総合漢方にんぷ薬・総合漢方育児薬

~頭を使ってではなく、カラダ(感性)で子育てしてみませんか~

この差ってなんですか?かわいい認知症と残念な認知症

2019年04月21日 | エッセー
 義理の母と実の母が、時同じにして認知症の坂道を登り始めてしまった。
 物忘れの度合いは、二人とも同じくらい。
 さっき言ったことを忘れてしまう。
 なので、会話が続くように見えて分断されやすい。
 どうにか二人とも、一人暮らしをしてくれているが(うちには来ないというので)、施設に入るのも秒読み態勢に入った感がある。

 しかし、この二人、同じ認知症でも天と地ほどの差が出てきている。

 義理の母は、能天気。楽天的。物忘れがひどくなっていくことに対して無頓着。笑っている。記憶がイマイチになっていくことへの恐怖とかないですかと尋ねても、大丈夫よ。なんとかなるわよ。どおってことないわ。

 一方、実の母は、超悲観的。とにかく、暗い。ネガティブの嵐が吹き荒れる。しゃべるたびに語尾は、あ~。記憶力がどんどんなくなってくる。

 先日、母の妹の叔母が、気を利かして、親戚の家に1泊連れて行ってくれた。翌日、どうだった?楽しかった?と電話で聞いてみた。
 返ってきた答えは、どこそこに連れて行ってもらった。何を食べた。
 あ~そう。で、楽しかった?美味しかった?と再度、気持ちを聞きたいので聞いたら、

 突然、泣きわめきだした。

 なんで、私をそんなにいじめるのよ。と叫んだ後は、ギャーギャー、ギャーギャー、何を言っているのかわからない。もう、止まらない。
 どうやら、『気持ち』を尋ねることが、母にとってはいじめと感じるくらい、しんどいことのよう。
 ショックだった。
 楽しかったか、つまらなかったか・・・。
 喜怒哀楽の、喜びと楽しさという感情が、母から消え去っていく。

 何かの本に、『感謝』という感情は、高度な感情で、認知症になると、感謝がなくなっていくと書いてあった。
 
 『感謝』という感情は、貯蔵できるのだろうか?



 もし、できるのなら、人生観が変ってくる。
 そうしようと思ってそうなるものではないけれど、環境を整えれば、感謝することを意識する生活のまねごとはできるはず。まねを繰り返すうちに、いつの間にか感謝の気持ちの基礎体力がつく可能性は十分あると思う。例えば、ありがとう日記をつけると決めることから。今までも、何度かチャレンジしたが、一日5個ありがとうと感じたことを書くということさえ三日坊主だった。でも、実の母のあの恨み節を聞いてしまった今、出来そうな気がする。タバコを吸っていてやめたいと思っている人が、肺が真っ黒なレントゲン写真を見てやめる覚悟ができた・・・みたいな。
 感謝を貯蔵して、感謝体質になりたい。

 母は、世間体というとてつもない恐怖に屈し、自分の感情を抑圧し続けた人生を歩いてきた。
 自分が傷つきたくないから。
 つまり、自己チュー人間ってこと。
 一見、優しそうで穏やかそうに見える・・・・だけで、実は、他人のことを思いやる本当のやさしさの持ち主ではなかったと思う。ただの、うわっつら人間。
 うわっつらで生きていると、本当に困ったときを感じる力が弱るし、どうにか解決しようという前向きな気持ちも持ちにくい。そう言えば、心配だけは得意だった。そんなに心配されても、人生の先輩としての知恵を授かることなんて全くなかったので、母に相談しようなんて気持ちはさらさらなかった。おそらく、父もそうだったのだろう。なので、私の育った家は、喧嘩もないけれど、何もないという殺風景でうわっつらだけの変な家だったと思う。
 そんなこんなで、母は他人の手助けをもらいにくいし、また、もらうチャンスもなくなり、結果、心からありがとうという気持ちを噛みしめて、カラダとココロのすみずみまで浸透させるような喜びの貯蔵ができなかった人として老いていった。
 問題を直視せず、自分が傷つかない人生を選択し続けると『感謝』という素晴らしい人生の贈り物を受け損ねるという寂しい人生となるのかもしれない。

