総合漢方にんぷ薬・総合漢方育児薬

~頭を使ってではなく、カラダ(感性)で子育てしてみませんか~

超おすすめ! お手て絵本

2012年07月29日 | エッセー
 人の話を最後まで、黙って聴くって簡単なようで、とっても難しい。
 人は、相談されると、なんだかうれしい。自分に相談してくれたということに自分の存在意義を感じてしまうから。そして、何とか役立ちたいと思う。
 その気持ちが、アドバイスしてしまう心理につながる。
 人は相談されると、アドバイスしたくってうずうずしてくる。
 でも、相談したい人は、自分の辛い気持ちに共感してもらいたいだけ。十分共感してもらえたら、自分の足で前を向いて歩いて行ける。それが、人間ってもんだ。
 なのに、なのに、人は、相談されると何とかしてあげたい欲求がうずうずしてくるから、困ったもんだ。

 これが、対自分の子どもとなると、アドバイスよりももっと悲惨な状況になる。ちゃんとしつけなくっちゃという気持ちが先だって、子どもの気持ちに耳を傾けるどころか、「そんなことをしてはいけません。」あるいは、「でもね、現実はね。そんなに甘くはないのよ。」などと、お説教になったりする。
 私は、お説教が大嫌い。
 お説教する人の心理ってどうなているのだろう。
 そんなにあんたえらいのかい?
 そうでもなさそう・・・・。
 お説教する人は、自分が上で、相手が下だと無意識に思ってるんだろうなぁ。

 せっかくいい感じで話を聞いてくれていたのに、最後の最後に、「でもねぇ。」と言われた暁には、「オーマイガッド!金輪際こいつになんかに相談なんかするもんか。」というあきらめの気持ちになる。

 気持ちを汲んでほしいだけなのだ。ただ、ただ、ただ、ただ・・・・・。

 だけど、人は相談されるとどうしてもアドバイスしたくなるんだなぁ。

 ここは、意識して、自分の口を封じるしかない。

 というか、本当は、人が相談してきたら、できるだけ、その事象より、その事象を体験している目の前の相談者の気持ちにスポットを当て、気持ちを聴くように意識的に訓練していかない限り、結局、話を聞いていないってことなのだ。

 子どもをちゃんとしつけなきゃという意識の強いママは、子どもの話に(つまり、気持ちに)耳を傾けることはレベル4かもしれない・・・・と思う。

 そこで、朗報!

 お手て絵本をお試しあれ!

 前にも書いたけれど、ママが、両手を合わせて広げて、子どもが何か話し始めたら、ママの役割は、「ふ~ん、そして?…」「それから?」などと相づちを打つことと、ページをめくることだけ。
 最後まで、子どもの空想のような妄想のようなお話を楽しんで聞いてほしい。
 途中、子どもが、「○○なんか殺しちゃえ。」とか「○○は死んでしまいました。」とか「殺してしまいました。」とか言っても、絶対に「そんな恐ろしい言葉は使ってはいけません。」と言わない。

 これが、大事。かなり、大事。とても大事。

 ママも、ここでぐっとこらえる。頑張ってこらえる。

 「殺したい」=「殺したいくらい腹がっ立った」「殺したいくらい悔しかった。」という気持ちなの。
 
 だって、日ごろから、ママやパパにしつけと称して叱られているでしょ?
 子どもは、したいことをしているだけなのに・・・・。
 子どもの将来が怖かったり、人の目が怖かったりして、結構、叱らなくてもいいのに叱っていない?

 子どもは、言い返せないから、結構、パパ・ママに対して大好きだけど大嫌いという感情を隠し持っている。
 その、隠れている感情をお手て絵本は、ちゃんとママが最後まで口を挟まなければ、上手に消化し昇華する。

 これって、最高のカウンセリング。子どもは、傾聴してもらえて超ハッピー。

 お手て絵本という道具を使って、ママもいっぱしの心理カウンセラーになれるって素敵じゃない?

 こんな風に、さりげなく遊び感覚で、ママが最後まで黙ってお話を聴いてくれるという体験のできた子は、いつのまにか相談する力を身につける。
 いじめられている子どもは、なかなか相談できない子どもが多い。

 でも、本気でわが子が困ったときは、クンクンと相談しても信頼できる人をかぎ分ける能力(気持ちをくみ取ってくれる人を見つける力)ととても自然に相談しちゃえる力をつけられる子に育てたいなら、チャレンジ、お手て絵本!
 お手て絵本で、相談することはいいことだという体験をさせてあげよう。
 「殺しました。」と言ったとき、「そんな物騒な言葉を使っちゃいけません。」とママに叱られた瞬間、あなたの子どもは、いじめられてもママには相談しない子どもになる確率があがるでしょう。

 いじめはなくならない。そして、いじめは悪でもない。・・・のです。

 どうか、どうか、子どもが「殺したい。」と言ったとき、「殺したいくらい腹が立ったのねぇ~。」と気持ちを汲んでもらえる大人に、一人でも出会えますように。

 きっと、それが、いじめが最悪の事態にならにですむ素敵な魔法・・・だと愛咲くらは思うのです。

 お手て絵本  いいです。
 

 
 

