ギョベクリ・テぺ(Gobekli Tepe)遺跡のこと(極東ブログ)
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/03/gbekli-tepe-c82.html
ネットで有名な文科系の知識リソースの一つに「世界史講義録」(参照)があり、はてなブックマークでは5000近いブックマークがされている。
私も楽しませていただきました(笑)
http://www.geocities.jp/timeway/歴史を読むのは下手な小説を読むよりずっと面白いのです。
さて、極東ブログのエントリ内でfinalvent氏が述べているのは「農耕と宗教と、どっちが先か?」というものです。
世界史講義録の説明は「農耕が先」になっているが、これはfinalvent氏がいうように唯物史観なわけである。
マルクス『経済学批判』の序文にはこうある。
(「宗教的大変革の時代」でも述べてることだが)
私が到達し、かつ、それ以降において、私の研究を導く原則になった一般的な結論は次のようにまとめられる。自分自身の生存を社会的に生産するために、人間は彼らの意思からは独立した、さだめられたさまざまな関係にはいらざるをえない。つまり、それは、さまざまな物質的な生産力の発達段階に対応しているさまざまな生産関係である。これらの生産関係の全体は社会の経済的な構造をなし、その上に法的・政治的な上部構造を生じさせ、社会的意識の特定のかたちが対応する現実的な土台である。物質的な生命を生産する様式は社会的・政治的・知的生活の一般的なみちすじを規制する。彼らのありかたを決定するのは意識ではなく、彼らの意識を決定するのは彼らの社会的なありかたなのだ
それに対して、finalvent氏はギョベクリ・テぺ遺跡の発見により、農耕より先に宗教があったとする説が有力ということを説明するわけだが、私なんかからすると、農耕より先に宗教があったことは考えてみれば当り前なのだが。
「余剰生産物が大きな文明を生んだ」という漠然とした捉え方には同意するのだが、「余剰生産物が宗教」を生んだって説明するには無理がある。
というのも「農耕」と「宗教」ではレベルが違いすぎる。
程度問題なのだけれども。
議論を深堀りするためには「農耕」は「暇」にしないとだめ。
(ここでいう「暇」は労働生産性の向上によってできる時間的余暇の意味)
「宗教が先か、暇が先か」というのは面白い問いだ。
人類の生活は狩猟/採取型から農耕革命によって労働生産性が飛躍的向上したわけだが、生産性が向上して「暇」が拡大したことによって「宗教」も拡大した。
という説明が正しいのか誤っているのかは、議論の余地があるだろう。
要は、「宗教」の元となる精神性のようなものが先天的に人間にビルドインされているものなのか、それとも人間に考える時間ができたから宗教が生まれたのか。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/03/gbekli-tepe-c82.html
ネットで有名な文科系の知識リソースの一つに「世界史講義録」(参照)があり、はてなブックマークでは5000近いブックマークがされている。
私も楽しませていただきました(笑)
http://www.geocities.jp/timeway/歴史を読むのは下手な小説を読むよりずっと面白いのです。
さて、極東ブログのエントリ内でfinalvent氏が述べているのは「農耕と宗教と、どっちが先か?」というものです。
世界史講義録の説明は「農耕が先」になっているが、これはfinalvent氏がいうように唯物史観なわけである。
マルクス『経済学批判』の序文にはこうある。
(「宗教的大変革の時代」でも述べてることだが)
私が到達し、かつ、それ以降において、私の研究を導く原則になった一般的な結論は次のようにまとめられる。自分自身の生存を社会的に生産するために、人間は彼らの意思からは独立した、さだめられたさまざまな関係にはいらざるをえない。つまり、それは、さまざまな物質的な生産力の発達段階に対応しているさまざまな生産関係である。これらの生産関係の全体は社会の経済的な構造をなし、その上に法的・政治的な上部構造を生じさせ、社会的意識の特定のかたちが対応する現実的な土台である。物質的な生命を生産する様式は社会的・政治的・知的生活の一般的なみちすじを規制する。彼らのありかたを決定するのは意識ではなく、彼らの意識を決定するのは彼らの社会的なありかたなのだ
それに対して、finalvent氏はギョベクリ・テぺ遺跡の発見により、農耕より先に宗教があったとする説が有力ということを説明するわけだが、私なんかからすると、農耕より先に宗教があったことは考えてみれば当り前なのだが。
「余剰生産物が大きな文明を生んだ」という漠然とした捉え方には同意するのだが、「余剰生産物が宗教」を生んだって説明するには無理がある。
というのも「農耕」と「宗教」ではレベルが違いすぎる。
程度問題なのだけれども。
議論を深堀りするためには「農耕」は「暇」にしないとだめ。
(ここでいう「暇」は労働生産性の向上によってできる時間的余暇の意味)
「宗教が先か、暇が先か」というのは面白い問いだ。
人類の生活は狩猟/採取型から農耕革命によって労働生産性が飛躍的向上したわけだが、生産性が向上して「暇」が拡大したことによって「宗教」も拡大した。
という説明が正しいのか誤っているのかは、議論の余地があるだろう。
要は、「宗教」の元となる精神性のようなものが先天的に人間にビルドインされているものなのか、それとも人間に考える時間ができたから宗教が生まれたのか。