 自分の本当の気持ちを抑圧し、やりたいことをやれなかった人生の終末は、恨み節になる。

 一方、義理の母は、娘からすれば、大嫌いな母だったといわれるくらい母親らしくないわがままな人だったらしい。ただ、義理父が大変な人で喧嘩が絶えず、子どもたちが巣立ったと当時に飛び出して、義理父の呪縛から逃れて自由に生きてきた。だから、恨み節がない。
 おそらく、ここが、同じ認知症でも、恨み節がある悲観的なタイプと楽観的なタイプの差が出てくるではないだろうか。
 母は、悲劇のヒロインタイプで、義理は母は女王様タイプ。
 一見、正反対に見えるけれど、実は、注目を浴びたいという点では似ている。

 認知症になるなら、義理の母みたいな認知症がいい。

 子どもが、みな、自立したら、やりたいと思ったら、でも・・・と諦めずにチャレンジする人生を選択するぞ!

 子育て中の母親は、子どもが最優先になって、自分のやりたいことは後回しになってしまう。
 それはそれで、そういうものかもしれないけれど、子どもが自立したら、一度、リセットして、束縛という有形無形のものから、解き放たれ、自分を大切に生きることを優先させることが、人生の終わりの姿がすがすがしくなれる一つの要素になるかもしれない。

 60代。
 定年退職した夫の存在はどうだろう?
 介護は重くのしかかっていないだろうか?

 願わくば、子ども時代、やりたいことをやれるという当たり前の人権尊重の空気の中で育つことができたら、最高だ。もちろん、人間関係という関係性を豊かに学ぶ場でもあるということは吝かではない。家庭でも学校でも。
 しかし、現実はというと、時間割と宿題と例えば、日本一あいさつ運動などと言って、毎朝、校門の前に立って、走行している通勤途中のドライバーに「おはようございます」と声を張り上げるような不思議なあいさつをするということなどなど・・・・自分の本当の気持ちを偽ってることすら気づかずにいるような環境で育っていく。育つという時点で、すでに、恨み節になりそうな束縛呪縛の世界に支配されている。そんな子が多いんじゃないかな。

 中学生が、すれ違う時、やたら大きな声であいさつをしてくれる。もっぱら、男の子が多い。

 恐縮して、小さな声であいさつ返しをする私。
 とともに、なんとはなしに違和感という空気も吸ってしまう私がいる。

 中学生の私は、とてもあんな大きな声で見知らぬ人にあいさつするなんて恥ずかしくてできなかっただろうなと思う。
 なぜ、中学生という思春期の男子が、あんなに大きな声であいさつできるのだろう?という疑問。
 わが子たちは、誰一人として、あんな大きな声であいさつできる子はいなかった。
 あいさつ運動に積極的に参加できるタイプの中学生とできない子の差って何だろう?
 自分に自信があるのかなぁ?
 軍隊のにおいがしないでもない。小さい頃から、学校というルール社会に疑問を抱かずに溶け込んでいった?
 先生の評価を得たい?
 
 ま、いいか。男子のことは。

 女子は子育てを最優先するというDNAを持っていると思う。でないと、人類は滅ぶもんね。
 その女子が、人生最後の姿をどう送るか、そこに、恨み節はないかと問う時に、小さい頃から、やりたいと思ったことを大切にしてもらえる環境、あるいは、やりたくないことをやらないですむ環境で育つということが案外、つながっているのかもしれないと、義理の母と実の母の姿とみて感じてしまった。

