東京プリズン (河出文庫) | |
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●日本歴史の断絶、維新と敗戦 戦後の日本人と天皇
以下は現代ビジネスの“GENDAISHINSHO Café”赤坂真理著の『愛と暴力の戦後とその後』の一部を紹介している。8月15日は過ぎたが、日本人永遠のテーマに、小説家として迫っている。読み物としても迫力があるが、考えさせてくれる命題をも提供している。引用が長いので、筆者のご託は本日は省略。興味のある方は、是非読んでみてください。筆者も、近々買っておこうかと思う。
「1」日本にとってアメリカとは何か
〜戦後日本が抱えた無意識の屈折
【「日本とは何か。お前は何者だと問い詰めてくる。驚愕し、恐怖して読み終わった。こんな本は初めてだ」(鈴木邦男氏)、「いまの時期にこそふさわしい、戦後社会と民主主義について深く検討する本」(高橋源 一郎氏)、「自らの実感と経験に基づき、それでいて骨太な洞察にみちた、新たな戦後論」(宇野重規氏)…… 昨年刊行されるや絶賛の嵐で迎えられた赤坂真理さんの『愛と暴力の戦後とその後』より、第1章「母と沈黙と私」を特別公開!(全3回) 《日本一美しくて切ない8月15日論》です。】
母と沈黙と私(1)
■戦争の影
・1964年生まれの私が物心ついたときは、戦争など終わっていて影もかたちもなかった。まあ、普通にそうだ。と、言ってみたい。
・いや。影もかたちもなかった、というのは正しくない。
・影やヒントくらい、本当はあった。
・たとえば、小さな頃に新宿のガード下や上野の山にぽつぽつといた、傷痍軍人たち。腕のない人、脚のない人、包帯をした人、何割か混じっていたと、母が言う偽物。彼らは白装束で物乞いをしていた。いや、カーキの軍服だったか。たまにハーモニカを吹いていたり。なぜかと思うに口だけで演奏できる楽器だか らだろう。
・彼らは身一つしか持たぬにもかかわらずその身さえ欠けた、究極の持たざる者だった。もちろん、他意なく異形のものでもあった。だから私の中でそれは托鉢僧と見せものがいっしょくたになったような記憶になっている。
・あるいは親戚の集まりで、潰れるほどに呑んでは泣いて軍歌を歌い出すおじさん。酔うと説教混じりで屯田兵の話を決まってする人。叔父の海軍兵学校の 集まり。生徒として終戦を迎えた叔父たちに戦闘経験はなく、同期の欠けもなく、彼らは人一倍明るい人たちだったが、後年とりわけ愉快だった人が命を絶った。
・ただ、私の中でそういうものたちが歴史とつながらなかった。 私は東京の、戦前の郊外と言われた町で育った。育った家は、同級生たちの家からすると前時代的なつくりで、玄関を入ると脇がすぐ応接間だった。文化住宅によくあったつくりだ。
・そこに、よくわからない話をする親戚や知り合いたちはよく来たのだが、彼らは私たち子供とは隔離されていた。古いつくりが逆に、古いことと新しい世 代を切り離すのに役立っていた。親たちも社会も学校も、「子供はそういうことを考えず」勉強していればいいという態度を暗に明にとっていた。 ・私にとっては、もともと薄く断片的なことが忘れられても、最初からないような気しかしない。
・けれど、一度存在したものは、自動的にただ消えたりしない。
・彼らは一体どこへ消えたのだろう? どこへと、消されたのだろう? そして彼らが体現した不条理は? ・消された何か。それが巨大な負の質量として戻ってくるのは、他ならぬ自分の身の上に「つながらなさ」を抱えてしまい、そこからまたずいぶん経ってからのことだ。
■遠いアメリカ
・16歳のとき、自分の歴史がつながらなくなった。
・あまりの異物を、たったひとりで、突然見たからだと思う。処理しきれなかった、おそらくは。
・その異物の名を、アメリカと言う。
・幼少期からの世界は、切れた。
・その後の世界は、前と同じではなくなった。
・世界はおそらくは、主観的だけでなく客観的にも、変わってしまった。
・そして消化も排出もできないまま、アメリカは私の中で異物であり続けた。
・かなり後になって、30近くにもなって、友達になったアメリカ人男性に、こう言われたことがある。
・「へえ! 君の親もよくやったね。アメリカは、日本人の女の子を一人でやるには最も向かない国じゃないかな。度を越した(エクストラバガント)ところがあるもの。日本と違いすぎる。日本の女の子を一人でやるなら、イギリスがいいと思うねぇ」
