進化する魂

フリートーク
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民主党の自民党化への流れは止められないのか

2010-03-19 21:08:00 | 政治
駄文、乱文申し訳ない。読み直してもいないがとにかくリリース

副幹事長の解任劇について私見を述べる。

まず、当Blogの「民主党の自民党化」で述べたように、これはマスコミの「小沢vs反小沢」シナリオ通りの展開だ。
民主党執行部に苦言をいいたげな民主党政治家を見つけてインタビューをやる。
インタビュー中に気持ちよくさせて反小沢論調をかもし出させる。
それに記事にしたり、放映したりして反小沢論調を創造する。
執行部は締め付けに走る。
締め付けられた方は当然反発するので、それを誇張して喧伝する。
するとまた執行部は締め付けに走る・・・の永遠循環のできあがりである。
反小沢派をたきつけて親小沢派にクビを切らせることができればなお上々だ。
そして、まさにシナリオ通りになった。

この次の展開も読める。
偏向報道や世論調査などを通じて「民意」を創造し、これを勝手に作った反小沢派に「民意」という御旗を掲げさせる。
反小沢派が民意をもとに小沢を倒す構図を作り、抗争を煽る。
見事、一級のワイドショーネタの出来上がりである。

こういうシナリオは初めからわかりきっているのに、民主党はアマチュア集団だからこれを理解できていない。
マスコミにおだてられて気持ちよくさせられちゃって、冷静な判断力を欠いている。
民主党のマスメディア対策があまりにも貧弱で、やられ放題なのだ。

それにしても、今回の場合は、高嶋良充筆頭副幹事長が馬鹿過ぎる。
完全にはめられた。
なのに自覚していないから、どうしようもない。

ここでは本来なら、小沢は勝手な行動をした高嶋氏を切るべきだ。
しかしながら、自分を支持する部下達を自ら更迭することは、たとえ独裁者であっても難しい。
小沢には「泣いて馬謖を斬る」ことができない。
自分が権力を維持できるのも、そういう部下がいるからであり、また、そんなことをしたら、自分の支持母体である親小沢派の信頼を失うからできない。
要するに、馬鹿な部下のせいで小沢の選択肢が急激に狭まった。
敵対しなくてもいいものが、部下が暴走してしまったがために敵になってしまうのだ。

最近の政治家には、大局を理解できず、組織の論理でしか動けない小人が多い。
これは人間の悲しい性でもあるが、今回の事件は官僚的組織によく見られる現象なのである。

官僚的組織で優先されるのは人でも組織の長でもなく、組織である。
そもそも組織は特定の目的のために創設されるわけだが、次第に目的が組織の生存・発展に変わる。
組織の生存・発展は目的のための手段であったはずなのに、いつのまにか逆転現象が起きる。
世に言う「手段の目的化」というやつである。

なぜこういうことが起きるかというと、(ずっと当Blogで解説しているのだが)人間が役割(意味)を求める生き物だからである。
しかも、その場その場で役割を求める。
10年後の意味よりも、今、この瞬間の意味の方が重いという、この非時間整合性の問題がどこまでも人間についてまわるのだ。

組織の構成員になれば、その場の役割というものが生まれる。
初めは目的を共有していた構成員達も、次第に役割に没頭するようになる。
いつ実現するかわからない目的よりも、今、この瞬間に達成する目的(役割)に集中してしまうのだ。


だから短期的に目的を果たせるような燃えている組織というのは、組織員みんなが最初の目的を共有していることが多い。
目的を実現するまでの道のりが見えているから、目的がずれは小さくなる。
長期的で漠然としていて、非現実的な目的を立てている組織は、あっという間に崩壊する。
これが、組織の寿命説の要因である。

権力系統を統一し、組織的な動きを強めようと思えば、当然個人の裁量を制限する必要が出てくる。
すると、与えられた役割をこなすことが各人の仕事になる。
これで官僚的組織の出来上がりである。
あとは、自分の役割をこなすだけである。
人はこうなると、鬼にでも悪魔にでもなれるのだ。
組織の論理が優先するのである。