 追伸、昨日、義理の母と昨今の小学校は、5時間授業の後に午後1時から給食という日もあるという話から、「今の子どもたちは、本当に管理されすぎでかわいそう。四男は、脳の発達が他の子よりゆっくりなところに学校というルールが一気に押し寄せて、脳ストレスが許容量を超えて、きっと、学校に行くに行けなくなったのだと思う。今は、やりたくないことをさせない、やりたいことをさせるという完璧により、彼を防護し、すっかり安心できる環境を整えて、脳を完全休養させてあげたい。」と話したら、「私は、栄養失調で、小学校高学年の頃から、しょっちゅう倒れて、学校を休んでいたの。中学校の時はあんまり学校に行かなかった。」と義理母。
 「え、お義母さんは、結構、裕福だったんじゃないんですか?栄養失調になるのが不思議です。」と聞くと、「私は、食べたいときに食べたいものしか口にしない子だったの。食べたくないと思ったら食べなかった。」
 「へ~~~~~~~。そうなんですね。」
 「実は、父親の浮気が嫌で嫌でたまらなかった。そのことを知ってから、そんな風になってしまった。そんな父なのに、母は、なぜだか、お歳暮をその浮気相手に持って行ったりするもんだから、わけわかんなくなって、母親も嫌いになったの。」

 そんな話、義理母から初めて聞いた。

 戦争の前後の時代のお話だ。

 
 私の母は、義理母が学校に行かないという選択をした頃、10人兄弟の4番目で次女で、祖母は家事なんてしないお嬢様だったため、家事を担っていたという。わがままなんか行ってる場合ではなかった。まじめでお勉強も頑張っていたと聞く。義理母と同じように、祖父は昔の男の人で、お酒は飲むは、浮気をするは・・・で、祖母と大喧嘩ばかりしていたらしい。

 宿命と運命・・・考えさせられる。
 
 
 

 
 


 

 

  

 
 案の定、母は認知症になって、理性のコントロールが効かなくなって、自分を抑えることができなくなってきたら、その残念の蓄積が無念のお化けになってしまった。

 
 一方、義理の母は、わがままで言いたいことの言えるタイプ。娘たちは、母親が大嫌い。遠くに住んでいる娘は私が結婚して2回しか帰省していないくらい。おそらく、子育てには向かないタイプだったかもしれないと想像する。しかし、子育てが終わったら、即、家を飛び出して(離婚したかったけれど、さえてもらえなかったので)自活の道を選んだ人だった。そう。わりと好き勝手に生きてきた。上っ面で生きることをしなかった人であった。飛び出して、それなりの苦労をされたと思う。そこには、きっと、一生忘れない感謝という貴重な体験もあったと想像する。
 
 私の母の最大のモットーが、世間の目にさらされない。なので、付き合いがない。大切な友達がいない。叔母にすら、自分のことや家族の恥部は話さない。一人で、勝手に家族のことを心配ばかりしている。心配はするけれど、行動にはちっとも起こさない。人の心配をすることで、自分のこと、あるいは、自分の人生にきちんと向き合う苦痛から逃れようとしているとしか思えない。もちろん、本人は、そんなこと考えたことないはず。こんなに心配しているの・・・くらいにしか思っていないと思う。
 だから、私も母は嫌い。だって、本当に心配してくれているのならば、本当に助けてほしい時に助けようとアクションを起こしてくれるはず。私には、その体験がない。だから、人を愛するということがわからない。だって、お手本であるべき親が、ここぞという時に助け船を出してくれなかったもの。

 どっちの母もいい勝負。おそらく、義理の母は、自分が話題の中心にいたいという無意識の願望があって、饒舌な人だった。一方、母は、悲劇のヒロイン。どっちもどっち。ヒロインになりたい人という点では似ている。
 でも、人生の終わりに見える姿は正反対。
 例え、それが、わがままであっても、人生の終わりの姿を見比べると、わがままに生きた方が、感謝の気持ちで終わりやすいのかもしれない。

