朝っぱらから、バトルだ。
17歳の三男と。
彼は、毎朝、10キロの道のりをチャリンコで通学している。
何も続かなかった彼が唯一【継続は力なり】というかけがえのない体験をしている。感謝。
毎朝、課外もあるので7時には家を出なければならない。
で、いっつも、朝、『靴下がない!』『印鑑を押してくれ!』などと忙しい時間にギャーギャー言うので、『前の晩にちゃんと準備してきなさい。』と毎回のように、言っていた。・・・にもかかわらず、今朝も、『体操服がない。』とキレる。まだ、洗濯機は回っている。日曜日の夜、10時過ぎに洗った時は、体操着は見当たらなかった。仮に、今、洗濯機にあるとしても二着あるはずだから、それを探しなさいと言ったが、どこにもない・・様子。時間はどんどん過ぎていく。焦りで、どんどんキレまくる。仕方ない。洗濯機は、調度、1回目の洗いが終わったところだ。スイッチを切って、洗濯槽をのぞいてみると、なんと、二着ともあるじゃないか。月曜日の朝、一着洗濯機のそばに、使用後の体操服がぽそっと置いてあった。『もう、何で、今頃出すの?』って思った記憶がある。そして、多分、月曜日の夜にも、もう一着、洗濯機の中に入れていたんだと思う。そっちに、私は、気が付かなかった。
とにかく、全て、私のせいにする。
それが、気に食わない。
前の夜に準備しようという姿勢があれば、何とかなるのに、朝、遅刻しそうな時間にギャーギャー言われてもどうにもできない。それをせずして、母親のせいにするなんて、言語道断。
洗濯機を回す前に、洗ってほしいものは出す・・・という当たり前のことをしないでおいて、いざ、という時にないと母親のせいにる・・・・その人のせいスタンスを高校卒業までにはどうにかせねば。
社会は、それを許さない。
私の子育てのモットーは、一人で生きてゆける力をつけさせることに尽きる。
子どもって、超誰かの星人だ。
そして、思春期になる。
超誰かの星人という自分の実態は棚の上においといて、そろそろ自分でできることは自分でやることができるお年頃になったにもかかわらず、親に結構依存している(親の世話になっている)のに、やたら、大人の身勝手さや適当さ加減が目について、理想の人間からかけ離れている姿に怒りすら覚える、しかし、まだ、一人では生きられない・・・・・う~~~~~~~~~~~~~~~~。
・・・・というような思春期。
人のせいにしている限り、成長しない。
大人の中にも、誰かの星人はいっぱいいる。というか、ほとんど誰かの星人かも。
不幸を嘆く人ほど、心の病になった人ほど、誰かの星人の濃度が濃いように思う。
怒りは、どこから発生するのか・・・。
基本的に、相手が自分の期待どおりにならない時・・・・。
だから、誰かに依存すればするほど、その人が、自分の思いどおり、期待どおりにしてくれないと、逆に怒りが発生することになる。
全ては、相手次第。相手の出方次第で自分の気持ちがジェットコースターみたいに揺れ動くなんて、エネルギーを消耗するだけだ。エコじゃない。たぶん、きっと、電池が切れて、心の病につながっていくのだと思う。
完全に依存しないと生きていけない赤ちゃん時代から、少しづつ、自分のできることは自分でやれる日もあれば、やれない日もあるというような九つまでの時期を親たちに温かく見守れながら過ごすことができて、怒涛の思春期がやってくる。
九つまでに一生分の甘え(依存)ができた子は、思春期という門をくぐる資格を与えられる。
でも、依存が不十分であった子どもは、心が十分だと感じるまでは思春期がやって来ないような気がする。
九つまで、親が子どもの甘え(期待あるいは依存)にある程度満足いく感じで育てられたら、思春期にそびえたつ山を乗り越えるエネルギーが充電されるのだと思う。じゃなきゃ、自分は、まだまだ、めっちゃ甘えていて、ちっとも自立できていないのに、自分のことは棚に置いといて、理想とかけ離れた大人たちへの残念さや大人のずるさを垣間見ては傷つき、自分の期待どおりの大人像でないことへの怒りにより自家中毒を起こしかけている状態から、起死回生できない。
そんな何でも子どもの言うとおりなんて・・・・・と思うかもしれない。
もちろん、なんでもかんでも・・では溺愛になる。
依存と溺愛ってどう違うのだろう?
