃないんですか。」と。
だって、あまりにも驚いてしまったのだもの。自分の口を制御できなかった。
先生の顔は、怪訝な顔。『このお母さん、なんて変なことを言うお母さんなの?」ってさも言いたげな顔だった。
だって、見も知らぬ上級生にずっと見張られているんだよ。
まぁ、おそうじって、まじめにちゃんとする子もいれば、遊んでばっかりの怠け者もいる。でも、時々、ふまじめな子どもたちも、何を血迷ったか、ぞうきんがけの競争なんかしちゃったりして、床がピッカピカになったりする日もある。でも、時に、ぞうきんをギュ~っと絞っていないので、床がびちょびちょになるひもあったりする。
そんなもんじゃなかろうか。
ちょこっと楽しかったり、めんどくさかったりする世界。それが、学校のおそうじタイム。
なのに、たった一人で上級生という強敵のいる敵陣へ人質のように連れて行かれ、ちょっとでも怠けていると、「早くせ~い。」「ちゃんと拭け~。」などと命令される。これじゃぁ、まるで、奴隷のような気持になる(んじゃなかろうか)。
これって、ちっとも楽しくない(と想像する)。
四男のことだ。
6年生の目に余るようなおそうじをしたのだろう。
6年生が、『早くせ~い。』と指導するに至った状況は、十分すぎるほど想像できる。
しかしながら、四男は、指導されるとか命令されるとか指図されるということに敏感にアレルギー反応を示す性質で、心の扉のシャッターをガラガラガラとおろしてしまう。
そうなると、指図する方は、どうにかして四男を思うとおりにしたいので、意固地になって、させようとする。でも、四男のシャッターは閉ざされたままだ。で、結局、最後は、キレてしまうか手を出してしまう。そして、人間関係も切れてしまう。
縦割り教育って何のためにあるのだろう。
6年生一人が、低学年の子を2~3人お世話することから学ぶものはあると思う。でも、1対1はよくない。むしろ、危険なにおいがするのは、私だけだろうか。
6年生にもいろんな6年生がいるはず。
いじめ心なんてほとんどない子もいれば、いじめることに快感を感じている子もいるだろう。
普段は、いじめ心なんてほとんどない子も、たまたま、前日にお父さんに怒られてむしゃくしゃしている子もいると思う。
いじめられて辛い気持ちの子どももいるはずだ。
そんな6年生にとって、低学年の子が非武装でやってきたとき、カラダとココロはどう化学反応を起こすだろうか。
わかんない。予測不能な世界だ。
『学校のそうじは、きちんとするものだ。』これは、正義であり、正論であり、誰も文句言えない。
ストレスの溜まっている6年生は、この正論を利用して、自分の憂さを晴らさない手はない。
もちろん、無意識の世界のことなので、本人も自分の本心を知る由もないんだけれど。
四男が、ちゃんと掃除をしなくって、これ幸いと、指導という名のもとに指示、命令をしてすっきりしていたかもしれない。
あるいは、四男に手を焼いてほとほと困っていたかもしれない。
それは、わからない。
ただ、私が気になるのは、学校が、1対1という設定に対して懸念される問題点としてそのことを配慮されていたのかなぁ~という疑問であり、不安。
私が、担任にそのことを伝えた時の怪訝なお顔から推測すると、どうもそのような視点で検討された形跡はないようであった。これは、学校の上の方が決めたことなのでウンヌン・・・とおっしゃり、そうじをちゃんとすることが縦割りの目的であることが当然というような感じであった。学校は、子どもの心理というものを大事にしてくださっているのかなぁ。いじめの問題について、担任の先生は、通信によく書いてくださる。『いじめはいけません。』という言葉が、私の胸中では空回りして、隙間風がピューッと吹いた・・・よ。
前に、二八の法則という話を書いたことを覚えていてくださっているでしょうか。
先生たちには、ぜひ、この法則を知っていただきたい。
幼稚園である実験をした。
30分くらい遊ばせてから、『は~い、今からお片付けの時間ですよ~。』と先生が言うと、ほとんどの子どもたちは、お片付けなんか目もくれず楽しそうに遊びに夢中になっている。でも、その中の2割の子どもたちが、お片付けを始めるのだ。で、片づけが終わったらその片づけた子どもたちは、別の部屋に行ってもらって、また、しばらく遊びタイム。