 二人を見てみて、しみじみと思う。
 自分がかわいくて、自分が傷つくことが怖くて、自分ときちんと向き合うことから逃げて、ごまかし続ける人生は、その時はよいけれど、無念という負の感情が貯金されていく。そして、感謝という人間にとって最も高度で大切な感情が、無念感情によりかき消されていく。
 でも、自分の本当の気持ちを尊重して、叫んだら、きっと、おそらく、助け船がやってきて、その感謝の気持ちを胸の奥にキュンキュンさせながら生きて行ける。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無条件の愛と紙おむつについての1考察

2019年04月06日 | エッセー
 総合漢方にんぷ薬(ちょこっと育児も)を世に出したいと願って、早、10年。
 10年ひと昔という。


時代は変わる。

 そして、私の子育て観も根こそぎ変わった。子育ては、育児ではなく、育自であると。
 それも、100%育自。

 

 みんな違ってみんないい。

 あなたはあなたのままでいいのよ~。



 口で言うのは簡単だ。

 わが子が、不登校になってみて、いかに、自分が口だけのいかさま人間だったかを思い知らされた。
 
 学校に行き渋りを始めたころなんて、最悪だった。あなたはあなたのままでいいはずがない。学校に行かせようと必死だった。
 あなたはあなたのままでいいと心底思えていたら、あたふたなんかしなかった。

 息子の不登校により、とうとう、ついに、わたしという薄っぺらいえせ人間の化けの皮がはがされた。

 というか、私の化けの皮を息子の不登校がはがしてくれた。

 そう。子どもって存在は、身体をはって化けの皮をはがしてくれる唯一無二の存在なのだ。
 
 だから、子育ては100%育自。

 後付けだけど。
 誰が、好き好んで、化けの皮をはがしてほしいなんて望むだろうか。
 ただ、私は、自分に自信がなく、自分の人間性が残念で、もう少し、マシな人間になりたいという想いはいつもあった。なので、きっと、神様が、これでもかこれでもかと子どもに命をはらせて、私の化けの皮をはがさんとしてくれたのだろうか・・・。


 そして、後付けでわかった。
 赤ちゃんを産んだばかりのさんぷは、無条件の愛が溢れ出るイエス・キリストのような人間性にまで高めてくれる可能性を秘めた入り口に立つという特権を与えられるのだ。

 四男が、不登校になるまでは、育児60%、育自40%くらいな感じだった。演技なんかしなくていい唯一の貴重な存在である子どもたちとぶつかり合いながら、知らなかった自分に出会える。時に、雄たけびを上げて怒りまくる自分にぞっとすることもあった。職場や友達とはこうはいかない。子どもたちとは、距離の取り方という技術的な人間関係ではなく、彼らがカラダをはって体当たりで要求してくる本物の人間関係に戸惑いながらも、自分の本当の気持ちをごまかさない生き方をしているかと試されているようで、襟を正さずにはいられないこともしばしばあった。

私の子育て観を180度変えたのは、不登校になった四男との衝撃的な体験の賜物による。
 子どもたちの困った行動の全てが、親の育自のためになる。その困った行動の中でも最たる困った行動の一つである不登校は、親の育自と無条の愛を最大限に要求する。

 ということを、わが子が不登校になって、心底身に染みている。

 『母よ。あなたは、本当の自分の心にうそをついていないか?あなたは、本当に自分らしくいきいきと生きているか?自分の心を大切にしているか?母が、いきいきと輝きだしたら、僕は、自然と元気になるよ。だって、母こそ、僕の幸せのお手本なんだから。母みたいな素敵な大人になりたいなぁ~。』
 そんな風に、子どもが母のことを思えるようになったら、勝手に動き出すと。
 十月十日
 トツキトウカ、胎児はお腹の中で、母の喜怒哀楽を直で感じながら、つまり、母は私、私は母・・・という一心同体と言ってもいいくらいな感覚で過ごして生まれてくる。だから、幼子は母のことだったら何でも知っている。お見通し。思春期くらいまでの子どもって、親や大人の言動をよ~~~~~~~~~~~~~く観ている。鋭いまなざしで・・。だから、親や大人の偽を見抜く。本音と建て前を見抜く力は半端ない。四男は、『大人(親や先生)が怒るときって、ほとんど八つ当たりだよね。』って、さらりと言ってのけた。