 つづく
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傾聴へのメッセージ

2012年07月28日 | エッセー
 私が「聞いて」と言っているのに、あなたはアレコレとアドバイスを与えてくれる。それは、私が頼んだことじゃない。
 私が「聞いて」と言っているのに、あなたfが理由を挙げてだから、そういう風に考えちゃいけないよ。」と、お説教をはじめる。私の気持ちは踏みにじられる。
 私が、「聞いて」と言っているのに、あなたは、どうにかして私の問題を解決してやろうとする。
 ちょっと変に聞こえるかもしれないけれど、それは、私を裏切ること。
 「聞いて!」、私は「何か話して」とか、「何かして」と頼んだわけじゃない。ただ「聞いて」、ただ「耳を傾けて」と言っただけ。
 私だってできる。力がないわけじゃない。意気消沈して打ちのめされているかもしれないけど、力がまったくないわけじゃない。
 私ができることや自分でしなければならないことなのに、私の代わりにやてやろうとすることは、私の不安や無力感を大きくするだけ。
 私には、私が感じることがあるのだから、それがどんなに変に聞こえてもそれをそのまま受け入れて。そしたら、あなたを説き伏せることをすぐにやめて、私は自分の変な気持ちの裏にあるものを、あなたに説明する作業にとりかかるから。
 お祈りの効果があるのも、このため。神様は無言。アドバイスしたり「問題を解決してやろう」なんて乗り出さない。話を聞いているだけ。自分で解決するのを見守るだけ。
 だから、お願い。私の話しを聞いて。私の話しに耳を傾けて。
 もしも、あなたが話をしたいのなら、あなたの番になるまで待っていてほしい。そうしたら、私があなたの言うことに耳を傾けよう。

  出典 サンフランシスコ市精神障碍者インディペンデント・リソースセンター)
            エンパワメント研究所  寺谷隆子 編

 

 
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いじめっ子には、勝てない。

2012年07月26日 | エッセー
 いじめっ子には、勝てない。否、勝つわけがない・・・・自分を明確にできるまでは・・・・・・。

 今、マスコミをにぎわせているいじめは、かなり陰湿で犯罪の域まで達しているので、それは、もはやいじめとは呼ばないのかも・・と思う。ただ、もっと初期の頃のいじめには、わが子をいじめの対象とならないように自分の輪郭を明確にしてあげるための支援は、できるのではないかと思う。

 その前に、いじめっ子って、一筋縄ではいかないということを肝に銘じる必要がある。
 
 先日、友人が小2の娘のお話を再現してくれた。
 娘 「あのね~。不思議なの。」
 友人「何が、不思議なの?」
 娘 「あのね。朝、学校に行くと、私のミニトマトに3個ミニトマトがなっているなって思って、帰りに、お母さんにお土産に持って帰ろう    と行くと、ないの。ふしぎだよね~。」
 理科の授業で、みんな夏の野菜を植えて友人の娘はミニトマトを植えたのだそう。で、たまには、お母さんも食べたいなと言ったら、さっそく、持って帰ろうと思って意気込んでいたら、朝、あったミニトマトが帰るときにはなくなっているのだという。


 実は、友人の娘には、Aちゃんというお友達がいる。そのAちゃん、時々気になる行動をとっているらしい。気になる行動とは、友人の娘に自分のカバンを持たせたりと部下扱いをしているような・・・・・・。
 で、友人も「『それは、いやだ。』って言えたらいいねぇ。」とか、「どうしていやだと言えないのかなぁ?」などとお話を聞いてあげているそう。でも、それを決めるのは、娘自身だからと「いやだと言いなさい。」とは言わず、見守っているところだと少し前に、そんな話を語っていた。

 で、今回のミニトマト事件も、どうやら、Aちゃんが関わっているらしい。
 娘 「不思議なの~。Aちゃんは、毎日、色が違ったり、形の違うミニトマトをビニール袋に6個くらい入れておうちに持って帰るの。Aちゃ    んのは、まあるくてオレンジ色のミニトマトなのに・・・・。不思議だよねぇ。」
 友人「もしかしたら、Aちゃんが、あなたのミニトマトもとっているのかもしれないよ。どうして、Aちゃんにそんなことをされても一緒に遊    ぶの?」
 娘 「だって、………。」

 彼女の娘は、校区の全く違う保育園から、今の小学校に入学してきた口で、最初、おっかなびっくりしていたとき、最初に声をかけてきてくれたのが、Aちゃんだった。だから、大事にしなくちゃと思っているらしい。

 でも、友人の娘も、ママが否定せずにお話をじっくり聞いてくれるうちに、閃いた・・・らしい。

 娘 「そうだ。朝、Aちゃんより早く学校に行って、学校に着いたら、まず、私のミニトマトをとって袋に入れておけばいいんだ。」

 後日、さっそくそうやったそう。

 めでたし。めでたし。

 と思いきや、そうは問屋がおろさなかった。

 敵も、あっぱれ。

 最初の1個をとって袋に入れたら、Aちゃんが、その様子を見ていたのか、「私も手伝ってあげる」って言って、自分のビニール袋に残りの2個をするりと入れて、それっきりだったそう。