30分経ったら、また、『は~い、お片付けの時間ですよ~。』と促すと、残った8割の子どもたちの中から2割の子どもたちがお片付けを始める・・という。
人間って、そんなもん。
まじめに人に言われたとおりにする人は2割。
でも、その2割が抜けると、次の2割の人となる。
そして、誰もいなくなったら、自分がやる。
もちろん、時に、片づけられないという病気を持った方もいるので、100%の保証はないけれど、最後の一人の人は、怠けものなりに知恵を働かせてゴミ屋敷にならないようにするのではなかろうか。夫も、学生時代、片づけるのが嫌だから、本棚から出した本は必ず、元の場所に戻すようにしていたと言う。今じゃ、靴下をあっちに脱ぎ、ズボンもズボッと脱いだまま・・・だ。二八の法則に従って、生きている。私も八になりたいよ。そんなに好きじゃないもの、おそうじ。でも、私がしないと、我が家は誰も二になってくれないんだもの。仕方なく、二になっている。
世の中、自然にさせときゃ、いい感じになるように、人間の遺伝子にちゃんと組み込まれているのかもしれない。
人間、自然にさせとくと、最初から、10人が10人、人に言われたとおりのことをまじめにするなんてことは、生物学上ありえないという。10人が10人言われたとおりにまじめにするのは、そこに、恐怖とか脅威が存在するんじゃないだろうか。
学校は、『そうじをきちんとする』ということが目標である。きちんとする力も大切だけど、2割の法則を知らずして10割の法則を目指してしまうことが怖い。子どものきちんとする力と生きる力を育てるって相矛盾する部分もある。そんなに単純ではない。そのことをよ~く踏まえて、縦割りそうじについて見つめてほしい。
多分、縦割りにしたら、遊んでいる子も減ってそうじもいい感じになって、先生たちは、1対1の縦割りそうじは成功したと満足されていらっしゃることだろう。先生が、叱るべきところを上級生に請け負ってもらっている部分もあるので、助かっていらっしゃるかもしれない。
四男は、なぜか、学校の図書室から、『ぼくら、おそうじ隊!』という絵本を借りてきて、読んでとせがんだ。
小学2年生の番長率いる悪がきどもが、そうじをまじめにしないので女子に叱られいろいろあって、最後は、上級生がピカピカにそうじをがんばる姿に感動して、おそうじ隊を結成してピッカピカを目指すというお話。
自分は、上級生の中に一人でいることが苦痛で、そうじをすっぽかしているんだけれど、そうれじゃあいけないという気持ちや友達と一緒にできたらいいなぁという気持ちなど、彼なりに悲喜こもごもいろんな気持ちが『おそうじ』に集結して、何かを感じているんだろうなぁっていとおしい気持ちになった。
何事も体験だ。
そりゃぁ、できれば、おそうじ隊のように、みんなで力を合わせて何かを達成するというような満足感を得られる体験ができれば理想である。でも、『学校が作った縦割り一人派遣おそうじ』の現場で、上級生の中で一人ポツンと心細さの頂点を感じて逃げ出したい気持ちになるのも体験だと思う。なんだかんだ、すったもんだがあっても、四男が、泣きじゃくりながらも自分の気持ちを私に吐露してくれるうちは、大丈夫なんじゃないかと思っているんだけれど・・・・。だって、世の中に出たら、もっと理不尽な目に合うことは必須だ。理不尽さへの免疫も少しづつつけていかなきゃ、そろそろ。
そう、親が、子どもの気持ちを汲み取っていさえすれば、子どもは、明日、また、学校へ行く力を蓄えられるんじゃなかろうか。
夜、夫に、縦割り一人派遣おそうじ体制について、『低学年の子を一人で上級生のところに行かせるってかわいそうだよね。緊張して、そうじに遊び心が付随しないし、もし、その上級生が、いつも親から叩かれたりしてストレスたまっていたら、格好の餌食になっちゃう危険性をはらんでいるから怖いよね。』と言ったら、『え~。上級生の中に一人なんてありえない。普通は、上級生一人に3人くらいの子の面倒を見させるもんだ。』と怒り心頭だった。
この会話を、四男はしっかり聞いていて、なんとなく、満足したような気配を感じた。