『子どものために』と言っているうちは、不登校は解決に向かわない。

 子どもは、そうされればされるほど、僕のせいで、お母さんがお母さんらしく生きていないというような罪悪感を感じてしまい、エネルギーを奪われる。

 罪悪感は、畑を枯らす除草剤のようなものだそう。


 学校に行くに行けなくなったことで、本人は十分すぎるほど罪悪感の海の中で暮らしているのだから。

 不登校になった子どもの親が唯一、子どものためにしてあげれることは、1ミリたりとも罪悪感を抱かせないようにすること。

 そのためには、本当に、心底から『あなたはあなたのままでいいのよ~。』というメッセージを言葉だけではなくカラダ全身から気配として感じられるくらいの意識レベルにまでなれるようになることが必要最低条件となってくる。
 昼夜逆転して、夕方起きてきても、歯を磨かなくても、お風呂に入らなくても、ゲームばっかりしていても、もちろん、勉強しなくても・・・・だ。




 『母よ。あなたは、僕を無条件で愛してくれているか。〇〇したら、〇〇してあげると言ったことはないか?』ちょっとでも、条件付きの愛のにおいがすると、子どもはうざいと言って自室に引きこもる。

 親が『今度のテストで100点を取ったら、〇〇を買ってあげる。』とか『いい子にしていたらサンタさんがプレゼントをもってクリスマスに来てくれるよ。』などというような条件付きの愛を結構やっても、不登校にならないで、大人になれた子どもたちは、タフなのだろうか?自由に生きられない苦しさに耐えかねて学校に行くに行けなくなる子どもたちは、弱いのだろうか?
 わからない。
 個人的には、『いい子』=『親にとって都合のいい子(宿題をする子・素直に親の言うことを聞く子・歯を磨く子・早寝早起きする子・ゲームを約束の時間で終了できる子など)』というにおいがプンプンして、めいっぱい条件付きの愛じゃんって違和感があった。だから、子どもたちに『いい子』という表現はしてこなかった。でも、世の中を見渡すと、いい子になってサンタさん(否プレゼント)をキラキラした目で待っている子どもたちが多くて、不思議だった。
 彼らは、本気で『いい子』になろうとしているのだろうか。
 親の条件付きの愛の最たる表現である『いい子』に何の疑問も抱かずに受け入れている子どもたちが不思議でたまらない。
 『いい子』という条件付きの愛を、子どものためにと良かれと思う=愛だと信じている親たちが結構いることに驚く。
 親にとって都合のいい子は、職場にとって都合のいい人、社会にとって都合のいい人、国にとって都合のいい人になっていく可能性がある。

 右向け右。



 そもそも、親そのものが、いい子だったりお勉強ができたりすることを願う親の条件付きの愛で育ち、学校ルールで翼が折れて、学校や職場の人間関係とか夫婦関係などですり減って、自分自身を見失っているのだから。
 多くの人が無条件の愛なんて親からもらっているように見えて、もらっていないと思う。私もそうだった。そして、自分自身を見失っていることにすら気づかず、赤ちゃんを授かると、急に親になる。

 でも、育児に必要なのは、親がいきいき自分らしくあるというエネルギーと無条件の愛。

 さぁ、どうする?


