総合漢方にんぷ薬・総合漢方育児薬

~頭を使ってではなく、カラダ(感性)で子育てしてみませんか~

ぞっとする話

2013年09月27日 | エッセー
 知人に聞いた話だ。
 ある優等生の子のお話。
 宅習で、漢字を1p書いたら、お母さんが、チェックするという。で、字が汚いなとお母さんが判断すると、鬼マークの絵を書くのだそう。
 そして、なんと、その子は、鬼マークをみたら、何も言わずに今、書いた漢字1Pを全部自分で消しゴムで消して、書き直すのだという。文句も言わずに、全部消して書き直す・・・なんて信じられない。その子の心境を思うと不憫で不憫でたまらない。
 超怖いお母さんだ。ぞっとした。
 一体どんな風にしたら、そんな文句を言わない子に育つのだろうか・・・・?
 鬼のマークは、虐待に匹敵する威力がある。
 その子に、クソババァと叫ばせてあげたい。
 大丈夫かな?将来がかなり心配。

 四男の同級生にも、一人、大丈夫かな?と心配な子どもがいる。
 成績は優秀みたい。でも、クラスではキレまくっているらしい。四男のお友達の髪の毛をごそっとむしり取ったこともあるという。
 普通、自分より弱い特定の子に向けるような八つ当たり攻撃を、ほぼ全員に向ける・・・なんて。自分の思い通りにならないこと全てを敵に回して、日頃のうっぷんを晴らしているのだと思う。男の子の世界だ。もう少ししたら、クラスの男の子から総スカンを食うのも秒読み態勢。その時、彼は、どこで発散するのだろう。犯罪につながるのか。それとも、自滅につながるのか。心配。
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すもうで乾杯!

2013年09月26日 | エッセー
 先日、地区の育成会行事の十五夜(すもう大会とバーべキュー)があった。
 いいねぇ。
 昔からの地区の行事だけど、子ども(特に男の子)にとって、すもう大会はなくてはならないもの・・・だなぁとしみじみ思った。
 ないとあるでは大違い・・・・かも。
 このすもう大会だけは失いたくない・・・・そう思った。
 どうにか、すたれないようにしたい・・とマジ思った。
 オリンピックの東京誘致が成功したけれど、ひょっとしてひょっとすると、十五夜にすもう大会をするジャパンという国を100年後も存続することは、オリンピックに勝るとも劣らない大切なことではないかと思ったり・・・。
 だって、小学生の男の子たちのはしゃぎようったらなかったもん。目もキラキラしっぱなし・・・。
 6時に始まって、みんなが2回取り組んだ後、お肉とウインナーを一しきり食べたら、9時ちょこっと前まで、ず~~~~~~~~~~~~っと取り組みっぱなしだった。もう、お開きだよって言ったら、とっても名残惜しそうにしていた男の子たち。
 女の子は、違った。正規の取り組みが終わると、公民館の中でうだうだと過ごしていた。
 けんかは、男の子の基本的欲求の一つなんじゃないだろうか。もちろん、個人差はある。大好きな子もいれば、そうでない子もいる。でも、おおざっぱにみて、総じて、男の子は戦いが好きだ。四男も、自由帳に中で繰り広げる絵の世界は、戦い・・・だ。
 ただでさえ、けんかをさせてもらえないという不運を人生のしょっぱなから背負わされている現代の男の子たち・・・だからこそ、承認されたけんか否、すもうでカラダをはって戦えるということは、超シアワセなことだと思う。
 
 
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育児は、格闘技だ。

2013年09月25日 | エッセー
 三男との格闘技のさなか、四男とも日々、格闘している。
 もう、へろへろ。
 2年の担任が、思わず、保護者に言ってはならない禁句『扱いにくいお子さんでしょ!』をつい口を滑らせて言ってしまう、その気持ちは、わからないでもない。小3だけど、今、小1だと思うようにして、寛容をゲットしたいのはやまやまだけれど、は~~~~~~~~~~、今朝も、否、2時20分まで、彼と漢字を覚えさせる格闘技で身も心もヘトヘトになった。
 次男の体験があるので、不安はないけれど、男脳優位の四男に漢字を覚えさせるのは、至難の業だ。
夏休み前の漢字テストは、0点とか20点という恐ろしい点数で、その答案用紙を目にしたときは、思わずのけぞった。週1回、漢字を覚えるということで特別支援クラスに通級しているのに・・・・・だ。
 彼は、〝覚える”という脳の使い方がさっぱりわからない。記憶する脳が、未発達なのか。
 ロバに、水を飲ませようと川岸まで連れて行っても、飲んでくれないことには、何も始まらない。
 四男に、『さぁ、今から漢字の練習をしましょう。』と呼びかけても、彼が、覚えようという意志を持って、鉛筆を握ってもらわないと何も始まらない。
 夏休みに入って、8月17日にお兄ちゃんが帰省するまでに宿題を終わらせて、お兄ちゃんに漢字を覚えさせてもらおうと思っていたのに、いつのまにか、お兄ちゃんとの約束が、『お兄ちゃんが帰ってきたら、宿題をする』に変換されていて、いくら促しても、梃子でもしようとしなかった。結果、宿題は半分くらいしか終わっていなかった。で、お兄ちゃんが、帰ってきたとき、そんな約束をしたのかと聞くと、『とんでもない。僕が帰ってくるまでに宿題を終わらせておくこと。そして、漢字を覚えることに全力投球しよう。』と約束していたとのこと。は~~~。
 で、最初は、宿題と漢字をどっちもやっていたけれど、どっちもやっていたら間に合わない。
 私は、お兄ちゃんに、「宿題は諦めた。でも、漢字は、高得点がとれるように支援してほしい。先生と約束したの。夏休み前の二者面談で、彼のことを、単に落ち着きのない子どもくらいにしかとらえていなかった先生に、彼の性格を理解してもらい、今、彼に必要なことは、自信である。彼が、覚えようとしないからいけないのだけれど『どうせ、僕はできないもん。』という劣等感だけは抱かせたくない・・・・・というこおで、先生と、夏休み明けの漢字テストでいい点数を取らせてやればできるという喜びからくる自信を持たせたいと思っている。」と伝えた。最初は、お兄ちゃんも漢字中心にしてくれていた。三つ覚えたら、休憩する・・・ことを、かなり気長に地道に付き合ってくれていた。
 しかし、これでは、らちが明かないとお兄ちゃんは、四男の覚える力の弱さが想定外だったようで、漢字をあきらめ、夏休みの宿題を完璧にする・・・にシフトした。
結局、夏休みの宿題も5P残し、漢字も3個づつ覚えるを半分の50個一通りやって、お兄ちゃんは、帰っていった。

 彼に自信を持たせるためにと先生と約束した、夏休み明けのテストの結果は、どうだったのかなぁ~?

