中島京子さんの「長いお別れ」を読んでから、娘が次々と認知症に関する本を図書館から借りてくる。私が興味を持って読むからもあるが、本人も惹かれるものがあるのだろう。その中から何冊か紹介します。
まず、酒井章子著「認知症がやってきた!ママリンとおひとりさまの私の12年」 SHC(産業編集センター)出版。
著者の酒井さんは現在60歳、母親のアサヨさん 👇 は92歳である。
母アサヨさんは門司市生まれ、結婚後奈良県在住、夫の死後一人暮らしをしていたが近所から苦情が出るようになり、大阪に住む娘の章子さんが引き取った。👇は、インタビュー記事からです。
「2年ほどは、通いで面倒をみていました。私も認知症のことなんて全く分かりませんから、『楽しく過ごしていれば病気が進みにくい』という主治医の言葉に飛びついて、『とにかく楽しませたれ』と、実家に行くたびに母をあちこちに連れ出していました。
そんな時、ある女性が手書きの絵ハガキを母親に送っていたら、認知症がよくなった――という新聞記事の切り抜きを友人が送ってくれたんです。私にとっては、驚天動地の大事件! 自分もせっせとハガキを書いて、奈良に送るようになりました。くすっと笑える内容にするのがポイントらしいので、母と外出する際にいろんな写真をとっておいて、雑誌風の見出しや本文を添えたオリジナルポストカードをまとめて作っておくんです。これが、やってみたら結構楽しくて、90枚くらい作りましたかね。」
その後、大阪市のマンションで一緒に暮らし始めますが、ものすごい罵声を浴びせられる毎日だったそうです。『アンタはドロボーや、私の金が目当てや!』『誰に育てられたんか、素性を疑うわ!』。そしてベランダに出ては大声で、『ドロボーに閉じ込められているんです、おまわりさん、助けて~!』って叫ぶのだそうです。
そして徘徊が始まる…。
「私から逃げようとして外に出るんですが、そっと尾行してみると、健脚の母は放っておけば10キロ以上も歩く。夕方に家を出て、気づけば朝日が出ていたなんてことも何回もありました。徘徊が始まった当時、すでに80代だった母ですが、足腰は丈夫で体は健康そのもの。徘徊中はアドレナリンが出ているのか、疲れ知らずでタッタカと歩いて行きます。昼夜を問わず外へ出るようになり、1時間2時間は当たり前、3時間4時間でようやくちょっと休憩という感じで、一晩中歩いて、朝を迎えるということも月に何度かありました。
ブログを始めて日々の出来事を記録するようになったのですが、4年間で1844キロメートル、1730時間も歩いていました。その前後の3年間を加えたら、7年間で3000キロメートル以上歩いた計算になります。
私が気づかないうちに外に出てしまう場合もあり、警察には何度となく保護してもらいましたが、『しっかり見ておきなさい』なんて叱られることもなく、『最後は警察が見つけてくれるから大丈夫』と思うことで、肩の荷がどれだけ軽くなったことか。ただただ、感謝です。
他人に迷惑をかけまいとする意識が強すぎると、介護を家族だけで抱え込んでしまう心配もあります。家族だけでなんとかするなんて、ムリムリ。認知症になったら迷惑をかけないことなど不可能なんです。だったら、『お任せします』とゆだねてくれた方が、世話をする側も楽。実は、『迷惑かけたくない』と頑張るのが一番迷惑なんですよ。母自身も、3年ほど前から自分で何とかしようとするのをやめて、私に任せてくれるようになったんです。すると、介護がものすごく楽になって、母自身も穏やかに過ごせるようになりました。」
「途中、老人ホームでプロに面倒を見てもらった方が、本人のためにもいいんじゃないかと思うこともありました。でも、徘徊と暴言があまりに激しく、デイサービスをクビになったことがあるほどですから、受け入れてくれる施設があるとは思えませんでした。『母親が子供にかかり切りになるのは、だいたい10年くらい。育ててもらったお返しに、私も10年間は頑張って介護をしよう』と、心の中で期限を決めたおかげで、なんとか乗り切ることができました。れからは、できないことが一つ、また一つと増えていきました。今は着替えにもトイレにも介助が必要ですが、素直に受け入れてくれるので本当に楽です。病気としての認知症は前よりも進んでいるのでしょうが、はた目には、ただのカワイイおばあちゃん。認知症かどうかということは、老いが進む中では大した問題ではなくなっていくようです。大好物の薄皮つぶあんぱんをかじって、『おいしいわあ~』とニコニコしている姿は無邪気としか言いようがありません。『童女』という言葉がぴったりです。」
ドキュメンタリー映画「徘徊 ママリン87歳の夏」は、4年前の作品。認知症の母を支える娘による12年にわたる抱腹絶倒の介護奮闘記!
以上ネット記事を中心に紹介しました。