世相を斬る あいば達也

民主主義や資本主義及びグローバル経済や金融資本主義の異様さについて
定常で質実な国家像を考える

●魚住昭が斬る「日本会議」、彼らは何がしたいのか? シリーズ3

2015年07月27日 | 日記
右傾化する日本政治 (岩波新書)
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●魚住昭が斬る「日本会議」、彼らは何がしたいのか? シリーズ3

今夜は魚住昭氏のコラムで、危機を乗り切らせていただく(笑)。安倍晋三や官邸が政治的に苦しい立場になると、ネトウヨが元気づく。自民サポーター集団が、大挙してネットランキング等々でも暗躍するが、その裏では「日本会議」という、明治・大正・昭和の亡霊に導かれた、鵺のような勢力が跋扈している。本当に、こんな主張をする人々がいるのかいな?と眉唾になるようなブログが跋扈する。まあ、一過性な歴史的過ち程度で済めばめっけものだが、そういう多寡を括るのも危険だろう。本当に、このような無知蒙昧で恥知らずな「戦争法案」で、あたら若い日本人を戦死させる現実が起きたら、まさに青天霹靂。単なる安倍晋三らの火遊びでは済まされない。もっと、本気で書き連ねたいところだが、本業の締め切りに追われる身、今夜も引用掲載で糊口を凌ぐ。お許しあれ。


 ≪ 「戦後50年決議」をめぐる右派団体「日本会議」の暗躍
そして戦後70年の今、彼らは何をしようとしているか?

 ■「侵略戦争と認めるなど断じてできない」
 かつて「参院の法王」と呼ばれた村上正邦さん(82歳)は面白い人である。幼いころから筑豊の炭鉱で苦労してきたせいか、人情味があって懐が深い。政治信条は筋金入りの右派なのだが、主義主張の違いを超えて人を惹きつける何かがある。
 前に少し触れたが、私は8年前、彼のライフヒストリーを1年がかりで聞き取り取材した。彼の人生は波乱とペーソスに満ちていて、話を聞くたび私は泣いたり笑ったりしたものだが、ここでは中でも一番驚かされたエピソードをご紹介したい。
 1995年、自社さ連立内閣時代のことである。村山首相は戦後50年決議の採択を目指していた。が、連立相手の自民党は決議推進派と慎重派に分かれていた。
 慎重派を後押ししたのが、椛島(かばしま)有三氏が率いる「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」('97年に両組織が合併して「日本会議」になる)である。
 「守る会」と「国民会議」は前年4月「終戦50周年国民委員会」を立ち上げ、戦争謝罪決議の反対署名をはじめていた。その年秋には「国民委員会」の呼びかけで各地の県議会などで戦没者追悼の決議が相次いで行われ、翌年3月、「国民委員会」が謝罪決議反対署名506万名分を集めて国会に請願した。
 そんな状況下で森喜朗幹事長や加藤紘一政調会長らが何とか与党間の合意を取りつけようと奔走した。
 村上さんの回想。
 「焦点となったのは、決議で先の戦争が侵略戦争だったことを認めるかどうか、そしてアジア諸国に対する植民地支配に言及するかどうかでした。自民党五役は、私を除いて皆決議をやるべしと主張していた。私は侵略戦争だと認めるなんて断じてできないと突っぱねていた」