多分、この会話がよかったのだと思う。
『お父さんとお母さんは、僕の味方だ。』と安心したんじゃないだろうか。
それからは、学校に行きたくないと言わなくなった。
おそうじの現場に行っているのかどうかは把握していないけれど・・・・。
叱られることに慣れていない温室育ちという優等生は、将来、叱られたり失敗したりする体験に非常に弱い。
小さい頃、はしかにかかるのと、大人になって初めてはしかにかかるのと同じようなものだと思う。ただし、頻繁に叱られると、劣等感をもってしまい、自分はダメだという劣等感を植え付けかねないので、何事も“ほどよく”がよろしくってよ。
つぎは、『障害者といじめというエベレストより高い壁』 です。
疑問符・・・・でしょ?
実は、今、私は、実の母と夫の諍いの間に入って、人の心と人生についていろいろと考えさせられている。
そして、母を見ていて、『やっぱ、けんかできない奴はいかん!』『子どもを優等生に育てたらとんでもない目に合う。』と痛感している。 夫との価値観の違いから生じるもめごとで眠れなくなっている母は、自分の人生を強制終了して、ただただ余生はストレスからなるべく遠ざかり、当たり障りのない表面的な付き合いグループのミニバレー仲間とミニバレーで生じる笑いだけで楽しく生きていければいいと断言した。
今日、母と電話でしゃべっていて、はっと気が付いた。
人生の課題って、『ほんとうに守るべき者がいたとき、その守るべき者が守ってほしいときに、命を懸けて(というとやや大げさだけれど)守れるか?』なんじゃないのかとピピーンと来た。
もちろん、人それぞれだとは思うけれど、言いたいことを言えない、他人から言われたことをうじうじ考えて悩んで眠れない…みたいな、つまり、私のようなタイプの人にとっては、それが大きな人生のテーマのような気がしたのだ、母としゃべっていて。もちろん、カエルの子はカエル・・で、母は、私に輪をかけて、言いたいことを言えないタイプだ。かといって、人の話もろくろく聴いていない。聞けない。これじゃあ、お友達ができないはず(私はそれが気になるの)。
母は、「もういい。もう72歳なんだから、残りの人生、当たり障りなく楽しく生きたい…。」とつぶやいた。
「そうなんだ。じゃぁ、お母さんの人生ってなんだったの?私は、今、しみじみ思うのよ。私は、夫が怖くって、4~5年前まで、ほんとうに言いたいことが言えなかった。それが、どんなに子どもの心を寂しくさせていたか。特に長男が一番の被害者。彼が、17歳になるまで守れなかった。高2の冬にやっとやっと、怯むことなく、夫に向かって行けた。いっくら絵本を読んであげたり、山や川に連れて行ったり、おいいしい(かどうかわかんないけれど)手づくりのピザをを作ってあげたり、ガミガミ怒らなかったとしても、子どもの盾となり、理不尽なことをのたまう夫に反抗する子どもを守る(夫が何を言おうが吠えようが、真正面から向き合い、一歩も譲らず、きちんと子どもの気持ちを伝えるということ)ことができなければ、それは、ほんとうの愛がないってこととおんなじなんだよ。長男には、ほんとうにほんとうに申し訳ない気持ちでいっぱいだ。彼は、思春期まっただ中の頃、いっつも自殺のことを考えていたと、二十歳になってぼそっと語ってくれた。溜息・・・・。
私は、17年かけて、ほんとうに守るべきものを守るためには、どんな相手にも怯まず挑んで行ける力をどうにか手にすることができた。でもお母さんは、どう?お父さんともけんかは避けてきたでしょう。お父さんは子どもには優しかったし、幸か不幸か私にも大きな反抗期ってやつがなかったから、怯まず子を守るっという機会にたまたま出会わなかっただけ。今、最後の機会=チャンスかもしれないよ。だって、けんかすべき愛すべき夫も亡くなった今、私の夫が相手でお母さんには少々手ごわいけれど、守るべきものを守る力を出せるなんて、もう、ないよ。だって、もう、守るべきものがないんだから。」
思わず、そんなセリフが滔々と溢れ出てきて、自分でも驚いた。
そうだ。そうなんだ。
守るべきものを守るべき時に守る力をつけることこそ、人生だよ。
それができなくって、何が、優しい?