 瞬時に、身の危険を感じとって、さっと次の的確なアクションに出るこの身のこなしには、敵ながら、あっぱれだ。

 よござんすか。
 いじめる子の頭の回転の速さとその行動力には、愛情溢れて育ったお子様がかなうわけがないのです。

 最初は・・・・。

 つづく

どんな風にしたら、このような知恵が自然と身につくのだろう。

 そう、自然なのだ。

 今日の朝日新聞にも、自分をいじめた子に、大人になって、そのことを聞いたら、「え、いじめてないよ。」という答えが返ってきて、その重さの違いに愕然としたという記事が載っていた。
 
 いじめっ子は、いじめていると思っていない。Aちゃんのように、自然体でするりとミニトマトをゲットしちゃうのだ。

 大事なのは、いじめっ子にいじめられながらも、友人の娘のように、自分はいやだという知恵を小さい頃から、小さなことから身につけて強くたくましく成長していくことだと思う。

 そのために、親は、友人みたいに、あまりアドバイスをせずに子どもの話を聴いてあげることが一番のいじめ対策だとわたしは思う。

 友人の娘も、「あ、そうだ。朝、一番にミニトマトをとっておけばいいんだ。」と閃いたでしょ。
 まぁ、相手は、もっと、すごかったけれど・・・。それでも、彼女は、もじもじ君から一歩強くなれた。

 それもこれも、友人が常日頃から、きちんと娘の話を最後までお話を聴いてあげていたから・・・・。
 3人寄れば文殊の知恵という。
 誰かに話していると3人までの知恵は浮かばなくても、一人で考えているのとは違って、ぱっと知恵が閃いたりすることが多い。
 これが、大切。
 この閃きこそ、喜びであり、心のふれあいの劇的効果・・・・だ。
 私は、密かに、この他者の胸を借りて閃く快感こそ、“命”なのではないかと思っている。
 
 

 あの5歳児の男の子のように、水遊びしたいというとても自然な欲求を我慢して、その欲求不満を正義という名を借りて、自分にはないものを持っている自分より弱いものを糾弾するといういじめの快感でチャラにする術を体得した子は、いつも、常に、本当にしたいことを我慢しているから、いつも、常に、恰好の獲物を狙っている。そして、ほんとうに、するりとちゃっかりいじめてチャラ快感でかろうじてストレスを溜め込まないようにしていると思う。いじめる子も必死なのだ。正義という名を借りて攻撃するときは、自分に罪悪感を感じなくて済むから気持ちいい。けれど、時に、正義という名を借りれない場合もある。そんなときの負かし方も、自然に自分が罪悪感を感じないように、体得していくんだろうな。Aちゃんのように、私もいっしょにミニトマトをとってあげる・・・・とかなんとかいかにも優しそうを装って・・。
 常に、いつも、そんなチャラ快感を得るために、獲物を狙い、尚且つ、周りにいじめていると悟られないように自己防衛に磨きをかけている子に、のほほ~ンと幸せに育った子が敵うわけがない。
 
 
いやなことをされたら「いやだ!」「やめて!」と言える子に育てるには、まず、いやなことをされたとき、即、いやだと感じる力を育てることが先決だ。
 実は、実は、最初の頃、いじめられているのに、いじめられていると明確に感じる力が弱い子がいじめる子のターゲトになりやすいんじゃないかなぁと思っている。なんかおかしいなぁとは感じつつも、はっきりとおかしいと自分で判断する力が発達していない・・・・みたいな。(実は、私もそのタイプ)

 つづく

友人の娘も、そんな手ぬかりない生き方なんてしていないから、Aちゃんみたいな子に初めて出会って、ちょっと、想定外でとまどってしまったけれど、ママにお話を聴いてもらえることで、自分がどう感じているか、何がいやかを明確に感じる力がついてきて、ぱっと対抗策が閃いた。

 きちんと最後まで黙って子どもの話を聴いてあげる・・・・・・・それが、どんなに大切なことか・・・・。

 命を大切にしなさいと言うよりも、あなたが大切とい言われるほうが何百倍もうれしい・・・・というような広告があった。もっと、大切にされていると感じるのは、黙って聴いてあげること。
 
 アドバイスなんかなくっても、隣で聴いてあげるだけで、閃くんだよ。想定外に対応できる知恵が。
 それが、生きる力。
 自分の輪郭が明確でないまま大人になっても、いつかどこかでいじめたい人が、クンクンすり寄ってくる。
 それよりも、心が成長する過程で、切磋琢磨されることで自分を明確にできれば、人生がとっても自分らしく生きられる。

 いじめっ子という存在は、悪だろうか。
 わたしは、全面的に悪ではないのではないかと思う。こう言うと語弊があるかもしれないけれど、自分が明確でない弱い子にとって、自分を明確にする・・・つまり、いやなことはいやだと、あるいは、私は○○したい・・という“命そのもの”を光り輝くものにするための敷石という必要悪・・かもしれない。もちろん、ごく初めの頃の話であって、今のように犯罪に近いいじめではない。もっと、うぶないじめの世界で、手を打つことができるのでは・・・・と思うということ。