 ■参院幹事長室を占拠した日本青年協議会が激怒
 交渉が大詰めを迎えたのは'95年6月6日夜だった。
 どんな内容なら慎重派が了承できるかと加藤政調会長らが文案作りを繰り返した。その文案を衆院役員室で「これならどうです」と村上さんに提示する。彼はそれを参院幹事長室に持ち帰る。
 幹事長室は、椛島氏をはじめ日本青年協議会(=後の日本会議の事務局)の関係者らに占拠されていた。彼らは文案を見て「いや、これじゃ駄目だ」「この文言はああだ、こうだ」と言う。村上さんは加藤政調会長のもとに引き返し「この文案じゃ受け入れられない」と伝える。その繰り返しで夜が更けていった。
 最終的に加藤政調会長らが提示してきた文案はこうだった。
〈(前略)世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし、我が国が過去に行った【こうした】行為や他国民とくにアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する(後略)〉
 村上さんが口頭で伝えられた文案には【こうした】が入っていなかった。
 であれば、日本が「植民地支配や侵略的行為」を認めたことにはならない。その辺が極めて曖昧になるから参院幹事長室を占拠する連中も納得できる。村上さんはそう思ってOKサインを出した。じゃ、これでいこうと、その場でシャンシャンシャンと話がついた。
 再び村上さんの回想。
 「散会後に決議を成文化したペーパーをもらいました。その場で中身を 確認しておけばよかったんですが、そうせず幹事長室に戻った。それで皆(日本青年協議会の面々)に『だいたいこっちの要望通りになったから、これで決めたよ』とペーパーを見せたら、皆が『何だ、これは!村上先生おかしいじゃないか』と言い出したんです」
 村上さんが改めてペーパーを見ると、加藤政調会長らから口頭で伝えられた文案と明らかに違う。【こうした】がいつのまにか挿入されていた。これだと日本が侵略戦争をしたことを認めてしまうことになる。
 しかし、村上さんはついさっき役員会で了承し、その役員会は「村上からOKが取れた」と言って散会してしまった。今さら取り返しがつかない。
 村上さんがつづけて当時を振り返る。 「椛島さんらはものすごい勢いで怒った。私が彼らをペテンにかけたと言うんです。なかには私のネクタイをひっつかまえて怒鳴る者もいて、参院幹事長室は大騒ぎになった。とにかく目の血走った連中が『絶対阻止』を叫んで大勢押しかけて来ているわけですからね」

■日本会議はいま何をしようとしているか
 村上さんにしてみればペテンにかけられたのはむしろ彼だった。役員会で聞いた文案には確かに【こうした】はなかった。
  進退窮まった村上さんはそこで決断した。「衆院が決議するのはもうやむを得ない。しかし参院では自分が責任をもって決議させない。だから了承してくれ」と椛島氏らに言った。それでどうにかその場は収まった。
 村上さんは約束通り、参院での戦後50年決議をさせなかった。参院の主導権は村上さんの手にあったから議院運営委員会の段階で封じ込めたのである。
 これは極めて異例の事態だった。決議は衆参両院の全会一致で行うのが国会の通例だ。言ってみればそれが日本青年協議会の介入で覆されたのである。
 日本青年協議会の母体だった「生長の家」は既に代替わりして政治と絶縁し、創始者・谷口雅春の「明治憲法復元論」を封印しリベラル路線へ舵を切っていた。
 本来なら谷口思想を奉じる日本青年協議会は解体されるところだろうが、椛島氏らは教団を離れた後も協議会をつづけ、「参院のドン」のネクタイを締めあげるまでの力を蓄えていた。そのバックになったのが、彼らが事務局をつとめる「守る会」と「国民会議」の組織力であることはいうまでもないだろう。
 いま日本会議(+日本青年協議会)は、来年夏の参院選後を見据えて憲法改正を求める地方議会決議(ことし4月時点で27府県議会・36市区町村議会にのぼる)や1000万人署名運動などを大々的に進めている。 私の見るところでは、彼らにとって憲法改正は戦前の大日本帝国の“栄光”を取り戻すための一里塚にすぎない。その先にどんな未来があるか。想像しただけで背筋が寒くなる。

*参考:ハーバー・ビジネス・オンライン連載『草の根保守の蠢動』(菅野完著)、週刊金曜日2015年4月3日号
 ≫(現代ビジネス:わき道をゆく~魚住昭の誌上デモ――『週刊現代』2015年8月1日号より)

NHKや日本のマスメディアで情報を得ている限り、参院幹事長室に暴力思想勢力の人間たちが、参議院議長を吊し上げ、議院内閣制、憲法、刑法無視の行いが、自由に行われていた事実に愕然とする。このような勢力が、戦後の日本でも生き残っていたことは、形骸化したとはいえ、天皇を温存できたことに由来するわけだが、今上天皇の言動を見る限り、彼ら勢力とは、明確に相いれない線引きが見られる。この矛盾を彼らはどのようにクリアするのか、ここを考えておくべきだろう。今上天皇から、現皇太子へのバトンタッチの機会が、かなりのキナ臭さを感じるわけだ。そして、皇太子に替わるべきターゲットを、彼らは既に見定めていると看破しておく器量は必要に思う。


