世相を斬る あいば達也

民主主義や資本主義及びグローバル経済や金融資本主義の異様さについて
定常で質実な国家像を考える

●世界の喧騒を尻目に 文明の瀬戸際「日本」だから出来ること 

2015年11月10日 | 日記
経済と人間の旅
クリエーター情報なし
日本経済新聞出版社


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●世界の喧騒を尻目に 文明の瀬戸際「日本」だから出来ること 

9日の東京株式市場で日経平均株価の 午前の終値は前週末比412円高の1万9678円と大幅に続伸、終値も377円高となり、終値は1万9642円と2万円の大台にもう一歩まで来た。アメリカFRBの年内利上げの確率が上がったことで、円安・ドル高が進み、輸出関連企業の業績改善期待で賑わった。つまり、円安で輸出採算が改善し、円換算後の利益の伸びにつながる(為替差益)との期待が高まった事が要因のようだ。しかし、あいかわらず、輸出関連企業の数量的伸びは見当たらず、知らない内に儲かってはいるが、企業自体、実感なき儲けに戸惑いさえみられる。

足元の企業利益が円安株高の流れに乗って、利益は最高益更新等と褒めそやされているが、肝心の数量ベースは下げ止まりまでは見えているが、成長する要素が少ないと見る向きが多い。つまり、新規の設備投資はプログラムの変更などの投資はあっても、生産設備への投資は控えられたままである。為替による利益金は、企業にとって見せかけの利益でもあるわけだから、円高に振れた時には、すべてを吐き出すリスクを抱えている。謂わば、心理的には、預かり利益金のような性格になる。つまり、固定的な経費になる、賃金の上昇は、賞与を中心とするべきで、ベースアップと云う方向は極力避けたいのが本音だ。派遣法の改正で、正社員数を縮小できる法案で一息ついたが、企業人は、今の利益が、一時預かり金的の性格を有することを承知している。

つまり、輸出の拡大と云う成長神話に、口にこそ出さないが、懐疑的だ。企業経営者が、成長しない企業戦略などと言い出せば、銀行、株主、社員から、総スカンを喰うだろう。しかし、実際に経営判断として行われている事は、日本経済の成長神話に、身を委ねている企業は見当たらない。主だった企業の全体的な流れとしては、世界のマーケットを睨みながら、市場パイの拡大を目指し、自ら拡大するのではなく、M&A中心に、市場のパイを増やすと云う世界戦略に出ていると見て間違いはない。つまり、日本市場における、経済成長は、既に飽和状態と云うことだ。そのことを企業人は知っているが、口では経済成長余力はあると宣う。

金融関係も、そのように強気な企業が好ましいと思っているのだから、そのように見せないわけにはいかない。経産省、財務省中心に、安倍政権の経済政策は作られているだろうが、企業人含めて、誰も本当のことを言わない状況で、幾年もが過ぎてゆく。生き残るためには、売り上げを伸ばさざるを得ない。既存のマーケットで増やせない以上、人の持っている市場を買いに行くしかない。それがM&Aであり、その為には、魔女扱いされている「企業内部留保」の資金こそが、生き残りの最後の味方なのである。

アンチ経団連の筆者にしては、企業人に対して物わかりの良い話をするのだが、実態は、そう云うことだ。曲がりなりにも、上場企業の企画部長であった筆者には、その辺はよく理解出来る。しかしだ、謂わば、人の褌で相撲を取らないと、成長企業の体裁が整えられなくなった産業の限界点は、明らかに見えている。成長なき企業に明日はない。この神話は本当なのか、そろそろ考えるべき時代が来ていると思うのが筆者だ。世界全体の経済が、縮小しているからこそ、グローバル企業は、国境なき経済体制、グローバル経済を編み出したわけで、世界中の企業が内心知っているけど、言い出しっぺにはなりたくないままにここまで来ている。

10代、20代、30代と物を欲しがらない世代が後ろから追いかけてきている時に、50代以上の人々が、幾ら「成長こそ力なり」と叫んでも、笛吹けど踊らずになるわけだ。財務省も日銀も、ここを見誤った。シェアリングと云う概念が、市民生活に馴染む時代が来るとは思わないのが、団塊世代以前の人々だ。モーターショーなども年々人手が減っている。昨日のコラムで書いた部分だが、再掲しておく。経済成長が必要だ!と口にしている大人たちも、消費増税や社会保障の削減に遭遇して、倹約と云う経済成長の足を引っ張る生活を愉しんでいるのだから、酷く狡い!

