世相を斬る あいば達也

民主主義や資本主義及びグローバル経済や金融資本主義の異様さについて
定常で質実な国家像を考える

●「空気」の研究 日本は“差別の道徳”である

2014年09月08日 | 日記
現人神の創作者たち〈上〉 (ちくま文庫)
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筑摩書房
論語の読み方―いま活かすべきこの人間知の宝庫 (ノン・ポシェット)
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●「空気」の研究 日本は“差別の道徳”である

 少々時間のある7日の日曜日だったので、乱雑に積み上げられた雑誌や本棚の整理をいい加減にしていたのだが、山本七平の“「空気」の研究”が窒息しそうな本棚の枠外から出てきた。なんとも外観は酷いもので、山本氏の名著に申し訳ない気持ちで一杯になった。その罪への贖罪と云うつもりはないのだが、あらためて、ページを捲り、久しぶりで同氏と再会を果たした。筆者は、同氏の同著を随分AMAZOで売ったわけだが、その書物への敬意があまりにもなかったと反省し、一部を紹介することで、お許し願おうと考えた。最終的には、筆者の僅かな小遣いの一部にもなるのだが、それはこの際、「空気」を呑みこみお許しいただこう(笑)。

 山本は“「空気」の研究”の冒頭の言葉をクリスチャンらしい引用文ではじめている。 “人は水と霊(プネウマ:気息)とによらずば、神の国に入ることあたわず”と云うイエスの言葉を引用し、以下のように解説をくわえている。 ≪ 神の国という新しい神的体制(パシレイア・トウ・テウー)に入るには、この二つによる回心が必要であろう。  この神の秩序へのイエスの言葉を少し言いかえて、「人は空気(プネウマ)と水による心的転回を知るに至らねば、人の国に入ることあたわず」とすれば、それはまさに日本だといえる。空気と水による絶えざる心的転回で常に新しい心的秩序に入るという、日本的の人間的体制(バシレイア・トウ・アントロプー)の見本を探ること、それが本書の主題である。≫と記している。

目次は以下のようになっている。
目次
「空気」の研究
「水=通常性」の研究
日本的根本主義について
あとがき
解説 日下公人

 日下公人の解説だったか。現在の筆者であれば、日下公人が解説している書物などロクなもんじゃないと読まなかったろうが(笑)、当時は日下公人とは何者か、あまり知らなかったということなのだろう。まあそれにしても、題名自体が魅力的だから買って読んだのだと思う。そして、現在においても、山本が指し示す「空気」が絶対的支配者風に振舞っていることに愕然とするわけである。山本七平も保守論壇の一人だったが、保守本流と言っても良い感性の持ち主であり、所謂現在の右巻き識者やネトウヨなどとは、似ても似つかぬ保守性を見せている。

 山本七平は、≪ 1921年12月18日 - 1991年12月10日)は、山本書店店主。評論家として、主に戦後の保守系マスメディアで活動した。
イザヤ・ベンダサンのペンネームで『日本人とユダヤ人』を書いたことが、後に山本も公認の種明かしになっている。
思想的には、日本社会・日本文化・日本人の行動様式を「空気」「実体語・空体語」といった概念を用いて分析した。その独自の業績を総称して「山本学」と呼ばれる。 山本は、『現人神の創作者たち』のあとがきで、「もの心がついて以来、内心においても、また外面的にも、常に『現人神』を意識し、これと対決せざるを得なかった」と語っている。
山本は、クリスチャンであるだけでなく、父親の親族に大逆事件で処刑された大石誠之助をもっていた。これらのことが、山本の日本社会・日本文化・日本人に対する思考の原点であるといえよう。
特に、日本人のかつての教養であった中国古典に関する論考には独特なものがあり、『論語の読み方』『「孫子」の読み方』『帝王学―「貞観政要」の読み方』など、多数の論考がある。
山本によれば、これらの漢籍に対する研究は、内村鑑三ら、戦前のキリスト教徒が「キリスト教徒なら孟子を読むべきだ」と主張していたこと、山本の父が内村の雑誌を読んでいたことに起因しているといっている。
特に『「孫子」の読み方』には、旧日本軍の将校時代に感じた「余りにも非論理的な精神力万能主義の為に旧日本軍が負けた」という考察から、精神論を廃した「孫子」を再度捉え直そうという姿勢が見られるという。 その山本が、最も力を入れて執筆した作品が、『現人神の創作者たち』と『洪思翊中将の処刑』である。
前者は、「そんなに打ち込んでは命がもたないよ」と言われながら執筆されたものであり、後者は、「一番書きたいものを書いてくれ」と請われて執筆したものであった。
『現人神の創作者たち』は、いかにして尊皇思想が生まれたかを探求した作品である。山本は、日本に亡命してきた明の儒学者朱舜水を起点とし、山崎闇斎、浅見絅斎、安積澹泊、栗山潜鋒、三宅観瀾らの議論を追いながら、尊皇思想が形成されていく様子を描いた。そして、その尊皇思想が、社会全体にどのような影響を与えたかを、元禄赤穂事件をめぐる当時の言論状況をたどることであきらかにしたのであった。
山本は、尊皇思想の影響は今もなお残っているのだと語っている。
『洪思翊中将の処刑』は、朝鮮人でありながら帝国陸軍で中将まで昇進した洪思翊を扱った作品である。洪は、帝国陸軍の軍人である一方で、抗日運動家と秘密裡に関係を持ち、その家族を支援するなど(自身が抗日運動に参加することは拒んでいる)、きわめて複雑な生き方を強いられた人物であった。山本の洪に対する執着の理由のひとつは、そこにあったと思われる。洪は、太平洋戦争後、戦犯として処刑されるが、軍事法廷において一言も発することはなかった。山本は、この作品で、その沈黙の意味をあきらかにしようとしたのであった。(Wikipedia引用)

