安倍「壊憲」政権に異議あり: 保守からの発言 | |
クリエーター情報なし | |
河出書房新社 |
応援に感謝、励みになります!
● “偽装合法クーデター” いつでも起きる議院内閣制の罠
昨日のコラムで「“919クーデター政権” 「隷米・軍国主義国ニッポン」誕生!」と云う見出しを書いたのだが、よくよく考えると、民主主義や議院内閣制。それと小選挙区制、政党助成金と云うターボ・チャージャーが付加された国の政治は、実は簡単に「全権委任政治」に変身する事実を、我々は知ってしまった。なにゆえ、これほど易々と準合法的な「クーデター」が可能なのか、愕然とする面もある。筆者は、イデオロギー的には「民主天皇制」と云う理想を持っているのだが、この思想は、次期尚早なのだろうと云うことで、あまり前面には語っていない。ただ、筆者が、「民主天皇制」と云う政治制度を考えるに至った、欧米デモクラシーの大欠点が現実的に現れたわけで、そろそろ、本気で語る時期は近づいているような気にもなっている。
まあ、筆者のイデオロギーは追々語るとして、民主主義とか、資本主義と云うものは、人間の「善的な資質」に多くを委ねている面がある。日本語で表現すれば、「徳」と云うことになる。もう少し、具体的に言えば、民主主義に関わることが出来る歴史的経過や訓練である。言い換えれば、民主主義や資本主義と云うシステムを、従来の意味合いで作動させようと云う人間の共通の意識が必要だと云うことだ。このような意識の共有があってこそ、民主主義も、資本主義も、本来の目的に沿う結果を生みだせる。
しかし、物々交換から、貨幣と云う利便なものが生まれ、産業革命(明治維新の産業革命じゃないよW)以降、製造業を中心とする“ヒト、モノ、カネ”の流通がなされた処までで、おそらくオシマイ(制度の臨終又は危篤状態)があったのだろう。しかし、次の新たなシステムを、人類は見つけることが出来ずに、金融資本主義と云う「魔物」へ、ステップアップさせてしまった。この金融資本主義はまさに“打ち出の小槌”のように、マネーがマネーを産み、また産むと云う、麻薬のような資本主義に至った。このことは、1%による、99%の人間の豊かさの剥奪に繋がっているわけだ。マネーと云う“観念的価値”は、生身ではないので、どうなろうと、痛いとも痒いとも言わない。
このマネーに人間が支配される世界が到来することで、企業の実存説も擬制説もヘッタくれもなくなった。企業を誰が支配しているかも、瞬間的には特定可能だが、その誰かは変りうるわけで、住所不定のマネーと云う怪物に、循環的に支配されてしまう。それが、現在そのものだ。最近、英労働党やギリシャで起きている極左なイデオロギーの抬頭、逆にフランスやドイツで起きている極右の抬頭。ピケティの『21世紀の資本主義』など、さまざまな現象として現れている。民主主義も、この資本主義同様の問題点を抱えていたことが、今回の安倍政権のあっという間のクーデターとして、起きてしまったのだ。
今回の「“919クーデター政権” 「隷米・軍国主義国ニッポン」誕生!」のような出来事が、軍隊を動員することもなく、詐欺的だが合法の範囲で起きてしまったのか。その部分を、我々は真面目に考えなければならないのだろう。特に、今後も民主主義と資本主義をセットにして、日本と云う国を考えるのであれば、なぜ?こんな「おかしいだろう、 これ。」の一言しか言えなくなるわけだ。言い得て妙な表現だ。ただ、ここで感想だけ言っているわけにもいかない。“どうしてだ”を考える必要がある。
現時点で、言えることは、国民が選挙の時だけ「政治」を考えていては駄目だと云うことだ。選挙で議員を選ぶ以上に、選んだあとで、フォローをしなければならない。良い意味では、応援し続ける、悪い意味では監視し続ける。民主主義制度が成り立つためには、どうもこれがないと、日本では「政党」の独裁が、簡単に行える仕組みになっていた。つまり、戦後70年以上、どの政党でも、政権を握った場合、今回のアベシンゾウが行ったクーデターは出来たという事実に“慄然”となる。ただ、幸いにも、そう云う恥じらいを感じる行為に走り出す政党も首相も、たまたまいなかっただけで、過去の政権で“クーデターは出来た”と云うことになる。
少々、話は堂々巡りしているが、書き連ねる時間しかないので、賢明な読者の皆様の英知に頼りながら、続けていこう(笑)。つまり、幸運にも、過去の政権は、「いくらなんでも」と云う矜持や徳や経験があったのだろう。たまたま今回は「矜持や徳や経験」のない人間が首相となり、政権を握ったからに過ぎないとも言えるが、こういう人間が連続して出てくる事もあり得るし、もっと凄いのが出てくることもある。だからと言って、憲法69条内閣不信任が、日本国のリコール制度となると、小選挙区制度や政党助成金制度との整合性は、まったく取れていない事を意味している。
ここまで、考えて疲れ果ててしまったの、「だから」と云う問題は、次回に回すが、国民が政権ウォッチを横着していると、権力は何をするか判らないと云う事が、身に染みて理解できたわけだ。戦争に対する拒否反応も、戦後70年以上が過ぎてしまえば、多くの人々は「戦争を知らない人々」に占められる。80歳以上の方々が後20年生きて、何かを語ってくれると期待しては酷だろう。経験が一番の教師ではあるが、他の動物を差別するだけの大脳を与えられた人間なのだから、過去を学び、現在を知り、未来を想像する為に、大脳を有意義に使いたいものだ。うっかりすると、我々の民主主義は、永遠に「独裁政権を生む運命」にあること、嫌になるほど、肝に銘じなければならないようだ。
こうやって考えると、平和ってものを、知らずに手に入れていた戦後70有余年、幸運だったに過ぎないのだ。これから、不幸の連鎖が継続しないように、心新たに、日本の民主主義の危険性を、忘れずにしたいものだが、日々の生活と云う難題に立ち向かいながら、訳のわからん政治にまで気を配らなければならないのであれば、動物農場でも良いやって人もかなりいるだろう。こういう人たちは、俺は運がいいから、政治で酷い目には遭わないと、思考停止になっているのだと思う。
生身の暴力論 (講談社現代新書) | |
クリエーター情報なし | |
講談社 |
海に閉ざされた日本の特徴は、「恥を知る文化」だという事。
あけすけな欧米のデモクラシーは合わないのかも知れない。
「恥を知る文化」の最大の具現者は、天皇だから、民主天皇制は、日本人のメンタルに合っている。
天智、後鳥羽、後醍醐以来、戦闘的な天皇もいないしね。
自衛官を鍛えて、鍛えて、防衛費を無駄にするな。