そういう意味で、小沢が派閥政治を脱却するために権力の一元化を目指したことによって、こういう官僚的政治家が生まれるようになる。
官僚的政治家は国民から勘違いしていると思われても、それが組織のためなら粛正でもなんでもやるのだ。

しかし、これはトレードオフで、完全な解など存在しない。
政調会など作ったらそれこそ政府と党の二元政治への逆戻りのリスクもある。


私は、この問題を緩和するためには政治家の数を劇的に減らすしかないと考えている。
衆議院は100人でいいと思う。
100万人に1人でよいのだ。
そうすれば政治家の意識も「地域の代表」から「国民の代表」へと変われるだろうし、今よりも政治家一人ひとりの裁量が増え、無駄な数の闘争は減る。
政治家が減った分スタッフを増員すれば、より洗練された政策議論も行われるだろう。

地域のことは、地域行政でやればよい。
地域のことを国でやる合理的理由がそもそもない。
日本の地方行政のレベルが低いのは国会議員の数が多いからなのもあるだろう。
(イコール国でやることが多すぎる)
そのためには地方自治体への権限委譲(徴税権含む)が当然含まれる。
なので国会議員の数を減らすだけでは片手落ちであるが、そういう問題意識を持つことも重要ではないかと考える。

よくよく考えて欲しいのだが、政治家がみなさんのお役に立っているとき、政治家は頼りになるな~などと考えてはいけない。
それは政治家のために仕事つくってあげているということである。
逆から利用されていることを忘れてはいけないのだ。
これは典型的な支配の構図である。

と、いうことで、とにかく今回のことは部下の暴走。
そしてその原因は官僚的組織にある。
しかし、それは小沢が権力の一元化にこだわったせい。
そして、国会議員の数を減らせばこの問題は緩和されるだろう。

「Sony + Google」は可能か

2010-03-19 10:12:55 | ビジネス
Apple と Googleの最終戦争 - Sonygleの誕生か (渡部薫)
http://agora-web.jp/archives/960941.html

こんな記事もある.

グーグルとインテルとソニー、「Google TV」デバイスを共同開発か--米報道(CNET)
http://japan.cnet.com/news/tech/story/0,2000056025,20410610,00.htm

いい!とてもいい!
Sonygoleはナイスな視点です。
でも多分、買収するのはGoogleだろうから「Goony」かもしれませんね。
Google Japanの社長はSony出身の辻野氏だから、彼個人の野望としてのSony買収もあるかもしれませんね。
買収すれば自分がSonyの社長になれるじゃないですか。
もし実現すれば、異例の返り咲きですね。
まぁ、今更Googleに比べて鈍重なSonyに魅力を感じているかわかりませんが。

書いてある内容は、当Blogで「SCE解散から読み解く日本製造業の未来」で書いたものと同じす。

当Blogでは、アメリカ側のアーキテクチャと日本製造業のエンジニアリングが融合すれば、これは強いと述べました。
リンク先のページでは、Appleの対立軸としてSony+Googleの必然性が生まれるという説明になっているが、ほぼ同じ内容といっていいでしょう。

ただ、Googleの立場からしてみれば、Sony全体を買収するのはあまりにも重過ぎる。
大量の資産を抱え込まなければならず、リスクが大きい。
しかも、ソニー自身が台湾メーカーの活用などによりハードウェアから離れようとしているこの時期に、GoogleがSonyを買収するメリットはない。
Googleが欲しいのはSonyのデザイン力とコンテンツだけです。
そして、それはSonyにとっても同じなのです。

(もちろん有効資産を活用することを前提ですが)
つまり、Sony自身がGoogle化しようとしていて、古いSonyを捨て去りたいと考えていると。
だから、GoogleがSonyを買収するなら、Sonyを切り貼りする必要がある。
むしろ、SonyはSony自身を切り貼りできないからこそ、苦しんでいるわけです。
それを資本の論理でGoogleがSonyを切り刻めるか。
そんな大変な労力をGoogleがかけるわけがない。
現実解として有り得るのは、Sonyが破綻してからGoogleが部分的に買うか、SonyがGoogleを買収することだね。
でも、Googleはオーナー企業で買収できないだろうし、資本力からいっても無理。

だけれども、Sonyにとって日本の他の電機メーカーとくっつくより、Googleとくっついた方が価値はあるとは思う。
このウルトラCは可能だろうか。
結局、50%:50%のジョイント・ベンチャー作るのが限界ではないだろうか。
いや、是非それでやってもらいたい。
それが、日本製造業のため。

[追記]
こんなのもある

アップルとグーグルを財務諸表で比較する(日経ビジネスオンライン)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20100305/213172/

市場原理から逃げたい人へ

2010-03-19 02:19:41 | 哲学・思想
誤解を招く表現でしたので題名を変更しました。本文中で「市場原理」と「資本主義」をごちゃまぜに使っていますが、あまり気にしないでください

モノの価値がどのように決まるか。

アダム・スミスが言った労働価値説からすると、費やされた労力だという。

後にはマルクスが継承する。

これに対して限界効用価値説がある。

モノの価値は市場で、消費者の評価によって決まるという。

消費者の評価とは何か?

有用性と希少性である。

役に立たなければ価値がないし、ありふれているものにも価値がないということだ。

限界効用価値説の観点に立てば労働も商品なのである。

役に立つ労働なら価値が高いし、誰にもできない労働なら価値が高い。

労働者の立場に立てば労働価値説を支持したくなる。

社会党や共産党などといった人々はこういう思想の持ち主だ。
(マルクスの時代は労働者の置かれている立場が劣悪だったので余計にそうだ)

だが、実際のビジネスは限界効用価値説に近い。

不必要に高機能な機能に価値はないし、誰にでも作れる商品に価値はないのである。

工業化(近代化)の時代にはがむしゃらに働けば報われただろう。

しかし、それは労働価値説が正しかったわけではない。

有用性と希少性の観点から、たまたま労働時間と価値の間に強い相関があっただけだ。

脱工業化(ポスト近代)の時代には、否が応でも、限界効用価値説の事実を突きつけられる。

と、まぁ教科書の最初に書いてありそうなことを述べてみたのだが、よく考えればすぐわかる。
そもそも、この宇宙に普遍的で絶対的な「価値」などない。
この宇宙は相対的で、我々は相対性から逃れることはできない。
我々は常に相対的な「価値」に直面している。
そして、この「価値」とは必要とするところから生まれる。

全ての「価値」は必要とするところから生まれるのである。
有用性も希少性も、必要とするから発生する価値である。


余談だが、如来や仙人が解脱するというのは、この必要性を脱却することである。
如来は必要とすることがなくなった状態、つまり相対性が必要ない、つまりこの世にいる必要がない存在なのである。
だから生きて悟りを開くなどというのは無茶難題である。

だから、もしあなたがグローバリズムに反対し、また資本主義に反対するのであれば、「必要とすること」から脱却しなければならない。
でなければ、限界効用価値説の「価値」の枠組みに絡みとられてしまう。
市場原理を否定したとしても、その対岸に何らかの「価値」を求めるのであれば、それ自体が既に「価値」の枠組みに捉えられているのだ。
「価値」を追い求める限り、資本主義を否定することはできない。

必要としながら資本主義を否定するのは、これは矛盾している。
仙人になる気持ちで、「必要としないこと」を心がけてみることが重要だ。
悟りを開くとはそういうことをいう。

実際にそういう人達もいる。
出家などして世捨てを行うのは、強制的に必要としない状態に身を置くためだ。
だが、生きている限り悟りを開くなど、不可能であるが。