 紙おむつの話をするために、前置きがかなり長くなってしまった。


 なぜ、私が、紙おむつを使う時のママの心理にここまでこだわったのか。
 私は、4人の男の子を神様から預かって、一人一人が自分持っている芽をのびのびと咲かせてあげたいという気持ちで子育てに臨んだつもりだった。ところが、育てる側の私が、無条件の愛を体験していないし、資質もないというお粗末さに愕然とした。
 
 だから、環境整備。
 心がないなら、形から入ろうと思った。
 なるべく、条件付きの愛を育児から取っ払う。

 よほどお金持ちでない限りは、紙おむつを使うママの心には、条件つきの愛が潜むと思う。
 もったいない。少し濡れているけれど、もうちょっといいかな。
 できれば、一日6枚ですませたい。月180枚だといくらかな?
 
 
 10年前は、まだ、布おむつと紙おむつのメリットデメリットを伝えることができた時代であった。
 しかし、今は、もう、布おむつは空前の灯のごとく、この世から姿を消しそうな気配である。

 にもかかわらす、布おむつのメリットを訴えるという挑戦をあえてやってみようと思う。
 捨てがたいほどのメリットが二つある。
 一つは、無条件の愛を提供できるツールであるということ。そして、もう一つは、育児が育自につながる感性を育むツールであるということ。


 女性が働きつづけて生き生きと輝くために、定時で帰れる職場づくりと夫と力を合わせて、家事育児で減らせる労力は減らして、できうる限り、子どもとゆったり戯れる時間を作らんとすることが、今の時代のテーマだと思う。
 そのために、何を減らすか?
 そのトップバッターが布おむつだったかなぁ。
 おむつを洗って干してたたむ暇があったら、赤ちゃんと遊んであげて・・・みたいな。
 
 私は、ただただ哀しかった。

 20代後半、頭でっかちな私は、人を愛するというその愛の意味がわからなかった。わからないから手探りで、テレサテン的な尽くす愛を愛と勘違いしていたおバカな私がいた。人間としても損得勘定ばっかりの自分が嫌で嫌で、せめて、わが子だけでも無条件の愛を与えられるような人間になりたいと切望していた。 
 だから、長男を産んだとき、布おむつを選択した。
 もちろん、経済的なことも大きかったけれど。布おむつだと全部で3~4万ですむもんね。兄弟も使えるし・・・。

 一方、紙おむつはどうだろう。一人当たり10万円くらい?
 最近は、3歳ころまでおむつをはめている子も増えてきたのでもっとかかるかな?

 3人産んだら、30万円以上かかる?

 でも、布おむつを選んだ一番の理由は、別にある。
 それは、無条件の愛のない私が、無条件の愛を表現できる唯一のツールだと確信したから。

 お金持ちでない一般ピープルママが、紙おむつを使う場合、おしっこをしたら、すぐ取り換えてあげるという行為は、なかなかできないと想像する。

 だって、もったいないもん。

 1日6枚ですませたい・・・といつも、心の片隅で思っているんじゃないかなぁ。

 どうだろう。いつもどこかで、もったいないから、もう少し溜まってから取り変えよう・・・と思う自分はいないだろうか。
それって、条件付きの愛かも・・・と愛のない私は、愛に飢えているからこそ、そう思った。

 私は、夫が事業を始めたばっかりで、経済的にも厳しかったので、もし、紙おむつにしたら、めっちゃ、枚数にこだわって、下痢なんかが続いた日にはため息ついて、条件付きの愛の負のオーラを子どもたちにビンビンバンバン送ってしまうだろうと想像できた。
 先日、赤ちゃん訪問したら、一日3枚で頑張るというママがいらしたけれど、もしかしたら、私だって、そうしちゃっっていたかもしれない。
 
 子育ては、赤ちゃんとママとの日常生活でのオーラのやりとりの集大成のような気がする。
 だとしたら、24時間1年否最近は2~3年、もったいないオーラに包まれて子は育つ?