こうして、世界は終わる――すべてわかっているのに止められないこれだけの理由
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「古代史犯罪について」 (山形明郷)
2015-07-27 16:54:59
虚構史観誕生 ― アカデミズムの犯罪 ―1910年の「日韓併合」と相前後して始まった。
「皇国史観」に立脚し「日鮮同祖論」などを根幹とし、史学者達が日本の植
民地支配に都合の良い歴史解釈を始めだし、やがてその所産として、虚構史観の極みである「朝鮮民族史」を、日本人史学者達が誕生させるに至った…とい うことである。
当時、李朝下における一大碩学・李星湖(り・せいこ)氏の掲げた「朝鮮民
族の主体的発展の足跡、及びその歴史解釈と位置付け」は、時の日本国家権力 に庇護された史学者達によって、徹底的に誹謗・否定・罵倒され尽くした。

さらに、史書の改竄と偽造、遺跡の破壊移動と持ち出しがなされ、今日現在、
我々が当たり前の常識と見なしているがその実体は全くの虚構でしかない誤っ
た「朝鮮民族史」が、当時の日本の歴史学者達によって形成されるに至ったの
である。

  しかし、戦後、歴史が自由に研究されるようになると、もはやかつての「皇
国史観」や「日鮮同祖論」など、理論的にも実践的にも、真面に受けとめ難く
なったことは言うまでもない。

が、だが、しかし、である。日本の権威達が創作し残してきた「朝鮮民族史」
は、今日現在に至るまで放置され、それが現地に根付いてしまったままなので
ある。

この事実は、現在の日本人も朝鮮・韓国の史学者達も、ごく一部の人々を除
く他は知り得ていない。かつて朝鮮史研究を独占し、支配体制に都合の良い解
釈を事とする日本の学者達は、常に二つの側面と一つの核心において朝鮮史観
を組み立てていった。

 この二つの側面とは、即ち、一つは「北部朝鮮中国支配説・漢帝時の郡県進
出」であり、また他の一つは「南部朝鮮日本支配説」で、二つの共通の核心と
は「侵略史観」或いは「侵略論」であった。

朝鮮半島は何も日本が植民地として先鞭をつけたのではなく、或る時期、中
国の漢帝国の武帝の時代から、楽浪郡を始めとする四郡の進出によって支配さ
れたという前提のもと、これらの郡県の割り出しに明け暮れ、その調査に躍起
となり、以後、日本の学者達により、半島の歴史はこのようにして始まった…
と語られ出した。

漢の郡県中、最も有名なのが楽浪郡の位置付けである。しかし、この楽浪に
関する文献資料は、極めて断片的に混乱したものしか残存していないため、中
国側では6~7世紀ごろの史家達によって論じられていたが、この郡を今日の
平壌を中心とする地方と決定づけたのは、日本の植民地支配体制が整ってから
の話であったと指摘されている。

このような大胆な、かつ驚異的と言うか、むしろ「犯罪行為」とも言えるよ
うな改竄偽造がなされたのは、1916年、朝鮮総督府古跡調査団が、平壌付
近の木槨古墳群を発掘調査することによって始まった。

1923年から24年にわたる発掘調査は、学術調査に名を仮りる盗掘以外
の何ものでもなかったと韓国史学界から指摘されており、続く1924年と2
5年における旧東京帝大の第二回学術調査と称されるものがあり、この時の調
査も世上の顰蹙を買い、むしろ破壊に等しい行為と朝鮮史学界から言われてい
る。

今、ここに、これらの行為をなし、「今日まで誰からも指摘されず、誰から
も裁かれず」、権威の原点の如く見なされている学者達の名を列記してみよう。

先ず、文献史学への徹底的改竄偽造をなし自らの独自の史観形成をなした人
物は、旧帝大の今西龍・白鳥庫吉・鳥居龍造・津田左右吉の各氏、及び池内宏
・浜田耕作・掛川亀五郎の各氏等であり、又、地理学の面では小藤紋次郎氏が
挙げられる。