守るべき時に守れない優しさって、うそっぱち。偽善者だ。
私も、4~5年前まで、しっかりちゃっかり偽善者だった。トホホ・・・。
で、『母さんよ。あんたは、まだ、ほんとうの愛ってやつを兼ね備えていないんだよ。それで、人生を降りちゃっていいの?』って話だけど、これ以上の負荷は、母をうつ病にさせてしまいそうなので、もうやめた。今からは、母を、母ではなく老人だと意識して接していくしかない。残念。そう、残念。
で、私が、人の話をきちんと聴いていないから、それじゃぁ、お友達ができないで一人寂しい思いをするんじゃないかと思って、そんなこと言えるのは私くらいだってわかっていて、あえて憎まれ役を買って出て、「きちんと聴けてないよ。」って、母にいうと、すぐ、シュンとなる。もう、みんな物忘れもするんだし、年をとってきたら思い込みが強くって、勝手耳になっていくもんなんだから、「あ~ら、そうだった。わ~は、は、は」と笑いに変えて、「気をつけなくっちゃいけないわねぇ。」なんてユーモアで返してくれればいいのに、叱られたって思いが強いからどんどん落ち込んでいく。そうなると、もう、こっちはお手上げ。「もしかして、お母さんは、小さい頃から、優等生だったでしょう?」って言葉が、なぜか、私の口からこぼれた。
「そうだった。叱られたことがほとんどなかった。」と母。
学生時代に、叱られたことがない優等生タイプの人は、打たれ弱い。
たぶん、こういうタイプの人は、大人になって、失敗を怖れる。失敗した後、落ち込む。私の勝手な憶測であるが、うつ病にもなりやすいんじゃないかなぁ。
小学校、中学校と先生から、結構、叱られてきた人は、免疫があるから、慣れていて、立ち直りも早い。
これって、人生をたくましく、有意義に生きるためには、かなり、否、最も大切なことなんじゃないだろうか。
ということは、四男は、今、かなり強力な免疫をつけつつある。担任にも叱られ、校長先生や教頭先生にも目をつけられ、縦割りそうじの時は、6年生にも恰好な餌食となっているもの。
かわいそうだわ。叱られっぱなしでって思ていたけれど、優等生と正反対の行動ばっかりしているから、叱られるわけでいたしかたない。先生にもう少し対話をお願いしたいと思っているところだけれど、私さえ(親さえ)守っていれば、きっと、大人になって社会に出たら、強靭な神経で生きてゆけるのかも。そう思うと、まぁ、叱る先生は必要悪かも・・・ね。とにかく、親さえ、子の気持ちを汲んでさえいれば、例え、甘えさせすぎていると言われようが、親がしっかりしてくださいといわれようが、怯まず、子どもを守ってさえいれば、子どもは育つものだと、今、確信をもって言える。
物は考えよう・・さ。
が、しかし、ウヒョ~ウ。
本日、PM5:00 担任の先生より、よく言えば、『息子さんのことが心配ですので学校に来てください。』悪く言えば『呼び出し』があり、行って参りました。
顔で笑って、心で泣いて・・・・いえいえ、
顔で『はい、先生のおっしゃる通りです。うちの子は。』心で『絶対にわが子を信じるぞ。守るぞ。』って覚悟で出かけました。
先生も、一生懸命やってらっしゃるけれど、うちの子にはお手上げで、困っていらっしゃるのが顔にしっかり出ていて、優等生でない親って、いろいろお話したくても、なんだか言いたいことを言えないのよねぇ。
お勉強のこととお掃除のことと同じクラスの軽度の知的障害(?)のある女の子へのいじめの3点について、気になるということで呼び出された模様。
