世相を斬る あいば達也

民主主義や資本主義及びグローバル経済や金融資本主義の異様さについて
定常で質実な国家像を考える

小沢強制捜査と福島原発事故 そこから見えてくる民主主義と中央集権

2011年07月13日 | 日記
日本国の正体 政治家・官僚・メディア――本当の権力者は誰か (現代プレミアブック)
長谷川 幸洋
講談社



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小沢強制捜査と福島原発事故 そこから見えてくる民主主義と中央集権


世の中、明日何が起きるかを予測することさえ大変なのだが、5年、10年先を予測するのは、さらに大変だ。まして、50年、100年後の予測は99.9%当たらないと思っても良いだろう。 しかし、近代社会に生きる我々は、何らかの予測なしに、漫然と生きることも許されていない。

個人の生活においても、このあてにならない予測であっても、生活設計の基礎として信じるしかないのが現実だ。或る意味で、予測から逆算して、今の自分はどうすべきか、此処を改善しないと等と考える事が多いだろう。勿論、この予測は多くの場合裏切られる事が多いのだが、それでも予測なしに生きることは無謀との誹りを受ける。他者から見れば“自業自得”なのである。

まぁ、個人的には予測なしに生きて、野垂れ死にするのも美学だとは思うが、世間では“孤独死”だと社会問題化してしまう。あの“孤独死”と云う言葉を聞くたびに、筆者は“なぜ死んだ本人に聞いてもいないのに、彼・彼女が孤独だったと言い切れるのか”と云う疑問を抱く。“孤独死”した人々は一見孤独に見えるかもしれないが、その人の心の中が孤独だった、と言える他者はいない筈である。 どんな貧乏人でも、金持ちでも、彼らには過去がある。過去の中には、嫌な思い出も、良い思い出もある。嫌な奴の思いでも、良い奴の思いでもある。“孤独死”だと言われる人々が、そのような思い出を、記憶の中で“出したり、ひっこめたり、抹消したり、過大評価したり”で悦に入っていた可能性だってあるわけだ。

他者などと云うものは、表層的事象をもって、他者を評するものだ。家族や友人に看取られれば“幸せ”孤独に死ねば“不幸”。なんだか釈然としない。“死ぬ時、人間孤独だろうが!なに馬鹿を言っている”筆者の場合、そう云う“孤独死”と云う言葉に違和感を常に抱いている。

今日はなにも“孤独死”について語ろうと思ったわけではないが、我々の世界には“つくられた常識や定説・観念・概念”がある。この常識やら観念・概念と云うものの多くが、世の中の多くの人間が何らかの利益を享受し得るコンセンサスの中で生まれる。この“利益を享受し得るコンセンサス”が目に見えない集合体を形成し、世の中を主体的に動かすことになる。それが実に驚くことだが、ありとあらゆる世界に根を生やしているようだ。

この“利益を享受し得るコンセンサス集合体”が俗に言う“既得権益集合体”なのだが、我が国にある“既得権益集合体”は大袈裟に言うと無数にある。その上、その集合体は“無意識下”にあり、表層的だとは言い難い。 勿論、或る“既得権益集合体”にスポットを当て、それを執拗に追いかければ、全容は見えてくるし、その実態を学ぶことは出来る。しかし、それを何ら関係のない国民が、思いつき程度で知ろうとすることはあり得ない。偶然手にした本に、そのような情報が載っていたからといって、それで何か行動を起こすということはないだろう。筆者も概ね、そんな感じの一国民に過ぎない。

ただ、09年3月の小沢一郎にまつわる一連の東京地検特捜の強制捜査以降、我が国の“既得権益集合体”を観察してきたのだが、今回の東京電力福島原発事故に関しては、ありとあらゆる事象において、この“既得権益集合体”が我が国の成長を阻害していきた“元凶”を如実に現す事態はなかった。

逆説的で物悲しくもあるが、民主党による“政権交代”が我が国に齎した貢献は、現状数少ないわけだが、“既得権益集合体”が如何に構築され、如何に組織を維持し、如何に反対勢力を世間の片隅に追い込んでいたのかを知ることが出来たことは、幸運である。知っただけでは、自己満足に過ぎないので、せめてコラムで発信する程度の役目を果たそうとしたわけだ。自分が考えている以上に、読んでいただけているので、多少は役立っているのかもしれない。

まぁ福島原発事故の対応を観察して行くと、ありとあらゆる面で、日本の“既得権益集合体”の病巣が見えてくる。先ずは、原発神話の嘘八百だ。現に、原子炉が破壊され、放射能が外界を汚染し、5年、10年後、国民にどのような肉体的変化が現れるか、少なくとも、それを隠すことは不可能だろうから、いずれ判決は出る。地震学者が日本列島が地震の活動期に入ったと宣言しても、未だに“電気が欲しい!”と叫ぶ卑しき経団連の会長がいる。交付金や原発関連事業で潤い続けた組長連中は、万が一にしか起きないリスクの為に、今の生活を失うわけにはいかないと、推進の旗を振りたがっている。

電力会社を地域独占企業にする代わりに、官僚はその勢力を伸ばせるだけ伸ばし、ウィルスのように国体のあらゆるシーンに触手を拡大し、自らの利権天下り先を増やしたわけである。そのような自己増殖に妥当性・合理性を持たせるために官僚は、世の中に風を吹かせる点で工夫をした。アカデミックな論理的裏づけを東大と中心とする学者たちに論じさせた。それをマスメディアを通じて、世の中に流布し、風を吹かせ、尚且つ定着に余念がなかった。当然、その為にかかる費用は、電力会社が負担をする構図だが、“その代わり総括原価方式で利益は保証するから”経営の心配はしなくて良いという図式だ。 もっと綿密に書けば、永遠に書いていられるほど、この電力会社と官僚・大企業・マスメディア・学者・政治家らの“既得権益集合体”に実は提灯をつけて生きて行く庶民も居るわけで、話は複雑になってしまう。

或る意味で、5割以上の国民が電力云々は別にして、何らかの形で“既得権益集合体”の一部として生きているわけだ。多くの人間は、好むと好まざるとに関わらず、何らかの形で、何らかの組織や共同体と結びついて生きている。そこには、多かれ少なかれ“既得権益集合体”を形成する素地がある。 哲学的には、そのすべてが問題なのだが、我々はソクラテスでもプラトンでもない。魔女狩り風な色彩もないではないが(笑)、この際、小沢一郎強制捜査事件を通して、日本の三権分立・民主主義を問い、福島原発事故を通して、中央集権的国家運営の手法を問い、国家の流れを変えると云う日常生活から乖離した、しかし重要な局面に立たされているのではないか、と痛感する昨今である。


日本国民に告ぐ―誇りなき国家は、滅亡する
小室 直樹
ワック


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