総合漢方にんぷ薬・総合漢方育児薬

~頭を使ってではなく、カラダ(感性)で子育てしてみませんか~

桃太郎

2013年02月28日 | エッセー
 次男の試験の付き添いのついでで、倉敷の『桃太郎のからくり博物館』に行ってきました。
 正式には、倉敷に行ってきましたなのですが、すごく期待していた大原美術館は月曜日が休館日でがっくりした気分で、たまたま街並みを歩いていたら目に留まった『桃太郎のからくり博物館』に、せっかく岡山に来たのだから・・ということで入ってみたら、期待しなかった分、ゆる~いびっくりハウスに意外と反応してしまった。
 会場(と言っても小さい民家って感じ)を一回りした観光客の口から、「意外におもしろかったね。」


 つづく

 という言葉がポロリと出てくるような記憶に残る博物館だった。
 
 『勇者 よしひこ』という番組をご存じですか?
 あんな感じのゆる~い脱力感を伴う勇者物語みたいな博物館だった。
 その中でも、一番?で記憶に残ったコーナーが、ぐるぐる回転する渦巻きをじ~っと1分間ほど見つめた後に、下にあるドライフラワーに目を移すと、なんと花がぐ~んと開くではないか?目の錯覚遊びで江戸時代からあるそう。でも、どうして、ひろがっていくの?
 そして、もっと不思議だったのが、その渦巻と反対周りの渦巻きを見ると、逆に、お花がキューっと縮んでいく。

 左回りの回転だとひろがって、右回りだと縮んでいく。

 な~~~~~~~ぜ?

 今でも、その理由がわからない。

 そんな話を次男にしたら、北半球では、水道の水が排水溝に流れるのは右回りの回転で、南半球は、その反対の左回りだという。
 それは、北極南極と関係があるのかな?と思うけど、右回りと左回りは脳の中でどう感知され、どう映像化するのか興味を持った。

 この旅で、ジョン・グレイの『ベスト・パートナになるために』という文庫本を読んだ。

 これまた、男の脳と女の脳の違いを男性の立場で、しかし、女性の気持ちもちゃんと汲んでもらいながら書かれた非常にためになる参考書だった。


 つづく

 まさに、夫婦必見の書!
 
 

 
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ザ!公務員!

2013年02月22日 | エッセー
国家公務員の給料がカットされることに便乗して、国は、地方公務員の給料も7.3%カットしようという動きがある。あたかも、国家公務員も国のためにそうするのだから地方公務員も・・・ということらしいが、実は、地方公務員は、今までも、国からどんどん仕事が下りてくるにも関わらず、4分の一くらいの人員削減がなされており、その分、サービス残業が激増し、十分にカットされている状況なのだ。
 そんなおり、東京での春闘に向けた集会があり行ってきました。
 アベノミクスってよくわかんないけれど、一時的なカンフル剤として公共事業をじゃんじゃかやって景気を良くしようということらしい。でも、日本国中の公務員の給与を7.3%もカットしたら、みんな超節約体制に入り、消費は拡大どころか縮小の一途をたどるだけなのに・・・。政治は何をしたいのか?消費を拡大し景気をよくしたいのか?それとも、財政赤字の穴埋めをしたいだけなのか?二兎追うものは一兎得ず・・・・だと思うんだけどなぁ。
 やる気なくなる。
 日本国中の公務員のやる気が失せたら、それは、日本のやる気の損失につながって、ますます日本の元気がなくなってしまう気がする。

 公務員もいろいろだと思う。
 わたしなんざ、ここ10年、必死に仕事をしても終わらず、ほぼ毎日、1時間から1時間半のサービス残業だった。周りを見回しても、結構、サービス残業している。
 もちろん、民間はもっと大変だと思う。
 でも、それから家に帰って、家事をして子どもの勉強を観たり、絵本の読み聞かせをしたりなんだり・・とフル回転で生きてきた。
 
 それなのに、7.3%もカットされたら、なんだかなぁ・・・、仕事も最低限こなせばいいという発想に陥りそう。こなすという感覚は、国や県からあ~せ~、こ~せ~というような仕事が激増しているから余力がなくなっているせい。結果、市民のために本気で何かしようというところまで気持ちが行かなくなる。人員を削減されても、市民のために頑張ってきたのに、給与をこんなにカットされたら、もう限界。

