
昭和20年8月2日午前0時15分、広島の原爆投下4日前に、富山市は大空襲を受けた。 65年前の今朝のことである。 この時、私は6歳、小学校へ入る前の年だ。 病弱だった祖母と、母と弟と4人家族だったと思う。 父の戦死公報はまだだった。 大きく名前を書いた防空頭巾をかぶり、布製の肩掛けかばんを掛け、どこへ逃げたのか?
家の裏の山田川の土手で、近所の人と真っ赤な空を見上げていたことだけ覚えている。
8/1の「富山まつり」は、富山市が富山大空襲の犠牲者の慰霊のために行っている。 「薪能」は、その前夜祭だ。 薪能の前に、展示会場に寄った。
会場へ入ると、富山市長と広島市長連名で「主催にあたって」のメッセージが書いてある。 そして、富山市の「平和都市宣言」が。

広島原爆資料館から、たくさんのパネルや遺品(レプリカも)が展示されており、夏休みのこととて、親子連れや、宿題なのかメモ帳片手に、友だち同士で来ている小学生で賑わっていた。 ベビーカーの若いママさんや若い人たちが目立つ。 確かに、広島へ行かないと見られない貴重な資料ばかりだ。 地方巡回をしており、北陸では富山市が初めてだそうだ。


人影の石 滋君弁当箱 伸ちゃんの三輪車



8時15分で止まった腕時計 防空頭巾 触れられる瓦



2時から、体験者の「証言」が語られると聞き、富山大空襲の体験かと思っていたら、なんと広島から派遣され来富された、新宅勝文さんの講話だった。
新宅さんは、現在84歳。 19歳の時、東洋工業(今のマツダ)に勤めており、夜勤明けの朝、蚊帳をつって寝ようとしていて、被爆された。 蚊帳のせいか家屋の中だったせいか、爆心地から1.5kmの所だったのに、奇跡的に無傷だったそうだ。 ご自分のことを「化け物」です、と言われた。
広島が、軍港があり、造船所があり、練兵場があり、飛行場があり、狙われる都市だったこと。 自分の小学生時代の話。 小学校の先生が貧しかった自分を心から支えてくださったこと。 そのことにより一生懸命勉強したこと。
戦争前の日本の国は大変貧しい国だったが、軍事のためにはたくさんのお金を使っていたこと。
自分は無傷だったが、周囲は犠牲者でいっぱい。 必死で救援活動をしたこと。 特に瀕死の4~5才の男の子が水を欲しがるので、虫のわいた泥水を布ですくい、しぼって飲ませると、「ありがとう」と言って死んでいった様子。 自分の背中に背負われて死んでいった若い娘さんや、胸や肩に身体をもたれさせ亡くなったおばあさんなど多くの人々のこと、を涙をぬぐいながら語られた。
背筋をぴんと伸ばし、休む間もなく話し続けられる姿に圧倒され、質問したくても言葉が出なかった。 下は、広島市の被害状況の地図。 赤い部分が全焼地区。
富山大空襲のパネルは少なかった。 だが、下のパネルにもあるが、2日未明、「B29爆撃機174機により空襲を受け、市内は堀川、新庄の一部と、県庁、放送局、電気ビルなどを除いてすべて焼失、焦土となった。 富山市の被害率は、死亡者は100人に当たり、全国平均8.7人であるのに対し、13.5人と全国的に並はずれて高かった。」
死亡者は2275人、重軽症者は7900人とある。
今朝の新聞(8/2)に、昨日、県民会館と国際会議場の2か所で、「富山大空襲65年を語る」集いが開かれた、と知った。
あの日も暑い日だったとか。
広島で何度も見た、展示物思い出します。
本当は、富山大空襲の資料をもう少し見たかったのです。
でも、「広島へ来て見てください」だけでなく、巡回展をして、語り部の人を派遣しておられることを初めて知りましたよ。
戦争体験者は皆さん高齢になられて、伝える人がだんだん少なくなりますね。
昨日の番組で歌手の三浦洸一さん(84歳)が「世の中の一番の悪は戦争」と話しておられました。
戦争が終わったのは10歳(小3)
鮮やかに覚えています。暑い夏と敗戦。などなど。イロイロつながって出てきます。今がどれほど不景気やリストラだなんだかんだと言っても
今は平和で幸せなことです。
三浦洸一さんも84歳ですか。
新宅さんが仰るには、「最近は証言をする人が若くなった…」と。
えッ?と思いましたが、「幼児の頃被爆した人がほとんど、自分のように、19歳の目でしっかり被爆状況を見た者は少ない」と、言う意味でした。
だからこそ、話さねばと言う思いが切々と伝わり、思い出しても涙が出ます。
やはり年齢が上になるほど、記憶は鮮明でしょうね。
私のように、防空頭巾をかぶって赤い空を見ただけ、東京空襲の後に転がっていた焼夷弾を、家の店先で見合って恐ろしげに話していた大人達の姿を覚えているだけ、と言うのとは違うことでしょう。