依存は、依存される側(大人)が、対等な人間として向き合える力がある時に、つまり、否定しないで最後まで子どもの気持ちを汲んであげられる力とイヤなことはいやだときちんと伝えられる力の両方を兼ね備えている時に、満足を得られる感覚だと思う。信頼があるから寄りかかれる・・・みたいな。でも、溺愛には、安心して寄りかかれるような満足を感じられないんじゃないかなぁ。お互いに子ども・・・・って感じがする。
う~~~~~~ん。まだ、よくわかんない。もう少し、お勉強が必要かな?
ただ、言えるのは、小さい頃、親が怖くて、甘えたいのに甘えられなかった、イヤダと言いたかったのにイヤと言えなかった・・・ような、大人にとっては育てやすいいい子だった子は、ゼンゼン、依存が足りていない。
こんな人は、思春期にそびえたつ山に挑めない。山を登るのではなく、山のぐるりを回って、年齢的には大人になる。見かけは大人。でも、依存したい欲求という爆弾を抱えたまま年齢だけはおとなになってしまった。こんな人は、思春期にそびえたつ山の手前の門の前で怖気づき迂回する。でも、迂回した人には、大きな付けが待っている。相手が、期待どおりにしてくれないと怒りが発生する、その怒りの度合いが強すぎて、すっごくエネルギーを消耗する。裏切られた感が強い。
こんなにしんどいのなら、もう、人とは付き合いたくない。ひきこもっていたい・・・・。期待に裏切られて傷つきたくないから・・・・となるのかなぁ。
今朝もバトルだ。
今日は、日曜日。
いつ起きてくるのかわからないから、特に、日曜日の朝ごはんって作らない。起きてきてから、チーズパンとかニンジンをすって入れたホット―ケーキ等を作る。お昼は、インスタントラーメンとかチャーハンとか焼きそばなど・・・。
で、三男が「お昼ご飯は?」って言ったので、「チャーハン作ったよ。」って言ったら、「え~~~~~~、先週の日曜日のお昼もそうだった。いっつも同じなんていやだ。」とほざく。1週間に1回しか作っていないのに、なんとぜいたくな!
「上に、オムレツを乗せようか?」と優しく言ったのに、「卵を乗せてもチャーハンはチャーハンだ。」とまたまた、ほざく。
くっそ~~~~~~~~。
「じゃぁ、自分で作んなさい。」
と言ったら、「くそ。しね。しね。」とブーブー文句言いながら2階へ上がっていった。
あ~~~~~~~、なんと甘えん坊。依存もいいとこだ。
高2だ。文句があるなら、自分でしなさいって世界だ。
彼にとって、今、このバトルが大事だと思う。私は、彼の壁にならなくてはいけない。
彼の依存心と彼の理想の大人像の彼自身のギャップを埋めるための立ちはだかる壁に・・・。いま、嫌われようが、最低の母親と思われようが・・。
以前も書いたけれど、ぶつかりげいこだ。すもうのぶつかりげいこ。
すもうは、ぶつかりげいこで強くなる、。
心も、おんなじ。ぶつかりげいこで鍛えられる。思春期の親は逃げてはいけない。
つきかえすたんびに、クソ母親という目線と言葉で『嫌われているな、今。」って思うけれど、毅然と立つ私。ほんとうは、好かれたい。いい母親になりたい。でも、これは、彼が大人の階段を上るための、一人で生きていくための気力をつけさせるためのブツカリゲイコだと思って逃げない。
私の弟は、思春期から、たぶん、一度も父親と言葉を交わすことがなかった。そして、そのまま、言葉を交わすことなく、おととし、父親はなくなった。
17歳の三男と。
彼は、毎朝、10キロの道のりをチャリンコで通学している。
何も続かなかった彼が唯一【継続は力なり】というかけがえのない体験をしている。感謝。
毎朝、課外もあるので7時には家を出なければならない。