・私は、「そのこと」を、アメリカ人が知っていることに驚いた。当のアメリカ人が当然のように言うそのことを、周りの日本人は全く言わなかったことに、あらためてショックを受けた。
・アメリカが心理的に我々と「最も近しい」外国で、そこがフレンドリーないい国と信じられているからこそ、中学を出た私の進学先に、アメリカという突飛なプランは突然、降って湧くことができたのだから。それはある時代以降の日本人の心の、ひとつの自然のようなものだった。
・しかし、アメリカこそは、そのほんの三十数年前まで、我々の最大の敵であり、私たちの国土と民間人の上に戦略爆撃や原子爆弾を降らせた国でもあるのだ。自国の人々がアメリカを受け取る、そのギャップは、私を戸惑わせ続けた。
■立ち止まる選択肢はなかった
・私がなぜアメリカに行ったのか、理由はひとつではない。ひとつにはそれは、日本側の問題である。
求められ、最も過酷な受験があり、それだけならまだしも、日本では「みんな一斉」に行われる進学や就職のタイミングから一度ずれてしまうことは、おそろしいことだ。それはシステム的な落ちこぼれと なることを意味し、回復がむずかしい。
・このことは、今でも変わらない。「就活」がうまくいかないと若者がひどく追い詰められた気分になるのは、そのためだ。一度引きこもった人が、出られなくなりやすくて長期化するのも、そのためだ。
・日本は、一度のつまずきで再起しにくいシステムの社会なのである。あるいは、セーフティネットをつくりながら発展する余裕がなかったのかもしれない。当時世界第2位になりつつあった経済大国なんて、そんなもんだ。
・それなりに平和で楽しかった中学2年生から中学3年生に上がったとき、周囲が一斉に一方向を向くのを私は感じた。と同時に周囲が殺気立ち始めた。
・それを思い出すとき私は、経験してもいない軍国主義というものを、思い浮かべることができる。軍靴の音というのを、感じ取ることができる。平和のスローガンの下で、リアルな体感は軍国主義のほうだった。そう、ラインの入り方まで寸分たがわぬ上履きで、行進するのだ。
・大多数がそれとなんとか折り合えても、たまに、そうできない者がいる。努力とは別の次元で、どうしても生理的にできないという者がいる。といって、表立って反抗するでもない子。私は、そんな子だった。
・立ち止まる選択肢は、しかし誰にも、大人にだって、用意されていなかった。
■異文化と思春期
・アメリカは日本と違いすぎる。
・同年代の少年はライフル銃を持って野生動物を撃ちに行き(原理的に考えれば教室で乱射だってできる)、ラウンジでは生徒同士のネッキングが日常的な光景で、ハイスクール主催の学年末のパーティ(プロム)には必ず男女のカップルにならなければ参加できない。誘われないのも誘った相手に拒絶されるのも、自分の性嗜好をそこで疑うのも、どれもおそろしい。アメリカのティーンを描いた作品にはよく、プロムがホラー体験として出てくる。ずばり『プロムナイト』 なんてホラーもある。
・どこか性じみていて、それでいて禁欲的な社会。皆がゆくゆくは、郊外のファミリーになるべきだという、性と倫理の誘導を感じる社会。
・それは、自由と言えば自由な雰囲気なのだけれど、勉強することと性的存在であることの両方を、社会に求められるのはつらいものだ。それこそが社会か ら承認される道であることを肌身で知ることは。異国の人間には、特に。自分の身の安全が確認できないところで、性的であることは、危険でありうるからであ る。
・ハイスクールという年代区分は、異文化の岩盤のような部分である。もはや性的に未文化ではなく、といって専門領域を持って個別にもなれない。文化の岩盤部分を生きるしかない存在。
・私はアメリカ以外の外国に住んだことはないが、ティーンエイジャーというのは、異文化の岩盤に入れられるには、最も適さない時期ではないかと、自分の体験から思う。
・私は結局アメリカでも、うまくやることができなかった。日本に帰ってきて、復帰がむずかしいとされる日本の進学体系の中に、なぜかまた入れたのだが、一年遅れた。若年で遅れるというのは、とてもいやなものである。
・後から思えば計画自体に問題がある。異文化と思春期の困難を軽く考えすぎてもいる。ただ、そのときは純粋に自分が悪いと考えた。自己責任で、自分のせいで失敗したと。