 つづく

人間は、体験するために生まれてきた・・・・・という。
 というか、体験した時の気持ちを味わい尽くすために生まれてきた・・・のだそう。
 転んだら、血が出て痛いという感覚。
 困っているときに助けてもらってうれしいという感覚。
 おもちゃを取られたら、悔しい、腹がたったという感覚。
 いじめられたら、怖いという感覚。いじめは嫌だという感覚。
 いじめたら、憂さが晴れるという感覚。
 でも、ちょこっと、いやな気分も残るという感覚。
 いじめてはいないけれど、かばえなかった悔しさという感覚。
 みんなで知恵を出し合って何かを成し遂げた時の達成感と心のふれあいという喜びの感覚。
 とてもかわいがっていた愛犬を失ってしまった時の喪失感という感覚。
 お産という痛みというかなんというかわけのわからないものすごい感覚。
 子どもを産んだら、残業もできなくなって、せっかく築き上げてきた仕事のできる自分と決別しなくてはならない口惜しい感覚。
 いいことも悪いことも体験は、体験。
 
 ぶつかってなんぼ。

 そして、あっちぶつかり、こっちぶつかりしながら、本当の自分に少しずつ出遭っていき、わたしが本当にしたいことをのびのびとしていくという本物の人生を歩いていくんじゃないかなぁと思う。きっと、あっちぶつかり、こっちぶつかりの振幅の多い人ほど、私って、こんなに恐ろしい側面があったんだ、ヒットラーと五十歩百歩だわさぁ・・・とはたと気づく。そして、謙虚になってしまう。人を責めなくなる。人を許せるようになる。
 子育てしていると、1歳半を過ぎる頃になると、イヤダ君に大変身する。ちっとも思い通りにならなくって、ついにキレてしまい、ついに手が出てしまって、そんな自分に驚いてしまう。え~、私って穏やかでおっとりしていて、まぁ、どっちかというと優しい部類にはいるのでは・・・と思っていたのに、こんな恐ろしいことをしてしまう人間だったんだ・・・・・と立ちすくんでしまう…そんな経験のおありな方も結構いらっしゃるのではないかと思う。そして、いったんキレると、これでもか、これでもか・・・みたいな、なんだかとことん懲らしめてやりたいような気持ちにまで発展してしまって、愕然とする。(私も、だだこねのひどい次男に対して、一度だけ、そんな体験をさせていただいて、自分を疑ったことがある。)
 
 その時に思い知った。人間、場が変われば、鬼にも蛇にもなる。
 鬼にも蛇にもならなくて済むのは、たまたま、そのような場にいないラッキーのせいだと。

 お陰様で、このだだコネマンとのキレ体験で、私はとっても謙虚になれた。
 すばらしい体験をさせていただいた。
 
 『これって、もしかして、虐待?』と育児で疲れ果ててトホホ状態まで落ち込んで・・・・・というその一見最悪な体験こそ、素晴らしい体験となる。
 大丈夫。そんな自分に罪悪感を抱く必要なんてさらさらない。
 この貴重な体験こそ、誇るべき体験なのだ。
 謙虚になれて、少々なことは許せるという大きな器を手にするための体験の始まり。それが、これって虐待?という落ち込む気持ち・・・から、スタートする。

 つづく

いろんなことにぶつかって体験した気持ちをかき集めて“自分”になる。

 友人の娘のように、体験した気持ちをママが受け止めてあげさえすれば、いい体験もよくない体験もすべていい体験になれる。

 よく、いじめられている子へというメッセージに、「とにかく相談するんだよ。」とある。

 ごくごく小さいころから、ごくごく小さいことを否定もせず、耳を傾けてくれるママという存在のある子は、相談できる。

 でも、ごくごく小さい頃から、ごくごく小さいことすら、危ないとか汚いとかダメ!と否定されていたり、、男の子だからメソメソ泣いちゃダメ!とかお姉ちゃんなんだから・・・などと言われて育つと、相談できない(甘えられない)体質になっちゃう。

 そうなのだ。相談さえできれば、道は開ける。

 でも、その相談が、すんなりとできない。もどかしい。

 いじめの問題は、このことを抜きにしては語れないんじゃないかなぁ~。


 つぎは、『傾聴へのメッセージ』です。
 



   

 

 Aちゃんは、一人っ子で甘やかされてはそだっているらしい。
 
 
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ヒネクレマン 羨望の的は嫉妬の的で攻撃の的?

