題名と内容に隔たりが・・気合の問題です。
内田樹は冴えてるな~
グーグルのない世界(内田樹)
http://blog.tatsuru.com/2010/03/24_0728.php
「グーグルが存在しない世界」に中国が取り残された場合、それがこれからあとの中国における「知的イノベーション」にどれほどのダメージを与えることになるのか、いまの段階で予測することはむずかしい。
としながらも、
だが、この「事件」のよって中国経済の「クラッシュ」は私が予想しているより前倒しになる可能性が高くなったと私は思っている。
中国の経済成長はいずれ停滞する。
それは不可避である。
これまで右肩上がりの経済成長を永遠に続けた国は存在しない以上、中国の成長もいずれ止まる。
その成長をブロックする主因は、「知的イノベーション」の重要性を見誤ったことにある。
と中国の対応を切って捨てる。
中国の危機は「著作権」についての施策において予兆的に示されている。
ご存じのようにかの国においては他国民の著作物の「海賊版」が市場に流通しており、コピーライトに対する遵法意識はきわめて低い。
それによって、現在のところ中国国民は廉価で、クオリティの高い作品を享受できている。
国際的な協定を守らないことによって、短期的には中国は利益を得ている。
けれども、この協定違反による短期的な利益確保は、長期的には大きな国家的損失をもたらすことになると私は思う。
それは「オリジネイターに対する敬意は不要」という考え方が中国国民に根付いてしまったからである。
誰が創造したものであろうと、それを享受する側はオリジネイターに対して感謝する必要も対価を支払う必要もない。
国民の多くがそういう考え方をする社会では「オリジナルなアイディア」をもつことそれ自体の動機づけが損なわれる。
これは論理的には当然のことである。
「新しいもの」を人に先んじて発明発見した場合でも、それはエピゴーネンや剽窃者によってたちまちむさぼり食われ、何の報償も与えられない。それが「ふつう」という社会においては、「オリジナルなアイディア」を生みだし、育てようという「意欲」そのものが枯死する。
みんなが「誰かのオリジナル」の出現を待つだけで、身銭を切って「オリジナル」を創り出すことを怠るような社会は、いずれ「そこにゆかなければ『ほんもの』に出会えないものが何もない」社会になる。
「オリジネイターに対する敬意」を持たない社会では、学術的にも芸術的にも、その語の厳密な意味における「イノベーション」は起こらない。
イノヴェーティヴな人々はもちろんどこでも生まれるけれど、彼らは「中国にいてもしかたがない」と考えるだろう。
オリジナリティに対する十分な敬意と報酬が約束される社会に彼らは出て行ってしまう。
中国は欧米先進国のテクノロジー水準に「キャッチアップ」する過程で、緊急避難的に「オリジネイターに対する敬意」を不要とみなした。
そのことは「緊急避難」的には合理的な選択だったかもしれない。
けれども、それは社会生活の質がある程度のレベルに達したところで公的に放棄されなければならない過渡的施策であった。
中国政府はこの「過渡的施策」を公式に放棄し、人間の創造性に対する敬意を改めて表する機会を適切にとらえるべきだったと思う。
けれども、中国政府はすでにそのタイミングを逸したようである。
創造的才能を「食い物」にするのは共同体にとって長期的にどれほど致命的な不利益をもたらすことになるかについて、中国政府は評価を誤ったと私は思う。
グーグルの撤退も同じ文脈で理解すべきことだろう。
中国は今は先進国をキャッチアップすれば成長できる段階にあるので、オリジネイターに対して敬意を持たずに済むが、いずれ近代化が終われば「知的イノベーション」の創発を望むはずである。
しかし、オリジネイターを育む環境がない中国には「知的イノベーション」は起きぬという。
世界は情報を「中枢的に占有する」のでもなく、「非中枢的に私有する」のでもなく、「非中枢的に共有する」モデルに移行しつつある。
これは私たちがかつて経験したことのない情報の様態である。
そして、これが世界標準になること、つまり私たちの思考がこの情報管理モデルに基づいて作動するようなることは「時間の問題」である。
中国政府は近代化の代償として、情報の「中枢的独占」を断念し、市民たちが情報を「非中枢的に私有する」ことまでは認めた。
けれども、そのさらに先の「非中枢的に共有する」ことまでは認めることができなかった
中国共産党による統治システムを揺るがすと思われるものを排除したと。
グーグルの撤退が意味するのは、一情報産業の国内市場からの撤退ではない。
そうではなくて、ある種の統治モデルと情報テクノロジーの進化が共存不可能になったという歴史的「事件」なのである。
情報テクノロジーの「進化」と切断することがどれほどの政治的・経済的・文化的ダメージを中国にもたらすことになるのかは計測不能である。
内田樹の主張としては2点あるのかなと思う。
一つは「相応のコストを負担せずに利益を得る」ことの短期的利益と長期的損失。
もう一つは、権威とは情報であるということ。
前者もさることながら、後者は今後中国共産党がどういう態度で望もうとしているのか個人的に関心の強いところである。
グーグルを追い出して国内の情報通信インフラを全て抑えたところで情報鎖国が可能なのか。
(追い出すという表現は適切ではなくて、Googleを特別扱いしないということだが)
中国企業はビジネスはグローバルで行っているし、一般の中国人も海外に出ているわけだから、まず無理だろう。
共産党指導部とてどのみち不可避なことに取り組んでいることを自覚しているはずで、どのようにソフトランディングしようとしているか、そこが不確実性の高いところで予想が難しい。