・16歳にして大きすぎる失敗をしたと感じた私は、この失敗をなかったことにしようと考えた。
・そこから、切れた。 ・後になって思えば、それは、ひとつの体験であって、それ以上でも以下でもない。失敗であったら失敗と認め、そこから学んで先に活かせばよい。それをなかったことにしようとしたほうが、つらかった。
・ただ、そう考えられる心的余裕も、時間的余裕も、私にはなく、問題の出発点から遠くなればなるほど、問題の表現はむずかしくなり、傍から見れば突飛な時期に、傍から見れば問題ない経歴で、私は壊れた。
■小説でしか書けなかった
・気がつくと30を過ぎていた私は、あるとき、全くの個人的体験だと思ってきたそのことが、どこか、日本の歴史そのものと重なるように思われた。私の 中に表現の種は受胎したのだが、それを育てることはなかなかできなかった。2000年代までかけて、なんとか、私個人と集合の、相似形の屈折のようなもの を表現しようとしたけれど、できなかった。
・それがひとつできたのは、2012年に書いた『東京プリズン』という小説だった。私は、小説でこの主題を書くとは思っていなかった。が、書いてみれば、それは小説でしか書きようのないことだった。
・評論や研究では、感情と論理をいっしょくたにすることはタブーである。しかし、日本人による日本の近現代史研究がどこか痒いところに手の届かないの は、それを語るとき多くの人が反射的に感情的になってしまうことこそが、評論や研究をむずかしくしているからだ。だとしたら、感情を、論理といっしょに動 くものとして扱わなければ、この件の真実に近づくことはできなかった。そしてそうできるメディアは、小説だった。
・日本の近現代の問題は、どこからどうアプローチしても、ほどなく、突き当たってしまうところがある。それが天皇。そして天皇が近代にどうつくられたかという問題。
・だが、天皇こそは、日本人が最も感情的になる主題なのである。もっと言えば、人々は、天皇の性に関して、天皇が「男である」ということに関して、最も感情的になる。さらに「国体=国のなりたち」が、男性的であるか否かをめぐって。
・日本の今の外交問題が危ういのは、その素朴さで意地の張り合いが行われているからである。人が根拠なく感情的になることこそは、強固なのである。
・私には、戦後の天皇は素朴な疑問であり続けた。
・なぜ、彼は罪を問われなかったのだろうと。
・なぜそれを問うてもいけないような空気があるのかと。
・最高責任者の罪を考えてもいけないというのは、どこかに心理的しわ寄せか空白をつくってしまう。
・正直に言うと私は、素朴に、天皇には戦争責任があると考える方だった。たとえ雇われ社長でもそのときの問題の責任を問われる。だったら天皇の戦争責 任が、考えられもせず、誰もが不問に付したというのは異常だった。ただしこれは、「王様は裸だ」と言うようなことだった。正攻法では立ち向かえず、なんら かの仕組みが要った。
・そこで、私はいかにもアメリカ的な方法論を小説に導入してみた。ディベートという、言論競技である。ある論題に対し、肯定か否定の立場のどちらかに強制的に立って、自分の立場の正しさを「立証」する。小説内ロールプレイとも言える。
・それをハイスクールの授業の一環ということにして、アメリカ北東部の、白人の多い保守的な小さな町で、ディベートのルールなど全く知らない、たった 一人の日本人留学生16歳を中心に行わせた。彼女とその周囲のアメリカ人が、同盟か敵対の関係を組みながら、相手陣営に対する自陣営の正しさを「立証」す る。
・論題は、「昭和天皇は戦争犯罪人である」 断定しているのではなく、肯定形で出すのが論題なのだ。これに対して、肯定の立場と否定の立場で、論理ゲームをする。それは言論をもってするスポー ツに近い、ゲームである。が、実際の法廷も、これと限りなく近い。弁護人が途中で考えを変えて検察に回ったりすることはできない。スポーツでゲーム中に所 属チームを代わったりできないように。
・否定派が心情に反する肯定に立たされたりしたとき、見えてくるものがあると思ったのである。こうすることで感情から自由になれまいかと思ったのである。これを、ふたたび行われる東京裁判に見立て、私は書いた。
・果たして、そこで浮かび上がってきたのは、自分自身にさえ思いがけなかった、自分の感情だった。
「2」なぜ原爆投下による民間人大虐殺は罪に問われないのか?