 もちろん、もちろん、そうでない公務員も結構いる。でも、エネルギーのある公務員も時々いたのだ。ときどき、いたことで、町が元気だったのに、それが、いなくなったら。

 つづく

 ただ、こうも思う。
 人間、どん底まで行ったら、知恵というものが神様からプレゼントされる。
 そういんもんだ。
 公務員もどん底まで行くと、お役所仕事から脱皮して創意工夫して、より効率的で効果的なやり方を必然として模索し始め、案外、時間外なんてしなくても、効率よく楽しく仕事をする術を身に着けていくのかもしれない。
 
 2年前の春、つまり、胃がんと宣告された夏の直前、私は、超ハードな仕事と人間関係により眠れない日々を過ごしていた時、私が企画したスピチュアル精神科医越智啓子先生の講演会で、思い余って先生に相談したことがあった。


 つづく

そしたら、なんと、越智先生の口から出た言葉は、「よかったわね。おかげで効率的に仕事をこなす能力を授けてもらって・・・。」

 え~~~~~~~~~~~~~。そういうこと?

 開いた口がふさがらなかったけれど、10秒後に、そうかもなぁ~と妙に納得する私がいた。

 限界ではあった。
 だって、その年の夏、胃がんを宣告されたのだから・・・。

 確かに、今からの市役所など住民と直接接点の多い地方公務員は、きついだろうと思う。
 もっと、しわ寄せも強くなると思う。
 いろんな意味で仕事に対してやる気やモチベーションを高めにくくなるかもしれない。

 でも、人間って、限界に来ると〝変わるもしくは“変われる”。
 
 仕事のモットーを、『いかに効率よく楽しくやっていくか。」という視点で、みんなが知恵を出し合う雰囲気作りに持っていけたら、きっと、モチベーションも高まるはずだと信じたい。
 常に、どうしたら、もっと効率的に楽しく仕事ができるかというお題を総務課のようなところが提案し、よいアイデアは、予算もあるのでできるところから、どんどん採用して、プラス思考を市役所職員に蔓延させていくような仕掛けを作っていくだけで、ぜんぜん空気が変わって、職場がルンルンになるんじゃないかなぁ。
 それは、公務員だけではなく、全てに言えること。
 
 今は、どっちかというと足を引っ張り合う空気の方が優勢な時代だけれど、限界にきたら、協力し助け合うという空気の芽がどんどん成長していくんんじゃないだろうか。
 今の日本の人口は1億2千万くらい。2050年には8千9百万に減り、人口構成は、高齢者の割合がもっと高くなる。今、生まれてくる子ども達が壮年期の頃は大変なんてもんじゃない。
 『いかに効率よく楽しくという視点で、物事を探求できる喜びの力を子どもたちにプレゼントできるか、今、問われている。』ふと、そう思った。
 マイナスの環境をマイナスという思考で覆い隠さず、どんな環境でも楽しめる力を私は、わが子に与えたい。

 そう考えると、越智先生の「よかったわね。効率という能力を身に着けられて」という言葉が俄然輝きだす。

 わが子は、私という親を感じて育つ。
 
 愚痴なんか言う前に、私なりの『職場を楽しく効率的にする知恵袋』を作っていこうと、今、決めた。
 確かに、給料が減っていくことは、モチベーションが下がる。
 でも、未来の子ども達は、もっと、過酷な環境で生きる可能性が高いのだ。
 だったら、嘆いていたってしかたない。
 親である私自身が、どんな人生も楽しめるのだというお手本を見せてあげることは、給料よりも大切なことかもしれない。

 と、とりあえず、明日も笑顔で仕事に行こうと思う私であった。


 おわり

 

  
 
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人間観察1 すみません人間

2013年02月17日 | エッセー
 職場に、やたら「すみません。」という女性がいる。
 やたら仕事のミスの多い人なんだけど、ミスした時だけでなく、あいさつ代わりに「すみません。」「ありがとう。」も「すみません。」とすみませんの連発をされる。
 彼女は、今の仕事が3年目のベテランで、私は1年目。
 いつもミスばかりで、一回り年下の同僚から指摘を受けることばかりの日々を送っている。後輩もかなり気を使っている。でも、ミスのダメージの大きさを思うとほっとくこともできずに先輩に物申さずにはいられない切ない日々を送っている。後輩だってつらいのだ。
 それでも、「眠れない日々が続く。」ととてもつらそうにおっしゃれいたので、わたしなりに職場に彼女に対して批判・非難の空気が充満しないように気を配っていた・・・つもりだった。
 が、しかし、わたしは、人生の教訓をこの先輩から学ぶはめになった。
 「すみません。」が耳障りな人は、要注意だということを。

 私は1年目。よって、引き継ぎを受けていないことに対しては、全体のイメージや1年の業務の流れをよく把握していないので、この先輩よりも?なことが多い。時に、うっかりし忘れていることもあるかと思う。
 そしたら、どうも、私のいないところでは、「私はダメねぇ。」とかなり言っているそうなのだ。
 以前から、わたし下に見られているなってうすうす気づいていたけれど、やっぱりそうかと思った。
 
 もう、笑っちゃうよねぇ。

 人間っておもしろい。実におもしろい。

 あ~、この人は、人を自分より上か下かで決めるんだ。
 「すみません。」は処世術。

 
 小池龍之介さんの『偽善入門』に、『「自分の方が正しいもんね!」とプライドごっこにかまけるのが大好きな人間という生き物は、この対等さが我慢できなくて、相手よりも優位に立ちたくなってしまいがちなのが困りものなのです。誰かを批判して、安いプライドを満たす快楽は一瞬です・・・・。』と書いている。

 人間っておもしろい。おもしろく、そして、切ない。

 おもしろいという視線であたりを見回すと、結構、おもしろい石ころがごろごろころがっている。

 つづく

小池龍之介さん風に自分の感情をコントロールしようと努力している人はカッコイイ。
 カッコイイけれど、自分の中に沸々と湧きあがる一見汚い感情と称されるような感情を感じないように封印するようなコントロールをすると、背骨にとってはどうもよくないらしい。
 と、調布カイロプラクティックオフィス院長の山口淳子さんは、『ストレスであなたの骨がゆがんでいます!』に書いている。
 自分の中のいやらしいと感じる自分の感情を封じ込めていると前頭骨がへこんできて、それが、最終的には背骨のゆがみになっっていくのだそう。
 例えば、朝、向こうから自分のきらいな人、もしくは、苦手な人が歩いてくる。
 「おはようございます。」
 「おはよう」

 と言いながらも、内心『あああああああ、朝から嫌な奴に合っちまったぁ。』と思っているときは、骨はゆがまないんだそう。
 でも、『ああ~~~~、わたし、この人を嫌いだと思ってしまった。なんて、器の狭い人間だわ。わたしって。もっと、人間的にすべてを受け入れられるような人間性になりたい。』と反省した瞬間から、骨がゆがんでいくのだという。

 前者は、この人が嫌いだ、苦手だという感情を自分の意志の力で操作しようとしない。嫌いと感じたら感じっぱなし。その代り、そうした感情の表現方法を理性でコントロールしている。
 後者は、自分の中から嫌うという感情そのものを抹殺しようとしている。嫌いという感情をなかったことにしようとしている。

 そう。自分の感情を消そうと努力している人の方が、骨をゆがめているらしい。

 人間っておもしろい。そして、人間の背骨もこれまた、非常におもしろい。

 さてさて、わたしは、最初、眠れないというミス多発先輩に対して、避難の集中豪雨に職場の空気がならないように気を配っていた。でも、どうも、わたしという格好の餌を見つけたこのミス多発先輩の、私を批判して自分の立場を浮上させようとしている化けの皮をはいだ姿を知って、うへっと思った。嫌だなとも思った。残念だとも感じた。そして、わたしを自分より下に見下して心の安定を図っている人間性に、憤ることもせず、笑ってしまった。
 でも、どうなんだろう。
 私は、憤るという感情を封印していないだろうか。
 私の背骨は、ちょこっとずれなかっただろうか?

