何回同じ話をしてんだよって感じですが・・人間酔っ払うと同じ話を何回もしちゃうじゃないですか。酔っ払ってないけど・・
人は本当に不思議だ
世界平和を願ったその後で、明日の100万人の命より、今日の愛する人の命が優先する
もし明日世界が滅んでも、今日を生きるのだろう
そのくせ、溢れんばかりの未来があるのに、今日命を絶つ
人は矛盾を内包していて、その矛盾を言い表すことができないという本態的な弱さを持っている
人は、人自身を完璧に語ることができないのだ
だから、あらゆることが無限循環する
生まれながらにして七転び八起きが宿命付けられている
絶望せずに済むのは、その循環がらせん構造であるからだ
当Blogのあらゆる議論の根底にある「進化」だ
弱さを語れるのは物語だけだと文学者はいうが、
私は、弱さを一番上手く表現できているのは歌だと思う
言葉を使っては表現できない心の奥に潜む想い、
人は存在しているだけで言語を遥かに超えている
現に音楽は国境も言語も人種も文化もあらゆるものを飛び越える
音が言語よりもっと根源的なものだからだ
歌手にならなきゃって意味じゃなくて、
歌のように語るべきなんだと思うんだ
共感経済とか贈与経済とか
それはもう物語ではなくて、歌なんだと思う
意味不明かもしれないけど
そういうことなんだと思うだな
一時期、私は合理で世界を変えられると信じていた
いくつかの宗教関係者に道場破りのように討論を申し込んでは
打ち負かすことばかりを考えていた
精神改革によって世界は変えられると、
馬鹿みたいだが、本気で考えていたのだ
でも、ある時に気づいた
誰もそんなこと望んでいやしないと
自分が何時間かけても理解してもらえないことを、
TVから流れてくるたった数分の歌が、理解どころか感動まで生んでやがる
これは笑うしかないだろう
そしてようやくわかったのだ
誰かを理解させることなんてできないんだと
その時に、ヴィクトール・フランクルの言葉が突き刺さった
人は、人に対して財産を剥奪し、尊厳を喪失させ、命を奪うことも、人に過酷な環境を与えることはできるが、しかし、その環境の中で、その場でどうふるまうか、という最終意思決定について強制することはできない。
自分の人生を決めれるのは自分しかいない
「自由」だ
それは全ての人にとって同じことなんだ
ある程度制限できても全ての「自由」を奪う事はできない
そこで思った
やるべきことは、この「自由」を開花するお膳立てをすることではないか
「自由」とは「可能性」のことに他ならない
それは制限され、狭く、小さく、暗い可能性かもしれないが、
人それぞれの「自由」を精一杯行使できるよう、支援することなのではないか
よく考えてみれば、人が快を得る時というのは、
この「自由」を謳歌している時ではないか
自由意志があるから、知的好奇心を満足することができるのだ
深入りすると決定論と非決定論との論争にはまるわけだが
人は本当に不思議だ
世界平和を願ったその後で、明日の100万人の命より、今日の愛する人の命が優先する
もし明日世界が滅んでも、今日を生きるのだろう
そのくせ、溢れんばかりの未来があるのに、今日命を絶つ
人は矛盾を内包していて、その矛盾を言い表すことができないという本態的な弱さを持っている
人は、人自身を完璧に語ることができないのだ
だから、あらゆることが無限循環する
生まれながらにして七転び八起きが宿命付けられている
絶望せずに済むのは、その循環がらせん構造であるからだ
当Blogのあらゆる議論の根底にある「進化」だ
弱さを語れるのは物語だけだと文学者はいうが、
私は、弱さを一番上手く表現できているのは歌だと思う
言葉を使っては表現できない心の奥に潜む想い、
人は存在しているだけで言語を遥かに超えている
現に音楽は国境も言語も人種も文化もあらゆるものを飛び越える
音が言語よりもっと根源的なものだからだ
歌手にならなきゃって意味じゃなくて、
歌のように語るべきなんだと思うんだ
共感経済とか贈与経済とか
それはもう物語ではなくて、歌なんだと思う
意味不明かもしれないけど
そういうことなんだと思うだな
一時期、私は合理で世界を変えられると信じていた
いくつかの宗教関係者に道場破りのように討論を申し込んでは
打ち負かすことばかりを考えていた
精神改革によって世界は変えられると、
馬鹿みたいだが、本気で考えていたのだ
でも、ある時に気づいた
誰もそんなこと望んでいやしないと
自分が何時間かけても理解してもらえないことを、
TVから流れてくるたった数分の歌が、理解どころか感動まで生んでやがる
これは笑うしかないだろう
そしてようやくわかったのだ
誰かを理解させることなんてできないんだと
その時に、ヴィクトール・フランクルの言葉が突き刺さった
人は、人に対して財産を剥奪し、尊厳を喪失させ、命を奪うことも、人に過酷な環境を与えることはできるが、しかし、その環境の中で、その場でどうふるまうか、という最終意思決定について強制することはできない。
自分の人生を決めれるのは自分しかいない
「自由」だ
それは全ての人にとって同じことなんだ
ある程度制限できても全ての「自由」を奪う事はできない
そこで思った
やるべきことは、この「自由」を開花するお膳立てをすることではないか
「自由」とは「可能性」のことに他ならない
それは制限され、狭く、小さく、暗い可能性かもしれないが、
人それぞれの「自由」を精一杯行使できるよう、支援することなのではないか
よく考えてみれば、人が快を得る時というのは、
この「自由」を謳歌している時ではないか
自由意志があるから、知的好奇心を満足することができるのだ
深入りすると決定論と非決定論との論争にはまるわけだが
力のある政治家は演説が上手いですし、落語家なども語り口によって面白さが変わります。リズムだとおもうのです。書籍やブログなどでも、文章の流れや構成でリズムを作ることで伝わり方は変わります。
コメントありがとうございます。
おっしゃる通り、うまい演説とはうまく説明することではなく感情に訴えかける演説です。
人間は聞いたことのほとんどを即座に忘れてしまう生き物なので、覚えさせるのではなく、印象を残すことの方が大事とよく聞きます。
そして、言語よりも音の方が感情に訴えかける力があると思いますし、その音をいかに利用するべきかが本エントリの主眼でもあります。
言葉より先に音があって、実際、言語のない時代に人々は音でコミュニケーションをとっていました。
しかし、音では感情を伝えることはできても、具体的なメッセージを伝えることができませんので、文明が発達し生活が複雑化する中で言語が生まれました。
言語はより具体的になる一方で、鈍重で、人工的で、無味乾燥なものですので、人の心には届きにくいものです。
言語は解釈しなければならないからです。
膨大な後天的な知識を必要とし、そこには無理解を生み出す要素が初めから構造的にビルトインされています。
その点、音は軽快で直感的で解釈をほとんど必要としません。
しかし、両者は完全に住み分けれるものでもなく、相互に影響し合うものでもあるかと思います。
音だけの世界では、音の良さはわからないですけれど、言語能力が増せばこそ音の良さは身に染みることもあります。
トレードオフといってしまうのは簡単なのですが、これは相互干渉らせんモデルのようなものだと考えています。