〜日本人に埋め込まれた「2つの思考停止」
【真珠湾攻撃をやったから、原爆を落とされても文句は言えない? なぜ天皇は戦争責任を問われずにすんだの? 作家・赤坂真理さんが、東京裁判に関わった母親との会話から、日本人に埋め込まれた「2つの思考停止」を明かします。 *戦後論の新たな地平を切り拓いた赤坂真理さんの『愛と暴力の戦後とその後』より、第1章「母と沈黙と私」を特別公開!(第2回)】
■謎解きの糸口
・「ママはね、東京裁判の通訳をしたことがあるの」
・2002年に99歳で死んだ祖母が、私の母親についてこんなことを言ったのは、たしか1997年だった。11月くらいの小春日和だったか、それとも本当に春の風の凪いだ日だったか。とにかく明るくて穏やかな日だった。
・祖母にとって私の母とは、もちろん、娘だ。が、日本の家庭によくある、家族のいちばん小さき者の目線から見た呼称を、祖母もまた使った。人は老いると弱く小さくなる。だから娘をママと呼ぶのは、その頃にはなんとなく理にかなっているようにも思えることがあった。
・ときどき「ママ」と呼ぶ祖母の声がすがるように響いたり、母が苛立って見えたりするとき、その関係は、母と祖母の間にあった「何か」を、逆転したり、かたちを変えて再現したりしているようにも、思えた。
・そこには、どこにでもある親子の葛藤と、彼女たちにしかわからない個別の事情や断絶が、あったのだと思う。明治と昭和の間にある、生活や価値観の断絶は、私の想像など及ばないことだろう。当人同士にだって、話し合うのがむずかしかったかもしれない。
・しかし。 祖母のその話が突拍子がなさすぎた。年齢的にも母ではその任は若すぎるはずだった。とっさに計算する。10代という答えしか出てこなかった。
・「え?」
・うろたえる私に対して、
・「味方を裁くことだから、つらかったみたいよ」 と、なんともおっとり、祖母は言った。そして笑みを浮かべた。
・早起きして練習するのはつらかったみたいよ、とでも言うように。 これは、謎の始まりではない。
・私が長い間抱えてきた謎の感じの、ひとつの解だと、聞いたそのときどこかでわかっていた。そして、これによってわかることより、わからないということそのものを、より多く私は知るだろうと。
■母の記憶
・母は私の問いを最初は取り合わず、私が食い下がると、誇張があるのだと言った。
・「おばあちゃまの記憶の中で誇張が起きているの」
・母もまた、ごくふつうに、私の目から見た関係性で、自分の母を、おばあちゃまと言う。
・そこから出てきた話とは、こんな感じだ。
・「女子大の英文科にいたとき、何かの関係で、津田塾を出た人と知り合って、その人の家に行ったら、こういうのを訳してみない? と」
・と……と、母は語尾を濁した。
・「つまりは翻訳だ?」
「ええ」
「裁判資料を?」
「たぶん」
「その人の家はどこ?」
「巣鴨プリズンの近く」
・巣鴨プリズンは、今の池袋サンシャインである。
「東中野から新宿に出て池袋?」
「下落合からよ。すぐ高田馬場に出られるもの」
・母が結婚するまで住んでいた家族の家は、新宿区下落合にあって、当時の家に近い順に北から、西武新宿線下落合駅、東西線落合駅、JR(国鉄)東中野駅と、南北に直列するように駅が三つある。東西線は、母の独身時には通っていなかった。
・「どうしてその人の家へ行ったの?」
「わからない。面白そうならばどこでも行ったのよ」 その気持ちはよくわかる。母も一人の健康な若い人間だったのだ。
「その巣鴨プリズンの近くの家はどんなだった?」
「焼け残ったのか、バラックだったのか……」
「そこで東京裁判の資料を見たの?」
「そこでだったか、マッジ・ホールというところだったか……」
「マッジ・ホール?」
「千駄ケ谷の駅前にマッジ・ホールというGHQ関連の建物があって」
「どんな?」
「古い洋館……。そこに出入りしていた人の関係だったかもしれない」
「でもなぜ、そんな機密書類に属するものが、一介の女子大生に降りてくるの?」
「当時は英語を勉強していた人が少なかったからだろうし、そんなに大事なものだったかはわからない」
「どんな内容だったか覚えてる?」
「覚えていない。ぜんぜん」
・GHQの側からのものであれば、検察資料だろうと推測できる。「味方を裁くこと」という祖母の認識と合致する。GHQ側のものであるなら、日本人戦犯の調書やそれに類するものであった蓋然性が高い。 ・母は、問われもしないのにこう言い捨てた。それは、これ以上語ることは何もない、というサインだった。 「下っ端よ、下っ端。BC戦犯」
■ふたつの思考停止
・「A級戦犯が大物であり、いちばん悪い」という誤解は、アメリカが自国のプレスにした説明が簡略化されすぎていたから、という説がある。A級戦犯は国家指導者であり、B級戦犯は現場の、というように。