 特に、私みたいに、頭でっかちで、感性が豊かでないな、また、赤ちゃんとどうやって遊んだらいいかわからないというような人ほど、プラスのオーラのやりとりツールの一つとして、昼間、家にいるときだけでも布おむつを使ってみて。
 そうそう。何かあると、ネットですぐ検索してしまう人ほど、お勧め。
 布おむつを通して、無条件の愛のやりとりをこつこつ積み重ねていくうちに、何とも言えない自信がついてきて、なんだか、自分のことが少し好きになっていくから不思議。
 1歳近くになると、3時間くらいおむつが濡れなくなることが、時々あって、そんな時、おしっこを庭なんかでさせると、溜まっていたおしっこが自然といっぱい出ることがあるんです。そうすると、超うれしい。これで、おむつ1枚洗わなくていいじゃんって。そうしたら、自然と3時間くらいたっておむつが濡れていないと、おしっこさせちゃう。その成功体験を繰り返すうちに、いつのまにか、1歳ごろには、昼間のおむつは1枚も濡れない日が出てくる。 
 そうなると、しめたもの。
 無理やりさせるのは、まだ、膀胱括約筋が完成していないので、赤ちゃんにとってはストレスになるけれど、溜まった分がスーッと出るのは大丈夫。ただし、3時間は開けるのが原則。膀胱括約筋が完成するのが1歳半ごろなので。
 1日、おむつが濡れないですんだという達成感は、意外と大きな喜びに変換されるなって感じています。
 特に、キャリアのある仕事をしてきた女性ほど。
 だって、赤ちゃんって存在は、ママの日課をことごとく中断させる存在でもあるから。
 だいたい、子育てって、達成感がない生活のく繰り返し。仕事では、日々、大変だけれど、達成感を感じていたと思う。なのに、今の私はど~よ。せめてもの達成感の源である料理ですら、途中で火を消して、ほったらかし泣いている赤ちゃんの元に向かわねばならねという。達成感の反対の無力感がさんぷのココロを蝕んでいく。
 そんな無力感ママに3時間おむつが濡れていなかったら、おしっこさせてみて、そうしたら、いっぱいおしっこを飛ばしてい気持ちよさそうにしているわが子を見れるという達成感は、また、格別。
 ただし、はまってしまっては困るんです。一日おむつが一枚も濡れないことを目的にしてしまったら、やばい。
 無条件の愛から離れていくので。



仕事って、課題解決という、どちらかというと、男脳(狩りで獲物をしとめる作戦を練る)を使う。

でも、子育ては、お仕事とは正反対。

目的に向かうどころか、日々、子どもの世話に明け暮れて、下手をすると、夜泣きが続いて途方に暮れる生活が待っている。男脳に染まった思考回路のままで育児に突入すると、脳は混乱し、心が悲鳴を上げてしまう。

 違うのだ。


 育児脳と仕事脳は正反対。
 仕事脳で育児をすると、達成感どころではない育児により、脳が疲労困憊してしまう。

 本来なら、妊娠とともに育児脳に切り替わっていけたらいいのに、ぎりぎりまで仕事をして、生後3か月で復帰する女性が増えているため、育児脳にすら切り替わらずに、仕事脳のまま子育てしてしまう可能性がある。

 その点、いいか悪いかは別として、仕事に就く前に10代で赤ちゃんを産んだ若いママたちの多くは、変に育児に目的意識が侵入しない分、しんどくはなさそうに見える。
 力んでない。
 いいお母さんになろうとかいい子育てをしようとか・・・。


 育児脳とは、

 子どもとの笑顔や会話のキャッチボールを大切にしていくことを丁寧にしていくもの。目的なんかどこにもない。

 だから、キャリアのある女性で出産年齢が遅い人ほど、男脳にどっぷりつかっちゃっていて、男脳から育児脳に切り替わるのに一苦労するかなぁ。
 私もそうだった。
 元々、子どもが好きというタイプではなかった。かといって、仕事が好きというタイプでもなかった。親も子どもの前では喧嘩もしなければ、喜怒哀楽という感情を豊かに表出するような感性もなかった。母親は絶えず世間の目を気にしていた。要するに、私自身が感性に乏しい人間であった。あ~、なんという殺風景なわたし・・・・って感じ。そんな感性が育っていない私も、仕事を通して、達成感みたいな喜びを少しは見出していたけれど、心の満足感までには届かず、何とも言えない虚しさに心が押しつぶされそうになっていた。男脳にもなり切れず、かといって、育児脳という感性も備えておらず・・・の全く、中途半端などんより脳で生きていた。