■昨日のコラムより抜粋
『 日本経済を考える時に、定番化した「内需」と云う論点がある。総需要は、国内の民間需要と政府需要と輸出の合計で、国内の民間需要が全体のおよそ65%、ほぼ3分の2を占めているため、国内の民間需要の増減がGDPのそれに与える影響力は大きい。また、国内の民間需要においては、家計の消費支出と住宅建設が全体の8割を占めていると云う実情を考えると、トンデモナイ分野(グローバル展開出来る輸出製造業)に光を当ててしまった。
 財務省が放ち続けた「国家の借金は1000兆円!国民一人当たり800万円!」のマスメディア総動員体制のプロパガンダが功を奏し、何が起きたのか?そもそもは、国家が日本の場合、国民からの借金をしているにもかかわらず、「お前らは赤ちゃんまで含めて、一人当り800万の借金がある」と倒錯した言説を振りまいたことに端を発する。一定の範囲で生真面目な日本人は、「これは大変だ。国家が赤字だと騒ぐと云うことは、社会保障を徹底的に削減してくるだろう」そう読んだわけだ。
 そのような考えが浸透したことで、「財政のバランスは大切だ」と云う言葉は、政治家、役人、国民に至る部分で、合言葉のようになった。しかし、個々の国民は、自分の家庭の支出は抑えなくてはならない。いずれ、支払われる保証は削減され、取られるものは増加の一途に違いない、そう思ったわけだ。つまり、政府のやることに反対しても、大した効果はないのだから、自営本能が働くのは当然だ。そこに、追い打ちをかけるように消費税が5%とから8%に上がった。消費生活における税金が6割も上がったのだから、益々倹約精神は強固になる。
 これで、国民の消費生活のパターンは決定的になった。NHK初め日本のマスメディアは、日銀の金融緩和による円安と株高で、僅かに発生したバブル族の映像を流し、高級品が飛ぶように売れている、株高景気だと煽ったが、多くの国民は冷静で、そのような情報を歯牙にもかけていなかった。国家は、国民を締めあげることしか考えられない立場に追い込まれたのだから、必ず締め上げだけが到来する。こうなると、日本の国民のような人々は、想像以上にしぶとい。論理的には、国家と国民の我慢比べになっているのだが、絶対的に国民の我慢強いのである。また、もの言わないが狡猾で強かだ。』


以下は民主党衆議院議員・篠原孝議員のメルマガの一文だが、中々思い切ったことを書いている。本来、政治家は、こういうことを発信できなければならない。滅多に出遭わない、政治家の意見だけに、興味があるので、一読願いたい。ただし、同議員への支持を表明したわけではなく、ここに書いてあるような目線を発信したことを褒めている。

注:篠原議員は『成長主義という宗教に陥った人たちには、縮小とか小日本とかはとても受け入れられないのはよくわかる。しかし、軍事大国主義も経済大国主義も小国日本には分不相応であり、必ず破綻する。余計な物は造るなと財界人に言っても拒否するだろう。余計な物を買ったり使ったりするなと言っても、消費者はキョトンとするばかりである 。』の部分だが、前半はその通りだが、最後の『余計な物を買ったり使ったりするなと言っても、消費者はキョトンとするばかりである 。』は若い世代の状況把握が幾分不備に思われる、とあいばは思った。


≪縮小社会研究会』の主張がいつ日本で受け入れられるか-日本は分際をわきまえた生き方が必要-
 <流れが止まった京大キャンパス>
この秋、久方ぶりに母校京大のキャンパスを訪れた。
私の学生時代は、東大入試がなくなるなど、大学紛争が華やかな時代である。大学のキャンパスは中国の漢字(簡略体)の立て看板があちこちにあり、建物にもペンキでスローガンが掲げられていた。いってみれば雑然とした小汚いキャンパスだったが、何か温かそうな雰囲気も漂っていた。私はというと先輩からただで譲り受けた愛車(といっても古自転車)に乗り、大学のちょっと北にある上終町の3畳の下宿を往復していた。
40数年前と比べ、きれいになっていた。多分木々は大半がまだ同じだろうが、自転車は皆新品ばかりで、前輪を固定する自転車置き場に整然と並んでいた。土曜なのに本部の図書館の前に平日のように学生が群がっていた。私もあの中の1人だったと思うと、月日の流れを感じてじ~んと来るものがあった。