 また学術的に貴重な研究を結果的に行っていたことになり、特に「社会学」への学術的貢献は“丸山真男”に匹敵すると言われてもいる。また、小室直樹を世に送り出した生みの親的存在であった点も注目に値する。全体的に流れる保守思想は、明治維新の脱亜入欧、散切り頭、叩けば文明開化の音がするとは一線を画した孟子や孫子を読み砕き展開する開国の必要性に言及するなど、極めて知的な評論家であった。現在の日本の欧米化や世界のカオスなどを知った時の、山本七郎の考えを、筆者はこの耳で聞きたいくらいの博学であったようだ。小室直樹や小林秀雄対談など、今でも十二分に読み応えのある著書が溢れている。まったく古臭さを感じない内容は、謂わば真理のエッセンスが含まれているからなのだろう。

 “「空気」の研究”の冒頭部を以下に紹介して、今夜のコラムに代えさせてもらう。

 だいぶ前に、ある教育雑誌社の記者の来訪をうけ、「道徳教育」について意見を聞かれた。質問の意味は、というよりもむしろ「道徳教育」という言葉の意味が明白でないので、私は一応次のように返事をした。
「日本の社会に道徳という規則があることは事実でしょう。田中首相の辞職は、その原因が、政策的破綻よりむしろ道徳的問題のように思われます。ニクソン大統領の場合ももちろんそうでしょうが――道徳は一国の首相を辞職に追い込むほど強力で、これからみても、そういった規範は明らかに存在するのですから、それがどういう規範か教えておかねば、その子供が社会に出てから非常に困ると思います。従って、“現実に社会には、こういう規範があります”という事実は、一つの知識乃至は常識として、系統的に教えておく義務が、教師にはあるでしょう。そうでなければ子供が可哀そうです」と言った意味のことを私は述べた。
「ははぁ、道徳教育にご賛成ですな。いまは、大体そういう空気ですな」という、まことに奇妙で意味不明の返事をしてから、相手は「では、どのような点からはじめたらよいのでしょう」と言った。
「それは簡単なことでしょう。まず、日本の道徳は差別の道徳である、という現実の説明からはじめればよいと思います」と私は答えた。ところがこの返事がまことに意外であったらしく、相手はあきれたように私を見て言った。
「そ、そそ、そんなこと言ったら大変なことになります」
「どうしてですか。私は何も“差別せよ”と主張しているのではなく、ただ“差別の道徳である”という事実を事実として子供に伝えることが第一と言っただけです。事実を事実のままのべても、それは事実であるからそれをそのまま口にするだけのこと。口にすること自体は別に大変なことではありますまい。大変なことは、私が口にしようとしまいと大変なことです」
「そうおっしゃっても、それはまあ理屈で、現場の空気としましては、でも……で、どんな事実がありますか」
私は簡単な実例をあげた。それは、三菱重工爆破事件のときの、ある外紙特派員の記事である。それによると、道路に重傷者が倒れていても、人々は黙って傍観している。ただ所々に人がかたまってかいがいしく介抱していた例もあったが、調べてみると、これが全部その人の属する会社の同僚、いわば「知人」である。ここに、知人・非知人に対する明確な「差別の道徳」をその人は見た。これを一つの道徳律として表現するなら、「人間には知人・非知人の別がある。人が危機に遭ったとき、もしその人が知人ならあらゆる手段でこれを助ける。非知人なら、それが目に入っても、一切黙殺してかかわりあいになるな」ということになる。
この知人・非知人を集団内・集団外と分けてもよいわけだが、みんなそういう規範で動いていることは事実なのだから、それらの批判は批判として、その事実を、まず、事実のままに知らせる必要がある。それをしなら、それを克服することはできない。私がいうのは、それだけのことだ、と言った。
「そんなこと、絶対に言えませんよ。第一、差別の道徳なんて……」と相手は言った。
「ではあなたは、たとえば三菱重工の事件のような場合、どうします」
「ウーン、そう言われるとこまるなあ、何も言えなくなるなあ」
「なぜこまるのですか、なぜ何も言えなくなるのですか。何もこまることはないでしょう。それをそのまま言えばよいはずです。みんなそうしているし、自分もそうすると思う。ただし、私は絶対に言葉にしない。日本の道徳は、現に自分が行っていることの規範を言葉にすることを禁じており、それを口にすれば、たとえそれが事実でも、“口にしたということが不道徳行為”と見なされる。従ってそれを絶対に口にしてはいけない。これが日本の道徳である。おとなたちはみなこうしています。だから、それが正しいと思う人は、そうしなさい、と言えばいいでしょう」
「とんでもない、そんなこと言ったら大変なことになります」
「なりませんよ。表現さえ変えれば。…………」と続く。 ≫(文春文庫:「空気」の研究:山本七平より抜粋)

 平易な日本語で語られているが、語っていることは極めて哲学的、社会学的だ。厄介な学問を平場に落とし込んでくれているのだが、この著書にしても、この平易な日本語を意訳する必要がありそうな時代であることは、かなり複雑な気分になる。今夜は、この書物の続きを読み直すことで白々夜が明けそうである(笑)。話は全く違うが、錦織選手の全米大活躍でWOWOW回線がパンク状態になり、ユニクロの錦織モデルのポロシャツが売り切れ続出だとか。特にケチをつける気はないが、どうもこういう場面でも「空気」が日本中を支配するようだ。こういう感じのいい空気もあるが、永田町などには気色悪い空気も流れているのが日本なのだろう。

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))
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文藝春秋
日本人とユダヤ人 (角川oneテーマ21 (A-32))
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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2014-09-09 09:55:06
フラッシュの販売中止も空気扱い
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