 新学期が始まってから、お兄ちゃんから電話があった。
 とにかく、お兄ちゃんからの四男へのメッセージとして、伝えてほしい・・・ということで、「お兄ちゃんが、漢字をしといてねって言ってたよ。」と伝えた。私が言うと、すぐヒステリックになるので、彼は、素直になれない。でも、お兄ちゃんから・・・というと素直になれる。
 毎日、一段(10個)の漢字を覚えようということで始めた。一度に10個はきついようで、まず、5個づつ覚え、最後に、10個クリアするまで何度も何度も10個書くことを繰り返した。私も大変なのだ。1回1回紙に、10個の問題を手書きで書いては、テストを繰り返す作業だ。「1回で10点をとれるように、頑張って覚えてよ。絶対間違えないと思った時に、おかあさんにテストしてって言ってよ。お母さんは、何回も手書きで問題を書きたくないよ。』と訴えても、2~3回書いて覚えたつもりで、テストしてっていうから、ほんと大変だった。一発勝負に賭ける・・・・みたいな心の体験をしたことがないから、それができないのだろう。
 『どうしてできないの?』『何で1回とまでは行かなくとも、2~3回でクリアしようという執着心をもてないの?』・・・という言葉がのど元まで出かかるのをぐっとこらえて、ひたすら、忍耐。
 私は、四男との漢字バトルの渦中人間にさせていただいて、『忍耐」を学ばせていただいているのだろうか。
 ヘレンケラーのサリバン先生に比べれば、はるかにまし・・・・と思うんだけど。トホホ・・・・・。
 
 現在、二クール目に入った。今度は、15問ずつ覚えるようにしたけれど、彼は、二度目は1回目に比べるとかなり覚えるのも楽であるということ、一見、忘れているようで、一回見るとすぐに思い出すという体験がないものだから、「イヤダ、10問づつ。」と言い張る。
 そこを、どうにかこうにかキレまくりながらも15問クリアできるまで、何度も何度も手書きで15問書き続けてテストを繰り返した。なぜ、手書きでやったかというと、彼は、まだ、この期に及んで、字を覚えようという気持ちより、とにかくクリアしようという気持ちの方が勝っていて、順番で覚えている。だから、毎回、同じ並びの問題だと、ただ、順番で覚えているだけで、漢字そのものをきちんと覚えていない。
それで、私が、毎回、順番を変えて手書きで問題を作る羽目になってしまったのだ。
 超手のかかる子だ。
 先生は、この苦労がわかっているのだろうか。
 
そんなこんなで15問に挑戦させた結果、彼は、覚えるということがどういうことか・・・・を理解した。初めて・・の時は、かなりしんどいけれど、2回目以降は、忘れているようでちょこっと振り返りをすれば、すぐ思い出す。そして、それを何度かすると身についてくる。なんだかうれしい。いえいえ、すっごくうれしい。
 ほっ。
 でも、そうそう、人生甘くない。否、四男は甘くない。
 翌日、「さぁ、漢字をやろうか。」と促すけれど、なかなかやる気にならない。逃げる。
 昨夜、15問クリアできたときは、あんなにはしゃいで、ハイタッチを10回して、抱きしめてぐるぐる回って、おまけに、おんぶして100数えたのに・・・・・。登山かい?あれは、苦しいもんね。頂上に立った時の達成感や爽快感、そして、やり遂げた自分が好きって感じはたまらない。でも、毎日ってなるとちときつい。四男にとって、漢字を覚えることは、登山みたいなものなのかもしれない。
 おととい、夕食後、少し食べすぎると、胃を切っているので腹痛に見舞われる私が、腹痛に見舞われて、床に寝ころんでうんうん言っていたら、彼は、「僕、一人でするから。」と言って、10問さっさと解いていった。
 私との依存関係だらけだ。私が、ほんとうにきついと判断したとたん、自力でちゃんとやれるのに、私が、少しでも余力があると判断すると、ギャーギャーやりたくないモードにすぐになる。いい加減、お勉強も自立してほしい・・・・と思ってしまう。あ、でも、そうだった。私たち夫婦は、彼は、今、一年生だと思うようにしたんだった・・・と思い直し、彼が自立するまで付き合おうと思うのだった。