<京都ならではの縮小社会研究会>
しかし、私は感慨に浸っているわけにはいかなかった。丸一日かけて作成したレジメ(「環的中日本主義の勧め」)をもとに、「縮小社会研究会」で1時間講演をしなければならなかったからだ。
「縮小社会」などと言えば、それこそしみったれており通常は相手にされない。特に威勢のい いことばかりを並べ立てなければならない政治家にはとても受け入れられまい。そういう点、首都東京の喧騒から離れた京大だからこそ、まじめになって「縮小」について語り合えるのだろう。
この研究会は全国的には知られていないが、2008年に松久寛京大名誉教授(振動土学)を代表に京大の博士(教授)の皆さんが中心となって結成したグループであり、それ以来地道に研究会を重ねてきている。先輩格のグループに「エントロピー学会」がある。名称は異なるが、目指すべき理想社会は全く同じである。

<農的小日本主義>
世間はまだ経済成長の夢を捨てきれずにいるが、資源は枯渇に近づきつつある上に環境上の制約もあり、成長路線を突っ走ることはできなくなっている。 市場拡大も発展途上国に少し残されているが、それぞれに国が自ら必要なものを作り出している。
日本がいつまでも加工貿易立国を続けられるはずがなく、低成長は当然のこととして、縮小も視野に入れて将来設計をしていかなければならない、というものである。
詳しくは「縮小社会への道」( B&Tブックス 松久 寛編者)をお読みいただきたいが、こうした考えで本をまとめたのは私の方がずっと先であり、1985年「農的小日本主義の勧め」を上梓している。今回、同好の士ということで、私にお呼びがかかった次第である。

 <世界の先達の警鐘>
こうした考えは、世界ではケネス・ホールディングの来たるべき宇宙船地球号という考え方(1966)に始まり、「成長の限界」(ローマクラブ) (1972)、「Small isbeautiful」(人間復興の経済)(フリードリッヒ・シューマッハー)(1973)、「沈黙の春」(ルイチェル・カーソン)(1974)、「ソフト・エネルギー・パス」(エイモリー・ロビンズ)(1979)、「エントロピーの法則」(ジェレミー・リフキン)(1980)、「西暦2000年の地球」(アメリカ国務省)(1980)と続いた。
私も何となく世界がこのまま進んでいいのだろうかと漠然と考え始めていた。そして、これらの書物により、まんざら間違っていなかったと一安心した。
一方、石橋湛山の小日本主義に魅かれて書いたのが、上述の「農的小日本主義の勧め」である。資源・環境・エネル ギーの限界から導き出される、当然の帰結である。

 <気づいた日本の見識ある人々>
日本でいうと、「自動車の社会的費用」(宇沢弘文)(1974)、「エネルギーとエントロピーの経済学」「水土の経済学」(室田武)(1979・1982)、「人間復興の経済学」(小島慶三)、「石油文明の次は何か」(槌田敦)(1981)、「生命系のエコノミー」(玉野井芳郎)(1982)、「破滅にいたる工的くらし」(1983)、「未来へつなぐ農的くらし」「共生」(槌田劭)(1981-83)が同じ考えにより書かれている。
今でこそ多少現実味をもって受け入れられるが、高度経済成長のまっただ中の1980年代では、とてもまともに相手にされなかった。 私は、いろいろなきっかけで上記の室田、槌田兄弟等と知り合いになり「エントロピー学会」に入り、交流・勉強を続けてきている。
近年では、さすが感性の豊かな日本の若手も同様の主張をし始めた。
「定常型社会」(広井良典)(2001)、「資本主義の終焉と歴史の危機」(水野和夫)(2014)、「里山資本主義」(藻谷浩介)(2015)といった人たちである。