 つづく

わたしって、狙われやすいのかな?
 誰に?って、私を下に見て、自分を優位に保とうとする人に。あるいは、自分のプライドの安定を図ろうとする人に。
 最近、そう思うことがよくある。
 私が、どこかで、器の大きな人間になりたいという憧れがあるせいかもしれない。
 器の大きな人間は、小さなことをいちいち気にしない、皆、その人なりに精いっぱい生きているんだもの・・・・というような思考の持ち主のはず。わたしもそうなりたい・・・・みたいな。で、ほんとうは、腹を立てなきゃいけないところを無意識に封印しているのかもしれない。
 そこを狙われるのかなぁ。
 このミス多発先輩のミスの量は半端じゃない。わたしだったら、自分のミスに自己嫌悪に陥り、とてもとても職場になんか行けないかも・・と思うほど。それでも、毎朝、職場に来れるのだから、どこからかミスに対する負のエネルギーを帳消しにするようなプラスエネルギーを確保しないといけない。それが、きっと、私を下に見るという思考から得るエネルギーなのだろうと想像する。みな、自分の心が生き残るために必死・・・・。そう、必死に見えるから、腹が立つというより、人間って切ないって思えちゃうんだなぁ。
 井上陽水の『人間なんてラ・ラ~ラ、ラ・ラ・ラ・ラ~ラー』だよ。

 
 自分の抱いた感情に対して、感情そのものを封印しようとすると、なぜ、背骨が歪むのか。


 つづく
 
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レッツ!善い心キャッチ!!

2013年02月14日 | エッセー
 小池龍之介さんの『苦しまない練習』に、善い心が出てきたら大事にして押し通す・・・という項がある
 藤藪さんもキリスト教を心から信仰していると、良心と自分の欲求のどっちを選ぶか悩む時は、最終的には良心を選んでしまう人生を歩んできたとおっしゃっていた。
 ブッダもそうおしゃっているらしい。
 ブッダは、善い心が出てきたら、ポジティヴな心を大事にして押し通すことによって、面倒だという悪い心に打ち勝てねばならないと言っているのだそうです。
 例えば、今日は妻が休日なのに仕事だから、たまには本格的なトマトソースのパスタを作ってあげようと思ったとする。で、作ろうとしたんだけれど、いざ作ろうとしたら、トマト缶がないと気づく。さぁ、どうする?
 この時、わざわざ買い物に行くのは面倒くさいなぁと思ってケチャップで済ますという選択ではなく、せっかく善い心が芽生えたのだから、その気持ちを大事に育てることを優先させる・・・つまり、お店までトマトの水煮を買いに行って、ちゃんとしたトマトパスタをつくる。いろいろ言い訳を引っ張り出したくなっても、きちんとトマトパスタをつくる。きちんと作ることによって、自分の怠け心に打ち勝ったという充実感が湧いてくる。
 実は、普段は多くの場合、やろうとしていたことを何か理由をつけてやめようとするせいで自分でも知らず知らずのうちに、敗北感や無念やや罪悪感を残してしまっている。


 そうかもなぁ。
 ドキッとする。
 父が亡くなって1年ちょっと。母もいろんなことが一段落して落ち着いてきて、やっと、時間的にも余裕が出てきた頃だ。一人でご飯を食べる日々はいかがなものか・・・・。たまには、なんか一品持って行って一緒にご飯を食べてみようかなぁ~と思ったりする。夫も、1週間に1回くらいは実家に行って、一緒にご飯でも食べたほうがいいよと言ってくれる。
 でも、結局、三日連休だったにも関わらす、行かない(面倒くさい)を選択してしまった。

 正直言って、母と面と向かっておしゃべりするのは疲れる。母は自分の言葉を語らずに生きてきた。嫁いだ先でかなりいじめられた体験がそうさせたというけれど、そういう人がいなくなっても、相も変わらず、そういう人生を自分で選んで生きてきた人。だから、話しをしていてつまらない。なぜって、自分の気持ちを正直に表現してくれないから。
 で、ついついご無沙汰してしまう。
 小2の四男と遊んであげたいという気持ちも手伝って、ついつい行かないを選択している。
 確かに、行けてない自分に罪悪感みたいなものを感じている。