最近は、小学校ってお掃除が縦割りなんだそうな。で、四男は、6年生に『早くしろ!』とか『ちゃんとしろ。』って感じで、指導されることが怖いのか嫌なのか、『6年生がいじめるからそうじに行きたくない。』と10日ほど前から言い始めていた。そして、ついに、先週の月曜日に寝る前、涙を流しながら鼻水もじゅるじゅるしながら、つまり、泣きじゃくりながら『明日、学校に行きたくない。』と言いだした。一度言い出したらきかない四男。ただ、彼の涙は本物だと思ったので、『わかった。じゃぁ、そうじの始まる前に迎えに行くから。先生にも、朝、電話しておくから。』と約束した。
朝、四男が出かけた後に、担任にお電話すると、「今日は、火曜日で掃除のない日です。」ですって。で、火曜日は、そのまま見送りということになった。そして、翌日も何も言わずに出かけて行ったので、何もアクションしなかったら、夜、「何で、迎えに来なかったんだ。明日は休む。」ときかなかった。
木曜日は参観日だったので、結局、金曜日に昼休み迎えに行って、早退した。
そうじの件では、その6年生の男の子も謝りに来たとのこと。でも、その場所には行こうとせず、今、そうじの時間どこにいるのかわからないと先生も掌握しかねている様子であった。
呼び出された日に、座らされた場所は、四男の席で、廊下側で一番後ろの席だった。チラッと横を見ると壁に、2年2組のそうじ場所の配置表というものが貼ってあってびっくりした。
なんと、2年2組の生徒は、一人で敵陣に向かわなければならないという設定なのだ。
他の学年の構成がどうなっているのかは不明だが、少なくとも、2年生は一人で、1年生が?人で、あとは上級生ということになる。
ありえない。
これって、おそうじタイムが全然楽しくないよね。緊張しちゃって、つまんないよね。
そう思った。
そして、そう思ったとおり、思慮配慮もなく担任の先生の前で、つい口走ってしまった。「それって、楽しくないですよね。一人で行くんですか?2~3人に対して6年生一人って感じじゃないんですか。」と。
だって、あまりにも驚いてしまったのだもの。自分の口を制御できなかった。
先生の顔は、怪訝な顔。『このお母さん、なんて変なことを言うお母さんなの?」ってさも言いたげな顔だった。
だって、見も知らぬ上級生にずっと見張られているんだよ。
まぁ、おそうじって、まじめにちゃんとする子もいれば、遊んでばっかりの怠け者もいる。でも、時々、ふまじめな子どもたちも、何を血迷ったか、ぞうきんがけの競争なんかしちゃったりして、床がピッカピカになったりする日もある。でも、時に、ぞうきんをギュ~っと絞っていないので、床がびちょびちょになるひもあったりする。
そんなもんじゃなかろうか。
ちょこっと楽しかったり、めんどくさかったりする世界。それが、学校のおそうじタイム。
なのに、たった一人で上級生という強敵のいる敵陣へ人質のように連れて行かれ、ちょっとでも怠けていると、「早くせ~い。」「ちゃんと拭け~。」などと命令される。これじゃぁ、まるで、奴隷のような気持になる(んじゃなかろうか)。
これって、ちっとも楽しくない(と想像する)。
四男のことだ。
6年生の目に余るようなおそうじをしたのだろう。
6年生が、『早くせ~い。』と指導するに至った状況は、十分すぎるほど想像できる。
しかしながら、四男は、指導されるとか命令されるとか指図されるということに敏感にアレルギー反応を示す性質で、心の扉のシャッターをガラガラガラとおろしてしまう。
そうなると、指図する方は、どうにかして四男を思うとおりにしたいので、意固地になって、させようとする。でも、四男のシャッターは閉ざされたままだ。で、結局、最後は、キレてしまうか手を出してしまう。そして、人間関係も切れてしまう。
縦割り教育って何のためにあるのだろう。