 中途半端な男脳を手にした私が、育児脳に切り替わるのに、3人の子育てが必要だったなぁと、今になって、しみじみと思う。
 一人目は、教科書どおりの理想の子育てをめざしてしまった。これって、男脳優位だよね。もの。しかも、条件付きの愛の最たるもの。
 二人目は、二人の育児に追われて、教科書どおりをめざすどころか、ただただ世話に明け暮れて気が付いたら夜になって、疲れて眠ったら、また、明け暮れる朝が始まるといった感じ。それでも、自分の時間を捻出するのに躍起になっていた。結果、全然、捻出できなくて、悶々としてストレスがバンバン溜まっていった。こんな状態で3人産んだら、私の心はどうなるのだろうと案じつつ、三男を産んだら、あ~~~~~~~~ら不思議。自分の時間確保という未練がすっと飛んで行った。
 完全に『自分』を諦めた。
 『自分』というより『自分優先』?
 というより『達成感』という快感を諦めた?
 おそらく、3人目を産んだ瞬間、子育てにおいて『男脳』が姿をくらましてくれたのだと思う。
 吹っ切れた。
 2人の時よりも3人の世話に忙しいはずなのに、ストレスがたまらなくなったから、人間の心って不思議だ。

 脳が育児脳に切り替われた瞬間は、まさに三男を産んだ瞬間だった。
 小学校に入学してから、感性を封じ込め、達成感の世界で生きてきた感がある。頑張ったら成績が上がるという世界が学校だもの。受験勉強とか部活とか仕事とか全部達成感の世界。この期間が長ければ長いほど、頑張った女性ほど、いざ、育児になったら、しんどいはず。

 
 女性が働き続ける社会にシフトしてきた今の時代の新米キャリアママが、育児に目的をもつという男脳的思考回路から脱出し、自分自身の感性を豊かにするという目的にシフトすることで、キャリアママたちのしんどさを少しは軽減できるかなと思ったりする。

 ところで、仕事を通して、感性が豊かになるのだろうか?

 視野は広がると思う。
 効率的な思考や行動はできるかな?
 人によっては、仕事によっては、感性や人間性が豊かになることも、もちろん、あると思う。
 ただ、私自身の経験として、職場では演技ができる。友人の前ですら演技している。素の自分を出しているかと聞かれると、ノーだ。
 演技しているうちは、感性を豊かにすることは難しいかなと思う。
 だって、本当の自分の気持ちは抑えているもん。
 瞬間瞬間、いろんな気持ちを感じているような気がするけれど、抑えたり、忙しかったりして、十分にその気持ちを味わってなんかいない。瞬間瞬間に感じる本当の気持ちを素通りしている。そんなんじゃ、感性は鈍ってばっかり。人間性も何もない。
 おそらく、学校に入った途端、感性の封印が始まっている。学校というルールや先生や友達との関係性、そして、受験勉強など・・・に潜む恐怖感から、自分の本当の気持ちを封印する癖が身についてしまっている。
 一番大切な瞬間瞬間に感じる気持ちをおろそかにしているんだもん。
 やりたくない。悔しい。腹が立つ。イラっと来る。ムカッと来る。・・・などの、ずっと手前に存在する感情である怖いとか恥はかきたくないという大御所の感情が、感性を鈍らせる。

 育児に目的意識が入ってしまうと、どうしても、身長や体重、ミルクの量、寝返りや独り歩き、歯が生えたなど、赤ちゃんの成長を数字で比較したり、他の赤ちゃんと比較してしまいがちになる。早期教育が気になったり・・・。


 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする