世相を斬る あいば達也

民主主義や資本主義及びグローバル経済や金融資本主義の異様さについて
定常で質実な国家像を考える

●原発から安全保障を考える 安保破棄、重武装・非武装

2019年02月06日 | 日記

 

ゲンロン0 観光客の哲学
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これからの教養 激変する世界を生き抜くための知の11講
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ディスカヴァー・トゥエンティワン

 

チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β vol.4-1
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ゲンロン


●原発から安全保障を考える 安保破棄、重武装・非武装

重武装中立論をまっとうに語っているのは宮台真司くらいのものだ。

非武装中立論は日本共産党が段階的に実現しようとしているが、メインストリームではない。

日本の防衛は、日米安保に永遠に頼り、米国との集団的自衛権行使という名の下で、徹底的に死活を共にすると云う安倍自民党の考えが、政府方針になった。

ここまで、米国追随する日本の防衛体制は、結果的に、一義的に自国を防衛しているように見えて、最終的には米国本土防衛の防波堤にされる疑念は深まっている。

憲法改正の如何に関わらず、自衛隊が集団的自衛権行使出来る、日米案体制になった以上、論理的には、憲法改正は既に実行されているのだ。

その意味で、安倍政権にとっての憲法改正は、一種のセレモニーに過ぎないので、政権にとっては、改憲を、やってもやらなくても、さほどの差異がないのが現状だ。

いずれにしても、現状の自民党や立憲民主党、国民民主党等々の日本の既成政党は、日米安保体制を維持する立場だ。

そういう意味では、かなり長い時間、宮台の言うところの、対米自立、重武装中立の概念を、政治に反映する可能性はゼロに近い。

しかし、何度もコラムで書いているように、世界は激変期に入っている。金融資本化した資本主義は限界点に達している。

おそらく、グローバル化した金融資本主義を終わるのだろう。そして、その終わり方は、世界各国に、大きな痛みを与えるに違いない。

最近筆者は、そこから先のことを考える。かなり、夢想的になるのはやむを得ない。

しかし、考えておくべきことだ。自国の未来をイメージしておくことが、次の政治のフェーズに欠かせないものだと考えている。

我が国の最大のテーマは「日米安保体制」なのは、確実だ。この同盟関係を、正しく評価して、はじめて、日本と云う国について考えることが出来る。

つまり、日米同盟ありきの枠組みで議論する連中は、近い将来の「日本」に責任を持っていないと言っても良いのだろう。

筆者は軽武装、非武装中立を理想とするが、そこに行きつくまで、残念だが、重武装中立論が、過渡的(仮武装)に不可欠と考える。

今夜は、時間の都合上、宮台真司×東浩紀の対談の中から、その論拠を探ろうと思う。

以下は、『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』(東浩紀著)についての両氏の対談を参考掲載する。


≪欲望される現実へ——チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド発刊記念対談 宮台真司 /東浩紀
 複雑な現実が浮かびあがる方向——宮台真司×東浩紀 【前編】

【 いまチェルノブイリの原発事故跡地に、年間1万人を超える観光客が訪れているのをご存知でしょうか。「事故収拾の目処もつかない福島が、いかに復興しうるのか?」。思想家の東浩紀さんらは、その手がかりを求めてチェルノブイリを訪れ、『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』を制作しました。その刊行を記念し、版元のゲンロン代表であり編集長でもある東浩紀さんが、原発問題に関心をよせ、積極的な発言を続ける社会学者・宮台真司さんを迎えて、震災後の未来について語り合いました。安全と危険、反原発と原発推進、単純な二項対立には収まりきらない現実とどのように向き合っていくべきなのか、ふたりの対話ははずみ、深まっていきました。cakesでは前中後編を無料公開します。】

東浩紀さんの人気連載エッセイ『検索ワードを探す旅』もあわせてお楽しみください。

チェルノブイリは議論を尽くしたうえで浮かび上がろうとしている

東浩紀(以下、東) 今日はありがとうございます。また半年ほどご無沙汰してしまいました。

宮台真司(以下、宮台) お久しぶりです。社長としてもバリバリとお仕事をされているようで、物理的にもさらに大きくなられたような……。

東  物理的に大きくないと、社員に威圧感を与えられないもので(笑)。

宮台 あははは、やっぱりそういうものですか。

東  今日は弊社『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』の発刊記念イベントということでお越しいただきました。けれどもあいにく発刊が延びてしまいまして……。ゲラをお送りさせていただいたんですが、パラパラとでも読んでいただけたでしょうか。

宮台 拝読して感動しました。東くんの「福島第一原発観光地化計画」って、最初は思いつき半分だろうと考えていたんです。ところがどっこい、現実にこれほど分厚い「チェルノブイリの観光地化」の実態が存在していた。すごく驚きました。しかも、本当にこの3~4年の間で「チェルノブイリの観光地化」が進んだという話。なんという時の運に恵まれた人だろうとも(笑)。

東  褒めていただけてよかったです。「思いつきだけでうまくやりやがって!」ということじゃないですよね?
宮台 たぶん(笑)。

原発事故跡地を「観光地化」するという提案

東  宮台さんは福島第一原発事故以降、さまざまな発言をされています。僕は今回のチェルノブイリ取材では、福島をどう語るかということについて、ひとつの新たな視点を提示したつもりです。「観光地化」という提案については、どう思われましたか?

宮台 原発事故にかぎらず、何事につけ忘却に抗うのは大切です。そのためならなんでもやるべきでしょう。僕たちは、日常生活を送りながらノイジーなものを忘れていきがちです。理由は“認知的整合性理論”が説明してくれるとおりで、日常の自明性に整合しない事柄を、忘却を含めて整合するように体験加工する傾向があるからです。
 加えて、日本社会のコミュニケーションは、“共同体的前提の同一性”に対するこだわりがとても強いでしょう? 共同体的前提と異なる前提に立つとコミュニケーションが難しくなるので、忘却に向けてさらに動機づけられます。`

東  前提となる立場や認識が共通でないと、コミュニケーション自体が成り立たない。つまり、異なる立場や少数派のものの見方は、話題にものぼらなくなってしまうということですね。

宮台 ええ。この忘却癖に抗うには、「福島第一原発の観光地化」も不自然なアイディアではありません。原爆ドームの前例もあるし、むしろ必要じゃないかと思います。それがどんな種類の問題であれ、忘れてしまわない限りは議論を続けられるからです。議論が途絶えることは、再び〈フィクションの繭〉に閉じ込められることを意味します。

東  そのとおりです。福島の復興、そして日本の未来を考えるためには、事故の記憶を次世代に伝え、議論し続けていくことがまず必要だと思っています。

宮台 災害は社会が“沈む”ことです。だからこそ、どう“浮かび上がる”かが問われます。たまたま今日、僕が関わっている教会関連の集まりで「洗礼」について話してきたところです。洗礼はギリシア語の「バプテスマ」ですが、もともとの意味は“洗う”ではなく“沈める”。深く沈めた後に浮かび上がらせるという“死と再生”のメタファーです。
 チェルノブイリ原発の事故から27年も経つからか、東さんが編集されたこの本では、一度は“沈んだ”チェルノブイリが、どういう方向に“浮かび上がろう”としているのかが、目に見えます。その具体的なイメージは、福島が“浮かび上がる”べき方向について重大なヒントをくれます。その意味で、この本の意義はものすごく大きいですよ。 多くの議論が尽くされた末に

東  ありがとうございます。僕が今回、チェルノブイリを訪れて感じたのは、思っていた以上にさまざまな議論の蓄積があるということです。この本では8人のウクライナ人にインタビューをしているんですが、チェルノブイリをどう未来に残していくかということに対して、すでに多くの論点が出ているんですよね。いろんな紆余曲折があったうえで、それぞれ違う立場からみな「観光地化」には賛成というのがとても印象的でした。
 日本では3.11以降、チェルノブイリについての報道がたくさん出てきました。けれども多様な論点があったとは言いがたい。今回、僕たちがウクライナにいたのは6日間、取材にあてることができたのは4日間なんです。たった4日間の取材でも、日本でいままで報道されていないことが実に多くわかった。裏返すと、今までのチェルノブイリ報道の偏差というか、特定の視点がわかってしまったところがあります。被災者はいまでも健康被害に苦しんでいて、廃炉作業は終わりが見えない、しかしウクライナ政府は原発を推進している、それだけで終わっているんです。 宮台 奇しくも今日の朝日新聞に、その類いの記事が出ていました。

東  もちろんそれは真実なんです。だけど、同時に別の側面もあって……。たとえば、今回インタビューしているアレクサンドル・シロタさん(国際NPO「プリピャチ・ドット・コム」代表)という方がいます。彼は小学生の時に原発のすぐそばの街・プリピャチで被災したんですが、今はNPOを立ち上げて、ゾーン(原発周辺の立入禁止区域)に国内外からの観光客を案内している。彼は自分が生まれ住んだ街をもっと多くの人に知ってほしいと願い、そのために活動しているのですが、一方で資本主義や政治を憎んでいます。事故の後遺症で苦しんでもいる。「ぼくは政府の世話にはなりたくないから、障害者手帳は持たないんだ」って宣言しているんですね。

宮台  シロタさんと、その並びに出てくるセルゲイ・ミールヌイさん(作家・チェルノブイリ観光プランナー)が、イデオロギー的に正反対で、その対比がおもしろかったです。

東  そうなんです。ミールヌイさんは事故後にゾーン内で除染や住民避難を担当した方。だから彼自身もかなりの量の放射線を浴びていて、被災者だといえますが、彼はこんどは「人体って意外と放射能に強いんだぜ」という主張の人です。彼の考えでは、チェルノブイリにしろ福島にしろ一番の問題は風評被害。それを克服するためにも観光地化してどんどんお金を儲けた方がいいと考えている。そんなミールヌイさんとさきほどのシロタさんは、まったくイデオロギー的に逆なんですね。
 でも、そんなふたりが最初は一緒にツアーを企画したというんです。いまは仲違いしているようですが、そういうことが起こるのが現実の複雑さです。福島だって当然そういうことはあるはずなんですよね。安全厨だ、危険厨だと切っているとこの部分が見えてこない。
 加えて、現地の人に会うと、思いのほか陽気だったり、悲壮感のかけらもないような笑えるエピソードがたくさん出てくるわけです。今回の本はそんな話を盛り込みながらも、結果的に多様な論点をうまく浮かび上がらせることができたので、いろんな立場の人が参考にできるはずだと思っています。
(構成:宇野浩志、 撮影:佐藤真美(ゲンロン)、 6月22日 ゲンロンカフェにて)≫


≪変えられないものを変えたいと思いながら生きる——宮台真司×東浩紀 【後編】

原発事故をめぐる政治的な物語

宮台真司(以下、宮台) 実を言うと、僕は、この『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』のゲラを、今知りたいことの答えが書いてあるんじゃないかと思って、とても真剣に読んだところがあって……

東浩紀(以下、東) あって……?

宮台 ……実際に、とてもたくさんのヒントを得られました。

東  よかった!(笑)

宮台 知りたかったことを簡単に言えば、「『なかなか変えられないものを、こんどこそは変えたいと思いながらも、それでもやっぱり変わらない』という前提の上で、人はどうやって生きていくか」ということです。この前提はウクライナと日本で共通していると僕は考えます。ぶっちゃけ、ウクライナと日本は「脱原発ができない」という条件を、共通して外から規定されています。

東  どういうことですか。

宮台 ウクライナはチェルノブイリの事故の後も、原発を止めていませんよね。4号機は爆発したけれど、1・2・3号機は2000年頃まで動かし続けていた。これには政治的背景があって、ウクライナがソビエト連邦に依存しない立国を目指していたことが、大きく影響しています。まさしく、エネルギー自治のためにこそ、原子力に頼らざるをえなかったんです。
 日本でも、僕自身を含めて脱原発の方は多数いるものの、政治的背景に無頓着で、原発政策の最大要因である日米関係を念頭に置かない人が多過ぎます。政権末期の民主党が2030年の原発稼働ゼロを目指すシナリオを打ち出そうとした閣議決定の場で、経産省と外務省の役人から「アメリカの強い意向」が伝えられた途端、「原発ゼロシナリオ」が一瞬で頓挫したのが象徴的です。
 いわく「核兵器非保有国でただ一国、アメリカの意志で日本が再処理の権利を認められていることの意味が分かっているのか、とアメリカ政府が念押ししてきました」ってね。翻って、戦後の日米関係史で原発がどう扱われてきたかを見れば、アメリカを無視して日本の一存で原発を止められないのは自明です。脱原発を完遂するには日米関係を変えなきゃダメ。
 日米関係を変えて、軽武装対米依存から重武装対米中立に向かうには、アジア外交の積み重ねによる信頼醸成を通じて、重武装中立化に不可欠な憲法改正が、国益を毀損しないようにしなきゃいけません。それをなおざりにしたまま、石原慎太郎のように「Noと言える日本」とホザくのは爆笑もの。日中間が緊張すれば、対米依存の度合いが自動的に上がる道理なのにねえ。
 その意味で、「社会はイイトコドリができない」んです。「脱原発」には「対米自立」が不可欠で、「対米自立」には「アジア外交の積み重ね」が不可欠です。でもその積み重ねがない。日米関係のあり方を変える構想抜きには脱原発はあり得ず、逆に、原発があるうちは技術的にも事故処理面でも対米依存から抜けられません。そのことが3.11のフクイチ事故でよく分かりました。
 日米関係を変えられないあいだは、原発と共存するしかありません。そして実際、日米関係を変えようという議論がほとんどありません。であれば、「なかなか変えられないものを、こんどこそは変えたいと思いながらも、それでもやっぱり変わらない」状況にあるわけで、そんな状況にどう耐えるのかが問われているという意味では、ウクライナも日本もよく似ているんですよ。

東  今回いろいろ調べていておもしろいなあと思ったのが、チェルノブイリ原子力発電所の正式名称です。正式名称は「V.I.レーニン記念原子力発電所」。これはたいへん重要なことで、レーニンの名前を冠した原発は、ソ連のなかにこことレーニングラードの2つしかなかった。つまりチェルノブイリ原発は、ソ連が威信をかけて作った重要な原発だったんですね。
 僕たちはキエフからチェルノブイリへ北上していったんですが、その辺りにあるのは白樺の林と沼地だけ。村が点々としている程度で、貧しい地域です。そこに突如、チェルノブイリ原発作業員の居住地として作られた、プリピャチという街が現れる。今でこそ古びた団地群ですが、1970年の建設当時は最先端の住宅だったはずです。「文化宮殿」と呼ばれる立派な文化スポーツ施設もあった。北ウクライナの貧しい地域に忽然と現れた文明の拠点だったわけですよね。だからそこには国家の威信もかかっているし、人々もそこで働くのが誇りだったわけです。

宮台 なるほど。僕は以前、東京電力がお金を出していた建築コンペの審査員長を3年間やっていて、そのとき東電の窓口だったのが今の東電社長の廣瀬直己さんです。だから“認知的整合性”という点では東電をかばいたい気持ちがないわけではないんだけど(笑)、僕なりに自意識のストーリーを選択し直して、東電を徹底批判する立場を貫徹しつづけてきたわけです。
 その意味でも、プリピャチの方々が、原発事故を、どういうふうに自意識へと認知的整合的に落とし込んでいったのかっていうことに、興味があります。

東  そう、これは東電の問題と似ているんです。福島第一原発にしても、あれは日本の原子力発電の歴史のなかで、最初期の重要な原発ですよね。つまり、ソ連でも日本でもそうなんだけど、田舎にあるどうでもいい原発が事故を起こしたわけじゃない。もっとも重要だと思われていた原発こそが、事故を起こしてしまった。
 まだ十分に分析できていませんが、おそらくチェルノブイリ原発事故の背景には、原発が重要だったからこそ無理な実験をして事故を起こした、ということがあるのではないかと思います。福島でもおそらくは、原発が重要だったからこそ廃炉にできなくて、古いまま動かし続けてしまったという背景があるのではないか。