 せめて、四男がおばあちゃん大好きっ子なら、一緒に行けるのだけど、どうも、彼は苦手みたいで、一緒に行こうとしてくれない。夫のおばあちゃんは大好きで最近も連れて行ったら、楽しかったみたいでお泊りまでしちゃっている。
 四男が、私の母が苦手で、義理の母が大好きという気持ちは、なんとなくわかる。
 義理の母は、無条件のかわいがり方が前面に出ている。暇で仕方ないからなのかもしれないけれど、四男が来ることを手放しで喜んでくれる。でも、私の母は、条件付きのにおいがする。

 多分、わたしもそんなにおいを感じちゃって、ついつい行かないを選択してしまっているのだと思う。

 今週の週末こそは、行こうかなぁ。

 善い心が出てきたら、大事にして押し通す・・・・か。

 そうだよね。

 今から、始めよう。

 まずは、日々、自分の中の善い心を敏感にキャッチするところから始めよう。日々の慌ただしい生活の中で芽生えているはずの善い心は、きちんと意識されずに垂れ流して怠惰に生きているような気がするから。

 レッツ!善い心キャッチ!!


 実は、夫にできていない。
 結婚して20年。
 いろいろあった。そして、今も・・・・。
 ため息ばかり・・。
 でも、今のところ、夫と暮らしていくことを選択している。
 今のところ、自分の意思で夫と暮らさないことを選択していないのだから、どんな理由があるにせよ、善い心がちょこっとでも顔を出したら行動しなくちゃって・・・・・そう思った。
 いろいろありすぎたもんだから、夫に対して善い心が芽を出ししぶりやすい状況ではある。だからこそ、その貴重な善い心の芽を大事に育てないといけないかなぁ・・・・。
 ただ、いろいろありすぎたもんだから、素直に善い心に従えない哀しさよ。
 

 つづく

小池龍之介さんは、こうも書いている。

 カッコイイこと。

 「自分」はとってもコントロールしがたい。
 だからこそ、「自分」をコントロールしようと努力するのは、やりがいのあるカッコイイことだと言えるだろう。 

 カッコイイか。
 なるほど。
 
 子育てで、例えば、仕事で疲れ切って心に余裕がないときって、子どもが自分の思いどおりに言うことを聞いてくれないと怒りが爆発して叩いてしまうこともある。そんな時、怒りに任せて叩いてしまう自分に罪の意識を感じてがっくり落ち込んでしまう。

 そう、子育てって、これでもか、これでもかって、自分をコントロールする難しさを目の前に叩きつけられる修業の場だ。

 でも、小池さん流にいえば、カットなって子どもを叩いてしまう自分に打ちひしがれながらも、叩かないと決めて、自分をコントロールしようと努力する。それって、とってもカッコイイことなんだ・・・・・。

 子育てにチャレンジする人ってそれだけでカッコイイ。尚且つ、ついつい叩いてしまって、でも、叩かない道を選んでいこうとするその姿勢そのものがカッコイイ。

 みんな、カッコイイんだよ。

 がんばろう。

 つづく

  
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インフルエンザが流行っています。

2013年02月07日 | エッセー
 曾野綾子さんのエッセーに、「私の感染症予防の秘伝は、手を洗わないことです。」と書いてあって、え~~~~~~~~~という衝撃を受けながらも、私もまねしちゃおうかな?という説得力があった。
 インフルエンザの予防というと、まず、マスクという方が多いと思うけれど、実は、手洗いの方が効果があるそうだ。マスクは、3~5メートルは飛ぶという咳やくしゃみの飛沫を防ぐっという効果しかない。実は、東京ドームに野球ボールなのだ。なんのことかというと、マスクの織り目の穴の大きさが東京ドームだとしたら、インフルエンザウイルスの大きさは野球ボールくらい・・・ということ。想像してみてほしい。マスクが単にインフルエンザウイルスを吸い込まないために用いるとしたら、なんと馬鹿げていることだろうか・・・・と。マスクの意味は、くしゃみが遠くに飛ばないため。
 だから、手洗いの方がずっと予防効果はある。
 しかし、曾野綾子さんは、手を洗わないことこそ、感染症の最大の予防とおっしゃった。


 な~ぜ?

