誤解を招く表現でしたので題名を変更しました。本文中で「市場原理」と「資本主義」をごちゃまぜに使っていますが、あまり気にしないでください
モノの価値がどのように決まるか。
アダム・スミスが言った労働価値説からすると、費やされた労力だという。
後にはマルクスが継承する。
これに対して限界効用価値説がある。
モノの価値は市場で、消費者の評価によって決まるという。
消費者の評価とは何か?
有用性と希少性である。
役に立たなければ価値がないし、ありふれているものにも価値がないということだ。
限界効用価値説の観点に立てば労働も商品なのである。
役に立つ労働なら価値が高いし、誰にもできない労働なら価値が高い。
労働者の立場に立てば労働価値説を支持したくなる。
社会党や共産党などといった人々はこういう思想の持ち主だ。
(マルクスの時代は労働者の置かれている立場が劣悪だったので余計にそうだ)
だが、実際のビジネスは限界効用価値説に近い。
不必要に高機能な機能に価値はないし、誰にでも作れる商品に価値はないのである。
工業化(近代化)の時代にはがむしゃらに働けば報われただろう。
しかし、それは労働価値説が正しかったわけではない。
有用性と希少性の観点から、たまたま労働時間と価値の間に強い相関があっただけだ。
脱工業化(ポスト近代)の時代には、否が応でも、限界効用価値説の事実を突きつけられる。
と、まぁ教科書の最初に書いてありそうなことを述べてみたのだが、よく考えればすぐわかる。
そもそも、この宇宙に普遍的で絶対的な「価値」などない。
この宇宙は相対的で、我々は相対性から逃れることはできない。
我々は常に相対的な「価値」に直面している。
そして、この「価値」とは必要とするところから生まれる。
全ての「価値」は必要とするところから生まれるのである。
有用性も希少性も、必要とするから発生する価値である。
※
余談だが、如来や仙人が解脱するというのは、この必要性を脱却することである。
如来は必要とすることがなくなった状態、つまり相対性が必要ない、つまりこの世にいる必要がない存在なのである。
だから生きて悟りを開くなどというのは無茶難題である。
だから、もしあなたがグローバリズムに反対し、また資本主義に反対するのであれば、「必要とすること」から脱却しなければならない。
でなければ、限界効用価値説の「価値」の枠組みに絡みとられてしまう。
市場原理を否定したとしても、その対岸に何らかの「価値」を求めるのであれば、それ自体が既に「価値」の枠組みに捉えられているのだ。
「価値」を追い求める限り、資本主義を否定することはできない。
必要としながら資本主義を否定するのは、これは矛盾している。
仙人になる気持ちで、「必要としないこと」を心がけてみることが重要だ。
悟りを開くとはそういうことをいう。
実際にそういう人達もいる。
出家などして世捨てを行うのは、強制的に必要としない状態に身を置くためだ。
だが、生きている限り悟りを開くなど、不可能であるが。
モノの価値がどのように決まるか。
アダム・スミスが言った労働価値説からすると、費やされた労力だという。
後にはマルクスが継承する。
これに対して限界効用価値説がある。
モノの価値は市場で、消費者の評価によって決まるという。
消費者の評価とは何か?
有用性と希少性である。
役に立たなければ価値がないし、ありふれているものにも価値がないということだ。
限界効用価値説の観点に立てば労働も商品なのである。
役に立つ労働なら価値が高いし、誰にもできない労働なら価値が高い。
労働者の立場に立てば労働価値説を支持したくなる。
社会党や共産党などといった人々はこういう思想の持ち主だ。
(マルクスの時代は労働者の置かれている立場が劣悪だったので余計にそうだ)
だが、実際のビジネスは限界効用価値説に近い。
不必要に高機能な機能に価値はないし、誰にでも作れる商品に価値はないのである。
工業化(近代化)の時代にはがむしゃらに働けば報われただろう。
しかし、それは労働価値説が正しかったわけではない。
有用性と希少性の観点から、たまたま労働時間と価値の間に強い相関があっただけだ。
脱工業化(ポスト近代)の時代には、否が応でも、限界効用価値説の事実を突きつけられる。
と、まぁ教科書の最初に書いてありそうなことを述べてみたのだが、よく考えればすぐわかる。
そもそも、この宇宙に普遍的で絶対的な「価値」などない。
この宇宙は相対的で、我々は相対性から逃れることはできない。
我々は常に相対的な「価値」に直面している。
そして、この「価値」とは必要とするところから生まれる。
全ての「価値」は必要とするところから生まれるのである。
有用性も希少性も、必要とするから発生する価値である。
※
余談だが、如来や仙人が解脱するというのは、この必要性を脱却することである。
如来は必要とすることがなくなった状態、つまり相対性が必要ない、つまりこの世にいる必要がない存在なのである。
だから生きて悟りを開くなどというのは無茶難題である。
だから、もしあなたがグローバリズムに反対し、また資本主義に反対するのであれば、「必要とすること」から脱却しなければならない。
でなければ、限界効用価値説の「価値」の枠組みに絡みとられてしまう。
市場原理を否定したとしても、その対岸に何らかの「価値」を求めるのであれば、それ自体が既に「価値」の枠組みに捉えられているのだ。
「価値」を追い求める限り、資本主義を否定することはできない。
必要としながら資本主義を否定するのは、これは矛盾している。
仙人になる気持ちで、「必要としないこと」を心がけてみることが重要だ。
悟りを開くとはそういうことをいう。
実際にそういう人達もいる。
出家などして世捨てを行うのは、強制的に必要としない状態に身を置くためだ。
だが、生きている限り悟りを開くなど、不可能であるが。
コメントありがとうございます。
経済学と宗教の接着剤のお話は鋭いですね。
確かにルーツは同じですからね。
そういう試み、例えば、経済学者と宗教学者との対談などはあり、いくつかの共通点を見出すことはできているようですが、まだまだ距離が遠いのが現状のようです。
最近は行動経済学者という人がやたら多いような気がするのですが、経済学と心理学、脳科学といったところからなのかなという気がしています。
経済学で語れぬものを宗教で語り、宗教で語れぬものを経済学で語る。
これまで補完する関係であったものから、融合する関係になっていくのか、そこは私などでは語れぬ領域でございます。
ちなみに、私は経済学を主戦場とするものではありませんので、私に期待するのは間違いです。(笑)