6年生一人が、低学年の子を2~3人お世話することから学ぶものはあると思う。でも、1対1はよくない。むしろ、危険なにおいがするのは、私だけだろうか。
6年生にもいろんな6年生がいるはず。
いじめ心なんてほとんどない子もいれば、いじめることに快感を感じている子もいるだろう。
普段は、いじめ心なんてほとんどない子も、たまたま、前日にお父さんに怒られてむしゃくしゃしている子もいると思う。
いじめられて辛い気持ちの子どももいるはずだ。
そんな6年生にとって、低学年の子が非武装でやってきたとき、カラダとココロはどう化学反応を起こすだろうか。
わかんない。予測不能な世界だ。
『学校のそうじは、きちんとするものだ。』これは、正義であり、正論であり、誰も文句言えない。
ストレスの溜まっている6年生は、この正論を利用して、自分の憂さを晴らさない手はない。
もちろん、無意識の世界のことなので、本人も自分の本心を知る由もないんだけれど。
四男が、ちゃんと掃除をしなくって、これ幸いと、指導という名のもとに指示、命令をしてすっきりしていたかもしれない。
あるいは、四男に手を焼いてほとほと困っていたかもしれない。
それは、わからない。
ただ、私が気になるのは、学校が、1対1という設定に対して懸念される問題点としてそのことを配慮されていたのかなぁ~という疑問であり、不安。
私が、担任にそのことを伝えた時の怪訝なお顔から推測すると、どうもそのような視点で検討された形跡はないようであった。これは、学校の上の方が決めたことなのでウンヌン・・・とおっしゃり、そうじをちゃんとすることが縦割りの目的であることが当然というような感じであった。学校は、子どもの心理というものを大事にしてくださっているのかなぁ。いじめの問題について、担任の先生は、通信によく書いてくださる。『いじめはいけません。』という言葉が、私の胸中では空回りして、隙間風がピューッと吹いた・・・よ。
前に、二八の法則という話を書いたことを覚えていてくださっているでしょうか。
先生たちには、ぜひ、この法則を知っていただきたい。
幼稚園である実験をした。
30分くらい遊ばせてから、『は~い、今からお片付けの時間ですよ~。』と先生が言うと、ほとんどの子どもたちは、お片付けなんか目もくれず楽しそうに遊びに夢中になっている。でも、その中の2割の子どもたちが、お片付けを始めるのだ。で、片づけが終わったらその片づけた子どもたちは、別の部屋に行ってもらって、また、しばらく遊びタイム。
30分経ったら、また、『は~い、お片付けの時間ですよ~。』と促すと、残った8割の子どもたちの中から2割の子どもたちがお片付けを始める・・という。
人間って、そんなもん。
まじめに人に言われたとおりにする人は2割。
でも、その2割が抜けると、次の2割の人となる。
そして、誰もいなくなったら、自分がやる。
もちろん、時に、片づけられないという病気を持った方もいるので、100%の保証はないけれど、最後の一人の人は、怠けものなりに知恵を働かせてゴミ屋敷にならないようにするのではなかろうか。夫も、学生時代、片づけるのが嫌だから、本棚から出した本は必ず、元の場所に戻すようにしていたと言う。今じゃ、靴下をあっちに脱ぎ、ズボンもズボッと脱いだまま・・・だ。二八の法則に従って、生きている。私も八になりたいよ。そんなに好きじゃないもの、おそうじ。でも、私がしないと、我が家は誰も二になってくれないんだもの。仕方なく、二になっている。
世の中、自然にさせときゃ、いい感じになるように、人間の遺伝子にちゃんと組み込まれているのかもしれない。