曾野綾子さんは、たびたびアフリカを訪れている。
 アフリカの不清潔事情は半端じゃない。
 蚊や白み、ダニが鈴なりに飛び交うホテル。
 それが、ふ・つ・うなのだそう。
 私は無理だと思った。
 インドには行けたけれど、アフリカには行けないと思った。

 そんな劣悪な環境のアフリカへ曾野綾子さんは何度かNGOの成果をじかに見て確認して、ほんとうに住民のために貢献できているかを確かめるために何が何でも行く・・・という。横領に目を光らせていないとせっかくの寄付が台無しになるので・・・。
 
 そんなアフリカ体験から、手を洗わないで免疫をつけることこそ、最上の感染症予防という結論に達した・・・・ということであった。

 人は、ココロもカラダもほどよく鍛えないといけない。

 一応、息子たちに、曾野綾子さん風感染症予防法については知識として伝えた。
 反応は・・・・。
 
 



 つづく
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自分の良心との出逢い+他人の良心との出逢いがいっぱいの人生でありますように

2013年02月04日 | エッセー
 藤藪さんが、お話の中で、そのことにたびたび触れられた。
 お金も底をつき、三段壁で死のうと思ってやってきたある男性に、3人ずれの若い女性に一人が、何かを察したのだろう。ぽんと3千円を渡して「これを使ってください。」と言って去って行った。
 その後、藤藪さんがこの男性を救助されたけれど、10年経ても、この男性は、この女性をいまだに探し続けているという。この女性の一瞬の良心に触れたこの男性は、その一瞬の良心により、一生を得た。藤藪さんは、時間的労力的に言えば、この女性よりはるかに多くの良心をこの男性に投入しているのに、この男性にとっての命の恩人は、一瞬のさりげないこの若い女性の良心だった。

 どんな人の中にもある、自分の良心。
 他人なんか信じられない・・・と思う。
 みんな自分が一番かわいいから。
 でも、人間、捨てたもんじゃないなぁ・・・という一瞬の良心に出逢えたら、それだけで生きていける場合もある。

 一瞬の良心でもいい。
 一人ひとりが、昨日より、ちょっぴりでもいいので、良心と欲求のはざまに揺れた時、良心を選択していけたら、あったかくなるのかなぁって、藤藪さんのお話を聞いて、そう思った。

 ただ、ときどき、藤藪さんみたいな方に触れていないと、わたしみたいな安きに流れる損得勘定ドロドロ人間は、すぐに、欲求を選択してしまう恐れがあるので、トイレの壁に、『どう?元気?自分の良心クン!』みたいな言葉を貼っておこうっと。


 おわり


 つづく
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葛藤  理想と現実の狭間で何思う?

2013年02月01日 | エッセー
 葛藤とは、理想があって、自分はいっぱしの理想のつもりでいるけれど、実は、ほんとうの自分は、無理していて、あ~したい、こ~したいという欲求を封印しているのにそれに気づかず、でも、どうもしっくりこなくなって、いっぱしの自分像にフィットしないため、なんだかわかんないけれど、悶々としている状態をいうのかなぁ。

 優しく愛情深い理想の母親像=現実の自分と錯覚していたのに、夜泣きや駄々コネややんちゃなわが子に翻弄され、思いどおりにいかないと怒りの衝動に駆られる現実の自分の感情が意識にのぼってきて、理想の自分=現実の自分でなかったことに苦しむママが、育児ストレスを倍増していく。
 いいのよ。それで・・・。
 葛藤免疫は、その苦しみのプロセスをくぐりぬけ、白でも黒でもない、グレーという調度いいで落ち着くプロセスで獲得していくものだから。

 つづく

 人は、理想だけでは生きられない。
 かといって、現実だけでも生きられない。
 理想と現実の狭間でのたうちまわりながら、調度いい自分に落ち着くように、自分に折り合いをつけていく。