2012年07月21日 | エッセー
 たまには、子どもの世界ウォッチングをしてみるのも興味深い。

 生きる勇気すら与えてくれる。
 私は、子どもの世界ウォッチングで、あることを体験し、正義をかざし批判する人とチクル人は、同じ心の闇を抱えている人だと知った。

 大人の人間関係で心が疲れた人は、保育士のアルバイトをしてみるのもいいんじゃないかなって思ったりする。子どもの世界は、大人の世界の原型で、子どもたちは、実にたくましくサバイバルゲームをやっていて、その姿を見ているだけで、もうちょっと頑張ってみようと思ったりする。

 長男があと五日で4歳になるといううだるような真夏日に、いつものように、豪華3点セット(トーマスと10個の貨車・コップ・スコップ)をバケツに入れて、近くの公園に出かけた。
 ギラギラとした日差しにめまいがしそうだった。
 彼もさすがに暑かったのだろう。いつもなら、砂場に直行するのに、砂場にはわき目もふらず、水のみ場の足洗い場用の水道に直行した。
 ところで、彼の豪華3点セットは、彼が遊びを寄り豊かにし、彼が創造の世界に浸るための必需品である。でも、実は、もう一つ、彼なりの下心があるのだ。うふふ。



 つづく

 実は、豪華3点セットは、お友だち誘惑セットとも言う。
 これが砂場にあると、たいていの男の子はひっかかる。
 すぐ、意気投合して遊び始める子もいれば、お母さんのそばから離れず、じ~っと見ていて、しばらくしてから近づく子、近づく勇気がもてずに残念そうにあきらめて去っていく子、お母さんが「ほら、あっちに行くよ。」と言うもんだからチラチラ振り返りながら、名残惜しそうに去っていく子などなど反応はさまざまだ。
 それを見ているだけでもあきない。

 ところで、そのうだるような暑い日、彼は、水道の蛇口の下にバケツを置いて、水を流し始めた。水がとっても気持ちよさそう。とにかく、暑い日だったもの。幸い、水のみ場は木陰になっていて、涼を求めるにはもってこいの場所だった。年をとってから、子を産むと体力がない。高齢出産も増えてきた今、公園には、ぜひとも木陰になる木をバンバン植えていただきたい。助かります。

 それにしても、何があんなに楽しいのかなぁ~。

 ほっとけば、エンドレスで水と戯れている。
 子どもは、ほんとうに水が大好き。
 こと、流水はたまらないらしい。
  このまま、ずっと、恋人といっしょにまどろんでいたい・・・・みたいな心境なんだろうなぁ。
    
 うっとり。

 私は、にこにこしながらも、内心、ビクビクしていた。
 市の水道水なので、水道料金もちと気になる。

 だからといってはなんだが、ときどき、申し訳なさそうに、水道の蛇口をひねって、水を止める。ときどき。

 と、そこに、2歳くらいのおてんばそうな女の子がわき目も振らずやって来て、流水に手を突っ込んだ。
 ふたりで、ぴちゃぴちゃワールドを堪能し始めた。
 といっても、二人は、あんなに接近している割には、それぞれの世界に浸っているように見えた。彼らが交流しているのは、もっぱら流水だ。
 女の子が水浸しになったら大変だと思い、辺りも見回すと、ママと思しき女性が、ベンチで見守っていらしたので、つかさず、
 「洋服が濡れちゃいますよ。」と声をかけた。
 すると、
 「いいんですよ。着替えを持って来ているので大丈夫。」とにこっと微笑まれたのでほっとする。
 
 二人の世界に交流があるようなないような・・・・。
 チャピチャから、ビチョビチョになるのは、もはや時間の問題で、いよいよ二人の世界は佳境に入っていった。

 と、その時、


 つづく


二人から2メートルほど離れたところから、3人の子どもたちが、
 「いーけないんだ。いけないんだ。水で遊んだらいけないんだよ~。」
 と、2歳の女の子に向かって注意し始めた。
 しかし、この2歳の女の子、見るからにオテンバそうで気が強そう。『そんなの、関係ねぇ。』ってな顔で、平然と流水ワールドに身をゆだねている。
 どうやら、この3人の子どもたちは、2歳の女の子の母親といっしょに遊びに来たお友達のお子さんのよう。彼らが、何度注意しても彼女は一向に水遊びを止めようとしない。振り替えりもしない。それくらい、流水の虜になっていた。

 無視されたと感じた3人の中で、一番年長 の5歳くらいの男の子が、とうとう堪忍袋の緒が切れたのか、彼女のところに走り寄って行って、頭をポンと叩いて、また、走り去っていった。
 それでも、彼女はゴーイングマイウエイ。


つづく

 彼は、何度か彼女の頭を叩いては走り、叩いては走っていったが、たまたま私のそばにやって来たとき、思わず
 「本当は、水で遊びたかったんだよねぇ~。」と彼の耳元でささやいた。
 すると、彼は、
 「ウン」
 と素直にうなづいて、走り去っていった。
 そして、不思議なことが起こった。
 それから、彼は、その女の子の頭をを二度と叩くことはしなかった。
 というか、自分たちの遊びを展開し、彼女のことを気にしなくなった。

 多分、きっと、彼の、彼自身もどうしていいかわからない混沌とした不快な気持ちを、私が言語化したことにより、「そう、そう、僕はそのことを言いたかったけど、自分でもよくわかんない感情がわいてきて、なんだか叩きたくなってしまったんだ。」って感じで、昇華できてすっきりしたのだと思う。結果、すっきりしたら、自分の遊びに集中でき、2歳の女の子のことなんか気にならなくなったのだと思う。