で、いっつも、朝、『靴下がない!』『印鑑を押してくれ!』などと忙しい時間にギャーギャー言うので、『前の晩にちゃんと準備してきなさい。』と毎回のように、言っていた。・・・にもかかわらず、今朝も、『体操服がない。』とキレる。まだ、洗濯機は回っている。日曜日の夜、10時過ぎに洗った時は、体操着は見当たらなかった。仮に、今、洗濯機にあるとしても二着あるはずだから、それを探しなさいと言ったが、どこにもない・・様子。時間はどんどん過ぎていく。焦りで、どんどんキレまくる。仕方ない。洗濯機は、調度、1回目の洗いが終わったところだ。スイッチを切って、洗濯槽をのぞいてみると、なんと、二着ともあるじゃないか。月曜日の朝、一着洗濯機のそばに、使用後の体操服がぽそっと置いてあった。『もう、何で、今頃出すの?』って思った記憶がある。そして、多分、月曜日の夜にも、もう一着、洗濯機の中に入れていたんだと思う。そっちに、私は、気が付かなかった。
とにかく、全て、私のせいにする。
それが、気に食わない。
前の夜に準備しようという姿勢があれば、何とかなるのに、朝、遅刻しそうな時間にギャーギャー言われてもどうにもできない。それをせずして、母親のせいにするなんて、言語道断。
洗濯機を回す前に、洗ってほしいものは出す・・・という当たり前のことをしないでおいて、いざ、という時にないと母親のせいにる・・・・その人のせいスタンスを高校卒業までにはどうにかせねば。
社会は、それを許さない。
私の子育てのモットーは、一人で生きてゆける力をつけさせることに尽きる。
子どもって、超誰かの星人だ。
そして、思春期になる。
超誰かの星人という自分の実態は棚の上においといて、そろそろ自分でできることは自分でやることができるお年頃になったにもかかわらず、親に結構依存している(親の世話になっている)のに、やたら、大人の身勝手さや適当さ加減が目について、理想の人間からかけ離れている姿に怒りすら覚える、しかし、まだ、一人では生きられない・・・・・う~~~~~~~~~~~~~~~~。
・・・・というような思春期。
人のせいにしている限り、成長しない。
大人の中にも、誰かの星人はいっぱいいる。というか、ほとんど誰かの星人かも。
不幸を嘆く人ほど、心の病になった人ほど、誰かの星人の濃度が濃いように思う。
怒りは、どこから発生するのか・・・。
基本的に、相手が自分の期待どおりにならない時・・・・。
だから、誰かに依存すればするほど、その人が、自分の思いどおり、期待どおりにしてくれないと、逆に怒りが発生することになる。
全ては、相手次第。相手の出方次第で自分の気持ちがジェットコースターみたいに揺れ動くなんて、エネルギーを消耗するだけだ。エコじゃない。たぶん、きっと、電池が切れて、心の病につながっていくのだと思う。
完全に依存しないと生きていけない赤ちゃん時代から、少しづつ、自分のできることは自分でやれる日もあれば、やれない日もあるというような九つまでの時期を親たちに温かく見守れながら過ごすことができて、怒涛の思春期がやってくる。
九つまでに一生分の甘え(依存)ができた子は、思春期という門をくぐる資格を与えられる。
でも、依存が不十分であった子どもは、心が十分だと感じるまでは思春期がやって来ないような気がする。
九つまで、親が子どもの甘え(期待あるいは依存)にある程度満足いく感じで育てられたら、思春期にそびえたつ山を乗り越えるエネルギーが充電されるのだと思う。じゃなきゃ、自分は、まだまだ、めっちゃ甘えていて、ちっとも自立できていないのに、自分のことは棚に置いといて、理想とかけ離れた大人たちへの残念さや大人のずるさを垣間見ては傷つき、自分の期待どおりの大人像でないことへの怒りにより自家中毒を起こしかけている状態から、起死回生できない。
そんな何でも子どもの言うとおりなんて・・・・・と思うかもしれない。
もちろん、なんでもかんでも・・では溺愛になる。
依存と溺愛ってどう違うのだろう?