・ちなみにC級=人道に対する罪は、ナチス版東京裁判ともいうべきニュルンベルク裁判での(というか東京裁判が東京版ニュルンベルク裁判なのだが)「ホロコースト」に相当するもので、日本での該当者はほとんどいなかった。
・B級は、通常の戦争犯罪、たとえば捕虜の虐待や民間人の殺戮で、当時の国際法で禁じられていた行為への違反である。従来、軍事法廷(東京裁判も軍事法廷である)で裁かれる戦争犯罪と言えば、これだけだった。
・通常の戦争犯罪以外に「平和に対する罪=A級」や「人道に対する罪=C級」があるというのは、第二次世界大戦後の概念であり、戦争史上の一大発明ではないかと思う。
・「ねえママ、民間人の虐殺ということなら、広島や長崎への原爆や、東京大空襲のほうが、全くの非道だとは、思わない?」
・仮に8月6日以前にポツダム宣言を受諾しても、原爆は投下されたとする考えがある。米議会の承認を得ずに莫大な予算を投じた原子爆弾は、使わなければ終戦後に議会の追及を受けるから、というものだ。
・その真偽はともかくとして原子爆弾の使用は民間人の無差別殺戮であり、通常の(従来からの)戦争犯罪を記した国際法に抵触する。B級戦犯、いやもし かしたらナチスのホロコーストにたとえられるC級戦争犯罪、「人道に対する罪」と言ってもいいかもしれない。東京大空襲もしかりである。市街地の、まず避 難路をなくすように爆撃してから中心地を爆撃して「蒸し焼き」にする。
・「うん……でも、『お前ら真珠湾やったじゃないか』と言われたら、仕方ないわ」 と母は言う。
・「なぜ仕方ないの? 宣戦布告しない戦争の例はたくさんあるし、それに対していちいち怒り狂った国ってのは少ないよ。真珠湾は軍事施設への正確なピンポイント爆撃なのだし、絶対悪とみなすいわれはどこにもない」
・私は返す。
「なぜって……」 母は口ごもる。ここでも、時間と思考が止まっている。 私は質問を変えてみる。 「じゃあ天皇に戦争責任はあると思う?」
「天皇陛下を裁いたら日本がめちゃくちゃになったわ!」 どうして、ここだけ即答なのだろう? しかも論点がずれてる。
「なぜ?」 私は問う。
「なぜってそうなのよ」
・母がきっぱりするのは、このふたつの時だ。ひとつは真珠湾攻撃がとにかく問答無用で悪いと言う時、もうひとつは、天皇ないし天皇制は守るべきに決まっていたと言う時。
・自分の母親はどちらかと言えばリベラルなのだと思っている私は、これを聞くと何かひどくびっくりしてしまう。
■私たちは忘れすぎた
・『東京プリズン』を書く途上でわかったのは、しかしこの論点のずらし方こそが、東京裁判で勝者によって意図的に行われたことだということだった。それは私にとって、びっくり以上のものがあった。
・一体それはどういう法廷だったのか、そもそも「法廷」だったのか、という気持ちだ。
・天皇が当時、国家と戦争の最高指導者であったことは誰にも疑えない。右翼であっても、いや右翼であればなお、疑えない。だとしたら、誰でも心情はと もあれ論理面では、最高指導者に責任があるということはわかるはずだ。その責任が問われなかったら、他のすべても免責されることになる。
・天皇を訴追しないことは実は、最初からGHQが決めていたことだった。そんなことは、言われるまでもなく知っていたよという読者も多いだろうが、私 はこの日本で普通の教育を受けて大学まで行って、それを最近まで知らなかったから、日本人の中の下くらいのごく普通の知的レベルの人間として、そのことを隠さずにいたいし、とにかく、驚いたのだ。しかも日本側は当初そのことを知らない。
・天皇を訴追しないことになったその理由は、私の母に言わせれば「マッカーサーが昭和天皇の人柄に心を打たれたから」なのであるが、そしてこれもかなり流布した言説なのだが、残念ながらちょっといい小咄の域を出ないだろうと思う。
・そう、天皇制を温存したほうがアメリカにメリットがあったのである。
・ちなみに、アメリカ人の正義の旗印とされた「真珠湾だまし討ちしたんだから日本が悪い、『リメンバー・パールハーバー』」だけれど、当のGHQが主 宰した極東国際軍事裁判(東京裁判)で、「だまし討ちではない」という判決が出ている。「だまし討ち」の論拠は、「宣戦布告から攻撃まで時間をおかなけれ ばならない」というハーグ条約の取り決めの中にある。だけれど、その条約に「どのくらい時間をおく」という記載がなく、「条約自体に構造欠陥がある」とみ なされたため。
・日本人は、覚えておかなければならないことも忘れすぎた。というより不問に付しすぎた。
「3」なぜ日本人は昭和天皇を裁けなかったのか
【特別公開】赤坂真理『愛と暴力の戦後とその後』3
【敗戦後のドイツにはヒトラーという”絶対悪”があった。しかし、日本の戦後は違う。誰もが加害意識と被害意識を持ち、天皇が戦争責任を問われることもなかった。日本人にとって昭和天皇とは何だったのか? なぜ天皇を(心の中でさえ)裁けなかったのか?
