バンクーバー・オリンピックの女子フィギュアで、安藤美姫選手がショートプログラムで使用した楽曲はモーツァルトの「レクイエム」。
過去の自分に別れを告げる葬送曲だ。
日本人的感覚では「レクイエム」というと「鎮魂」を思い浮かべるが、「レクイエム」には「鎮魂」という意味は含まれないらしい。
「レクイエム=死者の安息を願うこと」と「鎮魂=死者の魂を慰めること」とは別なのである。
死後観(死んだ後にどうなるか)が違うのだから、当然といえば当然の違いでもある。
しかし、そもそも「鎮魂」というのは、神道では死者ではなく生者の魂を鎮めることを意味するようだ。
この辺りは、それこそ下手に書くと非常にお詳しい方々に口撃されてしまうので、あまり述べないが、古来、神道では「生きること」そのものが穢れを生むものなので、これをおさめる必要があった。
禊(みそぎ)などはこの典型である。
いや、いきなり話がそれてしまった。
神道の話をしたいわけではない。
「レクイエム」
今、私が私に送りたい言葉だ。
私の想いを葬送したい。
「鎮魂」でもいい。
私は穢れている。
社会通念に照らし合わせて。
だが、それが私にとっての救いでもある。
※
普段であれば、ここから「社会通念とは何だ?」というような、ドストエフスキー「罪と罰」ではないが、何が、どこからが「悪」なのか。みたいな話をするところだが、今日はしない。
穢れというものがあるから、私は救われる。
穢れがあるから、「穢れ」から逃れようとする「禊」が許される。
これはウルトラ・ミラクル。
私は穢れている。
いや、私は穢れていない。
だが、社会的には穢れている。
しかし、私は穢れることで自分を救う。
なんて楽なんだ。
「救い」のないこの世界に、突如として「救い」が表れる。
「救い」を手に入れる条件は唯一つ。
「私は穢れている」ということを事実として受け止めること。
相対性というのは諸刃の剣
しまった、また話がそれてしまった。
私は、自分の想いを葬送したい。
しかし、葬送する必要がもともとあるわけではない。
葬送することで自分を救おうとしているのだ。
あぁ・・私にとっての「救い」とは何だ?
過去の自分に別れを告げる葬送曲だ。
日本人的感覚では「レクイエム」というと「鎮魂」を思い浮かべるが、「レクイエム」には「鎮魂」という意味は含まれないらしい。
「レクイエム=死者の安息を願うこと」と「鎮魂=死者の魂を慰めること」とは別なのである。
死後観(死んだ後にどうなるか)が違うのだから、当然といえば当然の違いでもある。
しかし、そもそも「鎮魂」というのは、神道では死者ではなく生者の魂を鎮めることを意味するようだ。
この辺りは、それこそ下手に書くと非常にお詳しい方々に口撃されてしまうので、あまり述べないが、古来、神道では「生きること」そのものが穢れを生むものなので、これをおさめる必要があった。
禊(みそぎ)などはこの典型である。
いや、いきなり話がそれてしまった。
神道の話をしたいわけではない。
「レクイエム」
今、私が私に送りたい言葉だ。
私の想いを葬送したい。
「鎮魂」でもいい。
私は穢れている。
社会通念に照らし合わせて。
だが、それが私にとっての救いでもある。
※
普段であれば、ここから「社会通念とは何だ?」というような、ドストエフスキー「罪と罰」ではないが、何が、どこからが「悪」なのか。みたいな話をするところだが、今日はしない。
穢れというものがあるから、私は救われる。
穢れがあるから、「穢れ」から逃れようとする「禊」が許される。
これはウルトラ・ミラクル。
私は穢れている。
いや、私は穢れていない。
だが、社会的には穢れている。
しかし、私は穢れることで自分を救う。
なんて楽なんだ。
「救い」のないこの世界に、突如として「救い」が表れる。
「救い」を手に入れる条件は唯一つ。
「私は穢れている」ということを事実として受け止めること。
相対性というのは諸刃の剣
しまった、また話がそれてしまった。
私は、自分の想いを葬送したい。
しかし、葬送する必要がもともとあるわけではない。
葬送することで自分を救おうとしているのだ。
あぁ・・私にとっての「救い」とは何だ?