内田樹は冴えてるな~
グーグルのない世界(内田樹)
http://blog.tatsuru.com/2010/03/24_0728.php
「グーグルが存在しない世界」に中国が取り残された場合、それがこれからあとの中国における「知的イノベーション」にどれほどのダメージを与えることになるのか、いまの段階で予測することはむずかしい。
としながらも、
だが、この「事件」のよって中国経済の「クラッシュ」は私が予想しているより前倒しになる可能性が高くなったと私は思っている。
中国の経済成長はいずれ停滞する。
それは不可避である。
これまで右肩上がりの経済成長を永遠に続けた国は存在しない以上、中国の成長もいずれ止まる。
その成長をブロックする主因は、「知的イノベーション」の重要性を見誤ったことにある。
と中国の対応を切って捨てる。
中国の危機は「著作権」についての施策において予兆的に示されている。
ご存じのようにかの国においては他国民の著作物の「海賊版」が市場に流通しており、コピーライトに対する遵法意識はきわめて低い。
それによって、現在のところ中国国民は廉価で、クオリティの高い作品を享受できている。
国際的な協定を守らないことによって、短期的には中国は利益を得ている。
けれども、この協定違反による短期的な利益確保は、長期的には大きな国家的損失をもたらすことになると私は思う。
それは「オリジネイターに対する敬意は不要」という考え方が中国国民に根付いてしまったからである。
誰が創造したものであろうと、それを享受する側はオリジネイターに対して感謝する必要も対価を支払う必要もない。
国民の多くがそういう考え方をする社会では「オリジナルなアイディア」をもつことそれ自体の動機づけが損なわれる。
これは論理的には当然のことである。
「新しいもの」を人に先んじて発明発見した場合でも、それはエピゴーネンや剽窃者によってたちまちむさぼり食われ、何の報償も与えられない。それが「ふつう」という社会においては、「オリジナルなアイディア」を生みだし、育てようという「意欲」そのものが枯死する。
みんなが「誰かのオリジナル」の出現を待つだけで、身銭を切って「オリジナル」を創り出すことを怠るような社会は、いずれ「そこにゆかなければ『ほんもの』に出会えないものが何もない」社会になる。
「オリジネイターに対する敬意」を持たない社会では、学術的にも芸術的にも、その語の厳密な意味における「イノベーション」は起こらない。
イノヴェーティヴな人々はもちろんどこでも生まれるけれど、彼らは「中国にいてもしかたがない」と考えるだろう。
オリジナリティに対する十分な敬意と報酬が約束される社会に彼らは出て行ってしまう。
中国は欧米先進国のテクノロジー水準に「キャッチアップ」する過程で、緊急避難的に「オリジネイターに対する敬意」を不要とみなした。
そのことは「緊急避難」的には合理的な選択だったかもしれない。
けれども、それは社会生活の質がある程度のレベルに達したところで公的に放棄されなければならない過渡的施策であった。
中国政府はこの「過渡的施策」を公式に放棄し、人間の創造性に対する敬意を改めて表する機会を適切にとらえるべきだったと思う。
けれども、中国政府はすでにそのタイミングを逸したようである。
創造的才能を「食い物」にするのは共同体にとって長期的にどれほど致命的な不利益をもたらすことになるかについて、中国政府は評価を誤ったと私は思う。
グーグルの撤退も同じ文脈で理解すべきことだろう。
中国は今は先進国をキャッチアップすれば成長できる段階にあるので、オリジネイターに対して敬意を持たずに済むが、いずれ近代化が終われば「知的イノベーション」の創発を望むはずである。
しかし、オリジネイターを育む環境がない中国には「知的イノベーション」は起きぬという。
世界は情報を「中枢的に占有する」のでもなく、「非中枢的に私有する」のでもなく、「非中枢的に共有する」モデルに移行しつつある。
これは私たちがかつて経験したことのない情報の様態である。
そして、これが世界標準になること、つまり私たちの思考がこの情報管理モデルに基づいて作動するようなることは「時間の問題」である。
中国政府は近代化の代償として、情報の「中枢的独占」を断念し、市民たちが情報を「非中枢的に私有する」ことまでは認めた。
けれども、そのさらに先の「非中枢的に共有する」ことまでは認めることができなかった
中国共産党による統治システムを揺るがすと思われるものを排除したと。
グーグルの撤退が意味するのは、一情報産業の国内市場からの撤退ではない。
そうではなくて、ある種の統治モデルと情報テクノロジーの進化が共存不可能になったという歴史的「事件」なのである。
情報テクノロジーの「進化」と切断することがどれほどの政治的・経済的・文化的ダメージを中国にもたらすことになるのかは計測不能である。
内田樹の主張としては2点あるのかなと思う。
一つは「相応のコストを負担せずに利益を得る」ことの短期的利益と長期的損失。
もう一つは、権威とは情報であるということ。
前者もさることながら、後者は今後中国共産党がどういう態度で望もうとしているのか個人的に関心の強いところである。
グーグルを追い出して国内の情報通信インフラを全て抑えたところで情報鎖国が可能なのか。
(追い出すという表現は適切ではなくて、Googleを特別扱いしないということだが)
中国企業はビジネスはグローバルで行っているし、一般の中国人も海外に出ているわけだから、まず無理だろう。
共産党指導部とてどのみち不可避なことに取り組んでいることを自覚しているはずで、どのようにソフトランディングしようとしているか、そこが不確実性の高いところで予想が難しい。