 この時期の子どもたちの気持ちを言語化してあげるって、とっても大切なことだと思う。

 それにしても、彼は、やっぱり、自分も流水ワールドに心置きなく浸りたかったんだろうなぁ。

 でも、彼には、どうしてもそれができなかった。たぶん・・・・。
 子どもの流水と戯れたいという強い欲求すら飲み込んでしまうほどの強力なパワーって一体なんだろう。
 これはあくまでも私の推測なのだけれど、きっと、たぶん、彼は、常日頃から、母親から「○○してはダメ!」という口癖をいっぱい浴びてきたのだと思う。もしくは、本当にほんとうに心からすごくやりたいと思ったことを、強烈に否定された体験があったのかもしれない。もしかしたら、たった1回のダメ!だったのかもしれないけれど、それが、震えるほどつらかった・・・・かも。
 常に、本当にやりたいことをダメ!と言われて、本当にやりたいことをあきらめてしまった彼は、もはや、母親の顔をチラチラとうかがうことすらせず、「い~けないんだ。いけないんだ。」と優等生になって、自分の欲求不満を注意することで晴らすみたいな欲求不満解決法をいつの間にか身につけたのだと思う。 

 たぶん。

 それしか、うっぷんを晴らす術がないだもん。

 もちろん、彼がそのことを知る由もない。
 水で遊びたいという心の奥から湧き出る欲求(多分、それこそが生きる意欲の根源なのだと思う。)のエネルギーを、『正義』という名をかりて、相手を糾弾するという負のエネルギーに、彼は、無意識の世界で見事に摩り替えた。
 そして、水で遊びたいという本能からどくどく溢れてくるエネルギーをどうにかチャラにしたのだ。
 そうしないと生きてゆけない。
 こうして、彼は、彼の心が生き残るために自分のほんとうの気持ちに落とし前をつけるという思考回路(心の癖)が、自然に身についていったのだと思う。
 自然に。そう自然に・・・・。そこに、悪意とかない。彼の中では、必死の攻防だったのだ。
 たとえ、母親にダメ!と言われても、だだをこねられる子どもは、そんなひねくれた正義で悪(ほんとうにやりたいこと)を糾弾することなんかしないですむから幸せだ。
 彼にとって、悪とは、彼がほんとうにやりたかったこと=善なのだと思う。
 彼が、憧れているものこそ、悪だという。なんという皮肉な世界。
 
 だから、羨望の的は嫉妬の的で攻撃の的。
 
 自分が、本当にほんとうにすごくやりたかったことをしているお友だちをみると、一度はあきらめた古傷が疼いて、いじわるしたくなるのかもしれない。

 もはや、「僕も水で遊びた~い。」と母親に訴えることすら、母親の顔色を伺うことすらあきらめ、最初から、相手を非難・攻撃することで、やりたいエネルギーを変換するという見事なエネルギー発散法を自然に身につけたのかなぁ~。

 切ない。
 胸がキューンとする。

 キラキラした子どもたちの好奇心という欲求が、ギラギラした欲望に変身した瞬間に遭遇して、切なくなった。

 瀕死の白鳥を目の前にしたような心境だった。

watasio
 
 いじめはなくならない・・・・と思った。
 いじめがなくなるわけがない・・・と思った。

 つづく

 明日は、有吉くんの番組で水と油?という番組を見て、永久保存版と勝手に銘銘させてもらった感動の 『坂上忍と20歳の片付けられないギャルモデル編』について    です。

 とおおい

 だえで

 だえん
 
 パオ婚
 壊れちゃい開いた・・・・・。いばらく、おやうういウイでう。


パソコンが壊れて・・・・。今日、電気屋さんに行って買ってきました。

 この1週間、大津のいじめの問題がマスコミをにぎわしていました。

 あの5歳児のようなヒネクレマンの最初のはじまりの心模様を知った時、私は、いじめざるを得ない無意識のヒネクレた心の持ち主は、自分は正しいと自分の心をねじ伏せて、心からそう思っているので、ねじれを元に戻して、つまり、いじめたいという欲望から素直な自分の本物の欲求にたどりつかないかぎりいじめはなくならないと思った。自分の本当のほんとうの本物の気持ちは、「○○したい。」もしくは、「○○になりたい。」という憧れである。それが、いつしか嫉妬に代わり、最終的には攻撃の対象になってしまった。本当は羨望だったのだ。
 いじめの対象となる人は、いじめる人の持っていないものを持っていて、なおかついじめる人より自我を通すのが弱い人かもしれない。というより、自己主張したくても、まだ、本人も自分の自我の輪郭が鮮明でない人かもしれない。自分を明確にできていない人は、弱い。「私はこう思う。だから、いやだ。」と反撃できない。そこが、いじめっ子の思うつぼ。

 
 次は、『いじめっ子には、勝てない。』です。


 
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人生の達人と出会った。感謝!

