千葉で新年を迎え、3日に帰宅した。予想通り、ツアー会社からの封筒が3度も配達されたらしく不在票が3通も入っていた。その日のうちに再配達を頼み、必要書類をチェックする。翌4日には止めておいた年賀状がドッと舞いこみ、返事を書かないといけない人も何人か…。夜になってようやくパスポートはどうだったかしら?と気づく始末。
なんと、2013年で切れているではないか!ルソンの会から「ハワイ・真珠湾」へ行ったのが2012年。以後海外旅行とは縁がなかった。大慌てで高岡と富山の旅券センターに問い合わせる。高岡でなら、14日受け取り、富山なら12日受け取りだそうだ。ツアー会社へ12日までコピーを送らねばならない。いずれにしろ間に合わないので、すぐ電話した。コピーだけ遅れても良い、わざわざ富山まで行かなくてもいいですよ、との返事にホッとし、さっそく「高岡大和・7F」の旅券センターへ駆けつけた。フォトサービスで写真を撮ったら、スカーフがあごにかかっている、眼鏡が光っているやらで撮り直し。代金の1000円は郵便為替で戻るんだって。久しぶりのことですべてテンヤワンヤだった。5年か10年か?迷いに迷って10年にする。6年後に海外旅行するとすれば、82歳。行かないとは限らぬ。
14日、受け取りに行く。右端が新しいパスポート。今のは、中央あたりに、ICチップが内蔵されている分厚いページがあるのですね。
↑ の左端の大版のが、1989年(平成元年)、夫と”西欧スタンダード”と言うヨーロッパ5カ国を回る旅に出た時、初めて作ったパスポートで有効期限は5年。2冊目の途中、デンマーク・コペンハーゲンの最終日前日にパスポートを紛失した。あの時は、姫ちゃん、NOちゃんにずいぶん迷惑をかけた。泣く泣く1日延ばして一人で帰って来たものだ。今となればそれも懐かしい思い出。
さて14日、パスポートのコピーを送った後、SAさんに渡す物、もらう物があり、商工ビルレストランでランチをした。以前とメニューが変わり日替わりランチもありお安くなっていた。見晴らしもよく、静かで落ち着いた雰囲気。スペシャルランチを注文したら、ぶ厚い自家製ハムにブルべりーソースかけ。
いよいよ出発1週間前となり、後は追悼文を書くこと、現地の子供たちへの学用品などを準備すること、旅行の荷物作りだ。天候が大雪に向かっているので、ちょっと憂鬱。冬のコートや冬靴をどうすればいいだろう。空港のコインロッカーに預ければいいのかな~。
↓は、1/10付けのKI新聞、県遺族会でコピーをもらった。両陛下は、10年前にはサイパンを、昨年はパラオ島を訪問され、太平洋戦争の激戦地を訪ねる慰霊の旅を続けておられる。次はフィリピン訪問に向け、美智子妃殿下がスロージョギングをしておられる、とのニュースに心打たれた。なんとお元気な!きっと2度と戦争が起きないようにとの強い願いを秘めておられる、と私ながらに思う。
お二人のお心を思うと、私も安穏としておられない、と思った。8年前の戦争遺児の巡拝で一緒だった愛媛のTOさんからも何度も電話をもらった。「私は行くことに決めたけんね。あなたはどうするの?」と。もう1人、千葉の友人のasaちゃんが娘さんやお孫さんの手伝いに毎日電車や地下鉄で通っておられるのを聞き、私もただただ膝痛や息切れやでしんどいと病人面していてもダメだ、と、締切ギリギリの年暮れに、風邪を押して富山の遺族会館へ申し込みに行ったのだ。いろいろな人たちに背中を押されて行く旅、無事に思いを果たして来たいと思っている。
↓も、KI新聞の記事だが、太平洋戦争で日米決戦の舞台となったフィリピンでは、フィリピン人の犠牲は110万人。民間人を巻き添えにした悲惨な戦場となった。日本の民間人も日本兵と一緒に逃げたと言う。私の舅は当時マニラ日本人学校の校長をしており、日本軍の指示で先生や生徒ともどもジャングルを逃げ回ったと、夫や義弟達に語ったと、私も聞いている。(深田佑介の直木賞受賞作、「炎熱商人」に実名で登場する) 学校跡にも行ってみたいが前回も時間がなかったし、今回もきっと無理だろう。学校は今もあるが、新しい学校として別の場所に建っているようだ。