旧帝大の権威・小藤紋次郎氏は、今日の朝鮮半島内で不明・不詳であった山
岳・河川などの名称を、旧満州方面に存在した名称を持ち込んで新たに附名し
て回ったと言う。このことは、小藤博士と郷里を同じくする存命の方からの聞
き伝えである。

ちなみに、北朝鮮慈江道・両江道に存在する山岳で「蓋馬高台」があるが、
これを高句麗の蓋牟(馬)大山に比定して語ることは許されない。この名称こ
そ、小藤氏が附名した代表的なものであり、又、韓国忠清南道方面にも附名が
多々見られる。この事実は、朝鮮・韓国の史学者も意外と知らないようである。

極論するならば、旧満州方面の地形・地名を無理矢理、朝鮮半島に押し込ん
だ感がしなくもない。そこに大きな歪みが生じてくる。このことは、中国史書
や三国史記の記述の詳細な検討をすれば、事実が判明してくる筈である。

今日、日本で古代史研究に取り組んでいる多くの人々の間では、過去にその
ような行為が存在したことを知らず、或いは知ろうとせず、改竄偽造されて構
築された史観を鵜呑みにし、それを前提として古代東アジア史を眺める故、ボ
タンの掛け違いと同じく、何処かで無理な附会を事とする羽目となる。

正しい歴史像は如何なるものであったのか、又、正しい朝鮮・韓国問題への
認識と再確認がなされぬまま、「朝鮮民族史」を語る故、それは過去の悪夢で
しかあり得ない「他律論・外因論・停滞論」に埋没し、様々な形や解釈が投影
され、極めて癒し難い存在となってしまっている。

しかし、斯く言うと、「史料批判」・「朝鮮蔑視」に繋がり、我が国では即
座に反発・罵倒となって返ってくるのが落ちであろう。

改竄偽造の不名誉な第一人者が今西龍氏であり、彼の言動は当時の朝鮮の実
学者達に、やり場のない深い陰りを宿さしめ、その怨念の感情は今なお引きず
るに至っていると言われている。

「北部朝鮮中国支配説」で漢の郡県をことごとく今日の朝鮮半島内に位置付
けた人物が今西龍氏であり、その病根的史観をそのまま鵜呑みにして古代東ア
ジア史を語り研究しているのが日本の学者達である。

では、この「北部朝鮮中国支配説」に関して、解放後の朝・韓史学者の真摯
な意見はどのようなものであろうか。

先ず「楽浪郡」については、遼寧省大凌河以東・渾江流域までであり、今日
の平壌付近には置かれていなかった。

又、「真番郡」は卒本(ソボフル)以東、豆満江まで、これは後年(前82
年)楽浪に併合され、為に楽浪郡は東に郡域が拡大された。そこで「東部都尉」
と「南部都尉」の二つに分治される。

さらに又、「玄莵郡」だが、この郡は移動はなはだしく、「遼東郡」と共に
沿革は一定しなかった。最初は遼寧省新浜県の西(第一玄莵)に置かれたが、
扶余・高句麗の攻略に遭い、郡治を今日の瀋陽市東郊に移す(第二玄莵)、次
いで遼陽市以西に移動(第三玄莵)。玄莵は三度移動している。

「臨屯郡」、これは「遼山=吉林哈達嶺」南麓一帯。後、玄莵に併合され、
「玄莵郡華麗城」は今日の遼寧省平頂堡。

これら一連の漢の郡県設置とは、旧満州経略を言うものであり、今日の朝鮮
半島進出を指すものではない。この郡県設置の見直し一つにしても、「朝鮮史
観」再考の実証になる筈である。



暗雲低くたれ込めて、豚(政治家)肥え、草(国民)枯る秋津州(しま)。
世相の先も見通せず、祖国の命運はた如何に、外史、病あつかりき。
                           御免蒙ります。
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日本会議の敵は「国民国家」 (加藤 貴史)
2015-07-29 07:23:28
日本会議のメンバーを見てみると、新自由主義と親和性が高い人間が多いです。新自由主義は国民国家の枠組を嫌悪しているだけに、彼らの敵は「日本という国家」に止まらず、世界中の国民国家という枠組かもしれません。今後、この集団を「無意識に」生み出した日本人の責任が大きく問われるでしょう。
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