2012年07月05日 | エッセー
 私なんざ、人生とっくに折り返し地点のおばさんなのに、『四十にして惑わず』どころか、五十にして惑ってばかりの情けなさを生きている。
 最近、アラフォーとかアラフィーとか言うけれど、私は、アラヒェ~~~~~~~~~~って感じだ。人間関係は、いつまでたっても人生のテーマだ。
 
 でも、今日、お仕事がらみで、笑いあり涙ありのじ~んと来る生き方をされている女性に出会えて、心がとても豊かになって、今、心がちょっと元気になっている。
 人生の先輩のお話が聞けるって役得だなぁ~。この仕事っていいなぁ~って、改めてこの仕事に就けた幸せをかみしめているところ。
 今日お話を伺った女性は、63歳で夫が糖尿病で2年前に脳卒中で倒れ、今は、トイレも這っていかれるとのこと。がんこで短気なご主人だったそうで、それなりにご苦労されて

 つづく

 人生の達人は、野の花のように、さりげなくいらっしゃる。

 それなりに、ご苦労されていらしただろうに・・・・・・・・。
 ある日、2時間ほど家を空けて帰ってみると、ご主人がトイレが間に合わず、床にお漏らしをされて水浸しになっていたのだそう。そのシーンを見て、思わず、この女性は、なんとおっしゃったでしょう?

 

 「あらぁ~、どこから雨漏りしているのかしら、今度、大工さんに天井を修理してもらわないといけないわねぇ~。」と天井を見上げておっしゃったとのこと。
 そしたら、ご主人も大笑い。
 ご主人は、脳卒中で倒れられてから、おしゃべりがあまりできなくなったそうで、なおのこと、奥さんのおしゃべりいかんで、家が明るくもなるし暗くもなる。

 日曜日は、なるべくご主人を外に連れ出して、木陰にシートを敷いて、一日ゆったり過ごしたりされるとのこと。
 自分のための時間もしっかりとって楽しまなくっちゃねと陽気におっしゃる。

 「どうして、そんなに明るく前向きにできるんですか?」とお聞きしたら、

 「開き直りよ。ひ・ら・き・な・お・り」

 「そして、楽しく生きるって決めたの。」


 そうだよねぇ。
 開き直りか・・・・・。人生を楽しき生きると決めたのか~。覚悟か・腹がすわっているということかなのか・・・・。

 なるほど。

 私は、まだまだだ。

 夫に対して、足りないことにばっかりつい目がいってしまって、不満だらけだ。
 というか、ある1点に関して、夫といる意味への迷いがあり、今だ覚悟が決まっていない。
 だから、いつもうだうだ考えてしまう。
 全然開き直っていない。

 でも、この女性は、夫への不満の一切を開き直ることで、つまり、脳卒中で倒れて一段と頑固になった夫と生きていくと覚悟し、楽しく生きると決めたことで、愚痴も笑いに転換してしまえるほどの豊かな心に到達された。

 まだまだだなぁ~。


 でも、人生の極意という花は、この女性のような生き方のなかに、野の花のようにひっそりと咲くものなんだろうなぁ。
 
 

 つぎは、『ヒネクレマン 羨望の的が嫉妬の的になり攻撃の的になる 』  です。


 
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不死鳥(フェニックス)長男

2012年07月03日 | エッセー
 長男は、中一から高2の終わりにかけて、1回死んで生まれ変わった。
 高2の終わりに、酒に酔ってわけわかんないことを言い始めた父親に向かって、初めて、握りしめた握りこぶしをふりかざしたのだ。
 それまでは、くそ~っと握りこぶしを握ったまま立ち尽くすことしかできなかった。
 えい!がんばれ!って心の中で祈るけれど、彼は、あと一息、勇気がみなぎってこなかった。
 
 私は、自分で選んだのだから、私自身の力で幸せの青い鳥を見つけるしかないという覚悟がある。それに、大人になるまで、のほほ~んと幸せな家庭に育ったから、嵐に耐えうる心のガソリンみたいなもののストックもある。
 しかし、彼は、生まれたときから、急に不機嫌になってキレる父親が存在するビビル家で育っているので、思春期という一度死んで生まれ変わる時期に必要なガソリンがそんなにストックされていない。

 そして、たぶん、それよりも何よりも、こっちのほうが、きっと、彼の心に凍てつくような北風となってしまったのではないかと思うと、これだけは、仕方がなかったけれど、すまない気持ちでいっぱいになる。


 こっちのほうとは、・・・・・・・


 つづく

 キレる夫に私もビビッテいた時代、私は、夫から子どもを守ることができなかった。
 夫には、子どもに暴力を振るったら、即、『離婚』と宣言していたので、子どもを叩くことは一度もなかった。もちろん、私に暴力を振るうことも一度もない。夫は、高校時代瞬間湯沸かし器というあだ名がついたくらい、短気人間だったが、権力主義者ではなかった。むしろ、私は、キレると怖いんだけれど、なぜか、彼に一目置かれているという感覚がいつもあった。

 でも、ビビッて言いたいことの5分の一も言えてなかったと思う。
 だから、子どもをかばって、言い返すということがなかなかできずにいた。

 やっぱ、長男は、それで、私への不信感みたいなものをずっと抱いてしまったと思う。
 そして、最大の決定打が、小学校4年生のとき、塾をしている夫が、小学校6年生も見てくれといわれて、小6の子に英語を教えるときに、いっしょにいさせたことに、私が反論できなかったことだった。長男は、私には、ずっとイヤダといい続けていたけれど、私は、それを夫に言い出せずにいた。
 1年余りだったけれど、もう、それで、彼は、母親は僕を守ってくれないという、誰も信じることができないという哀しみの世界に住んでしまったのだと思う。
 