人間、自然にさせとくと、最初から、10人が10人、人に言われたとおりのことをまじめにするなんてことは、生物学上ありえないという。10人が10人言われたとおりにまじめにするのは、そこに、恐怖とか脅威が存在するんじゃないだろうか。
学校は、『そうじをきちんとする』ということが目標である。きちんとする力も大切だけど、2割の法則を知らずして10割の法則を目指してしまうことが怖い。子どものきちんとする力と生きる力を育てるって相矛盾する部分もある。そんなに単純ではない。そのことをよ~く踏まえて、縦割りそうじについて見つめてほしい。
多分、縦割りにしたら、遊んでいる子も減ってそうじもいい感じになって、先生たちは、1対1の縦割りそうじは成功したと満足されていらっしゃることだろう。先生が、叱るべきところを上級生に請け負ってもらっている部分もあるので、助かっていらっしゃるかもしれない。
四男は、なぜか、学校の図書室から、『ぼくら、おそうじ隊!』という絵本を借りてきて、読んでとせがんだ。
小学2年生の番長率いる悪がきどもが、そうじをまじめにしないので女子に叱られいろいろあって、最後は、上級生がピカピカにそうじをがんばる姿に感動して、おそうじ隊を結成してピッカピカを目指すというお話。
自分は、上級生の中に一人でいることが苦痛で、そうじをすっぽかしているんだけれど、そうれじゃあいけないという気持ちや友達と一緒にできたらいいなぁという気持ちなど、彼なりに悲喜こもごもいろんな気持ちが『おそうじ』に集結して、何かを感じているんだろうなぁっていとおしい気持ちになった。
何事も体験だ。
そりゃぁ、できれば、おそうじ隊のように、みんなで力を合わせて何かを達成するというような満足感を得られる体験ができれば理想である。でも、『学校が作った縦割り一人派遣おそうじ』の現場で、上級生の中で一人ポツンと心細さの頂点を感じて逃げ出したい気持ちになるのも体験だと思う。なんだかんだ、すったもんだがあっても、四男が、泣きじゃくりながらも自分の気持ちを私に吐露してくれるうちは、大丈夫なんじゃないかと思っているんだけれど・・・・。だって、世の中に出たら、もっと理不尽な目に合うことは必須だ。理不尽さへの免疫も少しづつつけていかなきゃ、そろそろ。
そう、親が、子どもの気持ちを汲み取っていさえすれば、子どもは、明日、また、学校へ行く力を蓄えられるんじゃなかろうか。
夜、夫に、縦割り一人派遣おそうじ体制について、『低学年の子を一人で上級生のところに行かせるってかわいそうだよね。緊張して、そうじに遊び心が付随しないし、もし、その上級生が、いつも親から叩かれたりしてストレスたまっていたら、格好の餌食になっちゃう危険性をはらんでいるから怖いよね。』と言ったら、『え~。上級生の中に一人なんてありえない。普通は、上級生一人に3人くらいの子の面倒を見させるもんだ。』と怒り心頭だった。
この会話を、四男はしっかり聞いていて、なんとなく、満足したような気配を感じた。
多分、この会話がよかったのだと思う。
『お父さんとお母さんは、僕の味方だ。』と安心したんじゃないだろうか。
それからは、学校に行きたくないと言わなくなった。
おそうじの現場に行っているのかどうかは把握していないけれど・・・・。
叱られることに慣れていない温室育ちという優等生は、将来、叱られたり失敗したりする体験に非常に弱い。
小さい頃、はしかにかかるのと、大人になって初めてはしかにかかるのと同じようなものだと思う。ただし、頻繁に叱られると、劣等感をもってしまい、自分はダメだという劣等感を植え付けかねないので、何事も“ほどよく”がよろしくってよ。
つぎは、『障害者といじめというエベレストより高い壁』 です。