相手の言うことに、逆らったり、抵抗したり、断ったりすると、こちらが罪の意識を持ってしまう時には、相手は要注意人物である。
隠された恐喝におびえる。
相手の言いなりになっていないと、なんだか自分が誠意のない人のように思えてくるのである。
これを感情的恐喝という。
と、加藤諦三さんの本に。
罪悪感は、畑を枯らす農薬だ
と、神との対話にも。
な~~んだ。私って、罪悪感によって培われた人間だった・・・んだ。途中からは、自分で罪悪感を耕していたかもしれない。
罪悪感という視点から、自分という人間を見つめると、スッキリしてくる。
母は、別に、可もなく不可もないごく普通のお母さんだと思って、ほんわかな凪の家で育ってきたつもりだった。ただ、思春期のたった1回の、私の抵抗に『しゅん』という反応をした母によって、言い返せない私が確立してしまった。
でも、はたして、たった1回のしゅんで、言い返せない私が確立されるものだろうか。
なんだか、蔓延している言い返せない空気が、わが家にあったのではないだろうか。もしくは、私の記憶の始まりの前の頃の、つまり、胎児の頃から3歳ごろまでの母との関係性で、すでに罪悪感の芽が育っていたのかもしれない。
父の『しゅん』による、夫婦げんか回避作戦を無意識はしっかり感じ取っていたのだろうか。
言い返すお手本のない家庭に育ち、優しくて素敵な女性になりたいという憧れを抱いた13歳の私には、たった1回の母の『しゅん』が、畑を枯らす農薬であったのかもしれない。
おそらく、精神的に参ってしまうタイプの人って、一見、いい人で、でも、実は、心理的恐喝に怯え、NOっと言ったら自動的に罪悪感を増幅させてしまう人なのだと思う。
罪悪感に苛まされるくらいなら、NOと言わないことを選択してしまい、結果、自分を押し殺して、人生を積み重ねてきた。そして、自分を押し殺し続けた結果、自分を見失って、空虚しか残らなくなった。空虚はきつい。何のために自分は生きているの?という悪魔のささやきに翻弄される。
胸がキューンと苦しくなる。
まるで、溺れかかって、必死でもがいているがごとく。
母は、知ってか知らずしてか、心理的恐喝をしていた。
自分のない私は、こと恋愛に関しても、勝手に心理的恐喝されてしまっていたと今、思う。
自重筋トレならぬ、自重罪悪感的な。
仕方がない。自分がわからないから、自己主張するのが怖くて、相手に気に入られることばっかりに目が行って。で、相手も自己主張のない私に飽きて、去っていったのだろう。
今なら、わかる。
私が13歳の時に描いた『なりたい自分』だった『優しくて素敵な女性像』が、単なる八方美人という自分のない人間という大誤算だったってことが。トホホ。
ま、でもね。昨今、宝塚などの報道を見ていると、20代の大人の素敵な女性たちの集まりだとイメージされていた世界でも、密室の中では、猛毒レベルの心理的恐喝が繰り広げられていたことがわかり、大なり小なり、あるいは、五十歩百歩かなって。人間なんてララーラ、ラララ、ララーだね。
ただ、今からは、自分のココロをきちんと見つめようと思う。
『私の罪悪感』は、私を心理的に恐喝してくる人かそうでないかのバロメーター。もし、少しでも、私がその人に罪悪感を感じたら、つまり、気に入られようという下心を抱いたら、イヤな時はイヤってきちんと伝えようって決めた。
今日は、1月2日。
罪悪感の感度を高める。
これが、今年の私の目標。
ふと、私は、子どもたちに罪悪感を抱かせるような子育てをしてきたのではないかという不安が脳裏をかすった。
これも、今年のテーマだ。
ちょっと、こわい。
思春期に、『クソババァ』『別に・・・』『うざい』って言われたら、子育て大成功って、児童精神科医の渡辺久子さんがおっしゃっていた。
罪悪感があったら、絶対に言えないセリフだ。
もちろん、私は言えなかった。というか、想像もつかなかった。
長男は言えてない。ただ、ずっと、睨みつけていた。
次男は、『別に・・・』『うざい』は言っていたなぁ。
三男は、冬眠しているよな思春期だった。遅ればせながら、今になって、言えている。
四男は、『クソババァ』『ろうがい』の打ち上げ花火大連発も終焉の時を迎えつつある。
恩着せがましくならないよう、細心の注意を払おう。