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進化する魂

フリートーク
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核密約の責任を追及する愚

2010-03-17 12:02:14 | 政治
密約の認定と歴代内閣の責任(上脇博之)
http://blog.livedoor.jp/nihonkokukenpou/archives/51361022.html

いかにも日本人的発想。

密約問題で政治家や政党への責任を問う発言が多々出ているが、こういう事後的な責任を追及するのは全く本質的なことではなく、未来に対して何ら利益をもたらさない。
組織の安定的発展のためには「信賞必罰」が必須という意見もあるが、重要なのは「"みなが納得できる"評価の基準」を明確に示すことであって「信賞必罰(評価の基準だけを明確にする)」の方ではない。

あらゆることに言えるが、事前に成功するかどうかは誰にもわからない。
(未来予見能力を持つ人間はいない。いや、いる。でも普通はいない。)
厳密にいえば、あらゆる行為はギャンブルであり、賭けである。
しかし、そうはいっても、何をしても「ギャンブルだから許して」が許されてしまうと社会的安定に著しく悪影響を与える。
結果責任を追及する価値があるのは、社会的損失を招く無謀な挑戦の敷居を高くするためである。
ただ、無謀だからといって挑戦を禁止してしまうと、逆に社会には多様性が生まれず、停滞してしまう。
責任論の価値というのは、チャレンジしてもいいギャンブル的要素と、チャンレンジしてはならないギャンブル的要素は分けて考えようとする社会的試みの中で生まれる。

そういう発想に立ったとき、「核密約」問題で、歴代総理の責任を追及すると何かいいことがあるのか、疑問に思うはずだ。


歴代の(自民党)政権は、国民の「知る権利」という人権を保障しないどころか、ウソをつき続けて国民の「知る権利」を侵害してきたことになる。
また、主権者国民にウソをつき続け、主権者国民を裏切った、つまり国民主権主義を実質否定したことになる。
さらに言えば、主権者国民の知らないところで密約の内容が実行されたとなると、国家主権(国家の独立性)も侵害されたことになる。


この主張から歴代首相の責任を問うのは、情緒的には意味があっても合理性には欠ける。
国民の「知る権利」を守りたいと思うなら、本来議論すべきは「どうやったら守れるか」ということであって、「守らなかった人の責任を問う」ことではない。

こういう発想は日本の中で脈々と受け継がれている。
「腹を切って問題をなかったことにする」
日本人でも納得できないけど、そういう文化が未だに根付いている。

「誰かを罰することで問題をなかったことにする」
有り得ない。
だいたい誰かを罰したところで誰も救えない。

本当に目指すべきことは、罰すべき人をつくらないことだ。

過去に何度かブログにも書いたけれど、米国の「国家運輸安全委員会」の在り方を参照しよう。
事故原因の追究によって次の事故を未然に防ぐことが最大の目的であって、人を罰することは後回しにされる。
これこそが本来あるべき姿だ。


だいたい責任追及してどうしたいのよ。
何度もいうように、核密約があるのは前から国民はわかってたよ。
「どうせ密約あるんでしょ?」という態度だった。
なぜか?
密約があることを明らかにしたら、問題に対処する必要があるからだ。
「核の傘」に守られながら非核三原則でノーベル平和賞をとり、自衛隊という世界有数の軍隊を持ちながら憲法9条を世界に誇り、日米同盟によって軍事費を抑制していながら米国を批難するのである。
そういう矛盾と立ち向かいたくないから、国民はあえて先送りを選んでいたのだ。
誰も問題を本格的に解決しようだなんて考えていない。
問題の先送りは、日本人の特技の一つだ。

もちろん、メリット・デメリットあるけれど。