 こんな風に書いていると、理想があるからいけないんだ・・・・なんて思いがちだけれど、そうではないと思う。
 理想は、子どもが大人になるために不可欠なものだ。
 理想・・・というか、憧れ・・・というか、尊敬・・・・というか・・・・一流というか・・・・。

 そういう高尚なものに触れながら、そうなれない自分にうなだれながら大人になることの尊さよ。

 いい子は、幸か不幸か、幼少の頃からずっと理想の自分でいられた人。だから、打たれ弱い。小さい頃より、うなだれる経験もないとママになって、きつくなる。だって、夜泣きやだだこねややんちゃな思いどおりにならない現実に初めて遭遇し、ついに理想を演じる限界ギリギリまで追い込まれてしまったのだから。

 
 先日、和歌山県の観光地でもあり自殺の名所とも呼ばれる三段壁で、自殺救助活動と自立のための支援を24時間という体当たりでやっていらっしゃるNPO法人白浜レスキューネットワーク代表の牧師・藤藪庸一氏の講演会を聴く機会に恵まれた。
 藤藪氏は、小学校6年生の頃、ビルマの竪琴に感銘して、自分には日本を捨ててビルマの人のために自分の人生をかけるなんてとてもできないと思いながらも、どこかでずっと憧れの人として心に刻んで大人になられたとのこと。


 つづく
 
 牧師になられて、和歌山県の三段壁に死ぬ覚悟でやってきた人たちに、いつでも電話できるようにと10円玉を電話ボックスに置いて、電話があったらすぐに駆けつけて、教会に保護し、保護するだけではなく、生きていく力がつくまで協同生活の場を提供し、自立する姿を見届けるまで支援されている。24時間営業のいのちのレスキューをずっと続けていらっしゃる。死を覚悟されている方たちのなかには、生い立ちが寂しい方や最低限の社会のマナーをきちんと伝えられていない方も多く、藤藪さんの誠意を仇で返す方も多く、裏切られることもたびたびとのこと。それでも、続けられるそのエネルギー源は、いったいどこから湧いてくるのだろう?と不思議でならなかった。
 ここ1年は、働ける場を作るため、自ら、お弁当屋さんをつくり、毎朝4時に起きて、一緒に仕事復帰に向けたアプローチをされているという。その収入の一部を、生活保護の方より厳しい経済状態で苦しんでいらっしゃる方たちのセイフテーネットとして機能するよう、福祉事務所と連携して、生活保護をもらえない生活困窮者にお金を支給する支援にあてられている。
 う~~~~~~~~~~~~。自営業の収入を自分の得のためではなく、自分の徳のためにあてられるというそのお姿に、すごいと思うとともに、自分にはできない、どうして、人のためにそんなことができるのだろう?という疑問がふつふつと湧いてきた。
 マザーテレサ????


 つづく 

藤藪さんは、ビルマの竪琴に触れて以来、あこがれの力で、牧師さんにまでなられたのだから、元々、牧師になるべくしてなった方なのかもしれない。もしかして、ひょっっとして、前世が宗教者だったかも・・・・。
 子育てに、あこがれの気持ち醸成装置は必須だ。
 
 藤藪さんは、こうおっしゃった。
 「自分の欲求と教えが反対方向だった時、わたしは、う~んと悩みながらも、最終的にはキリストの教えを選びます。」と。

 神は絶対いると心の底から信じている人と、神様はいるような気もするし、いないような気もする・・でも、たぶんいると思う…みたいな気持ちの私とでは、道に迷った時のうろたえ方が全然違うだろうなぁ。
 藤藪さんいわく、三段壁で自殺未遂された方を救助して教会に連れてきたまではよかった。でも、その人がお金を全く持っていなかった。さぁどうする?とりあえず、一晩はホテルに泊ってもらい、奥さんと一晩話し合ったそう。そして、出した結論は、共同生活。