*戦後論の新たな地平を切り拓いた赤坂真理さんの『愛と暴力の戦後とその後』より、第1章「母と沈黙と私」を特別公開! 「日本一美しくて切ない8月15日論」です。】
■北京オリンピックの夏
マスメディア、特にテレビが8月に季語兼良心の証のように言う「戦争」と「終戦」関連の話題がめっきり少なくなった分水嶺は、私見では北京オリンピックのあった2008年の夏だ。
それどころではなくなったというところなのだろう。
世界第2位の経済大国という戦後唯一とも言えるアイデンティティが、揺るがされ始めた、その象徴を、あの夏に日本人は見たのである。
だがしかし、不思議な話だ。中国に、今さら抜かれたわけじゃない。
古代からの大国、中国。中国文化こそを優れたものと昔の日本人は考えていた。
そして現在私たちが脅威に、あるいは恐怖視さえしている「理解不能の友人」中国共産党、それこそが、日本の戦後復興の「恩人」であった可能性が高 い。なぜなら、中国が今の共産党でなく自由主義の中国国民党の政権であったなら、アメリカは戦後、中国と直接交渉をし、小島のような日本のことなど、さしたる興味も持たなかったはずである。
もともと、中国の利権をめぐっての交渉が決裂したのが日米開戦である。だとしたらメインの関心事は中国であって、それがなかったとしたら、アメリカ は日本の一国占領にこだわらなかっただろうし(たぶん)、日本はアメリカとソ連の分割統治になったのが自然な成り行きではないだろうか。朝鮮半島のように。ドイツのように。そうしたら日本の今の姿はなかったはずだ。
ソ連があり中国共産党があったために、日本はアジアの要石となった。中国以外のアジアの国々で、冷戦の打撃を受けなかったのはほとんど日本だけで、それは、冷戦の一翼のほうに守られていたからだ。
北京オリンピックの2008年。世界的に見れば、それが戦争の疲弊とその後の冷戦構造に巻き込まれ翻弄され続けた国々が、ほんとうの意味で復興してくるタイミングだったかもしれない。世界的には、そのころやっと、「戦後は終わってきた」のかもしれない。
地球的規模のひとつの総力戦とその余波、半永久に続くかと思われる喪失や悲しみや憎しみやその連鎖、そういったものから人々が本当の意味で立ち上がって前を向けるためには、本来そのくらいの時間がかかるのかもしれない。
そしてそのころ日本は、「戦後」の終わりを終えつつあり、下降へ向かい始めた。それはアメリカも同じことだけれど、両者とも、本質的な手は打たな かった感じがする。アメリカは対テロ戦争に我を失っている間に、リーマン・ショックを浴びた。こう書いていると、北京オリンピックとリーマン・ショックが同じ年の一ヵ月ちがいであったことに、あらためて驚く。
■昭和天皇という存在
2011年は、3月の時点ですでに、「戦後」の終わりがフラッシュバックしていて、「戦後」の終わりの終わりを感じさせていた。そう思えなくもない。むろん後から見ればの話だが。
東日本大震災の後の購買・花見などの「自粛の呼びかけ」は、私に、元号の変わり目、つまり昭和天皇の危篤から崩御とその後の「自粛」を思い出させた。
1989年は、ベルリンの壁崩壊(壁破壊と言った方が正しいんじゃないかと思うが)が成った年であり、いわば日本を庇護してきたあの冷戦の、ひとつの大きな象徴が消滅した年だった。同じ年に中国ではこの逆のような天安門事件が起き、日本のエンペラーが崩御した。エンペラーとは対外的な呼称だけれど、 考えると変だ。彼は皇帝(エンペラー)ではないのだから。
ベルリンの壁崩壊とは、「こうもありえた日本の戦後」が終わろうとする姿だったかもしれない。分割統治は、本当にありえたのだから。が、日本人はそんなふうには考えなかった。ベルリンの壁など遠いことだった。日本はバブル景気のピークだった。
本当は、バブル景気の陰で、戦後はしめやかに終わり始めていたのかもしれない。「奇跡の復興劇」はもう、終わりかけていたのかもしれない。 奇跡の復興劇を支えたのは、そのいちばんの底の部分は、もしかしたらあの人の、生きて在ることだったのではないか。
ふとそんなことを口走りたくなるほど、昭和天皇というのは、よじれがそのまま一個の肉体となったような存在であった。
論理的には罪を問われるべき人が罪を問われない場合、その人はよじれそのもののような存在となる。そこに人々は、自分の罪が支えられて押しとどめられているのを、無言のうちに見ていたのではないか。