今日はお休み。おばあちゃん(夫の)が大好きな四男。昼食を食べた後、午後からおばあちゃんちに連れて行ってくれってせがむので、「朝から言っているけれど、宿題プリントと今までやってきた漢字50問が百点満点になったらね。」と言うと、例によって例のごとく、ギャーギャー言い出した。私は、なんだか胃の裏の背骨あたりがつった感じになり、お腹も張ってきた。今朝は、突然、右奥歯あたりから出血して、それが2~3回あって、昨日の造影剤を使ったCTの副作用かなあ~なんて思っていたりの昼食後だったので、ごろんと寝ころんで不快症状をしのいでいた。彼が、『漢字をしたくない』、『早く、おばあちゃんちに行きたい』という葛藤のせいで、私への思いやりやいたわりなんて微塵もなく、ギャーギャー言うので、「もう、赤ちゃんみたいに大変だ。」って、つい口が滑ってしまったら、もっと、ひどいギャーギャーになってしまった。私を蹴り始めたのだ(もちろん手加減、否、足加減はしているいたいだけど・・・)。私は、ついに堪忍袋の緒が切れて2階の寝室へ。胃の後ろのあたりの不快と気分の悪さで横になるしかない。なのに、なのに、おばあちゃんちに行きたい四男がついてくる。そして、ギャーギャー。
「お願いだから、2時まで横にならせて。それまでに、漢字と宿題プリントを済ませたら、おばあちゃんちに連れて行ってあげるから。お母さん、こんなにきついのに、どうしてわかってくれないの。』と叫ぶ。叫ぶ。叫ぶ。
 「くそ~。赤ちゃんと言ったよね。」と『赤ちゃん』にムカッときた様子。
 「ごめんなさい。赤ちゃんって言ったから、腹が立ったんだねぇ。それは、おかあさんが悪かった。謝る。でも、ほんとうにきついから2時まで寝かせてよ。」
 彼は、「くそー!」と言いながら、階段の踊り場に置いてあったお兄ちゃんのコミック本を蹴散らかして階段に落としながら、階下に下りて行った。

 しばらくして、私のところに、チャレンジした漢字プリントを私のところへ持ってきた。やってみたら、意外と覚えているので、自分でも想定外のことでとっても嬉しかったらしく、ニコニコして「点数つけて!」って持ってきた。50問中46問正解だ。すごい。夢のようだ。なんせ、0点のスタートだったのだから。あんまりうれしくって、96点って書いちゃった。彼も、かなりうれしかったようで、ハイタッチを何回もねだった。あとから、4問不正解だから、ほんとうは92点だけど、ま、いいか、彼にとって96点なんて信じられない快挙だもの。96点という満足感に浸らせてあげようと思った。

 手がかかる。

 親は、勉強を促すだけでいいと思っていた。
 しかし、四男のような子には、マンツーマンで親が気合を入れるしかない。彼は、させられるということをとても嫌がるので、塾は無理。家庭教師じゃないと無理。でも、そんな予算はない。親が時間を作って忍耐力で100点をとれたという醍醐味を味わえるよう支援するっきゃない。
 世の中に、漢字きらい、国語苦手という男の子は多い。
 それは、男脳の言語に関する部分の発達が女脳よりゆっくりなのに、女脳に合わせた授業カリキュラムのせいで嫌いになるのではないだろうか・・・・。男脳にとっては、小学校低学年の漢字や国語は、時期早々なんじゃないかなぁ。結婚適齢期ってあるように(最近は、ないか。)子どもにとって国語脳を鍛える適齢期ってあるんじゃないかなぁ。もちろん、男脳と女脳のバランスは、人によって違うので、女の子でも男脳優位で言語に関する発達がゆっくりな子もいるはず。逆に、男の子でも女脳優位で国語が得意な子も当然いておかしくない。
 ただ、言えるのは、四男のように、男脳がかなり支配しているような子は、言語に関する発達がゆっくりなので、ややもするとお勉強のできない手のかかる子というレッテルを先生も親も貼ってしまい、そのレッテルによって、伸びるものも伸びなかった男の子って案外、多いんじゃないかなぁって思う。
 だって、男の子って大方勉強しないもん。
 で、自分の人生が他人事でなくなる高2の冬に目覚める。時、すでに遅し。
 私の周りにもごろごろいる。まじめに勉強していたら、きっと、いい大学に行っていただろうなぁっていう仕事のできる男子。女の子は、そういないかなぁ。残念ながら・・・。

 ということで、小学校低学年で、漢字苦手って男の子のママはサリバン先生をめざそう!というかめざすしかない。
 ここが正念場。

 で、その覚えさせ方に知恵が必要となってくる。
 全国の漢字苦手男の子のママの覚えさせるのに一苦労した体験談を集めると面白ろそう。
 私の場合は、長男が、まず、3問づつ覚えさせてくれた。それを足がかりに、私が10問づつ覚えるように促し、10問手書きで問題の順番を入れ替えて作成した問題を10問完璧にクリアするまでテストを繰り返した。
 そして、次は、15問ずつにして、最後は1枚50問をクリアするまでくり返した。
 その間、できなかった漢字だけでなく書けた漢字も毎回書かせて定着をはかった。でないと、すぐ、忘れてしまうので。覚えるという体験がないので、ややもするととにかく覚えるのではなくクリアしさえすればいいという安易な思考に陥りやすく、順番で覚えてしまうという罠にやすやすとはまってしまうみたいだから。
 そうこうしているうちに、彼は生まれて初めて、きちんと覚えられたという喜びを体験した。
 私が、彼に与えたかったもの。それが、このちゃんと覚えられたと実感できる喜びから来る、自分に対する自信。
 人は、体験するためにこの世にやってきた・・・・・らしい。
 オンギャーと生まれたばかりの赤ちゃんは、まだ、ほとんど人生の壁にぶつかっていない。体験していない。
 四男は、人生好きなことばっかりやっていては、学校で自分はできない子だというレッテルを貼られてしまうのだということを身をもって体験した。漢字0点でも友だちと遊ぶのが最大の楽しみなので学校に行ける図太さも体験した。私だったら、漢字0点なんてとんでもない。恥ずかしくって劣等感だらけになって学校に行かないってなってしまうかもしれない。0点でも平然として学校に行けるって、もしかしたら、生きる力というものに点数をつけるとしたら100点なのかも・・・・・。学校では、先生に目をつけられて叱られてばかり・・・・・なのに、学校に行かないって言わないんだよ。すごいよね。私だったら耐えられない。人は、心に不安のある人ほど、他人や世間に認めてほしいという欲求が強くなるという。そして、自分の人生を生きるのではなく、他人の目に左右されるエセ自分の人生を演じていると気づかず歩いていくので、いつもどこか心が虚しくなっていくという。四男は、少なくとも人に認めてほしいがために自分を押し殺すような生き方だけはしていないようだ。それが、私にはない世界。ある意味、羨ましい。でも、目覚めた。覚えるという登山の頂上に立つという達成感や喜びに・・・・・。
 彼は、言語に関する発達はゆっくりだけれど、自分というものをちゃんと持ちながら、マイナスもプラスも思う存分体験できる能力をもっている。
 おかげで、私も、サリバン先生のような体験をさせていただいた。めっちゃ、しんどかったけど、96点の喜びを味わうことができた。
 