宮台  国の威信を過剰に引き受けるというか、気負っているというか……。幕末に京都守護役を引き受けて会津戦争で討伐されたり、西南戦争で抜刀隊による薩摩討伐を引き受けたりと、賊軍・会津藩とその周辺には奇妙なクセがあります。「どこよりも日本を背負っているのに、なぜか周辺化されること」です。フクイチの事故でも「どこよりも日本を背負っているのに、なぜか周辺化されること」になりました。
 会津出身者たちに尋ねると、多くがそのことを意識しています。その事実がまさに、「問題をいかにして自分たちの集合的アイデンティティに結びつけるのか」という課題を指し示します。沖縄の基地問題にも通じるけど、 “NIMBY (Not In My Back Yard=自分の裏庭には来ないで)”つまり迷惑施設問題を抱える場所の共通課題なので、僕たちはそのことに倫理的関心を持つべきなんですよ。 事故後のアイデンティティの行方

東  ところで、さきほど宮台さんは重要なことをおっしゃいました。「原発事故をどう認知的整合的に落とし込んでいくか」との話ですが、それは、ぶっちゃけて言えば、こんな事故を起こしたにもかかわらず脱原発できない日本、そのなかで自分たちのアイデンティティをどうやって確立していくかという問題だと捉えていいでしょうか。
 いや、別にここで「脱原発をあきらめたんですか?」と問いたいわけではないんです。でも実際、来年にはいよいよ再稼働も始まる。

宮台 いやいや(苦笑)、東さんも人が悪いなあ。僕は、日本は「キチガイに刃物」だから脱原発した方がいいと思い続けているし、極東が緊張した状況では日本の対米交渉力がないのでTPPもやめた方がいいと思っていますよ。でも、逆の立場の人たちからずっと「日米関係を変えられない以上、NOはありえないっていうことがお前にはわからないのか」って言われ続けてきました。
 だったら言わせてもらう。「わかってるぜ!そんなことは」。だからこそ、日米関係の依存体質から離脱するために、「周辺アジア諸国の感情的回復を前提にした、憲法改正と重武装中立化」を、昔から主張し続けてきたんじゃないか。むろん「自立」の価値を称揚するからってこともあるけれど、最大の問題は、対米依存体質を変えない限りは変えられない国内政策が数多あるということなんです。

東  同感です。

宮台 繰り返すと、日米関係を変えられないのなら、原発は、減ったとしても、必ずそれなりの数が残ります。原発が残るのなら、「あれだけの原発災害を被りながら、原発と共に生きていくということ」について、技術的かつ社会的な安全面だけでなく、「巨大な原発災害を経験したのに、原発をやめたくてもやめられない我々」についての集合的アイデンティティーという問題が、必ず浮上してきます。
 原発住民投票運動で経験しましたが、集合的アイデンティティーはもう壊れているんです。実際、ヨーロッパの方々と話すと、日本人であるだけで恥ずかしい思いをします。集合的アイデンティティーを回復しながら原発と共存することなんてできるのか。僕はムリだと思ってきましたが、東さんがチェルノブイリのダークツーリズムを教えて下さってから、それだけが唯一の道かもしれないと思うようになりました。
 僕の言葉では、日本社会を生きることは、「ウソ社会」をとおり越して「クソ社会」を生きることを意味するものになりました。それが「毀損された集合的アイデンティティー」で、これを放置したら、どのみち「クソ社会」だから関心を持つだけムダという話になり、〈空気に縛られる作法〉ならざる〈合理を尊重する作法〉に従った、〈任せてブー埀れる作法〉ならざる〈引き受けて考える作法〉の貫徹は、ありえません。

東  チェルノブイリに行く前はあまり考えていなかったんですが、ロシアとウクライナ、アメリカと日本の関係を考えると、それぞれ実はかなり似た状況があるんですよね。こんな大きな事故を起こしたにもかかわらず、そう簡単には脱原発ができない。だとすれば、人類が原子力を手放す気がない以上、20年後、30年後に3番目、4番目の事故が起こる可能性は十分にある。このことは念頭に置かなければいけない。だから、福島第一原発事故を記憶するのは決して後世の日本のためだけではない。次に事故が起こるかもしれないどこかの国のためでもあるんです。
 ≫(構成:宇野浩志、 撮影:佐藤真美(ゲンロン)、 6月22日 ゲンロンカフェにて)≫


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