 奥さんも偉いね。
 
 とりあえず、奥さんは昼間働いているので、一緒にその男性といるという状況は避けられる・・・ということで自殺未遂者との共同生活が始まったという。
 ありえない。

 藤藪さんいわく、自分の欲求とキリストの教えが違う時、悩みながらも最後は、キリストの教えを選ぶ・・・・と。

 神を信じ切ると、自分の欲求を我慢というのではない世界観で却下できる力というものが湧いてくるのかなぁ。
 
 藤藪さんは、現在、10人余りの方たちと共同生活を送っていらっしゃる。そして、自立に向かった支援を忍耐強くおこない、時に真剣に怒ることはあっても、決して見捨てないで立ち直って生きてゆけるよう背中を押し続けていらっしゃる。朝は4時に起きて、毎日、お弁当屋さんでいっしょにお弁当も作っていらっしゃる。生活保護をもらえない隙間の方たちへの経済的支援も1年前より始められた。

 最初から、このような設計図があったわけではないとおっしゃる。
 目の前の死にそうな人を助ける。
 その時は、そのことしか見えなかった。
 いざ、助けてみると、寝泊りという問題が発生して、え~~~~~~~~どうしよう!という状況に陥った。
 そこで、



 つづく

そこで、自分の欲求(家族の中に他人が入っていくなんて、困った。食事はどうする?ずっと、なんてとんでもない。プライバシーがなくなるからいやだ。ゆっくりくつろげない。食費は?・・・)とキリストの教えが葛藤したそうだ。
 でも、結局、自分の欲求を却下する方を選ぶのだそう。
 そんな風に、何か想定外なことが起こるたびに、自分の欲求よりキリストの教えを選んできたことの積み重ねの結果で、今のような素晴らしい活動になっていかれた。
 普通、企画というものは、目的があって、それに向けて、それを効果的に効率的にできる方法を試案し、行動し結果を出す。
 でも、藤藪さんのやり方は、そうではない。常に、問題が生じると自分の欲求よりキリストの教えを選択し続けるだけ。目の前の人たちが、一人で生きてゆける力を身に着けるために、自分ができることは?と問いながらやってきた結果、答えがついてくる・・・みたいな、ある意味いきあたりばったりがすごい。
 大きな人生の目的があり、自分は、いつも、いつもの自分どおりに“いる”。ただ、それだけ。
 ただ、それだけと言っても、自分の利益にはならないお弁当屋さんに、毎朝4時起きで出勤するのは、かなりしんどそう。
 私は、むり。
 やっぱり、すごい。

 神様がいるのが当たり前。目の前の災難も幸せも何もかも神様が与えるものだから・・・と、受け入れて流してこだわらず生きていくことができたなら、つまり、神さまにゆだねて生きていけたら楽だろうなぁ。
 自分の欲求が強くなればなるだけ、自分への執着も強化され、「自分が・・」「自分が・・」と自己主張の塊になる・・はず。
 
 よく、海外に行くと、欧米や中国、韓国の人などは、自己主張が強くてしんどいって言われる。
 キリスト教ってなんだろう?
 韓国もキリスト教が多いと聞く。
 キリストの教えも変形しているのか?
 逆に、キリスト教でない日本人の方が自己主張しないくらい。
 いやはや、よくわからない。
 自己主張とキリスト教は相関関係になさそうだ。
 藤藪さんみたいなキリスト教信者は少ないのだろうか。
 ま、日本人は、ココロン中では、しっかり、自己主張している。ただ、波風を立てたくないから表現しないだけって相場が決まっているから、自己主張と自分の欲求表現とは、また、別物かもね。

 
 実は、藤藪さんもうつ病になられた時期があるそう。
 理想の自分と現実の牧師という世界の食い違いの中での葛藤の狭間で・・・・。
 そして、白か黒か…に悩まれて、白を選択された人。
 普通じゃない。
 ま、普通の人は、白か黒か選ばなくっていいんじゃない?
 自分に合った調度いいグレーになじむように生きていけば・・・。
 ただ、小池龍之介さんのいうように、どちらかというと、偽善の偽より善を意識して生きていけたら、ほんの少しだけ、周りも幸せになる。自分も幸せな気分になる。
 そんな感じが、いいかなぁ。
 ただ、現実に、藤藪さんみたいな方がいるという、ただ、それでけで、ありがたい。

 終り
  
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