 そして、申し訳なくなる。
 ごめんね。
 三男に対しては、いつもすまない気持ちになってしまう。
 小学校の学力の基礎をつける時期に、四男のようにサリバン先生になる時間も心の余裕も何もなかった。どう頑張ってもそんな時間を捻出することができなかったから、仕方ないと言えば仕方ないけれど・・・。
 とここで、愛咲くらの座右の銘の登場さ。

 出会った時が吉日だ~~~~い。

 過去は変えられない。
 今、できる最善のことをするのみ。
だから、今、三男と格闘技をする・・・のだ。
 
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17歳にして育児放棄か!

2013年09月14日 | エッセー
 三男は、17歳にして、母親に『育児放棄か~~~~~~~~~~。』と叫んだ。

 前夜、さぁ、寝ようという時間帯に、三男が、「この体育着、なんだか臭うから、洗濯しといて。」と言ってきた。「わかった。」と言ったものの、心の中で「まてよ。もう一着、替えがあるから、洗わなくてもいいかな。」とめんどくさい私は、引き受けたのに、その約束を果たさなかった。
 で、朝、三男が、『育児放棄か!』と叫んだのだ。
 もう一着あると思っていたら、その洗濯したもう一着が、なんとなく臭うので、それを洗ってほしかったのに・・・・と。
 「ごめん。それは、勝手に判断したお母さんが悪かった。あの時、ルーチンワークでない予定外の洗濯を要求するんだから、自分で洗濯するように言っとけばよかったのに、それを言うことすら、思考が回らず、何となく引き受けたのがまずかった。ごめん。」と謝る。
 そこでやめとけばよいのに、
 「だけどね。こんな風に言ってくれれば、お母さんも勝手な思い込みで行動しなかったはず。『この体育着洗濯してあるけれど、なんだか臭うから、もう一度洗濯してほしい・・・。」と。これから、社会に出たら、よ~くわかるはず。ちゃんと伝えたつもりでも、相手は、自分の思い込みがあるから、あなたが思うように伝わらないこともよくあるんだよ。」と余計なことを言ったもんで、彼の気持ちの行き場がなくなったのだと思う。今どきの男の子は、ニオイに非常に敏感だ。その気持ちもわからないではない。
 まずかったけれど、どうすることもできない。
 朝、6時20分だ。三男は7時には家を出る。
 仕方ない。手洗いして、アイロン攻撃するしかない。
 そう思って、即、行動を起こしたのに、「アイロンでしっかり乾くわけがない。以前もそうして半渇きでニオイがしたから、イヤだ。もう、俺、今日は、学校に行かない。」と言うではないか。
 いや、大丈夫といくら言ってもきかない。
 そして、例の『育児放棄か!』というセリフが飛び出してきた。
 ドキッ!
 私は、長男にこの言葉を叫ばれても、次男に言われても、ましてや四男に訴えられても、動じない。だって、自信あるもん。私のできる限りの範囲で精一杯子育てしたもん。
 だけど、三男だけは、動揺してしまう。小2からのお勉強をきちんとみてやれなかった。いえいえ、きちんとどころか、ほとんど無頓着だった。気にはなったけれど、私のアフターファイブの時間のどこにも、お勉強を見てあげれる余裕がなかった。長男は、なぜか、全く手をかけなくても理解できていたようだ。次男は、慌てて、らくだの通信を小6までの5年間利用させてもらった。三男も2年間は通信をやったんだけど、ちょっと遅すぎたかな~。
 思い起こせば、彼が小2の夏、四男が生まれた。
 それまで、末っ子の甘えん坊という地位に甘んじてきた彼は、突然、最高の地位を四男に奪われ、不幸のどん底に落ちて行った(のだろうと、今になってわかる)。
 もう、9歳だもの。今まで十分愛情を注いできたのだから、大丈夫ね・・・と油断したのがいけなかった。
 だって、17歳で、育児放棄か~~~と叫ぶってことは、常日頃から、愛情を感じていない沸々とした思いの頂点の言葉だもの。
 思い当たる節だらけ・・・・だ。

 思春期までは、二人っきりのラブラブを・・・。

 この子育ての二大ツボの一つを私は知らなかった。
 知っていれば・・・と悔やまれる。
 そうだ。そうなのだ。いくら、図体はでっかくなっても、本人が嫌がるまでは、せめて、月1回、二人っきりでラブラブデートをすることが、富士山級の愛情表現なのだ。子どものハートを射止めるには、この二人っきりがキーワード。他の兄弟がいる中で、いくら、愛情光線を注いでも二人っきりには歯が立たない。
三男の子育ての後悔。
 それが、ビリビリ子に伝わる二大愛情表現。 
 一つは、毅然ママ。
 もう一つが、二人っきりのラブラブ。
 愛情は、この『毅然』と『二人っきりのラブラブ』で初めて子に超愛情として直球で伝わっていく。

 私は、三男に、この超愛情二大セットをプレゼントできなかった。
 知らなかったとはいえ、この子だけ、思春期前期の小学生時代、二人っきりのラブラブができなかったという申し訳なさから、「○○したら、これはできないよ。」と叱っても、最後は、良心の呵責から、ついついフォローしてしまった。ダメなものはダメ!という姿勢を最後まで貫く愛を彼に与えられなかった。
 もう、このことが、残念で残念でたまらない。

