5522の眼

ゆうぜんの電子日記、2021年版です。

遠慮も会釈も

2016-12-14 22:07:20 | 社会
「遠慮会釈もない」という云い方があった(筈だ)が、最近街中で出逢ったり見たりする日本人たちは、年寄りも中年も若者も子供も、遠慮もせねば会釈もしなくなったようだ。皆が勝手気ままなスクランブル状態で都会の雑踏を大きくしているように見える。

こちらに向かって真っすぐにやってくるから、ぶつかるのではと思って身構えて避けようとすると直前でするりとかわして平気な顔。無言で無視して去っていく。

「公衆道徳」という言葉はもうずっと以前に死語になった。「身を引く」とか「譲る」とかいう感覚も持ち合わせがない輩がずいぶん増えたようだ。そんなことをしたら負けだとでも信じているみたいだ。

動作がそうなら言葉もそうかもしれない。「すみません」とか「ごめんなさい」とか云う短い日本語のフレーズを最近は聞く機会がない。これは「遠慮」や「会釈」と一緒に使うのが普通だったから、「遠慮会釈」がないのなら口をつくはずもないのだ。

さて、今日の中日夕刊、「世界の街、海外レポート」で韓国特派員は「ごめんに出るお国柄」というタイトルでコラムを書いている。

謝らない韓国人VS謝り過ぎる日本人というのが話題なのだが、謝る謝らないといっても家族や身内、交友関係のある知人や友人、会社や学校の関係など、いわばクローズド・サーキット内のはなしだ。

ひとこと「ごめんなさい」というだけでずいぶん人間関係が上手くいくはずなのに韓国人たちはそれをしないと嘆く在韓の日本人がいる一方で、なんでもすぐに「ごめんなさい」と日本人が云うのが耳について気持ちがわるい。たまには云い方を変えたらどうだと考えている韓国人たちもいるのだ。

日本にいるときは「遠慮」も「会釈」もできず「こめんなさい」のタイミングも図れていなかった日本人が海外に出たとたんに「ソーリー」とか「ミアネヨ」とかを連発するというのはとても日本人的な反応だ思えて可笑しい。

それでも、相手との有効なコミュニケーションの為には「ソーリー」も「ミアネヨ」も言い続けなくてはいけない。このところさらに内向きになった日本人が実行している「遠慮なし」「会釈なし」「ごめんもなし」という他者を無視する生活態度は、まちがいなく人間関係を悪くすることになるだろう。

今日の国会は「カジノ法成立」のかけひきの最中だが、日本人の「おもてなし」がきわめて商業的で局部的なものだったと訪日する外国人たちに知れれば「観光立国」もうまくは行くまい。

「遠慮」も「会釈」も「ごめんなさい」も「ありがとう」もちゃんと弁えた「ちょっと昔の」日本人が再生されてくることこそ「21世紀のジャパン・クオリティ」の基本だと考えるべきだろう。


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