依存は、依存される側(大人)が、対等な人間として向き合える力がある時に、つまり、否定しないで最後まで子どもの気持ちを汲んであげられる力とイヤなことはいやだときちんと伝えられる力の両方を兼ね備えている時に、満足を得られる感覚だと思う。信頼があるから寄りかかれる・・・みたいな。でも、溺愛には、安心して寄りかかれるような満足を感じられないんじゃないかなぁ。お互いに子ども・・・・って感じがする。
う~~~~~~ん。まだ、よくわかんない。もう少し、お勉強が必要かな?
ただ、言えるのは、小さい頃、親が怖くて、甘えたいのに甘えられなかった、イヤダと言いたかったのにイヤと言えなかった・・・ような、大人にとっては育てやすいいい子だった子は、ゼンゼン、依存が足りていない。
こんな人は、思春期にそびえたつ山に挑めない。山を登るのではなく、山のぐるりを回って、年齢的には大人になる。見かけは大人。でも、依存したい欲求という爆弾を抱えたまま年齢だけはおとなになってしまった。こんな人は、思春期にそびえたつ山の手前の門の前で怖気づき迂回する。でも、迂回した人には、大きな付けが待っている。相手が、期待どおりにしてくれないと怒りが発生する、その怒りの度合いが強すぎて、すっごくエネルギーを消耗する。裏切られた感が強い。
こんなにしんどいのなら、もう、人とは付き合いたくない。ひきこもっていたい・・・・。期待に裏切られて傷つきたくないから・・・・となるのかなぁ。
今朝もバトルだ。
今日は、日曜日。
いつ起きてくるのかわからないから、特に、日曜日の朝ごはんって作らない。起きてきてから、チーズパンとかニンジンをすって入れたホット―ケーキ等を作る。お昼は、インスタントラーメンとかチャーハンとか焼きそばなど・・・。
で、三男が「お昼ご飯は?」って言ったので、「チャーハン作ったよ。」って言ったら、「え~~~~~~、先週の日曜日のお昼もそうだった。いっつも同じなんていやだ。」とほざく。1週間に1回しか作っていないのに、なんとぜいたくな!
「上に、オムレツを乗せようか?」と優しく言ったのに、「卵を乗せてもチャーハンはチャーハンだ。」とまたまた、ほざく。
くっそ~~~~~~~~。
「じゃぁ、自分で作んなさい。」
と言ったら、「くそ。しね。しね。」とブーブー文句言いながら2階へ上がっていった。
あ~~~~~~~、なんと甘えん坊。依存もいいとこだ。
高2だ。文句があるなら、自分でしなさいって世界だ。
彼にとって、今、このバトルが大事だと思う。私は、彼の壁にならなくてはいけない。
彼の依存心と彼の理想の大人像の彼自身のギャップを埋めるための立ちはだかる壁に・・・。いま、嫌われようが、最低の母親と思われようが・・。
以前も書いたけれど、ぶつかりげいこだ。すもうのぶつかりげいこ。
すもうは、ぶつかりげいこで強くなる、。
心も、おんなじ。ぶつかりげいこで鍛えられる。思春期の親は逃げてはいけない。
つきかえすたんびに、クソ母親という目線と言葉で『嫌われているな、今。」って思うけれど、毅然と立つ私。ほんとうは、好かれたい。いい母親になりたい。でも、これは、彼が大人の階段を上るための、一人で生きていくための気力をつけさせるためのブツカリゲイコだと思って逃げない。
私の弟は、思春期から、たぶん、一度も父親と言葉を交わすことがなかった。そして、そのまま、言葉を交わすことなく、おととし、父親はなくなった。