 おまけに、宿題をきちんと見てあげれなくって、漢字とか算数という基礎をきちんと理解できないまま、そして、勉強の癖もつかせないまま、中学へ。お勉強もいまいち。かといってスポーツは・・・というと、田舎なので野球部とサッカー部と陸上部しか選択の余地がなく、少年野球とか少年サッカーもしていなかったので、『いやいやでもしか陸上部』に入部したけれど、長く続かず、自分に自信みたいなものを築けないままなんとなく中途半端な普通科の高校に進んで、今がある。

 うだうだ君。
 
 その彼が、放つ『育児放棄か!』という言葉は、耳が痛い。

 今朝は今朝で、「弁当、どうかしてよ。お母さんの弁当は美味しそうに見えない。みんなの前で弁当を開けれない。」と怒る。

 私は、きっと、たぶん、神様に試されている。
 無条件の愛という超難関。

 三男は、野菜も食べない。
 三つに分かれているお皿に、かなり意識して野菜料理を盛るけれど、促さないと食べない。かなり強い口調で強要しないと野菜を食べない。苦手な野菜が多い。なもんで、お弁当に野菜を入れようという意識が働く。すると、煮野菜や野菜炒め系列の野菜が入ることになる。これが、美味しそうに見えない主な原因だと思う。彼が、普段、私の作った野菜料理を文句も言わずパクパク食べてくれていれば、私も、お弁当に野菜を是が非でも入れるようなこともしないのかもしれない。でも、ふだん食べないからこそ、野菜を食べさせねば!と意識する。
 私が、彼に野菜を食べさせたいという愛情は、ちっとも伝わらず、見た目重視のお弁当からかけ離れたお弁当を見るたび、彼は、育児放棄か!という母の愛を感じれない悲しみに打ちひしがれる・・・・・らしい。

 子のニーズを満たす=愛情の場合もあろうが、何でもかんでも満たしてあげることが愛情というわけでもないのではなかろうか・・・・・と思いつつも、今どきのお弁当は、かなり見栄えがよいようで、ちょっとかわいそうかな・・・と思ったり。
 そんなに文句があるのなら、『自分で作れ~~~!』と宣言するのも自立心を育てるという愛情なんじゃないかと思ったり。
 なんせ、17歳。
 
 「そんなに文句があるなら、自分で詰めなさい。お兄ちゃんもそうしていた。」と啖呵を切った私であったが、小2からの三男へのきちんと彼と向き合ってこなかった、それは、時間もだし、多分、気持ちも・・・・からくる彼への愛情への自信のなさが、イマイチ、切れ味に欠け、うじうじとした気持ちを引きずってしまう。

 私は、体力がぼろ雑巾のよう。
 ちょっと無理すると寝込んでしまう。無理がきかない。
 長男が高校2年の時、学校で勉強した方がはかどるし、7時の汽車は座れないので、始発の汽車で行きたいと言い出した。
「ごめん。」
 そう言って、起きれない私は、前夜におかずを作り冷蔵庫に入れといて、朝、長男が自分でご飯を詰めてもらうことをお願いした。もちろん、自力で起きて、一人で納豆などで朝ごはんを済ませてもらって・・・・というかわいそうな朝のスタートもセットだった。途中から、彼は、冷蔵庫で冷えたおかずはイマイチということで、自分でおにぎりを作って行くようになった。
 彼は、育児放棄だなんて一言も言わなかった。
 次男はというと、彼は、見た目重視なので、私のつめ方が気に入らず、自分で詰めていった。
 彼も、育児放棄か…なんて言わなかった。
 なのに、三男は、洗濯しなかった私が悪いのだけれど、日頃から私に抱いている愛情不足という不満を「育児放棄か!」というかなりショッキングな言葉で爆発させた。お弁当に関しても、長男の感じ方とはえらい違いなので、日頃から、愛情を実感していないから、そんな言葉が溢れ出てくるのだと思う。
 
 「お母さんは、2年前に胃を切ったんだよ。それでも、今まで通り、仕事で稼いでんだよ。あんたは、学校に行って、そんなに勉強も熱心にしていないし、かといって部活もボランティア部で毎日じゃないじゃない。時間は、お母さんより余裕があるじゃない。少しは、家のことを手伝ってほしいくらい。自分で弁当も作れば・・。」と言ったものの・・・・・結局、少し、意識して、美味しそうに見えるお弁当作りを心掛けているのは、三男でなく、私。
 これが、いけないのか。
 うじうじ。
 三男に対しては、〝毅然”が足りない。
 毅然不足症候群。

 今が大事。
 育児は、格闘技だ。
 今、彼と、きちんと向き合うという格闘技をしなければ、彼がダメになる。
 マジ、いつやるの?


 今でしょ!

 結局、彼は、その日、学校を休んだ。
 
 
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チキンラーメン

2013年09月08日 | エッセー
寝る前に、「お兄ちゃん、チキンラーメンを食べていた。いいなぁ。明日の朝、チキンラーメンを食べていい?」と聞いてきたので、「うん、いいよ。でも、朝はだめ。夜ね。でも、野菜はちゃんと食べてね。」と言った。そして、「ホネホネザウルスをインターネットで見てもいい?」と聞いてきたので、「いいけど、宿題も歯磨きもお風呂も明日の準備も全部終わってからだったらいいよ。」って言ったら、「わかった。楽しみ~~~。」と言いながら、すやすやと眠りに入った。
 そして、翌日の夕方の出来事。
 家に帰ると、チキンラーメンを食べたであろうどんぶりがからっぽでテーブルの上に置いてあった。

 汁まで全部飲み干した空っぽのどんぶりは、四男が『あ~、美味しい。』と、とっても嬉しそうに食べている姿を思い浮かべさせてくれ、私までも満ち足りた気分にしてくれた。
 
 仕事から帰って、夕飯を作りながら、「野菜は食べてね~。」と言うと、「うん」と言いながらも、ネットのホネホネザウルスを見ている。
 「約束したよね~。ホネホネは見てもいいけど、全てを済ませてからって。」と言うと
 「わかっているよ。」と言いながらも、見るのをやめる気配がない。 
 何度が、促してみたけれど、止めて、野菜のおかずを食べようとしない。
 私の口調も、だんだん荒くなってくる。
 「昨日、約束したよね。とにかく、すべてを済ませてからって。」
 四男も、わたしのトーンに合わせて、拒絶反応を示し始める。
 意地の張り合いムードに突入した。
 相手は、梃子でも動こうとしない。
 こうなると、私の中の理性が底をつくのも時間の問題だ。