 1時間の講演の内容をここに再現するには紙数が足らない。そこで私のレジメのエキスをなぞる形で紹介するので、我々の考え方を読み取っていただきたい。
<日本型農業こそ21世紀の持続的農業
 縮小社会を農業でみると、
①労働生産性よりも土地生産性重視、
②鉱業的農業(資源収穫型農業)よりも環境保全型農業(資源循環型農業)、
③大規模単作農業よりも中小規模複合農業、
④安全、新鮮、味等の質を重視する日本人に原産地表示を徹底して国産を後押しするといった具合である 。
<食の世界の縮小社会化>
 世界各地で農場と食卓の距離を短くする方向に動き始めている。TPPの下、日本の農産物を輸出すればよい、などとトンチンカンなことが言われているが、縮小社会では食料の貿易量は減らさなければならならい。
① スローフード(イタリア)は、1986年北部の小さな町ブラに始まる。ファストフードに対抗したもので、世界中に広まっていった。
② 身土不二は、そもそも仏教で別の使われ方をしていたが、日本で大正時代から「地元の旬の食品や伝統食が身体に良い」という意味で使われ始めた。この考えが韓国に広がり、有機農業の標語として開花する。
③ 英語を話せるインテリフランス農民ジョゼ・ボベは、マクドナルドを「多国籍企業による文化破壊の象徴」に見立てて、中部の小村ミヨーに建設中だった店舗を破壊した。以後、反グローバリズムの旗手と評されることになる。
④ 1994年、イギリスの消費者運動家の旗手ティム・ラング教授がフードマイルを短くすることを提唱し出した。私が農林水産研究所所長時代に「フードマイレージ」(重量×距離:tkm)として発展させた。
⑤ 地産地消、旬産旬消(Produce Locally、Consume Locally:Produce Seasonally、Consume Seasonally)は、私が地のもの旬のものを食べるとよいということを四字熟語にしただけのことである。今は世界に広まっている。この延長線上でWood Mileage, Goods Mileage(韻を踏んでいる)を使い、環境の世紀には貿易量もなるべく少なくしたほうが良いという論拠にしている。これは自由貿易こそ世界の基本ルールと考える人には、狂った考えとしか映らないであろう。
<地産地消は縮小社会の理想を具現化
①農政:地域自給率が向上し、不耕作地(耕作放棄地)の有効活用ができる。
②消費者:顔が見える範囲で安心、トレーサビリティ(追跡可能性)の確保される。
③生産者:食べる人の顔が見えることは何よりの励み、高齢者の生きがいとなる。もちろん小遣い稼ぎにもなる。
④環境:フードマイレージはゼロに近い。
⑤地域経済:地域通貨(エコマネー)などいらない。
⑥地域社会:食が結ぶ連帯感が醸成される。食と農の世界で縮小社会にピタリのもとなる。
 <江戸時代は宇宙船地球号の考え方を実現していた>
 縮小社会の根幹は既に江戸時代にみられた。日本江戸末期から明治にかけて日本に来た外国人(ペリー、ハリス、イザベラ・バート、モース、 オルコック等)の多くが日本紀行文なり日記に、江戸期の日本の素晴らしさを記している。
それを渡辺京二が『逝きし世の面影』という名著で紹介しているが、 現在と比較列記してみるといかに日本が変わってしまったかが見えてくる。
(1)皆が幸せそうで笑顔であったが、皆しかめ面になってしまった。
(2)子どもを大切にしていたが、育児放棄や児童虐待の報道が絶えなくなる。
(3)あまり働かなかったが、形式上はワーカホリックに陥ってしまった。
(4)お祭り好きは同じだが、大きな祭りだけが残り、町や村の祭りは消えつつある。
(5)街や村も今もきれいだが、一昔前はもっときれいだったと思う。特に中山間地は、今は空き家と耕作放棄地だらけになってしまった。
(6)金持ちの生活も簡素だったが、今はどの家庭も部屋にモノがあふれている。
(7)余裕があり文化は贅沢だったが、今は経済優先、余裕がなくなりケチり始めている。
(8)何事も器用だったが、だんだん失われつつある。
(9)犯罪がなく安全な生活も、国際化の下過激化の傾向がある。
(10)人口は安定(中期以降3000万人)していたが、明治以降急激に増え、今は減少期に入っている。

 それから150年余、日本はうまく西洋方式を取り入れて今日に至ってい る。しかし、当時開国を迫り自分達の方式を押し付けんとした外交官たちの大半は、本音ではこのおとぎのような国、日本に変わってほしくないと願っていたのであろう。
 それと今、日本はTPPで日本の仕組みをかなぐり捨てて、日本的なるものを全て失おうとしているのだ。愚かとしか言いようがない。

<日本は分際をわきまえていきるのが賢明
 成長主義という宗教に陥った人たちには、縮小とか小日本とかはとても受け入れられないのはよくわかる。しかし、軍事大国主義も経済大国主義も小国日本には分不相応であり、必ず破綻する。
余計な物は造るなと財界人に言っても拒否するだろう。余計な物を買ったり使ったりするなと言っても、消費者はキョトンとするばかりである 。
 そこで私は「環的中日本主義」なる造語で中庸を得た生き方を説明しようと思って、このタイトルの講演をした。どこまでわかっていただいたかわからないが、同じ価値観を持つ人が徐々に増えていることは実感できた。
≫(篠原 孝 メールマガジン438号 1104 から転載  〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/ 〔opinion5759:151106 〕)

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)
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