 父親が、先生ってあまり好ましいことではない・・・・と思う。特に、男の子にとっては。
 基本的に、家庭ってほっとする場でありさえすればいい。
 なのに、なのに、おうちでも父親が、学校の先生と同じようなことをしちゃうと、窮屈感だけがエスカレートしていく。そんな父親が大嫌いになる。
 夫は、長男の英語力をナンバー1にするぞ~と張り切りすぎていた。長男が、中学に入るのを今か今かと待ち構えていた。
 お願いだから、勉強を教えるにも、普通の父親のように教えて・・と頼んだのに、結局、小6の子といっしょに塾に入る形となってしまった。
 最悪だね。
 男親の中には、わが子を自分の果たせなかった夢の代役にさせたがって夢中になる人がいるよね。
 野球とかサッカーとか・・・。
 スポーツは、まだいいのかな?
 勉強が好きって子は、あんまりいない。キライなのにさせられている感の強い子は、いっぱいいる。うちの子もそのひとり。
 でも、スポーツは、楽しいって感覚があるから、先生と生徒が、父親と息子でも不快な感情は、そんなにうごめかないだろう。

 で、夫は、それが、英語だった。しかも、受験英語だ。クッ。
 こんなど田舎で、受験英語。しかも、大嫌いな父親が先生ときたら、ますます、勉強が嫌いになっていくのも当然といえば当然だった。

 夫と私の子育ての価値観が、全くちがっていたのも、子どもたちが迷える子羊になった誘引の一つかもしれない。

 私は、家の家訓として、勝手に、信川実男先生のお言葉を拝借し、それを、筆で書いて、壁に貼っていた。

 そのお言葉は、

 『人から言われてやるのは、奴隷と同じだ。』   です。

 そう、私は、いつか自分でやりたいと思う日がくるまで、しびれが切れても待つつもりだった。
 そのために、乳幼児期にやれることはやったつもりだった。泥んこ水遊び・なんでも体験・とことん体験・ダメをなるべく言わないで思う存分させる・布オムツで感性を豊かに・絵本も読んだ・・・・などなど。

 でも、夫は、相手の了承なしに、無理やり自分の夢を押し付け始めた。

 夫婦同じ価値観で育てられたら、子どもは迷うことがないだろう。そして、長男もあそこまで心を引き裂かれることもなかったかもしれない。

 つづく

 何があっても、僕を守ってくれる存在が、子どもには必要だ。
 ごめんね。

 そう。長男が、勇気を振り絞って父親に向かっていった高2の終わりの頃、私も勇気というか自分の言いたいことを自然体で言えるようなカラダになっていた。
 私が言えるようになったから、長男も反旗を翻せたのか、それとも、彼の中で、もう限界という臨界点に達したから、火山が噴火するがごとく怒りが噴出したのか・・・・。

 その日を期に、彼は、自分のために、自分の人生のために勉強をし始めた。
 スタートが、かなり遅かったので、結構、うなぎのぼりに伸びていったけれど、受験には厳しかった。
 結局、彼は、自分で選んで宅浪して大学に行った。
 あとから、彼は言った。
 『僕は、あの一年があったから、優しい人間になれた。もし、宅浪していなかったら、ものすごくわがままな人間になっていたと思う。高3の頃は、自殺したいと思ったこともある。ギリギリだった。』と。

 ドキッ


 つづく

 不死鳥!

 思春期に、彼は、一度死んで生まれ変わった。
 そして、今、彼の人生に向かって飛び立とうとしている。
 大学で、かなり頑張っている。特に、英語を。彼は、本当は英語が好きだっだのだろう。でも、父親への唯一で最高の反抗から、その英語を一度捨て、そして、再出発に、その捨てた英語で臨んだ。

 皮肉なものだ。

 もう大丈夫。彼は、不死鳥になったもの。

 それにしても、『宅浪をしてよかった。もし、宅浪していなければ、わがままな人間になっていた。あの1年がよかった。』と
彼は、しみじみ語ってくれたが、何がよかったのかなぁ。どんな体験が彼にそう思わせたのかなぁ。
 チラッと、誰にも合わないという1年だったからよかったというようなことを言っていたけれど・・・・。

 まぁ、よく本を読んでいた。かなり。

 長男を生むとき、私は、その時、かき集められるかぎりの情報から、私の直感が選んだ子育て法を参考書にして、気持ちいい・とことん体験・ダメをなるべく言わない・黙って耳を傾けるをキーワードに、そりゃあ、精一杯子育てをして、根っこを太くしたつもりだったけれど、途中は、根っこが太いようにはちっとも感じられない、否、かなりヒョロヒョロ根っこで、子育てって難しいなぁとため息ついていた。

 でも、長男も20歳になり、大丈夫、彼は、いつのまにか、根っこをかなり太くし、彼の人生を確実に歩き始めた。

 ほっ。

 でも、子育てって、よく、親育てっていうけれど、マジ、親育てだよね。
 学びだらけの子育てだ。

 長男、ありがとう。

 つぎは、『ヒネクレマン!正義の味方は、悪の味方。』  です。
コメント
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