 あ~。もう、限界。
 でも、暴力はダメだ!
 カラダと心がせめぎ合う。
 チラッと、飲みかけのコーヒーカップが目についた。
 50ccほど飲み残してある。
 チラッと、パソコンのキーボードが目に入る。
 ここを濡らすのは、絶対、してはならないこと。
 とか何とかぐるぐる頭の中でいろんな思考がシャッフルされながら、最後は、衝動が勝ってしまった。
 右手がコーヒーカップを握ってしまった。

ジャーーーーーー。

 やっちまったぜ~。

 あ~~~~~~~~~~。このジャー角度だと、四男の頭の上だけでなく、キーボードの端っこにもコーヒーが零れ落ちる。いかん、それだけは、そしせねば・・・・。と思ったけれど、遅かった。右手が勝手に動いてしまった。おー、まい、がっど!
 心は、四男への怒りより、パソコンの運命に支配された。
 が、しかし、右手は既にスタートしてしまった。

 慌てて、キーボードを拭く、拭く、拭く。

 ほっ。

 どうにか、かろうじて、キーボードの運命は救えた。

 しかし、四男の運命は何処に・・・。
 減らず口を叩いて、約束をしたことをちっとも守ろうとしない四男をつい叩いてしまいそうになって、いかん、暴力だけは避けねば・・・・という気持ちが、コーヒーを頭の上からこぼすという選択をしてしまった。叩くのと冷めたコーヒーを50CC頭からかけるのとどれくらいどう違うのか・・・・・・・。

 四男は、逆上して、そこら辺のものをあっちこっちに投げ散らかして、2階へあがっていった。
 部屋のドアをかなり強くバタンと閉めた。

 仕方ない。
 ほとぼりがさめるのを待つとするか・・。

 彼は、道中、パン焼き器も蹴散らかしていった。
 パン焼き機の命が心配だ。
 慌てて、パン焼き器をチェックした。大丈夫だった。ほっ。

 20分くらい経ったかな・・・。

 彼は、階段を下りてきた。
 意外と早く〝意地”のかたまりを溶かせた彼の頭の柔らかさに感心した。
 かれは、おもむろに野菜は?と聞いてきた。
 野菜のおかずをパクパク食べたら、宿題プリントは?と聞いてきた。
 素直に解いていくではないか。

 そして、歯も磨いた。
 明日の準備もし始めた。

 そして、うれしそうに、ホネホネを見始めた。


 今回の件で、痛感した。
 子育てには、居心地のいい優しい空気に包まれることももちろん必要だけれど、ダメなものはダメという親の毅然とした態度も絶対に必要なのだと・・・・・・。
 暴力はいけない・・・。コーヒー5-CCを頭からぶっかけることは暴力?と微妙な気持ちでいたけれど、少なくとも、四男にとっては、母の毅然とした愛情だと受け取れたのだと想像する。

 こっから先は、絶対だめだという大きな枠の中で、自由に泳がせてもらえる。子どもは、その安心の海の中で幸せを手にする。
 ここから先の、ここって各家庭で違うはず。個性って、そこから始まる。きっと。だから、〝ここ”を世間体という物差しにしないよう親が、自分の心に問いかけるってとっても大切なことだと思う。しつけという言葉は、”ここ”から始まる。けっして、世間体から始まらない・・・はず。よそ様の目が気になって、わが子をしつけようとするときは、特に、気をつけよう。 

 子どもをのびのびと育てたいと思う方は、わがままか、その子らしさ(好奇心)か・・・を見極める力をつけ、これは、わがままだと判断した時は、毅然とした態度で子どもと向きあうというスタンスは必須だと思う。
 それにしても、四人育てても、なかなかこの〝親の毅然”の驚異的効果に感動することばかりで、私自身の身についていないなぁとがっくりくる。もう、そろそろ血となり肉となりたいもんだ・・・・・なぁ。

 〝毅然力”・・・・なめられたらあかんぜよ。
 子どもが何でも話せる親になりたいっていう人がいる。まぁ、何でも話せるって素晴らしいように聞こえるけれど、子に親がなめられたらあかんぜよ。あくまでも、子も親も一個人として対等であるという大前提の関係性があってこそ・・・の話だと思う。
 半沢直樹のお友達は、ギリギリのところで、出向先の部下に、呼び捨てで啖呵を切って、自分の尊厳を守り切った。上司としての威厳を勝ち取った。お見事!
 毅然力はどうやったら養えるのだろう?
 男子は、幼少の頃からの取っ組み合いのけんかだろうか?
 女子は、いじめられたと感じたときだろうか?そこで養わられなければ、子育てで子どもがだだこねしたときだろうか?
 このだだこねの時期に、きちんと向き合わず、あめ玉やグミなどのお菓子をバックに潜ませて、だだをこね始めると条件反射のように、あめ玉を子に渡してその場を何とかごまかし乗り切ることに慣れてしまうと、思春期に大きなだだこね(葛藤)がやってきたときに、対応できず逃げてしまうような親になりかねない。
 キリストは、汝、隣人を愛しなさい・・・という教えと合わせて、イヤなときはイヤとはっきり言いましょう・・・という教えも伝えた。

 三男には申し訳ないことをしたと思っている。
 四男の子育てにかまけて、三男が小2の夏から、彼ときちんと向き合い、時に、毅然とダメなものはダメと言い切るチャンスをことごとく逃してしまった。彼は、現在、高2だ。
 先日、彼の口から、「育児放棄か!」という言葉が飛び出してきてたじろいだ。
 彼には、そう感じるだけの理由があった・・のだと思う。