私の母は、軍国主義を信じていた子供の自分を嫌悪している、という意味のことをぽつりと言ったことがある。それと「天皇陛下を裁いたら日本がめちゃくちゃになった」と言う彼女は、同じ人であり、どこかが解離している。巨大な空白のようなものがある。
戦争を知る多くの人にその空白があったろう。傷とはまた別の、空白、断絶。
彼らの空白を、昭和天皇は引き受けていたのではないかと思うことがある。
あるいは、彼らが、天皇に仮託したのだ。
■沈黙の理由
母は、東京裁判の文書を見たという話のとき、こう言い放った。(第2回参照)
「BC級だから下っ端よ」
そのときは聞き流していた言葉に、別の側面があるかもしれないと思えたのは最近のことだ。
BC級の文書をもし仮に見たのであれば、それはむしろ、そちらのほうがつらいことだったかもしれない。なぜならBC級戦犯の文書とは、ごくふつうの日本人の行った非道な行為であり、そちらの方が残虐だった。
上の命令だったという人、「空気」に逆らえなかったという人、出世したかっただけの人、いじめられたくなかっただけの人、恐怖や不安に駆られた人……今の私たちともどこも変わらないようなふつうの人たち、どちらかと言えば小心で人を害するなど考えもつかなかったような人たちが、極限と閉塞のなかでどうなっていったかということがそこには克明に書かれている。その人たちに起こったのなら、今でもいつでも誰にでも、一定の条件で起こりうることとして。
これは、今母に確かめたところで、記憶も答えもないことだが。
そういう膨大な罪の記憶、恥の記憶、それと同時に被害の記憶、被害を被害と言えないつらさ、生き残った者の罪悪感、などなど、そういうよじれがあるとしたら、地を埋め尽くして足りないほどであるに違いない。
人々は、被害者でもあり加害者でもある自らの姿を、ひとつの象徴として、昭和天皇に見たのではないだろうか。
ならば、だからこそ、心の中でも、天皇を裁けなかったのではなかろうか。 自分も、免罪されるほどに罪のない存在だとは思えないから。 だから、黙った。
誰にも内面を覗かれないようにした。
そのとき、かの人の生身の肉体は、生き残った者たちの免罪符そのものとなり、同時に、無数とも言える生き恥を、代わってさらしてくれるものだったのではないだろうか?
私の両親は仲がよかったのに、お互いにそれぞれのことにかまけすぎた。接点のない日常に身を浸しすぎていた。それは、同じ秘密を持つ同士が、それを覗き込まずにいられるためのすべだったのではないかと思うことがある。
高度経済成長期にかけて確立された「専業システム」、つまり専業主婦に専業収入獲得者に専業子供、という日本の家族のあり方には、まずは戦争由来の 秘密があったように思えてならない。誰もが、秘密を見られないようにするためには、人の秘密を見ていないし見る暇もないという行動様式を取る必要があったのではないか。
■歴史なしに生きていけるのか
こう書いてみて、母娘の会話とその断線の中に、戦争と戦後のキーワードと、国内における通俗的パブリック・イメージのほとんどが知らず知らずに出てきていたのに驚いている。
「戦争」とか「あの戦争」と言ってみるとき、一般的な日本人の内面に描き出される最大公約数を出してみるとする。
それは真珠湾に始まり、広島・長崎で終わり、東京裁判があって、そのあとは考えない。天皇の名のもとの戦争であり大惨禍であったが、天皇は悪くない! 終わり。
真珠湾が原爆になって返ってきて、文句は言えない。いささか極論だが、そう言うこともできる。でもいずれにしても天皇は悪くない! 終わり。
その前の中国との十五年戦争のことも語られなければ、そのあとは、いきなり民主主義に接続されて、人はそれさえ覚えていればいいのだということに なった。平和と民主主義はセットであり、とりわけ平和は疑ってはいけないもので、そのためには戦争のことを考えてはいけない。誰が言い出すともなく、皆がそうした。
それでこの国では、特別に関心を持って勉強しない限りは、近現代史はわからないようになっていた。私は大学を出たけれど、それだけでは近現代史は何も知らない。それは教育の自殺行為でもあったのだけれど。
しかし、ひとつの国や民族が、これほどに歴史なしに生きていけるのだろうか?