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憲法と法律の違いがわかりました。

2013年09月01日 | エッセー
ーー 情けないですねぇ。
 憲法と法律の違いがやっとわかりました。
 50を過ぎてからこんな小学校高学年で習うような初歩的なことを知らないなんて、我ながらぞっとする。
 
 憲法とは、国民が国を縛るためのもので、法律は逆に、国が国民を縛るためのものなのだそう。
 国と国民の関係は対等にある。
 憲法が、国民に強いる義務は、納税の義務と勤労の義務と親が教育を受けさせる義務の三つだけで、他は、国民の権利を中心としたものである。元々は、イギリスでできたもので、国王を暴走させないように貴族たちが憲法を定めたことが始まりなのだそう。
 どっちも庶民から見たら、権力者に変わりはないような気もするが、権力を握った人だちだったからこそ、権力の暴走の可能性も十分すぎるほどわかっていて、国王を縛るための憲法というものを発明したのだろうなぁと思った。
 
 でも、この憲法と法律の違いをはっきり分かっている人って少ないんじゃないかなぁ?
 高校生ぐらいで、もう一度、この基本中の基本を教えていただきたいものだ。

 ところで、自民党が改正したい案には、なんと、なんと国民の義務が10個以上に増えている。国民は、法律で縛られたうえに、憲法でも縛られるようになる。例えば、介護なども家族で何とかガンバってやってみる・・というような。家族もいろいろだ。豊かな心で支えあう家族もいれば、どうしようもない家族もある。どうしようもない家族は、負の連鎖が働いていて、どんどんどんどんどうしようもなくなっていく。それは、家族の責任なのだろうか?どんな親の元に生まれてくるかなんて誰もわからない。育ちは大きい。ゴミを車から平気でポイポイ捨てるような親に育てられた子は、やっぱりそうしてしまう。学校でボランティアの授業で河川のゴミ拾いをしても・・・・・。しかし、改正したい案には、国が見るべきところの責任を家族に押し付けるような言葉がちりばめられている。明治の家制度を重視し、天皇を崇拝するような憲法に逆戻りしている感が否めない。憲法の上に天皇をおこうとしている。人は、神ではない。どんなに素晴らしい人でも過ちを犯す・・それが人である。人を一番上にもっていくとろくなことがない。だから、イギリスの貴族たちは、知恵を出して、国王の上に憲法を作ったのだ。これこそ、まさに、人間の英知だ。アラブの国々を見てみたらわかる。どの国も国王が独裁に走り、内戦が耐えない。幸いドバイという国は、石油のおかげであまりにも豊かすぎて、今のところ、争うはなさそうだけれど、石油がなくなったら恐ろしいことになるだろう。人間は、貧しい環境で支えあえる心豊かさを手にするよう進化しているはずだもの。日本という国も元々地下資源に恵まれない国なのに敗戦で極貧の状態になりながら、今の憲法により国に守られ自由に生きる権利を与えられたからこそ、ここまで発展できたのだと思う。これが、旧憲法だったら、どうなっていただろう?


四男を見ていると、男って戦いが好きなんだって思わざるを得ない。
 彼は、暇さえあれば、緻密な絵をひたすら書き続けている。最初は、恐竜の絵だったけれど、ちょっと前は仏像にはまっていた。特に気に入っていたのが、千手観音。いろんな武器を持っていた。そして、最近は、ゲーム機能を持った絵というかカードというか。ソフト機能を備えていて、友だちのエリアを作って、いろいろ戦いのようなゲームに仕立て上げている。ノート上で、お友達とゲームしているよう。
 すべて、基本は戦いである。いろんな武器をノート上に描き、戦いごっこをしている。
 戦いに関する絵しか描かないと言ってもいいくらい。
 
 本能に組み込まれているとしか言いようがない。
 男の子の男脳の中には、闘うことが太古の昔から、しっかりDNAとして脈々と受け継がれているんだなぁ~としみじみ思った。
 だから、というわけではないけれど、権力を握った男脳は、本能として戦うことへの欲求でうずうずしてくるんじゃないかなぁって思ってしまう。国レベルの権力を握ってしまうと、次は、対世界だ。世界と戦うというスイッチが、日本国で最高という権力を手にしてしまうと発動してしてしまうものなのかもしれない。
 
 憲法は、元々は、貴族が国王を縛るためにできたものだとしても、今、憲法は女脳のチカラで国民を守る、死守せねば、大変なことになるとマジ思う。



 つづく

『神との対話』に、『実は、同情も権力欲である。』と書かれてあって、ドキッとした。
  
 人は、心から優しい気持ちになれるときもあるけれど、やや上から目線で『かわいそう』って感じながらも、心のどこかで、『私はこうじゃなくてよかった・・・。』みたいな心模様になることもしばしあると思う。仕方ないと思う、それが人間だから。
 ただ、大切なのは、『かわいそう』と感じる時、『あ、この感情は、無責任な同情をしているだけだな。』と思える力かもしれない。そこで、『私は、かわいそうと思えるいい人・・・かも・・・。』と思ってしまうと危険だ。多分、権力欲って自分では気づかない、そういういい人認識の中に潜んでいるんじゃないだろうか。だから、難しい。当の本人が、きちんと自分の感情を客観的に認識できれば、謙虚という二文字の世界の住人になれる。でも、気づけなければ、傲慢という世界の住人になりやすい。
 安倍首相の妻、昭恵さんが、一生懸命家庭内野党として奮闘られても、なかなかパートナーの心に届くことは難しいかもしれない。

 私は、自分の胃がんがわかったとき、家族と親と数少ない二人の友人以外の誰にも言いたくなかった。
 本気で心配してくれるのは、多分、これくらいしかいないと思った。他の人は、同情の世界の人たちだと思えたから、ほんとうに言いたくなかった。なんていうか、人生の負け組・・・・

 つづく
負け組という言葉の響きは、実に言いえて妙。
 ほんとうは、何が、勝ちで何が負けなのか、その時点では、どっちに転がるかわからないのに・・・・。愚かな私は、変なプライドのために、負け組意識の住人になってしまった。きっと、ほんとうは、危機はチャンスのはずなのだ。こうでもしなきゃ、あなた、気づかないでしょう?行動を変えるまでのエネルギーを自家発電できないでしょう?と神様が必死で伝えてくれている・・・気がする。今だから言えるけど。
 確かに、あの時、私は、家庭でも仕事場でも、自分をきちんと表明できない自分の限界で瀕死の重傷を負っていた。あの時は、瀕死の重傷の私に、神様はなんとむごいことをなさる(つまり、胃がんを与えられる)、神様はいないのかと真剣に思った。
 でも、時がたち、変なプライドがそうさせる負け組意識からは脱出できた。
 
 同情=権力欲

 同情されたくない=あなたの権力欲の餌食にはなりたくない?