私の国の戦後は、人間心理の無意識な実験のようである。
どれだけ歴史を忘れてやっていけるか。
その実験が、六十年以上経って、失敗とわかりはじめた。人間にはそんなことはできない。そうわかりはじめたけれども、その頃には「実験」の「仮定」 に依存しすぎた仕組みをつくっていたし、忘れる努力をしたせいで、何が起きたか本当に知らない世代も大量に生まれ、わけがわからないままに神経症や鬱になった。
「実験」の中で成長した世代の痛みが、それを始めた世代にわかるだろうか?
副作用のほうが、主作用よりましなのだろうか?
彼らが痛みを語らなかったように、私たちの痛みと彼らをつなぐ言語も、これまでなかった。
母が私にした話の中に、ひとつ、面白い場所がある。千駄ケ谷のマッジ・ホールというところだ。これは、政権の座を明け渡した徳川家が明治に住んだ屋敷をGHQが接収したもので、あの大河ドラマで大人気になった天璋院篤姫が晩年を過ごした場所でもある。
つまりは、私たちは、何代か遡ればすぐ江戸時代に到達してしまうのに、江戸時代をまったく断絶した共感不能なものとして感じている。マッジ・ホール がすでに、江戸と明治の断絶の象徴のようにそこにあったのだが、そこに通った昭和の人間は、すでにそれに思いを馳せることはできなかった。
私たちの現在は、明治維新と第二次世界大戦後と、少なくとも二度、大きな断絶を経験していて、それ以前と以後をつなぐことがむずかしい。
私たちの立っている場所がそういうところであるということだけは、せめて、覚えて語り継ぐべきなのではないだろうか。
「語り継ぐ」とは、戦争体験の枕詞のように言われる言葉だ。
けれど、「語り継ぐ」べき最初の認識は、まずなんなのか?
「自分たちが、自分たち自身と切れている」ということではないのか。
■心の防御メカニズム
「ねえママ、言っておきたいんだけど」
と、2011年の8月15日、昼の日盛りに妙な衝動にかられて炎天下で母に電話する。
「『真珠湾はだまし討ちではない』という判決が、東京裁判で下りているのよ」
「そうなの……?」
受話器の向こうで母は言う。その言葉に抑揚も個人的な感情表現もない。
しかし、私は卒然とさとる。
なぜ、気づいてやれなかったのだろう? あまりにつらいことだと、人はそれを他人事のように語る。自分のことと思ったら痛すぎるから。痛すぎて生きていけないから。
自分もいちばんつらいことは、そうしたじゃないか。
自分のことを他人事のように語ろうとすること、感じようとすること。それこそ、精神医学的に「解離」と呼ばれる心の防御メカニズムなのだ。
自分のなかに横たわる、自分との断絶、解離。
それは親たちのものでもあった。
親たちのそれを、気づいてやれなかった罪は私にもある。
夏の光は明るく残酷だ。
それにさらされて、電話で気取られないように、私は泣く。
「でも」
母は言う。
「やっぱり真珠湾のことを言われたら、何も言えないわ」
「だから……」
言い募っても無駄だと私はわかっている。
喉から漏れ出そうな声を殺す。ただ蝉たちだけが、耳を聾(ろう)するほどに。 8月15日。 〜第1章 母と沈黙と私(了)
* 赤坂真理(あかさか まり) 1964年、東京生まれ。作家。1990年に別件で行ったバイト面接で、なぜかアート誌の編集長を任され、つとめた。編集長として働いているとき自分にも 原稿を発注しようと思い立ち、小説を書いて、95年に「起爆者」でデビュー。著書に『ヴァイブレータ』(講談社文庫)、『ヴォイセズ/ヴァニーユ/太陽の 涙』『ミューズ/コーリング』(ともに河出文庫)、『モテたい理由』(講談社現代新書)など。2012年に刊行した『東京プリズン』(河出書房新社)で毎日出版文化賞・司馬遼太郎賞・紫式部文学賞を受賞。神話、秘教的世界、音楽、そして日々を味わうことを、愛している。
愛と暴力の戦後とその後 (講談社現代新書) | |
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今になっては遅い、良き伝統は取り戻せない。
良いではないかこのままで。