あの時は、そう思った。
 
 要するに、みな、負け組になって、同情されたくないのだと思う。プライドがいた傷つく。だから、負け組になる、つまり、人生が思いどおりにならないことへの抵抗も大きいのかもしれない。人生が思いどおりにいかないことを楽しめないのかもしれない。

 失敗から学ぶことへの感謝の念を、小さい頃より、親の後姿をとおして子に伝えたい・・・と、今なら、思える。ちょっとだけ。
 失敗したり、思いどおりにいかないことを通して、人は、しんどいけれど、それを乗り越えた時に寛大な人間になれるチケットを手にする。よかったね・・・・とマジに心から感謝できるようになりたいなぁ。
 そしたら、変なプライドによって、周りの人の変な権力欲の餌食になりたくないという思考回路から脱却でき、結果、相手の権力欲を消失させることも可能となる。たぶん、いじめっ子もいじめなくなるはず。

 憲法改正案は、なんだか、権力のニオイがプンプンする。

 もちろん、改正案を阻止するために一人の人間としてささやかでもアクションを起こしたい。
 でも、ほんとうは、さっき言ったような失敗や思いどおりにいかない人生に遭遇した時、負け組と思わない意識、むしろ、危機はチャンスとカラダごとラッキーに思えるようになれたら、世の中の構図ががらりと変わって、おもしろいだろうなぁって想像する。危機はプレゼントという風に少しでも受け止められるよう、日ごろから、思いどおりにいかないもろもろの出来事に遭遇した時、心の中で、『ありがとう』と念仏のように唱えるようにして、パニックにならないカラダをゲットしたい。

 失敗やできないことを怖れない空気を醸し出せるような母親になれたらいいな。
 そんな空気を子どもにも伝染させて、生きる力の源にしたい。

 さしあたって、お勉強。
 というか、漢字だ。
 四男は、限りなく0点に近い点数を、彼の歴史に築いてきた。
 学校に入って以来、お勉強をするという体制に、カラダがなかなかなれず、本人も、そして、私も、かなり苦労してきた。
 おかげで、できないことへの心構えができつつある。
 ありがとう。
 (う。ちょっと、否、かなり、無理している。)

 できないことや失敗がクリスマスプレゼントくらいに昇格するような概念の社会に、各家庭からやっていくことは、もしかしたら、憲法改正反対!!!と叫ぶこと以上に、世の中を変える力となるのかもしれない。
 子育て中のママへ
 子どもってやつは、マジ、思いどおりにいかないことだらけで、へろへろになっちゃう。
 でも、いくらへろへろになろうとも、おもしろいなぁ、子どもってやつは・・・・て思えるようになれるよう、意識して、視点を変える訓練をしてみませんか?少しずつ・・・・。

 先日、『小学校に入るまで、一言も言葉を発しなかった。学校に上がっても、どちらかというと人間関係やコミュニケーションにかなり苦労してきた長男が、今、高2になった。今では、よくおしゃべりをする野球大好き少年。でも、本人いわく、他者とのコミュニケーションでは、時々、違和感を覚え、努力してコミュニケーションをする場合もある。」というあるお母さんとお話をした。
 市の3歳児健診には、絶対連れて行きたくなかった。行っても、どうせ、問題視され、問題視された割には、一般的な対応しか期待できないだろうと思ったから・・・・。どう考えても、医大あたりを受診するレベルであったと思うけれど、姉が小学校の先生をしていてアドバイスをもらったり、小学校1、2年生の先生にも恵まれて、筆談でかいわをしてくださったり、相談に乗ってもらえ、クラスで浮かないような配慮をしてくださったので、どうにかこうにか専門家を頼らなくても、まぁまぁ社会生活に支障をきたさない程度に成長してくれた。
 でも、私も頑張った。ほんとうに頑張ったんだよ。

 『どう頑張ったの?』って聞くと、

 とにかく、ひたすら、暖かく見守る努力をした。
 そばにいると、『どうしてこんなことがわからないの?できないの?』などとキレそうになることが山ほどあったけれど、そこを、ぐっと・・・ほんとうにぐっとこらえて、見守った。劣等感を持たせないように・・・。ホント、きつかった。


 そうか。
 彼女、偉いな!すごいな!って感動した。
 思いどおりにちっともならない子って、マジ、最後はキレるよ。
 でも、彼女は、忍耐の力でひたすらキレないよう頑張って、がんばって、必死に耐えたのだ。
 
 最近、発達障害と呼ばれる子どもたちが増えている。

 専門家に聞けば、いろいろ支援の方法もあるかもしれない。
 でも、一番、大切なのは、たぶん、彼女のように忍耐力を身につけ、あたたかく見守れる寛容さを身に着けることだろう。

 よかったね。
 道は険しかったけれど、母の寛容さという偉大な力をわが子と格闘しもがき苦しんだ末、ゲットして、わが子が、どうにか社会で生きてゆける力をプレゼントした彼女に、エールを送りたい心境だった。

 だって、わたしも、キレるもん。四男に。
 うちの四男も、なかなかな存在だ。鍛えさせていただいている。忍耐への道を。

 ただ、時には、マジギレしてもいい、否、した方がいいとも思った。
 
 
 
 


 



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